耳嚢 京都風の神送りの事 又は 忘れ得ぬ思い出
「耳嚢」に「京都風の神送りの事」を収載した。
今日、これを訳しながら僕は、ひどく不思議な気持ちに囚われた――出来れば、まずは後の「京都風の神送りの事」をお読み戴いた上で、以下の僕の思い出の告白を御笑覧戴ければ幸いである。この記載が1月1日に相応しいかどうか……恐らくは相応しくない……しかし、僕が永く書こうとしながら、何故か躊躇してきたこれを書き終えて、僕は僕で満足なのである。
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この橋から突き落とされた非人の無念――僕はこの非人の思いが、多分、誰よりも実感出来るということを告白しておく。その謂われをここに記しておきたいのである。それは僕の中の消去したいけれども決して消去出来ない思い出と繋がっているからである――
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僕の生まれは鎌倉だが、二歳の時、外務省に勤務していた伯父が、インドネシア大使館に派遣されることとなり、その二人の子を、その間、父母が預かった。そこで僕と父母は、その伯父の家のある練馬の大泉学園に引っ越したのであった。その伯父が日本に帰ってきたのが僕が小学校一年の時で、僕らは元の家に戻ることとなり、大船は玉縄小学校に転校した。
当時の玉縄小学校は田圃の畦道を抜けた先にある、総木造の、所謂、田舎そのものといった学校であった。
そうして、ご他聞に漏れず、東京から来たというだけで、僕は、見事に、いじめられた(実際には大泉も負け劣らじの田舎であったのだが)。
田圃や肥溜めに突き落とされたことなんど、数知れぬ。
一番忘れられないのは、学校帰りに土掘りの二十メートル程のトンネルの上に掘られた作業用の小さなトンネルに連れて行かれ、その向う側の切り立った四~五メートルの崖を飛び降りろと言われることであった。
非力の僕には――コルセットを装着していた左肩関節結核性カリエスが固定治癒して半年も経っていなかった――それは恐るべき高さに見えた。
彼ら――ガキ大将を筆頭に六人ばかりの集団であった。僕はその総ての人間の姓名を記憶している。ここに書き記すことにもなんの躊躇も感じない。安田……中島……関根……石井……しかし、それはやめておくことにしよう、もう死んじまった奴もいるから――は、そこを難なく飛び降り、中には柔道の受身の反転まで御披露に及びながら、下って行ったものだ――そうして、最後に決まって、
「俺たちはずっと見てるぜ……お前がちゃんと飛び降りるのをな……」
と言い捨てると、断崖の上に呆然と立ち竦んだ僕を見上げながら、満面の軽蔑の笑みを浮かべて、小さくなっていたのだ……
……僕は暫くして辺りが少し暗くなり、もう誰の声も音も聞こえなくなった頃、登らされた反対側(何故かそちらには竹の梯子があった)から降りると、泣きながら家に帰ったのだった……
一月ばかり、毎日のように、それが続いた。
……夕焼けの中で、小さくなってゆく悪ガキどもの後姿……
……永遠の断崖絶壁……
……もう、堪え切れなかった……
――ある日、僕は意を決して――飛び降りた――泥だらけになって、ずるずる、すってんころりん、と
……その後に、僕がやったこと……どんなことを僕がやったか?……
僕は小さくなってゆくその悪ガキどもに……
手を振ったのだ!
…………
そうして僕は……叫んだのだ!……それも、満面の笑みを浮かべながら……
――「降りれたョ~!!! 降りれたよぉ~!!!」――
…………
……それを聴きながら、奴らは振り返ると……鮮やかに、ほくそ笑んだ……
……その一人ひとりの顔が、今も、僕の中で鮮やかにフレーム・アップ、カット・バックする……
……そうして……
……そうして、その卑屈なおぞましい……僕の叫んだその台詞を……
……僕は今も……決して忘れない……
……いや、僕の頭蓋骨の中で、今も、そして永遠に、反響し続けている……
されば……お分かり戴けるだろう……この非人は僕である……いや、復讐さえしなかった僕は、この非人より……おぞましい人間なのだ……
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京都風の神送りの事
安永元年の冬世上一統風氣(かざけ)流行しける。右風は大坂より流行し來ると巷談也。其とし江州山門の御修復ありて若林市左衞門抔も上京あり、霜月の此歸府にて、右風邪上方にては六七月の此殊の外流行けるが、夫に付おかしき咄のありとて噺(はなさ)れけるは、大坂にての事也し由、風の神送りて大造(たいそう)に鉦太鼓を以てはやし、藁人形或は非人抔を賃錢にてやとひ風の神に拵へ送りける。京大坂のしくせ故大坂にて其頃も非人を雇ひ、貳三丁の若き者共申合、彼風の神送りを興行し、鉦太鼓三味線抔にて嚇したて送りけるが、若き者共餘りの興に乘じけるや、或る橋の上迄送り、仕𢌞の伊達にや、右風の神に仕立たる非人を橋の上より突落し、どつと笑ふて我家々々へ歸りけるが、彼非彳々(つくづく)思ひけるは、價を以風の神に雇れしとは申ながら、いかに水枯の時なれば迚(とて)、情なくも橋より突落しける恨めしさよ、仕かたこそあれとて、夜に入彼風送りせし町々へ來り、表より戶を扣(たた)きける故、何者也やと尋ねければ、先刻の風の神またまた立歸りしとて、家々をいやがらせけるとて、京中の笑談(せうだん)也しとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:大岡裁きの奇計と、非人の奇警なる仕返しで連関し、更に、二項前の大坂屋平六の薬「諸風散」が「風氣流行し夥敷賣」れて成功した事実と「大坂より流行し來る」「風氣」でも美事に連関。
・「風の神送り」風邪の流行時に、風邪を疫病神に見立てた藁人形等を作り、鉦や太鼓で囃したてながら、各々の町村の境界外に捨てたり、川に流したりした風習。江戸時代に頻繁に見られ、他の流行病でも盛んに行われた。
・「安永元年」西暦一七七二年。その頃の根岸は勘定組頭であるが、岩波版長谷川氏の「若林市左衞門」に附された注によれば、これは『天明元年の誤り』とする。だとすると西暦一七八一年で、それならば根岸は四十七歳、勘定吟味役に就いていた時期である。後注する若林市左衞門の事蹟から見ても、また「巻之一」の下限(天明二(一七八二)年春まで)から考えても、如何にもそちらの方が自然である。現代語訳でも天明元年と補正した。
・「江州山門」近江国比叡山延暦寺のこと。これは所謂、比叡山そのものを指す語であって、狭義の「山門」ではないことに注意。比叡山麓の三井寺を「寺門」、山上の延暦寺を「山門」と別称したものである。
・「若林市左衞門」岩波版長谷川氏の注によれば、『若林義方。御勘定組頭。天明元年(一七八一)山門諸堂普請の労を賞せられる』とある。勘定吟味役根岸の部下である。
・「しくせ」仕癖。仕来(しきたり)と同類で、昔からの慣わし、やり方の特徴の意。
・「仕𢌞の伊達」ある行為・行事の最後に殊更に人目を引くような派手なことをして打ち上げることを言う。
■やぶちゃん現代語訳
京風風邪の神送りの事
天明元年の冬、世間では甚だ風邪が流行った。この風邪は大阪より伝播流行致いたもの、と専らの噂で御座った。
その年、近江国比叡山延暦寺諸堂の御修復があって、勘定組頭を勤めて御座った私の部下若林市左衛門義方殿なども上京致し、同年十一月頃には帰府した。と、その若林殿が、
「……この風邪は上方にては、そう、六~七月の頃、殊の外の大流行して御座ったが……これに付きまして根岸殿好みの……いや、面白い話が御座った……」
と、話して呉れたことにて御座る……。
……大阪での話ということで御座る……あちらでは「風邪の神送り」と称し、いやもう、賑やかに鉦や太鼓を打ち鳴らし、藁人形、はたまた、非人などに駄賃を払い雇ったを、風邪の神に見立て、町境の外へと送り出だして御座る。
これは京や大阪の習俗で御座っての……何でも大阪にてもその頃、二つ三つの町内の若者たちが寄り集まって相談の上、風邪送りを興行致すことと相成り――なんとまあ、今時、非人を雇って御座って――鉦・太鼓、三味線まで繰り出し、囃し立て、境外へと送り出だいたので御座ったが……若い者ども故、聊か調子にでも乗って御座ったか……はたまた、神送りの、その送り仕舞いの、打ち上げを盛り上げる積りででも御座ったか……ある橋の上まで送り終えたところが……この風邪の神に見立てた非人を、橋の上から
――どん!――
と突き落といて、皆々、
――どっ!――
と大笑いして、それぞれ我が家へと帰ったので御座った……。
――突き落とされ、浅い川流れの真ん中に、ぽつんと立った非人独り――
……川底の石にしたたかぶち当てた……擦り剥いて血だらけになった膝を撫ぜながら……彼は、つくづく思うた……
『……金でもって風邪の神に雇われたとは申せ……如何にも水枯れのこの時期とはいえ……情け容赦ものう……かく橋の上より突き落といた……そのことの! 恨めしさよ!……屹度、仕返せいで……おくものかッ!!!……』……
――その夜、遅くのことである。彼は、風邪送りをした町々へと――立ち帰ってきた――そうして、それぞれの町屋、一軒一軒の表戸を、
――どん! どん!――
と叩いた……
「……この夜更けに?……何者じゃ!?……」
と家の者が質す……と……
「先刻の風邪の神――又々! 立ち帰ったぞぃ!!!――」……
……と……まあ、家々に嫌がらせを仕廻した、とて……京中、専らの笑い話で御座った、とか……。