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2010/02/28

耳嚢 巻之二 實心可感事

「耳嚢 巻之二」に「實心可感事」を収載した。

 實心可感事

 本目隼人といへる佐渡奉行は、佐州におゐて病死せし故、右の墳墓も佐州相川の寺院にありぬ。海上百里の隔なれば、家督の者よりも其墳墓への音信もおもはしからず。然るに石野平藏佐渡奉行と成て二在勤の頃にも有りしや、隼人三囘忌の年の由。平藏雇足輕をいたしける者彼墳墓寺へ來りて、麻上下(かみしも)など着替、金子百疋(ぴき)寺納して隼人靈牌へ參拜しける故、住僧こなたへと請じて掛合など振舞樣子を承りぬれば、彼者答て申けるは、われらは隼人幼年より一所に育て、隼人在世の内は厚く召仕ひけるが、二代目に成て小身にもあれば今は外に罷在。隼人大病の由來りて、何卒罷越んと千度百度願ぬれ共、許容なければ詮方なく、殘後何とぞ佛參せんと隼人家督へ願ひぬれど不如意の事故許容なし。餘りの事に絶兼し故、佐渡奉行の往來日雇入口(いれくち)へ賴み、此度足輕に成て來り本懷を達し侍る也、いか程にも寺納もいたしたけれ共、隼人跡式にては我思ふ程の心得にあらず、我等子供兩人當時外(ほか)屋敷に勤て、彼(かの)家などの賜り物にて聊の香典をも納ぬる由語りしに、住僧も涙を流し厚く挨拶に及びしと。右僧侶、組頭岸本彌三郎方へ來て語ぬと、予佐渡奉行勤し頃岸本物語也。奇特の深切も有もの也。

□やぶちゃん注

○前項連関:巧妙な騙りの逆の真正の真心で逆連関。

・「本目隼人」本目親英(ほんめちかふさ 宝永2(1705)年~天明元(1781)年)。六百石。目付から佐渡奉行(安永7(1778)年4月~天明元(1781)年2月)となり、在任のまま死亡した。岩波版長谷川氏注によれば、佐渡国雑太(さわだ)郡にある蓮光寺に埋葬され、『家督の者は子の親豊(ちかとよ)』とある。

・「佐渡奉行」老中配下の遠国奉行の一。正徳2(1712)年以降は基本定員2名で、島内民政を管轄する町奉行及び佐渡金山他の金銀の鉱物資源の管理・経営を専門とする山奉行の二職に分かれ、海上警衛・年貢・外国船監視を職務とした。現在、佐渡市に含まれる相川町(あいかわまち)にある佐渡金山と共に佐渡奉行所が置かれていた。

・「おゐて」はママ。

・「海上百里」誇張表現。佐渡島~本州の直線距離は約60㎞(最短距離は30㎞強)であるが、国道350号では新潟港~両津港間の海上区間を67km(9里程度)と計算している。当時の和船の操舵や海路距離の測定がどのようなものであったかは知らないが、どう航海しても390kmは大袈裟。根岸も勤めたことのある当時の流罪の地でもあった佐渡の、とんでもない辺境性を示したかったのであろう。その誇張が逆に本話柄の誠心を強調する。勿論、訳ではそのまま用いた。

・「石野平藏」石野広通(享保3(1718)年~寛政121800)年)本姓は中原。大沢・蹄渓と号した歌人でもあった。御納戸番・御膳奉行・御納戸頭・佐渡奉行・普請奉行を経て西城御留守居を歴任。佐渡奉行は本目親英の現職死去の代任で、天明元(1781)年2月~天明6(1786)年12月まで勤めた。3百俵。この時に纏めた佐渡地誌「佐渡事略」及び普請奉行時代に御府内上水道調査報告書「上水記」等を記した。歌人としても宝暦年間(175164)の江戸冷泉門下の主力歌人の一人として、また続く明和年間(176472)には江戸武家歌人六歌仙一として数えられた。編著に江戸堂上派私撰集「霞関集」、家集に「五百四十首」等がある(主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。因みに、次にもう一人の佐渡奉行であった宇田川平七定円が天明元(1781)年閏5月に転任後、同年6月、戸田主膳氏盈(うじみつ)が着任、その戸田氏盈が天明4(1784)年3月に転任後、慶長6(1601)年初代から数えて六十番目の佐渡奉行として天明7(1784)年7月まで根岸九郎左衛門鎮衛が勤めることになるのである。石野広通は三年弱根岸と共に佐渡にて同じ佐渡奉行を職掌したことになる。根岸より19歳年上の大先輩である。

・「隼人三囘忌の年」御承知の通り、年忌は三回忌以上は数え年となるので、天明元(1781)年2月に亡くなった本目親英の三回忌の年は2年後の天明3(1783)年ということになる。

・「雇足輕」「足輕」平常は雑役に従い、戦時は歩卒となる者。江戸時代は武士の最下層に位置付けられていたが、実際には多くの場面で武士階級とは区別されていたらしい。以下、ウィキの「足軽」の「江戸時代」のパートより引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』。『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』とある。原義は足が軽くてよく走る者の意から。「雇足輕」はそうした原則一代限りの常勤の足軽ではなく、何らかの急な欠員や急務増員にのために臨時に雇用された者を言うと思われる。ここでは、石野平蔵が佐渡奉行就任に合わせて一緒に派遣された「雇足輕」ではなく、着任の翌年である天明2(1782)年か、同3(1783)年の年初に臨時雇用した者と考えたい(先に示したように本目親英の三回忌は天明3(1783)年2月であり、この話柄のシークエンスは間違いなくその祥月命日と考えられるからである)。但し、この後の「此度足輕に成て來り」という男の叙述からは、彼の本来の身分は足軽よりも遙かに上であったと考えられる、いや、考えてこそ、この話柄は生きる。

・「上下」裃。江戸時代の武士の礼装・正装。肩衣(かたぎぬ)と、同じ地質と染め色の脇が広く開いた袴とからなる。紋付きの熨斗目(のしめ)または小袖の上に着る。麻製の上下を正式とする。

・「金子百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、2万5000円程か。

・「掛合」あり合わせのもので作った軽い食事のこと。

・「不如意の事故許容なし」嗣子親豊は経済的にかなり厳しかったのであろう。父の家来が父の看病や墓参に向かうと言えば、ただ許諾するだけにては体裁がつかぬ。同道出来ざれば、相応の品や旅費の手配をもするのは常識であろう。そうしたことさえ、手元不如意なれば、出来ぬ、というわけである。

・「われらは隼人幼年より一所に育て」本目隼人親英は享年77歳であったから、この足軽は有に75歳を越えていると考えねばならない。

・「佐渡奉行の往來日雇入口」佐渡奉行と江戸(或いは新潟)との間を往復し、必要な臨時雇いの人員を確保する口入屋(職業斡旋業)のことを言うものと思われる。

・「奇特」は、言行や心がけなどが優れ、褒めるに値するさまの意の他、非常に珍しく、不思議なさまの意もある。ここは両義を掛けている。

・「組頭岸本彌三郎」岸本一成(かずしげ)。岩波版長谷川氏注に、安永7(1778)年に御勘定、同9(1780)年に佐渡奉行支配の組頭、寛政元(1789)年には代官となったとあるから、根岸が佐渡奉行であった3年間(天明4(1784)年3月~天明7(1784)年7月)の間もずっと佐渡奉行支配組頭であった。

・「予佐渡奉行勤し頃」この表現と過去の助動詞「き」に着目するなら、本話柄は天明7(1784)年7月よりも後でなくてはならぬ(「卷之二」の下限を天明6(1786)年とする鈴木氏に執筆年代推定は年の明記された話柄からの線引き)。

■やぶちゃん現代語訳

 誠心感ずるに相応しいものがあるという事

 本目隼人親英(ちかふさ)殿という佐渡奉行は、佐州で在任のまま病死なさったので、その墳墓も佐渡の国相川(あいかわ)という地の蓮光寺に埋葬されて御座る。

 本土から隔つこと、遙か海上百里、家督を継いだ子の親豊(ちかとよ)殿さえも、その実父の墳墓に参ること、ままならざるもので御座った。

 ところが――先輩の石野平蔵広通殿が佐渡奉行となって、確か佐渡在任二年目のことであったとか――その年は、丁度、本目隼人殿三回忌に当たる年で御座った――。

 雇い入れたばかりの、平三殿の足軽を致しておる、ひどく老いた男が、独り、その蓮光寺にある本目隼人殿の墳墓を訪れ、その墓前にて、麻上下などに着替えると、金百疋寺納の上、隼人位牌を参拝致いた。

 それを不思議に思うた住職は、この足軽を寺内に招き入れ、あり合わせの軽い食べ物なんど振舞い、徐ろにいわれを訊ねてみた。

 その老人が語り出す――

「……拙者、主(あるじ)本目隼人様とは、幼き頃より御屋敷内にて一緒に育ちまして御座る。隼人様が御在世の間は厚く召し使われておりましが、二代目親豊様の代となってからは、御小身の御身分にて、旧来の家来等にも暇(いとま)これ申し付けられ、拙者も他家に勤仕(ごんし)して御座る。……されど、過ぐる年、隼人様が大病を患っていらっしゃると噂にて承り、何としてもその御病床に参上致さんものと、当時嗣子で御座った親豊様に何度も何度も願い出ましたものの、遂にお許しを頂くこと、叶いませなんだ。……没後も、何としても御仏にお参りせんものと、再応、親豊様に願い出ましたが、……手元不如意によって、これもお許しになられませなんだ。……余りのことに堪えかねまして御座ればこそ……佐渡と江戸とを往来している佐渡奉行付日雇業の口入れを致いておる者に、老人ながら達ての願いあればとて、強引に頼み込み、……晴れて、この度、足軽となって佐渡に来たり、本懐を遂げること、出来申した……相応なる寺納を致したく存ずれども、隼人殿跡目にては……拙者が思うほどの――子なればこそ当然の思い、成すべき仕儀というもの、これあるはず、と存ずれども―御心得はこれなく……実は、拙者には二人の子供が御座って、只今、他家に勤仕して御座いまして、その倅どもから凡父の佐渡行の話をお聴きになられた、その、それぞれの主家より、有難き賜り物をば頂戴致いて御座れば、それを、聊かの香典として納めまして御座る……」

 住職も涙を流し、厚い挨拶を成したと――。

 この僧侶が、組頭岸本弥三郎の家を訪れた際、直接本人から聞いたと、私が佐渡奉行を勤めていた頃、私の部下であった岸本本人から聞いた物語である。

 誠(まっこと)、かく奇特なる深き真心の持主も、あるものなのである。

2010/02/27

耳囊  卷之二 又(かたり致せし出家の事 その二)

 

「耳囊 卷之二」に「又(かたり致せし出家の事 その二)」を収載した。

 

   又

 是も同じ咄なるが、濱町河岸に大黑屋といへる鰻の名物有。みせには不斷酒食の輩不絕入込けるが、或時道心者樣の者來りて酒うなぎなど喰ひ、誠のなまぐさ坊主也とその身の口よりも申けるが、四五度も來りて後は鄽(みせ)の者もこゝろ安くなりけるが、或日亭主に逢て、我ら此程來りし時、此門口にてケ樣の品拾ひたりとて、封じ金五拾兩包を出し、肴を食ひ候出家ながら、此金落したる人はさこそ難儀もなしなん、我是に忍びず、又かゝる貧僧の五拾兩持たらんには我身の爲にもあしかるべし、何卒主知れば返し申さんといひけるを、若き手代聞て、遖(あつぱ)れよき手段ありと心中に惡心を生じ、町内の惡者をかたらひ亭主とも示合、落し人を拵へて右出家の來りし時かくかくの譯を語りければ、然らば右五拾兩は包の儘可渡、しかし禮金は何程差越候やと尋ね、かれこれわたり付て金五兩出家へ渡しければ、猶又酒うなぎなど打食ひ右五十兩を包の儘手代へ渡し、日も幕候、さらば歸るべし迚小唄うたひて右出家は歸りぬ。仕濟したりと申合候者共、片陰に集りて封を解しに、一向の似せ金なれば何れも憤り、憎きかたりめと大勢にて追缺(かけ)しに、日本橋邊にて召捕、かたり坊主とて若き者など頭をたゝき背をたゝきなどしけれは、右出家何故に右の通いたし候やと申ければ、何故とは大膽也と引摺りて、彼鰻屋の門へ召連來りけるに、彼出家ひらき直りて、我等は何を隱すべき、かたり事などを渡世にするわる者也。ケ樣に打掛にあふては不相濟、御仕置を願ふべし、是より直に奉行所へ駈込べし、しかし此町内にて落しもせざる金子を落し候とて、其人を拵へ人の金子を奪取る巧の者有、是もわれらに同じき罪人なれば、當町の内の者共を伴ひ罷出、三途を渡らんと言ける故、はじめて何れも心付、事露顯に及(および)て町内も立難しと、何れも相談して都て右出家へ色々詫言しけれども、何分合點せざる故、又療治代とて五兩金子を遣し、都合拾兩かたりとられしと也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:同技巧を用いた詐欺師の出家のエピソード連関。鈴木氏は底本の前項の注で、この二本の話について、安永六(一七七七)年頃に成立したと思われる正長軒橘宗雪の「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」も同話である、と記されている。幸い、この「吾妻みやげ」は底本を含む『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』に所収されている。以下に、それをテクスト化し、本ページに準じて語釈・現代語訳を附しておく(本文読みは私が附した)。こちらの祖形は実際に町奉行所へ訴え出るところが出色の出来である。底本の熊倉功夫氏の注によれば、底本である国立国会図書館蔵本(これ一本のみが伝わり直筆本その他は存在しない)には、『「耳袋ニ似タルカタリノコトアリ、同シカ」と書き込みがあるように、耳袋に同様の話があり、この条は耳袋の原話といえる』とある。

   *

 深川うなき屋かたりの事

 

一、深川八幡前うなき屋へ八月半頃の事、出家壹人四十歳斗と相見え候、百文分うなき燒せ候、亭主申候おまへ是を上り候哉(や)と申候へは、久々病氣にてつかれ候ゆへたべ申候と及挨拶、うなき斗にては食べにくゝ候間食(めし)もたべ申度(たし)と申、しはらく有之(これありて)亭主を呼出家申候は扨々不思議成事在之候、牛込山の手邊今朝用事在之通候處金子貳百兩ほと有之財布拾ひ候、定て主人の用向歟(か)又は娘なとうり拂候金か餘ほと澤山成金子にてさそ持主は首にてもくゝり可申哉(や)、川へにてもはまり可申哉大切の金にて可在之候、出家の心にてはさそさそきのとく成事と其邊何となく尋候得とも金子落候樣子の者も無之候由亭主にはなし候得は、亭主夫はきのとく成事に御座候、唯て貴僧御所持被成候哉(や)と申候得は此通り首にかけ參り候と見せ候處、郡内嶋財布に入むらさきの打紐付有之候いか樣貳百兩斗も有之封付候て在之候。亭主見候て惡心起りしはらく出家休足致候中近所へ參り友達をかたらひ候由にて暫有之と、臭をつき若き男參り先(まづ)茶にても吳候樣申候へは、亭主存ぬふりにて喧嘩にても被成(なされし)儀哉(や)何方の御人にて候哉(や)、けはしく御出被成侯處いかゝと尋候處、右の男申候は今朝牛込邊にて旦那より爲替金の入用(いりよう)去る御大名納に罷越候處、少々御酒に給醉途中にて落し候故早速參り吟味致候得共人取候と相見へ無之、此金子無之候ては自滅にても致不申候ては不相濟と狂氣のことく申候、亭主何そ御入被成御落し被成候哉と尋候處、郡内嶋財布に入むらさきの紐付置候と咄しからかみ越に出家承り、是は拙僧今朝拾ひ候と聲をかけ候得は、右の男殊の外悅誠にありかたき御義金子無之候ては命を失候程の儀私所持の金子郡内嶋財布に入むらさきの打紐付封を付置申候、御僧樣御拾ひ被成候を御見せ可被下と申候故、出家差出候處注文少も不違候故左候はゝ御手前へ可返候得共何國の人とも不相知御親類か又は所の役人證文有之候は返し可申候と申候へは、安き御事に御座候誠に御影にて命をひろひ命の親と申は御僧樣に御座候と申近所若きものをかたらひ證文を認うなき屋の亭主に加判爲致證文差出候處金子相渡し事濟し、扱右の男申候は御影にて命ひろひ候事ゆへ金子を差上可申と申候へは、いや出家の義金子入用無之と再三斷候得共とかく御受納被下候樣にと金子七兩出し達てと申、亭主言葉を添彼是申候付然らは可申請候如來の金箔もはけ候故勸化にても可致と存侯處故可申受と受納いたし出家は間もなく歸り候。

 

 跡にて扨々うまき事致候とて酒肴なとおこり、扱亭主もろ共分け口可致と封を切見候處、しんちうにて拵候小判貳百兩斗有之内にさいも在之候故、扨々にくき出家かたられ候とて近所を尋候處、もはや行方知れす候故、申合せ心を付へくと何れも存候處、翌日晝頃彼出家參り、又うなき百文分あつらへ候ゆへ何れも亭主初不屆の出家め似せ金をかたり其分には差置かたし、急度吟味を請御町へ可引と申候へは、出家申候は左いふ其方共かかたりにて候其方共の金にて無之哉(や)、夫故封のまゝ渡し遣候、勿論無相違受取候段證文在之候、自分をかたりの盜人のと申候は不屆至極、町の役人江參り此趣を申し御番所へ罷出吟味を請もらい可申候、惡名取候ては自分も不相立と申候處へ連(つれ)の出家參り、何事成哉と尋候得は前の出家昨日吟味の事共委敷(くはしく)はなし、今日の惡言等迄も申候へは、不屆成事早速町の役人江可參候と、夫より同道いたし町役人江參り前日よりの事を申、今日のしだいの處を申候處、町の役人至極御尤何卒御内分に被差置可被下僕、うなきやはしめ若き者共相應に家も在之候者、只今彼是と仰候ては、不相濟事に候と段々わび言申、金子十五兩通しやうやう内分にて相濟候由。一文字や道夕參り其近所の町家にて直に承り實正の由物語候まゝ爰に認。

 

◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん語注

 

・「深川八幡」は現在の江東区富岡にある富岡八幡宮。源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現・横浜市金沢区富岡)の直系分社で、源氏の氏神である八幡神を崇敬した徳川将軍家から代々手厚い保護を受けた。その祭礼である深川八幡祭は沢山の神輿が繰り出す勇壮なもので、赤坂の日枝神社山王祭・神田明神神田祭と並ぶ江戸三大祭の一つである。

 

・「百文分うなき燒せ」後の文化年間で高級鰻一串二百文、辻売りで一串十二文から十六文程度というネット上のデータがあるので、この頃の普通の店屋で百文というのは、一文三十円程度と考えても、三千円分で、一人で注文するには鰻屋も吃驚するような相当な量と考えられる。勿論、亭主は、まずは、出家が鰻を食うことの殺生戒を犯していることを踏まえての言ではある(故に僧は「久々病氣にてつかれ候ゆへ」と弁解しているのだが)。

 

・「うなき斗にては食べにくゝ候間食もたべ申度」現在のような鰻重・鰻丼のような飯と合わせるのが一般化したのは、この話柄の時代より少し後の文化年間(一八〇四年一八一八年)頃とされる。

 

・「郡内嶋」郡内地方(現在の山梨県都留郡)特産の絹織物の一種。元禄頃には江戸で大流行した。地を厚く作った縦横の縞模様であったらしい。

 

・「唯て」読み不詳。「唯(ただひとり)て」「唯(ただ)で」「唯(ただに)て」か。

 

・「封付」底本の熊倉氏の注に『金の包みを両替屋で封印したもの』を言うとある。

 

・「臭をつき」底本には「臭」の右に『(息カ)』と注する。それで採る。

 

・「給醉」読み不詳。完全な音読みとは思われない。「給(たまひ)醉(よひ)」「給(たまはれ)醉(よひ)」か。

 

・「からかみ」は「唐紙」であるが、ここは襖ではなく、衝立であろう。

 

・「御義」恩義。

 

・「さい」骸子のことか。これが賭博に関わるような騙り者のイメージを惹起させ、かの法戒坊の所行であることを暗示させるとでも言うのであろうか。よく意味が分からない。識者の御教授を乞う。

 

・「連の出家」言うまでもないが、僧形をした巧妙な騙りのグルである。即ち、この翌日の出来事自体が総てこの二人の僧によって仕組まれた騙りであるわけである。

 

・「御番所」町奉行所と同じ。

 

・「一文字や道夕參り」この話を採取した町屋の住所を仔細に表現したものと思われるが不詳。如何にもお洒落な通りの名ではある。

 

 

◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん現代語訳

 

 深川鰻屋で起こった騙りの一件の事

 

一、深川八幡前にある鰻屋へ、八月半ば頃の事、四十歳ばかりに見える僧が一人やって来て、

 

「鰻、百文分、焼いて貰おうか。」

 

という注文。亭主が蒲焼を持って出しながら、

 

「御主家、お前さんがこれをお召し上がりに、なられるんで?」

 

と怪訝な面持ちで訊ねたところが、僧は悪びれた様子もなく、

 

「御意。永々の病気にて疲弊致して御座ったればこそ滋養強壮が為に、頂戴致そうと存ずる……」

 

と言訳致し、加えて、

 

「いやさ、鰻ばかりでは食べにくう御座ればこそ、飯も戴こうか。」

 

と言う始末。

 

 亭主は半ば呆れて奥へ引っ込んだ。

 

 すると、暫くして、

 

「御亭主。御亭主。」

 

と僧が呼ぶ。

 

「へえ。まだ、お食べになるんで?」

 

と出てゆくと、

 

「いやいや、美味、美味、満腹致いた。……お呼び致いたは他でもない……今日、如何にも不思議なことが御座っての、そのお話を致いたく思うての……今朝のことじゃ、牛込山の手辺りに所用が御座って参ったのじゃが、その道すがら、何と、金子二百両ばかりが入っ御座る財布を拾うたで……定めて主人の用向きか、はたまた、娘なんどを売り払(はろ)うて御座った金か……見るからに余程の金子にて御座ればこそ……さぞ、持主は首でもくくらんか、はたまた、川にで飛び込まんか……これ、どう見ても大事なる金にて御座候らえばこそ……出家遁世致いた無情の心にても……いや、無情は建前にて……拙者も人の子なればこそ……さぞかし気の毒なことならんと思うてのぅ……その近辺をそれとなく尋ね回っては見たが……そのような金子を落した様子の者も……これ、御座ない……」

 

と、しんみりと話す。

 

 聞いた亭主は、

 

「それはそれは……気の毒なことにて御座る話にて……あの……その金子、財布は……今も御坊様が御所持なられて御座いまするか?」

 

と訊ねたところ、

 

「御意。この通り、もしや落し主の見つけんかと、首に懸けて御座る。」

 

と手に取って見せたそれは、郡内縞の財布、紫色の染入れが入った特徴のある打紐附きで、内には実に二百両ばかりと見える金子が封附きのままに入って御座った。

 

 亭主はそれを見るや、内心、忽ち悪心が生じ、

 

「御坊様には暫くこちらにて、食後のお休みもあれ――病み上がりの大食なれば、大事々々。――これより暫し、友達のもとへと参り、その落し主に心当たりがないか、とりあえず訊ねてみましょうぞ。」

 

と言うが速いか、鱈腹。鰻を食い終え、最早、牛になって御座った坊主を暫く店に残し、近所の知れる者の家へと走る――と、この美味しい話を語って、奇計を騙ろうた――。

 

 

 亭主、直に店に戻ると、

 

「……残念ながらそのような話は御座らなんだ。……」

 

と僧に告げておるその矢先、一人の若い男が店に飛び込んでくるなり、

 

「おい! 亭主!……まずは、茶でも、くんな!」

 

と乱暴な物言い。

 

 亭主はこの若者を見知らぬ体にて、宥めるように、

 

「……お若いの……喧嘩なさったかね……何方のお方かは存ぜねど……如何にも、気が立って御座る程に……どうなされたのじゃ?」

 

と尋ねた。するとこの男の言うことには、

 

「……今朝牛込辺りにて……御主人様から為替にしておいた現金が急遽入用となったと言われ……さるお大名に為替を納めに罷り越し、金子に換えて御座ったのだが……そのお屋敷にて、中間どもから少々酒を振る舞われて……つい、それに酔ってしまい……途中で金子を落して仕舞うたんじゃ!……気がついて、直ぐに道を戻って探して見たのじゃったが……もう既に誰かが拾い取って仕舞うたらしく……これ、なく……。……この金子が、ない、となれば……自死自滅致さずには相済まざればこそ!……!……」

 

と狂ったように喚きたてた。

 

 そこで亭主が、徐ろに、

 

「その金子、何にお入れになってお落しになれられたのじゃ?」

 

と尋ねて御座ったところ、男曰く、

 

「……郡内縞の財布にて紫色の染め入れが入った紐を付け置いて御座るが……」

 

と話した、その真後ろ、衝立越しに聞いて御座った例の坊主が、ひょいと曝し首の如、頭を出すと、

 

「それは拙僧が今朝拾うて御座る。」

 

と声をかけたので、この男、殊の外に悦び、

 

「誠にありがたき恩義! この金子、これなきにては、命を失はんとせし程の儀にて! 私の所持致いておりました金子は、郡内縞の財布に、紫色の染め入れが入った打紐付で御座いまして、金子には封が付置かれて御座る……御坊様の御拾ひになられて御座ったという、それをお見せ下さいませ!」

 

と言うので、坊主は首に懸けていた財布を差し出す。その仕様、寸分、違わぬ。

 

 故に坊主は、

 

「されば、御手前へお返し致そうぞ。……なれど……拙僧、貴殿が何処(いずく)の国の方とも相知らず……御親類か、または所の御役人の証文なんど、これ有り候えば、お返し申すこと、出来ましょうぞ。」

 

申すので、尤もなことにて、

 

「それは安きことにて御座る……誠に御坊様御蔭にて命拾い致し……命の親と申すは御僧様のことにて御座いますれば……」

 

なんどと。調子のいい事を言いながら、直ぐに近所の、また若い者を、親族にでっち上げて、坊主を騙し、証文なんども認め、鰻屋の亭主も加判の上――拾い主の坊主には向後一切御構無しといった趣きの――起請文を差し出して、金子の受け渡しも事もなく済んだのであった。

 

 さて、その時、この落とし主と称する男、

 

「……御坊の御蔭にて命拾い致しました故、御礼の金子を差し上げとう存知まするが……」

 

と申したところ、坊主は、

 

「いや。出家の義なれば、金子の入用、これ無し。」

 

と再三断わったが――男は後々のことを考えると、どうあっても、ここで幾許かの手切れを渡しておきたいから――しつこく、

 

「命の親なれば、一つ、御受納下さいませ!」

 

と言いつつ、急遽、二百両入ればこそとて、騙りの仲間皆で事前に出し合った御座った金子七両を、

 

「ぽん!」

 

と出す。

 

「――たってのお願いに、御座る!」

 

と言いつつ、何のかんのとそれに言い添えたは、亭主自身。

 

 僧は暫く黙っていたが、

 

「然らば申し請けましょうかのぅ……寺の如来の金箔も剥げて御座ったれば……これも勧化の一助と致そうと存ずればこそ……申し受けて御座る。」

 

と受納致し、坊主は間もなく帰っていった。

 

 

 さて、後に残った者ども、大笑いして、

 

「さてもさても! うまいこと、やったぜえ!」

 

と亭主は、酒肴なんどは、おごり放題、上へ下へのどんちゃん騒ぎ。

 

 暫くして、亭主諸共、分け前と致そうと、財布を取り出し、封じ金の封を切って見たところが――

 

……真鍮にて拵らえて御座った玩具のような贋小判が二百両ばかり……と……

 

……後は……財布の中に如何にも博徒が使い古したような骸子が、一つ……あるっきり……

 

「糞ったれの糞坊主め! 謀(たばか)られた!!」

 

と、それから急いで、かの坊主を近隣中、探し回ってはみたものの、後の祭り、最早、行方知れずとなって御座ったれば、互いに申し合せ、心して、急度、探し出してやるといきりたって御座ったところ、なんと、その翌日昼頃、再びあの坊主が参って、また、

 

「鰻、百文分、誂えて貰おうか。」

 

と悪びれた様子も、これ、ない体(てい)にて注文する。

 

 昨日から収まりがつかない亭主初め騙りの仲間、三々五々集まってきた同じ町内の者どもも、

 

「不届きな糞坊主めが! 似せ金で騙したな! このまま捨て置くわけにはいかねえ! 手前(めえ)、痛え目に逢わせて一切吐かせ、町奉行へ引っ立ててやろうじゃねえか!」

 

と罵ったところ、その坊主、

 

「そういうその方どもこそ、騙りで御座ろうが! あの金、その方どもの金ではなかったのか? あん? それ故に封のままに渡し遣わしたで御座るぞ? 勿論、その際に何らの手違いやらその方どもからの疑義も一切なく、滞りなく受け渡したことに就いては、証文も、ほれ! ここに御座るぞ! 拙僧を騙りの盜人(ぬすっと)のと申候儀は、これ不届き至極! 町方の役人のもとへ参り、この趣き、縷々一切申し上げようぞ! 御番所へ罷り出でて御吟味を受くることは願ってもないことじゃ! 参ろうぞ! さ、参ろうぞ! 冤罪の悪名を負ったままに御座っては、己未生以前本来の面目も相立たねばこそ!」

 

と逆に切れて、がなり立てる始末。

 

 と、そんな所にこの坊主の連れと申す、これまた生臭いが切れそうな坊主が一人やって参り、

 

「何をそのように瞋恚して御座るか。」

 

と訊ね、先の坊主が昨日の一件につき、一部始終を委細詳しく語った上、今日の者どもの悪口なんどまでも言い添えたところが、この僧も烈火の如き憤怒の僧、いやさ、相となり、

 

「何と言う、不届きなる者どもじゃ!! 早速、町方の役人のもとへ参るに若くはなし!!」

 

と即決、それより亭主諸共相引(ひっ)立て坊主二人同道致いて町役人へ参ると、僧どもは前日よりの事をそのまま総て立て板に水にして申し立てた上、今日受けた理不尽なる次第を、やはりそのままに申し上げたところ、町方の役人は話を聴き終えると、慇懃無礼に、

 

「……ふむ……いや、御坊様らの申さるること、至極御尤もなる申し立てにて御座る。何卒、御内分に差し置かれ下さるよう取り計らい願いましょうぞ。……何せ、これら町方の下々の者やら、鰻屋亭主始め、若き者どもにても、相應に家も身内もこれある者にて御座れば、……ここでまた、いろいろと御坊様らが仰せられ訴え出る、ということにでもなれば……これ、ちょっとしたお裁きにては、相済まざる仕儀となり申せばこそ……。」

 

との謂いに、亭主始め、騙りの者やら、町内の野次馬諸共、形勢逆転致いて、だんだんに、また一人、また二人と、弱気になって、坊主に対し、詫び言を呟きはじめ、遂には皆で出し合(お)うた金子大枚十五両で示談と致し、漸く内分にて決着致いたとのことである。

 

 一文字屋道の、通称「夕参り」小路近辺の町家にて直(じか)に承わり、実際にあった出来事の由、その人の物語して御座ったそのままに、ここに認める。

 

 

 以下、「耳囊」への注。

・「大黑屋」「鰻割烹大和田」のHPの「鰻の薀蓄3」に『今でも見ることの出来る深川辺りを描いた錦絵や黄表紙の挿絵には「江戸前大かばやき、附めし」と幟を立てた鰻屋を見ることが出来ます。この「附めし」とは、「当店では蒲焼だけでなく御飯の用意があります。」と言う意味で、天明の時代に霊岸橋の大黒屋がはじめ、すぐに江戸中の鰻屋がまねをしたとされています。これが鰻丼の起源とする説もありますが、これは蒲焼に御飯をセットした物と考えるのが適当なようです』という記載があり、岩波版長谷川氏の注にも、この霊岸橋の大黒屋を引き、この霊岸橋は『浜町河岸に比較的近いが、浜町河岸の大黒屋』というのは未詳と記す。こんな不名誉な話、実際に店があったら、江戸っ子なら入(へえ)らねえぜ。

 

・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 詐欺を働いた出家の事 その二

 

 これも同じ騙りの僧の話である。

 

 浜町河岸に大黒屋という美味い鰻を食わせる店があった。店には普段昼間から酒食を楽しむ輩で賑わって御座った。

 

 ある日のこと、道心の風体(ふうてい)をした者がやって来て、酒や鰻なんどを喰らって、自ら、

 

「――いや、拙僧、誠の生臭坊主にて御座る――。」

 

なんどと嘯いて御座った。

 

 その後も四、五回訪れ、店の者とも顔馴染みになった。

 

 ある日のこと、この道心、店にやってくるなり、亭主をこっそりと呼んで、店の隅で二人きりになると、

 

「……実はここへ来た丁度、先程、この店の門口にて……かようなものを拾うて御座った……。」

 

と、亭主に封じ金五十両の包みを差し出して見せる。

 

「拙僧、酒肴を喰ろう破戒僧なれど……この金を落とした人はさぞ難儀を致いておられることで御座ろうぞ……我ら、それを思うと忍びない……また……かくばかり哀れな貧僧なればこそ五十両の大金を何時までも預かって御座るは、我が身の為にも悪かろうというもの……落ちて御座ったも店先のこと……ご亭主……落とし主を知って御座らば、お返し申し上げたいのであるが……。」

 

と話して、再び、大枚を懐にしまう。――と――

 

……それを店内から、こっそり盗み見、盗み聴きして御座った若い手代、

 

『……こりゃ! 一つ、面白れえ手立てが、あるってもんでぇ!……』

 

と悪心を起こした。

 

 その日の内に町内の悪友と謀りごと致いて、勿論、当の亭主も引き込んで示し合わせ、まんまと架空の落とし主を拵え上げる。

 

 

 数日後、道心が店にやって来るや、亭主、満面の笑みを浮かべ、

 

「いやあ! 先だっての大枚、落とし主が見つかり申したぞ!」

 

てな嘘っぱちを、委細美事にでっち上げた。

 

 すると道心は、

 

「……それは上々! この五十両、確かに拾うたまま、包みのままにお渡し致しましょうぞ……されど……礼金の方は……如何程、頂戴出来まするか、のう……。」

 

亭主は道心と交渉の果て、五両で手打ちとなり――店裏で待っていた手代や悪友どもは、泡食って、手持ちの金やら、なけなしの箪笥の隠し金やらを駆け回って集め――その五両を道心に渡した。道心は、亭主の振る舞いの、いつものように酒・鰻をしっかり食らい、五十両は包みのままに手代に手渡した。

 

「日も暮れかけた。では一つ、帰ると致そう。」

 

と、小唄なんどを口ずさみながら、店を出て行った。――

 

「やったぜ!」

 

と、一同、店の片隅に集って封を開けたところ――

 

――なんと、中身は見るからに子供の玩具見たような贋金――

 

「憎(にっ)くき騙りがッ!」

 

と、大勢で追い駆けると、日本橋近くでかの道心をひっ捕まえることが出来た。

 

「騙りも騙りの、この、糞坊主がッ!」

 

と、路上ながら若い衆なんどは拳固で頭を殴り、背中をどやしつけなどして袋叩きにした。

 

 すると、この坊主、

 

「一体、何故にかく投擲なされるか!?」

 

と嘯くので、

 

「あんだと! 『何故に』『なされるか』だあ!? なめてんじゃねえぞ! この野郎!」

 

と、またしても、皆してぼこぼこにした上、かの鰻屋の店先まで引きずって帰って来た。

 

 ところが、この道心、殴られたために晴れ上がった化け物見たような顔で――ペッ!――と血の唾を吐き捨てると、ここで開き直った。

 

「バレちゃあ、仕方あるメエ!……そうよ! 俺は専ら騙りで人を騙しちゃあよ、渡世してる悪党でエ!……うぬらに袋叩きにされて……ペッ!……もう、勘弁ならん…………

 

「……いや、勘弁ならんは、俺、よ、の……いやさ、この程度のケチな袋叩きで済むような……俺の罪じゃあ、ネエ! てぇんだ……だからよ、俺はこれからよ……お仕置きを願おうってえ、殊勝な気持ちでいらあな! さあて! だからよ、これからよ、直ぐによ、奉行所へよ、駆け込んでよ、己れの首を己れで出そうってえ、覚悟なわけよ!…………」

 

「……ただし、だ……この町内にも、だ……落としてもいねえ金子を『落としました』と言うて、だ……落とし主をでっち上げ……人の金を奪い取ろうと企(たくら)んだ者が、おる! 確かに、おる!……そうじゃろ? 違うか? そうじゃろう!?……さればとよ、こ奴も俺と同罪じゃ!……その、この町内の悪党どもを供に、お奉行さまの御前(おんまえ)に罷り出で……いざ、うれ! ともに三途の川をば、渡ろうぞ!」

 

と、やらかした。

 

 その場にいた一同は、この時初めて、男の言っていることの重大さに思い到って、青くなった。――

 

 騙りの面子は言うに及ばず、よくも知らずに今日の探索に加わって、男に殴る蹴るの乱暴を働いた若い衆も含めれば、これ、数知れず――いや、この一件が露見すれば、この町内そのものが成り行かなくなりそうな気配――。

 

 一転、皆々相談の上、その場の全員が贋道心の男に詫びを入れることと相成った。

 

 ところが、見るだにお岩みたような顔になった男の視線は、これまた心底、恨みに満ちていて、なかなか承知しそうにない。

 

 遂には、その投擲の治療費と称して、金五両をやって、何とか事なきを得た。

 

 実に、都合十両騙り取られた、というわけである。

2010/02/25

「耳嚢」小休止

「耳嚢」のアップ用ストックを使い切った。次のテクストは注に時間が掛かる(別な作品に所収する類話を注釈・現代語訳しなくてはならないため)。暫く、アップは小休止とする。

最近、忙しく疲労し、電車の中でも活字を追う元気もなく、江戸切絵図を眺めてばかりいるのだが――どうも眺めているうちに、自分が「耳嚢」の注で同定していた場所が、実は別な場所なのではないか、ということに思い至ったり――あやしうこそものぐるほしけれ、とは「耳嚢」因果也――

2010/02/24

耳囊 卷之二 品川にてかたり致せし出家の事

 

「耳囊 卷之二」に「品川にてかたり致せし出家の事」を収載した。

 

 

 品川にてかたり致せし出家の事

 

 いつの頃にやありけん。品川宿旅籠屋にて食盛(めしもり)抔買ひあげて專ら日を重ねなどして遊びける出家あり。其人躰(じんてい)もいやしからず。或日旅籠屋の亭主を呼て、内々にて咄度(たき)事あり、今日我等當所へ參る道すがら、不思議に金子百兩拾ひ得たり、然る所通途(つうと)の金にもあらず、封じ金にて封の上に何村の御年貢金とあり、當宿と同支配村と見へたれば、若(もし)心當りはなきや、御年貢金の事なれば、我等拾ひて其儘にも成がたしといひければ、亭主も驚きけるが、我等は承り及たる事も侍らず、得(とく)糺し申てといひてかの亭主、所の者の内心安き者と談じけるが、いづれ落し手を拵へ相應の禮金を出家へ遣し殘りを配分せばよからんと、惡心發りて得としめし合、いかにも在の百姓躰(てい)の男を拵へ、兩三日過て、此間金子落しける者を内々にて搜し侍ればかく/\の者に有之、能(よき)御方の御手に入て多くの人の難儀も助り難有と殊の外悅び申など申ければ、出家も悅たる躰にて、夫は嬉敷事なり。然らば渡し申さん迚、其樣子承り、財布共に亭主へ渡しければ、亭主改て彼百姓躰の者へ渡しける。其時出家申けるは、我等拾ひけるとはいひながら、大金を事なく返し侍れば少しは禮も可致事と申ければ、亭主も右百姓も御禮はいか程もいたし可申儀、早速ながら御菓子代として金三拾兩可差出旨申ければ、三拾兩ならば承知せりと答ふ。彼百姓、然らば右金子差上申さんと彼金子の封を切りにかゝりければ、彼出家大きに憤り、右金子財布ともに取戾し、亭主幷百姓をもはたとにらみ、不屆なる己等がかたり事哉(かな)、全く汝等が落せし金にはあらず、其證據は封印有て村名役印等もある此封金故、我等も其ぬしを穿鑿しぬるに、其身二人にて右封をきり我等へ金子三拾兩右の内より差越(さしこし)なば、外百姓共へ何と言べき、其時如何樣三拾兩の申譯あらんや、全く自分拾ひし金子を可奪取爲の拵へ事ならん、よし/\御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立、何分皆々の世話を賴(たのま)ん、早々歸り候へとて、夫より酒抔吞て一向取合申さねば、亭主其外一同の者共大に込(こま)り、相應の人を入て色々詫言いたし、八重九重に證文を入て金三拾兩出家へ別段に渡し、右封金請取相濟ける。然るに跡にて彼封金を開て見れば、一向の子供遊びの土瓦なれば大きに憤り、憎き出家の所行と思へ(ば引とらへせんぎせんと思へ)共、八重九重に證文にて封の内はしらぬ姿の出家の取計、申出せば亭主幷一列の者の僞りも顯るゝ故、かたりの古頂とはまのあたり見へながら咎る事もならず、彼出家は其後も聊憚る色もなく右はたご屋へ遊びに來りしとや。怖敷ものも有と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:朝比奈少年が奇計を用いて武士から美事詫び証文を奪い取った話から、奇略を以って悪党を騙し、何重もの証文によって批難・告発を免れた出家の話で連関。

 

・「食盛(めしもり)」は底本のルビ。飯盛女のこと(但し、これは当時の通称で、幕府の関連法令にあっては「食賣女」(めしうりおんな)と表記されている)。奉公人という名目で宿場の旅籠屋にいた、半ば黙認されていた私娼のこと(但し、現在の仲居と同じ業務にのみ従事していた者もおり、総ての飯盛女が売春行為を強いられていた訳ではない)。岩波の長谷川氏注によれば、当時、品川宿では500人の飯盛女を雇うことが幕府から許可されていた、とある。

 

・「年貢金」ウィキの「年貢」に、『年貢徴収は田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見(けみ)法を採用していたが、年によって収入が大きく変動するリスクを負っていたことから、江戸中期ごろになると、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法がとられるようになった。だが、例外も存在し』、『米が取れない地域の一部では商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていた。だが、江戸時代中期以後商品作物の生産が広まってくると都市周辺部の農村など本来は米の生産が可能な地域においてもなし崩しに買納制が行われていき、江戸幕府さえもが事実上の黙認政策を採らざるを得なくなった』とある(ルビ位置を変更し、記号の一部を省略した)。

 

・「得(とく)」は底本のルビ。

 

・「能(よき)」は底本のルビ。

 

・「御菓子代」御礼の代替語。

 

・「役印」村役人、地方三役(村方三役とも)の印。名主(庄屋・肝煎)・組頭(年寄)・百姓代などの頭・支配の者の確認印である。

 

・「御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立」猫糞しようとしなかったことを立証出来る、という意であろう。

 

・「込(こま)り」は底本のルビ。

 

・「(ば引とらへせんぎせんと思へ)」は底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを訳でも採る。

 

・「古頂」底本ではこの右に『(骨頂)』とある。「最たるもの」と訳しておいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 品川に於いて詐欺を働いた僧の事

 

 いつ頃のことであろうか、品川の旅籠屋にて、飯盛女なんどを買い上げては、日々遊び暮らしてばかりいる僧がおった。女を平気で買う割には、見た目、人品、卑しからざる者ではあった。

 

 ある日のこと、この僧が、その馴染みの旅籠屋にやって来ると、亭主を呼び、

 

「……実は、内々に話致いたきことが御座る。……さても今日、我ら、ここへ参る道すがら……何とも、その……金子百両を拾ったので御座る。……いや、それもただの金子では、これ、ない。……ちゃんとした封じ金にて、封の上にな『○○村之御年貢金』とあるのじゃ。……この宿場のある村と同じ支配の村にて御座ろう。……もしや、このことに付、何ぞ聞いては御座らぬか?……御年貢金、ともなれば、我ら拾うて、そのまま預かっておく訳にも参らねばのぅ……」

 

と言うので、亭主、吃驚りして、

 

「いや! そりゃ、我らも初耳のことにて御座りまする。……いやいや、そうした話なればこそ、とりあえず……いろいろと、ですな、訊ね質してみましょうぞ!」

 

と答えた。

 

 亭主はその夜、近隣の親しくして御座った者どもを内密に集め、相談に及んだ。

 

「どうよ?……落とし主をでっち上げて、よ……相応の礼金を坊主に遣って……残りを儂らで分配するっうのは?」

 

と悪心を起こして、合議一決、如何にも土地の百姓らしい風体に男を一人仕立て上げると、探し回った風を装うために、三日たってから僧の来店しているのを見計らい、旅籠屋を訪ねさせ、亭主同席の上、

 

「この間、御坊の拾われた金子、それを落とした者を内々探して御座いましたところ、○○村××と申すこの男の由にて御座います。」

 

百姓体(てい)の男もしおらしく、

 

「いや! 誠(まっこと)よい御方の御手に拾われまして……村内の多くの者の難儀も助かり……有難く存知おりまする……」

 

なんどと、殊の外の喜色満面、平身低頭、礼言数多に及べば、僧も如何にも喜ぶ体(てい)にて、

 

「いや! それは嬉しきこと! なれば……さ、これをお渡し申す。」

 

と、僧はまんまと拵え話を鵜呑みにした様子で、財布と一緒に金子を亭主に渡し、亭主はそれを百姓に手渡した。その時、僧が付け加えて申すことには、

 

「……拾った金にては御座ったが、大金の大事な年貢金を無事にお渡しできたは幸い。……なればこそ多少なりとも謝礼、これ、御座ってもよいと思わるるがの……」

 

との趣き。すると亭主も百姓体の者も、二人して、

 

「いえ、なあ? 勿論、相応の御礼儀、これはもう、如何様にも致させて頂こうと存知、御菓子代と致しましては、金三十両を差し上げようと存じまするが……如何?」

 

との答え。僧は、

 

「いや、もう三十両ならば十分にて御座る。」

 

と答える。

 

 そこで百姓が、

 

「さすれば、御礼を差し上げ申し上げましょう……」

 

と言いつつ、財布から封じ金を取り出だして封を切りにかかった――その時、出家が突然、怒号と共に怒り出し、百姓から財布とその上に置いていた封じ金を取り返して罵る、その言葉――

 

「この不届者なるお前ら! これはみな、騙りごとであったな! 全く以って汝らが落とした金子にてはこれなきものじゃ! 何となれば――封印があって村名・役印等もあるこの封金故に、我らもその落し主を捜しておったに、己れ独りにて、その封を切り、我らへ金子三十両、その中より、寄越したとなれば、他の百姓どもに何と言うつもりか! その時、如何したら三十両足りぬことの申し訳、立つるか! 全く以って自分が拾った金子を奪い取るための拵え事に違いない。――よしよし! かくなる上は御代官所へ訴え出れば、我らが拾って持って御座ったことの筋も立つ――こうなれば最早、お前らの世話なんど頼まん! 早々に立ち去られるがよかろうぞ!……」

 

と言い放ち、それより独り、酒なんど、呑み始め、一向に取り合う景色もない。

 

 亭主その他一同の者――客のなりしてその場に来ておった謀り事の仲間内も――大いに困り果てた。

 

 それからというものが大変。

 

 僧の勘気を解くに相応の身分の人を立てるわ、はたまた、手を変え品を代えていろいろと詫びを入れるわ、遂には、僧に促されるまま、僧に今後一切のお構いなき旨の、何枚にも及ぶ起請文を入れた上、別に金三十両を拵えて僧に渡し、ようやっと、かの封じ金百両受け取り方、相済んだので御座った。

 

 ――ところが――

 

 ……いざ、かの封じ金を開いて見たら……中身は……子供が遊ぶための瓦(かわらけ)で御座った。

 

 一同、大いに憤り、

 

「憎(にっく)き坊主の所行!」

 

と、ひっ捕えて詮議し、痛めつけてその計略も何もかも吐せよう、と思うたものの――これまた、何重にも入れた起証文――おまけに、その起請文の一通には、元来、この出家、封じの中身は知らぬということの一条さえ記して御座った――また、この一件を訴え出れば、当然、亭主並びに一同の者の偽り事も露見致すが故に――明らかに『騙りの最たるもの』――と知りつつも、手も足も出ないので御座った。

 

 この出家、その後も、聊かも憚る気色もなく、この旅籠屋へ平然と遊びに訪れたということで御座った。

 

――いや、恐ろしい者、いやさ、僧もあったもんだ――

 

と、さる人が語って御座る。

 

2010/02/23

現在累計アクセス数209002

現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、

累計アクセス数 209002

1日平均アクセス151.67

早くも210000アクセス記念の作業に入らねばならなくなった。一応、あらかじめ準備したものは整っているのだが――本当はつい先日、やっと手に入れた「彼女」の、「ある作品」をアップしたかったのだが――これからでは、杜撰な仕儀になる。涙を呑んで諦めよう。それでも近いうちに――きっと、待っててね!

耳嚢 巻之二 浪華任俠の事

「耳嚢 巻之二」に「浪華任俠の事」を収載した。

今朝、HPにはアップしたものの、ブログでの更新を失念していた。

その程度には、疲れている。

僕もそれほど余裕はない。

 浪華任俠の事

 大坂は昔より俗にいふ男立といふ者流行しけるに、近き頃の事也、朝比奈何某といへる者あり。彼者の方にて若者など集め振舞抔せるに、同人十歳の時武家より請取りし誤り證文を懸物にせし由。不屆なる事ながら其由來を尋るに、右朝比奈十歳のとき、立衆(たてしゆ)の中間(ちうげん)と一同堤に涼み居たりしが、年頃三十四五歳とも見へし侍、いかにもたくましく丈夫なる大小貫拔(かんぬき)に指て右堤を通り過けるに、右涼み居候中にて、遖(あつぱれ)の男振かな、中々あの位の人へ出入しては勝ちにくからんといひければ、彼朝此比奈聞て、我等あの侍にあやまらせ見せんといふ。いらざる事といひけるが、いつの間にか其場所を拔(ぬけ)て彼侍に組付ければ、小兒の事故拂のけて通りしに、又立寄ては組付、幾遍(いくへん)となくなしければ右侍、面倒なる倅哉(かな)と、取て投て行過ければ、投られ踏れては最早堪忍成がたし。いざ殺し給へとて何分放さず、侍ももてあつかひ、小兒を殺んもおとなげなしとて詞を和らげ、汝憤る事あらば了簡可致と申ければ、さあらば書付給はれとて頻に望し故、いなみけれ共、何分書付不給は殺し給へといひける故、無據書付遣しけるを、懸物として生涯任俠の棟梁をなしけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:非人の賢者から、姦計に優れた任俠の話で連関。

・「浪華」「なには」。大阪のこと。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「男立」任俠に同じ。

・「朝比奈何某」底本の鈴木氏の注に『朝比奈三郎兵衛。侠客。大阪つぼ町住』で、天和2(1682)年に50歳ほどであったと「久夢日記」に書かれているとする。更に『その親の三郎兵衛も侠客で、二代続いて男伊達随一の名をとった。五尺ばかりの小男で、さして力もなかったが、義気が強く、正直で貧しかった』と記す。岩波版長谷川氏も同じくこの結構有名な町奴に同定されて問題を感じておられぬようであるが、如何? 「近き頃の事也」と根岸は言っているのである。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までで、その朝比奈三郎兵衛が80歳まで生きたとしても、百年から七十年も前のことを、私なら「近き頃の事也」とは、決して言わない。三代目を襲名した町奴朝比奈三郎兵衛は居なかったのであろうか?

・「立衆」底本ではここは「立花」となっている。これでは私には読み・意味共に分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「立衆」となっており、「たてしゆ」の読み、及び長谷川氏により「任俠」と同義である旨の注が附されている。これで採る。本来、「立衆」と言えば、「たてしゅう」「たちしゅ」と読み、能の軍勢や従者、狂言の町衆や小鬼といった、端役で数人が同じ役として一団となって登場する役者を言うが、ここは「男立の町衆」といった謂いであろう。底本の「立花」も「男立ての花」「浪花の男立て」と言った意味とも取れぬことはないが、調べた限りでは男立てを「立花」とする例は見ない。

・「大小貫拔に指て」刀の大小を、通常の左腰ではなく、閂(かんぬき)のように水平に指すことを言う。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 難波の任俠の事

 大阪は昔より俗に言う「男立て」というものを殊更にもて囃して御座るが、これはその「男立て」に纏わる最近の大阪での話。

 男立てで知られた朝比奈某という者が御座った。

 彼がある時、己が屋敷に若い衆なんどを集め、酒食を振る舞ったりした折りのこと、彼が十歳の時、さる武家より請い受けたという詫び証文を掛け軸にしたものを披露した由。――如何にも不届きなることながら――知れる者にその由来を訊ねたところ、以下のような次第で御座った。

――朝比奈某十歳の砌、夏のある日、男立てを誇る若い中間(ちゅうげん)ども一緒になって、とある堤で涼んでいたところ、年の頃三十四、五歳に見える侍で、如何にも逞しい大丈夫が、大小をこれまた、かぶいて閂(かんぬき)に差したのがその堤を通りかかった。

 それを見た中間の一人、

「格好(かっこ)ええなあ。ああした侍にゃ喧嘩吹っ掛けても、なかなか勝てんて。」

と呟いた。

 すると、それを聴いたかの朝比奈少年、

「儂(わい)が、あの侍、謝らせて見せたるわ!」

と言う。中間どもは口々に、

「阿呆(あほ)なこと言うな!」「このド阿呆(あほ)!」

と制した。

――ところが――

――暫くして気づいてみると、何時の間にやら、朝比奈少年、その場を抜け出でて、かの侍に組み付いて御座る!

――子供のこと故、侍、難なく、ぱっと払い退けると、そのまま通り抜ける。

――少年、再び組み付く。

――侍、再びさっと払い退けた。

――少年、またまた組み付く。

――侍、再びぱらりと払い退けた。

――少年、性懲りもなくまたしても組み付く。……

この繰り返し。少年が何度となくがむしゃらに組み付いてくるので、この侍、遂に、

「うるせえ餓鬼が!!――」

と喚くや、片手でひょいと少年の後ろ帯を摑むと、堤の上の叢にぽーんと抛り投げ、歩む序でにその背中をぎゅっと一踏みすると、そのまま行き過ぎようとした。

 すると、少年、

「待たんかい!! 投げられて! 踏まれてからに! もう勘弁ならん! さあ! 殺しとくんなはれ!!!」

と叫んだかと思うと、またしても侍の腰にしがみ付いて、一向に放そうとしない。

 侍もすっかりもて余してしまい、子どものことなれば、無礼打ちに致すも大人げないと考えたので御座ろう、言葉を和らげて、

「……おまはん……何や知らん、気障ることあったんなら、どうか、勘弁してくれへんか?……」

と言ったところ、

「そんなら、書き付け、お呉れ! お呉れ!! お呉れ!!!」

と頻りに望む。

 侍は勿論、この馬鹿馬鹿しく理不尽な詫び状乞(ご)いに、

「あかん! 話にならん!」

と突っぱねたが、少年は、

「呉れんのやったら、早よ、殺しとくんなはれ! さあ、殺せ!! さあさあさあさあ、さあ、殺せ!!!」

と捲くし立ててくる。

 よんどころなく、この侍、訳の分からぬ詫び状文の書き付けを記して、朝比奈少年に渡したという。

 朝比奈はこれを掛け軸と成し、「生涯任俠の形見」と致いて、生涯、任俠の棟梁を勤めたという話で御座った。

2010/02/22

耳嚢 巻之二 非人にも賢者ある事

「耳嚢 巻之二」に「非人にも賢者ある事」を収載した。

僕はこの一本を映画に撮ってみたい欲求に襲われる程、好きである。「耳嚢」の「卷之一」の始まりから、ここまでの中で、私は随一と言ってよい話柄と思っている。御覧あれ。

 非人に賢者ある事

 天明二年の事なりしが、人の語りけるは、あらめ橋のたもとに出居たる雪踏(せつた)直しあり。往來の侍雪駄をふみ切、懷中貯錢の心付なく、右雪駄を直させける上にて懷中を見るに一錢も無之、家來は外へ使に遣しける故甚當惑いたし、其譯を雪駄直しの非人に斷りて明日にも可差越段申ければ、右非人以の外憤りて彼是申、後には惡口(あくこう)など致しけれども、彼侍無念を怺(こら)へ色々申宥(なだめ)けるを、側に居たりし同職の非人、中へ入りて右侍へ對し、同職の非人甚の不屆なり、誠に御難儀可申樣も無之、彼へはいか樣にも私申宥め可相濟(あひすますべし)、人立ちも如何に候間早々御歸可然段申ければ、彼侍甚過分に思ひて、其方の住所小屋は何れにて名前は何と申哉と尋けれ共、御謝禮等申請べき存寄なし。少しも早く歸り可然とて達(たつ)てすゝめける故、右侍もその意に任せ歸りけると也。其側に町人居たりしが、始終の樣子を見請、其方の小屋は何方(いづかた)やと尋ければ、鎌倉河岸邊の由申しければ、左あらば我等歸り道也、ちと賴度用事ある間、一所に可歸とて同道して、途中にて申けるは、其方は生れながらの非人にも見へずとありければ、成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也と答ふ。さあらば我等事汝がけふの取計ひ感ずるに餘りあり、用に立べきもの成間、引出し可召抱と有ければ、近頃思召忝(かたじけな)けれども望なし。都て橋爪に出て雪駄直し等いたし候非人は、御武家方其外急成差支の節は、隨分代錢に不拘働き可申事、非人の役にて珍らしからず、右惡口いたし候非人は何も不存(ぞんぜざる)者故也。且又武家方の難儀を見受候故、非人の我等ながら無據(よんどころなく)中へ立、事を納めたる也、然し御侍の身分にては左こそ無念に思召なん、御身始終樣子見給はゞ、何として立入御侍の難儀をすくひ取計給はざるや、かゝる御心得の人に引出され隨身(ずいじん)せん事、望む所にあらずと答へければ、彼町人も赤面して歸りしとなり。非人ながら怖敷者也と人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:天明二年の話で連関。この話、私は「卷之二」随一の巧みな名話と感じている。

・「天明二年」西暦1782年。

・「あらめ橋」荒布橋。日本橋川の江戸橋から北に流れていた西堀留川の河口に架かっていた橋。現在は西堀留川自体が埋め立てられており、橋は存在しない。この頃は、この辺りは海岸線に近かったから、干満と海底地形の特質から、褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclisの脱落個体が橋脚に掛かったりしたことから命名されたのではなかろうか。アラメは水深2~3mの岩礁上に有意に密な海中林を形成し、主に本州の太平洋沿岸北中部に分布している。アラメに関しては、私の電子テクスト「和漢三才図会 巻97 藻類 苔類」の「海帶」等を参照されたい。

・「雪踏」雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。以下、参考にしたウィキの「雪駄」によれば、その由来は『諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くため、あるいは積雪時、下駄では歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれて』おり、『主に茶人や風流人が用いるものとされたが』、『江戸時代には江戸町奉行所の同心がかならずばら緒の雪駄を履いており、「雪駄ちゃらちゃら」(後金の鳴る音)は彼らのトレードマークであった』と記す。この「ばら緒」というのは鼻緒の一種の呼称で、竹皮縄のこと。麻緒の芯に竹の皮を丁寧に綯(な)い、太い縄にしたものを言う。

・「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。

・「小屋」非人小屋のこと。通常の非人は非人頭が支配する非人小屋(幕府や諸藩が設置)に属しており、更に小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。非人は小屋に属して人別把握がなされ上で正式な非人となり、身分保障されたのである。

・「成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也」処罰としての非人手下(てか)によって非人の身分に落とされた者であることを言う。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)で両人共に生き残ったか(女が死んだ場合は生き残った男は死罪。これには同情する)、(3)のあだなる縁(えにし)であったか(個人的には余りこれには同情し得ない)、いや、矢張り、武士や町人の幸せな子であった者が、疫病天災や騒動によって天涯孤独になって、ひもじさからわずかな食い物を掠め取って、捕らえられ、投擲され、果てに非人小屋へ連れて行かれ……といった(6)辺りを想定してみて――この実在した男には勝手な想像で失礼ながら――ちょっとしんみりした感じになってくる方がいい。

・「鎌倉河岸」以下、「千代田区総合ホームページ」の「町名由来板ガイド:神田鎌倉町・鎌倉河岸」より引用する(改行及び一部の読みを省略、記号の一部を変更した)。『天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。 江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋(おじま)公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです』。

・「御侍の身分にては左こそ無念に思召なん」この侍の内心は、勿論、非人に理不尽な悪口を浴びせられたことを核心とするが、この男の話の流れから言えば、それに加えて、同じく賤しい非人である私(=主人公の男)如きに救われたということも加えて「無念」にお思いになられたことであろう、という意を含めるものと解釈すべきであり、そこまで他者を慮っているからこそ、賢者と言えるのである。

■やぶちゃん現代語訳

 非人にも賢者のある事

 天明二年のことであった、とある人が語ったという話。

 荒布橋のたもとに出て雪駄直しを商売に致いておった者どもがあった。

 ある時、往来の侍が雪駄を踏み切った。――この侍、迂闊にも懐中に持ち合わせが全くないことに気付かぬまま――この雪駄直しの一人の若者に直させた上、さて駄賃を渡そうと懐中を探ったところが――一銭もない――持ち合わせがまるでないということに今更、気がついた。家来は他に使いに出したばかりで、生憎、そのまま屋敷に戻るよう命じて御座った――甚だ困った侍は、とりあえず、その雪駄直しの若い非人にその訳を述べ、金子は明日にも必ず持参致すべき旨、これを告げたのだが、これを聞いた非人は、異常なほどに憤って、この侍に対して、かれこれ難癖をつけ、遂には無礼な悪口(あっこう)まで吐き始める始末であった。

 この侍、逆立ち致いても一銭も出ぬ事実に加え、人柄も穏やかであったがために、ひたすら無念を堪(こら)え、色々と非人を宥(なだ)めて御座ったところ、傍にいた同じ雪駄直しの非人仲間の一人が、二人の中に割って入(はい)って、

「同業のこの非人の振舞い、甚だ不届きにて御座いまする。先程よりの御武家様の御難儀、申し様もこれなき程にて、仰せられしことも、これ悉く、道理に叶(かの)うて御座ればこそ、かの者には、如何様(よう)にも言い聞かせ、宥めますればこそ。さても、次第に人だかりも致いて御座れば、ここは一つ、お引き取り下され。」

と言う。かの侍も甚だ感謝に堪えず、

「……いや、有難い……その方の住所及び小屋は何処(いづこ)にて、名は何と申す?」

と訊ねたけれども、

「いえ、御礼なんどを頂戴するいわれは御座らぬ。さ、さ、どうか一刻も早う、お引き取りなされるがよろしゅう御座る。」

と頻りに急かすように勧める――実際、彼等の周りには次第に野次馬の人だかりが出来始めて御座ったれば――かの侍も、その非人の言うにまかせて、礼を言うと、帰って行った。

 さて、その野次馬の中に、一人の町人がおった。

 この町人、この一部始終を凝っと見ていたのだったが――野次馬どもが、何事か面白いことが起こるものという秘かな期待を裏切られて何事も起こらぬことに大いにあからさまな失望の声を挙げながら三々五々立ち去ってしまった後(のち)も――ずっとそこに残ったまま、割って入った男が先の非人を宥め落ち着かせるまで待ち、そうして男が雪駄直しの道具類を片付け始めるのを見てとると、そっと近づき、

「その方、小屋は何処だ?」

と尋ねた。

「へえ? 鎌倉河岸辺りで御座えやすが――何か?」

「それなら私の帰り道だ。……実は、ちょいと頼みたい用事があるでの……ま、一緒に参ろうや。」

と同道する。

 その道すがら、町人が男に話しかける。

町人「……その方……失礼ながら……生まれながらの非人には見えぬが……」

男 「――へえ、仰る通り、生まれながらの非人では御座らぬ。若気の至り、ちょいとした心得違いより、かくなる身となり申した。」

町人「……されば……私はお主の、今日の一件の一部始終、見て御座った……その取り計らい方、大いに感ずるに余りあったれば……お主のような人物、実に役に立ちそうな者なればこそ……非人小屋から請け出し、そなたを召し抱えとう思うのじゃが……どうじゃ?」

男 「――めったにない、大層有難い思し召しに御座りまするが、お断り致しましょう。――そもそも、橋詰めに出でて雪駄直しなんど致しておる非人というものは――御武家方その他の方々の急な差し障りの折り折りには――およそ、代銭の有る無しに拘らず、お手伝い致すべきこと、非人の当然の役目――決して珍しいことにては御座らぬ。――あの悪口致いた非人は、未だその辺りの道理を存ぜぬ若輩者にて――かつ、また、かの御武家様の難儀を見申し上ぐればこそ――我ら、非人の分際ながら、よんどころなく、出しゃばり致いて中に割って入り、まあ、かく事を納め申したに過ぎませぬ。――しかし――御侍の身分にては、かく非人に口汚く罵らるれば、さぞ、御無念に思われたことで御座ろう。――貴方――貴方はその一部始終を見て御座った――なれば、何ゆえに割って入(い)り、御侍の難儀をお救いし、お取り計らいなさらなんだ?――かかる御心得の持ち主に、請け出され、御付き申し上げんこと――これ、望むところにては、御座らぬ。――」

 これを聞いた町人、路上にありながら、思わず赤面、そそくさと別れた、という。

「……誠(まっこと)、非人とは申せ、恐ろしき切れ者で御座る。」

とある人が語った。

2010/02/21

耳嚢 巻之二 怪我をせぬ呪札の事

「耳嚢 巻之二」に「怪我をせぬ呪札の事」を収載した。HPの方では、印字出来ない字は画像でも示してあるので御確認頂きたい。

――さて、明日の公開予定の一本、「非人に賢者ある事」は、僕が「耳嚢」中、優れた名話と感ずる逸品である。乞う、ご期待。

 怪我をせぬ呪札の事

 天明二寅年の春、御小性を勤仕(ごんし)の新見(しんみ)愛之助といへる人登城の折から、九段坂の上にて乘物に驚きけるや、數十丈の探き御堀の内へ馬と一所に轉び落けるが、怪我もせず着服等改め直に登城ありしと也。其後右の咄出て、何ぞ格別の守護等も有しや、數十丈の所轉び落んに、如何にしても少しは怪我も有べきに、ふしぎの事也といひしに、外に守やうの物もなかりしが、一年不思議の事ありしとて、知行の者より差越たる守護札ありしとて、書付けて愛之助より有尋し者へ見せける由。右同人知行の者、或日野に出て雉子を射けるに、其矢雉子に當りしと思へども雉子は恙もなく、敢て立んともせざりし。弓術上手といわるゝ者共爭ひいたりしが、外の雉子は弦(つる)に應じて斃るゝといへども右雉子に矢當らず。何れも驚きて追廻し捕へけるに、羽がひに左の文字認有由。 右の文字を書たる札百姓の與へけるを、其儘に懷中せしと物語の由。何の譯に候哉(や)。文字も作り文字と相見へわかりがたけれど、其頃貴賤となく小兒などにも懷中させしと也。

  ※1抬※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}

□やぶちゃん注

○前項連関:神の御加護のこもった冨札から、霊験の呪力を持った守護札で連関。

・「天明二寅年」西暦1782年。壬寅(みずのえとら)。

・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「新見愛之助」岩波版長谷川氏注によれば新見正登(まささだ)のこととする。『天明元年(一七八七)七月より御小性。六年家を継ぎ八百十石』とある。寛政5(1793)年に小十人頭、同7(1795)年から121800)年まで目付を勤めた。この人、息子の方が有名。「朝日日本歴史人物事典」によれば、新見正路(寛政3(1791)年~嘉永1(1848)年)は幕臣。『伊賀守。文政121829)年大坂西町奉行となり,淀川の大浚い工事の土砂で築かせた天保山は、長く市民の娯楽の場となった。天保121841)年に天保の改革が始まると、将軍徳川家慶の側近である御側御用取次となる。水戸藩士藤田東湖が、「誠によき人物、誠実顔色にあらわれ」と評した人柄を見込まれ、将軍と老中の間に立って両者の円滑な意思疎通と機密の保持を求められる御側御用取次に登用されたのである。また、古典の教養も深く、蔵書家で邸内に賜蘆文庫を設けた』(引用に際して記号の一部を変更した)とある。

・「九段坂」九段は現在の九段南・九段北1~4丁目に相当する町名。町名及び九段坂の名は、この丘陵地の傾斜部分に9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する(ウィキの「九段」を参照した)。

・「乘物に驚きけるや」岩波版では「乘馬物に驚きけるや」とある。こちらを採る。

・「數十丈」現在でもこの九段下や竹橋辺りの堀はかなり深く見えるが、1丈=10尺≒3.03mであるから、流石に「数十」では最低でも90mを超え(江戸城自体の高さが約60m)、堀は深いものでもせいぜい十数m内外と思われ、誇張表現である。

・「知行」新見正登の細かい事蹟が分からないので、この知行地は不詳。幾つかの資料から、一つの可能性として新見氏の領地としては、現在の神奈川県内の何処かが候補としては挙げられそうには思われる。郷土史研究家の御教授を乞う。

「※1抬※1※2」[「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}。「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}。]

底本注で鈴木氏は山崎美成(寛政8(1796)年~安政3(1856)年):作家。江戸下谷長者町薬種商長崎屋の子で家業を継ぐも趣味の文芸に入れ込んで破産、江戸派の国学者小山田与清に従った。滝沢馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢との交流もあった。)の「提醒紀談」(嘉永3(1850)年刊三から引用して『「世に※1抬※1※3の四字を書して、怪我除の護符とす。その験あること人のしるところなり。さて此符字の伝へ一条ならず。或記に、寛永二年三月晦日に将軍家狩したまふに、御鷹大なる※4を捕りけり。その※4の胸に四の字あり。その文字は袷※5※6※7と、かくの如くなり。実に不思議なることなりと見えたり。次にまた寛文八年に紀州に住める鉄砲師吉川源五兵衛といふ人、江戸に居ける日、大宮鷹場の中、青野村といふところにて白き雉子を覘すまして打たれども中らず。さればやうやう機檻にて捕へ得たり。その雉子の背に※1抬※1※3の文字あり。思ふに此文字こそ、定めて怪我除けの符ならんかとて、角(マト)にこの字をしるして、打試みるに幾度打ども中らず。【大久保酉山筆記】といへることあり」として、次に耳袋の新見某の話柄を記し、「何れも正しき記録なれば信ずるに足れり」といっている。』と注する[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+{(つくり上部)「巳」+(つくり下部)「口」}。「※4」=「鳫」の「鳥」の右に(にんべん)。「雁」。]「※5」=「衤」+「盒」。「※6」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「冋」}。「※7」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「幸」}更に東洋文庫版「耳袋」では同じ鈴木氏が、この「※1抬※1※2」の文字は「サンバラサンバラ」と読む、とも記している(岩波長谷川氏注の孫引き。恐らく類型字である「提醒紀談」所収の二つも同じように発音すると考えてよいだろう)。この発音からは、これは梵語(サンスクリット語)をそのまま音で漢訳した真言と考えてよい(「根本真言(大陀羅尼)」や「一切如来随心真言」等に現われる)。従って、本漢字の語義を調べることは意味がないと思われる、というか、多分、調べてみても出て来そうもないし、納得出来るように分かるわけはないと踏んだ、有体に言えば、実は調べるのがメンドクサイのであった。少なくとも「※1」「※2」は「廣漢和辭典」には所収しないし、「抬」は「うつ・あげる・かつぐ・になう」の意の「擡」の俗字で、音は「チ」若しくは「タイ・ダイ」であって「バラ」とは程遠く、現代中国音でも“tái”である。序でに暴露してしまうと「提醒紀談」も持っているが、引き出すと本の崖が崩れて生き埋めになるので原本との照合も諦めたのが事実である。

○岩波版カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の完本(旧三井文庫本)では、この末尾に以下のような三淵正繁による追記がある(ルビを一部排除し、歴史的仮名遣に直した。「わ」はママ))。

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

  右呪の文字に附添居(そひゐ)候歌の由、予が承り及候に付書添置ぬ。

   文政五年九月十七日      三淵正繁

同岩波版長谷川氏の注によれば、この三淵正繁については、『寛政三年(一七九一)二十歳で小性組番士。西丸新番頭・鎗奉行等歴任。天保十四年(一八四三)没。』とある。根岸より35歳年下になるが、事蹟から見ると、根岸が南町奉行となった頃(寛政101798)年)には年下の友人として親交があったものと推測される。この歌、「きし」は「岸」と「雉」、「まつ」は「松」と「待つ」、「みぎわ」は「水際」と「右羽」、「こと」は「異」と「琴」、「とこ」は「常」と「床」、「「わきみ」は「分き身」と「脇身」、「つま」は「妻」と「褄」などが掛けられたものと思われるが、元々和歌の嫌いな私には通釈すべき意欲も起こらぬ、どうも分かったような分からぬ和歌である。「きしひ」が先ず分からん。「岸庇」で、川沿いの岸の高みのことか。識者の御教授を乞うが、そもそも呪(まじな)いであるのだから、通釈出来なくていいんじゃないか、と勝手に決め込んだ。悪しからず。「文政五年」は西暦1823年で、根岸の死後8年後のことである。以下、とりあえず訳しておく。

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

右の呪文の文字に添え付けて御座った歌の由、私三淵正繁が生前の根岸殿とのお話の折りに承ったによって、書き添えておく。

   文政五年九月十七日      三淵正繁

■やぶちゃん現代語訳

 怪我をせぬ御札の事

 天明二年寅年の春、御小姓を勤めて御座った新見愛之助正登という御仁、登城の折りから、九段坂の上にて、騎して御座った馬が何物かに驚いたのであろうか、突然、暴れだして、数十丈はあろうかという堀の底へ馬と一緒に真っ逆様に転がり落ちて御座ったが、怪我一つせず、衣服を改めた上、直ぐに登城致いたという。

 そのことがあって暫くして、このことが談話に上り、ある人が新見殿に訊ねた。

「……貴殿、何ぞ、特別な神仏の守護なんどを受けておられるのかのう。数十丈の落差を転げ落ちたれば、どうあっても多少は怪我も受くるであろうほどに、全くの無傷というは。誠(まっこと)不思議ぞ!?……」

すると、新見殿は、

「……これといってちゃんとした御守なんどという物も御座らねど……いや、そういえば……実は、一年前に……不思議な一件、これあり……」

と言いながら、新見殿、懐紙を取り出して、筆を所望の上、

「……実は拙者の知行地の者から……送り寄越した守護札が御座って……」

と不思議な字を書き付けてその場の者どもに見せつつ、いわれを語ったとのこと。

――この新見愛之助殿知行地の者、ある日、仲間内と野に出て、雉子を狩った。

 一羽の雉子を見つけ、即座にその者が射たのであったが、確かに矢は当たっているはずであるのに、その雉子、一向に平気の平左、飛び立とうとさえせぬ。

 弓の上手と誇る手だれの者数人が中に御座って、争うように雉子の群れを狙って射ては、悉く美事射抜いて御座った――が――同じ時、同じ場所に何匹もの他の雉子が御座って、それらは、その者どもが次々と弦を弾いては繰り出す矢の餌食となってゆくというのに――この雉子一匹だけは――やはり平然としておる――一向に彼らの矢も当たらぬのである。

 誰もが驚きあきれ、遂には、その一匹を皆で追い回し、素手で捕まえたところが、羽と羽の間、その背に次のような呪文の字が書かれていたそうな――。

  ※1抬※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}

「……この文字を書き写した札を、その近所の百姓が拙者に送って寄越したれば、何となく、それ以来、懐中にしては、おりました……」

と物語って御座ったとの由。

 さても、如何なるいわれがある呪言で御座ろうか? 文字というも、如何にも作った嘘字らしく見えるし、意味は勿論、何と読むやらも皆目分からぬが、何でも当時は、貴賤を問わず、子供などにも懐中させた流行の呪(まじな)いで御座ったとのことである。

2010/02/20

耳囊 卷之二 賤妓家福を得し事

 

「耳嚢 巻之二」に「賤妓家福を得し事」を収載した。

 

 

 賤妓家福を得し事

 

 是は近此の事也。下谷廣小路邊に茶屋を出し情を商ふ彼けころ家(や)へ、加賀の足輕體の男來てけころを買ひあげて遊び歸りけるが、鼻紙さしを落し置ぬ。追かけて見しに最早影見へねば、又こそ來り給はん迚中を改め見れば何事もなく、谷中感應寺の富札壹枚ありければ親方へ預け置けるが、其後右足輕來らず、尋べきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置んも如何也とて、富定日(ぢやうび)には感應寺へ至り見んとて、其日彼富札を持て谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に當りて金子百兩程受取ぬ。去(さる)にても右足輕を尋みんと、加賀の屋敷分家の出雲守備後守屋敷抔をもよりもより聞き侍れど、元より雲をつかむの事なれば知るべきやうもなし。誠に感應寺の佛の加護ならんと、右門前へ彼金子を元手として酒鄽(さかみせ)を出し、いまだ妻やなかりけん、右のけころを妻として今は相應に暮しけると、感應寺の院代を勤ぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:賤しき身分ながら正直な娼婦のハッピー・エンド第三弾。類話ながら、差異を際立たせて、前項が「餘程むかしの事」に対し、これは「近此の事」。

 

・「下谷廣小路」上野の山の南にある、現在の上野広小路。広小路は火除け地で、上野広小路は明暦5(1657)年の明暦の大火後に設置された。但し、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸期には下谷広小路と呼ばれていたのである。

 

・「けころ」は「蹴転」で、「けころばし」「蹴倒し」とも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

 

・「家(や)」は底本のルビ。

 

・「加賀」加賀藩102万5千石を有した御三家に準ずる大藩。加賀・能登・越中の三国の大半を領地としていた。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第10代藩主前田治脩(はるなが 延享21745)年~文化7(1810)年)の代である。

 

・「谷中感應寺」現在の台東区谷中にある天台宗護国山尊重院天王寺。以下、ウィキの「天王寺」より引用しながら、補足する。『日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山』、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた』。不受不施派とは日蓮宗の中の一種のファンダメンタリズムの一派で、不受は法華経の信者以外からの施しを受ぬこと、不施は法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないという戒律を意味する。安土桃山時代頃から弾圧を受けていたが、江戸幕府も禁圧を加え、『日蓮宗第15世日遼の時、1698年(元禄11年)に強制的に改宗となり、14世日饒、15世日遼が共に八丈島に遠島』にされ、廃寺の危機を迎えたが、天台座主で日光山や寛永寺頭首・東叡山輪王寺門跡などを兼任して将軍綱吉の帰依厚かった『公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗第1世として迎え』て、とりあえず事なきを得た。その後も、『1833年(天保4年)、法華経寺の子院知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であったお美代の方などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗に改宗する運動が起きる。しかし、輪王寺宮舜仁法親王の働きにより日蓮宗帰宗は中止となり「長耀山感応寺」から』現在の『「護国山天王寺」へ改号』するという経緯を辿った寺である。更にウィキは本話に関わる富籤についても記している。この感応寺では元禄131700)年『から徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。1728年(享保13年)に幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年(天保13年)に禁令が出されるまで続けられた』とのことである。

 

・「富札」ギャンブルは私の最も苦手とする分野であるので、以下、ウィキの「富籤」から、引用させて頂く(一部改行を省略した)。富籤(とみくじ)は、富突きとも言い、『普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある』。主に寺社普請が中心で、江戸期の典型的なやり方は『富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みであ』った。『享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた』。抽選や配当法を詳しく見ると、『始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する』。『当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。これらの21回数を節(ふし)という。節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。突留の頭合番に渡すという方法もあった。当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して450両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである』とある。これによって、この主人公たちは百両を丸々もらったのではないことが分かる。以下、販売・購入方法が続く。『興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。日を定めて抽せんされる。仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って1314匁で売り出す。売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。4つに分けたものを4人割といった』。次に歴史(記号の一部を変更した)。『起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(「正宝事録」八には、『元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判』とある。)から当時流行していたらしい』(ここは執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『流行の頂点は文化、文政ころであった』とするが、ここで更に遡り、『最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺 の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている』(ここでも執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった』とする。以下は「幕府の対応」という項。『この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。1692年5月に出された江戸の町触には、富籤を禁止しする旨の条文があったという。しかし1730年(享保15年)、幕府公認の下、仁和寺門跡の宅館修復の名目による富突を護国寺で3年間行った以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど盛んであったという』。『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは、1842年(天保13年)3月8日に水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある(最後に、このウィキの執筆者に感謝して終わりとする)。

 

・「右富札は捨置んも如何也とて……」以下は主語が誰であるか、判然としない。読みようによってはこの「親方」が富籤を得るまでの行動の主体であるようにも読めるが、それではこの「賤妓家福を得し事」という標題が生きてこないし、第一、面白くない。私は、けころを主人公とし、想像した仮想シーンも織り込んで訳してみた。そもそも、曖昧茶屋の主人=けころを支配していた若い親方、という等式も私の勝手な判断である。

 

・「富定日」「とみぢやうじつ」。富籤の抽選日。

 

・「出雲守」加賀藩支藩富山藩のこと。越中の中央部(現在の富山県神通川流域)を所領とした藩で、石高10万石。藩主は前田氏。家格は従四位下。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第7代藩主前田出雲守利久(宝暦121762)年~天明7(1787)年)であろう。彼の藩主就任は安永6(1777)年8月である。

 

・「備後守」加賀藩支藩大聖寺藩のこと。加賀国江沼郡(現在の石川県南西端)にあり、江沼郡及び能美郡の一部を領した。石高7万石(後に10万石)。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)で、備後守だったのは第6代藩主前田利精(としあき 宝暦8(1758)年~寛政31791)年)であるが、この人物、ウィキの「前田利精」によれば、安永7(1778)年に藩主となるものの、安永101781)年に前藩主の父前田利通が死去すると、頻りに遊郭に通って『女狂いとなり、無頼と交じって好き放題をやらかしたりするなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった』とある(前田治脩(はるなが)は加賀藩第10代藩主。前の「加賀」の注を参照のこと)。問題はここからで、『このため天明2年(1782年)8月21日、前田治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である前田利物に継がせた』とある点である。これによって、本話は最近とは言うものの、前田出雲守利久が藩主に就任した安永6(1777)年8月から前田備後守利精が藩主であった天明2年(1782年)8月の5年間の限定された時期に同定出来る可能性がきわめて高いことが分かるのである。

 

・「酒鄽」「鄽」は店の意。男の前の商売柄から考えて酒屋ではなく、相応な居酒屋であろう。

 

・「院代」には(1)院家(いんげ:皇族や貴族が出家して居住した特定寺院である門跡寺院のこと。)の寺格を持つ寺の住持の職務を代行する者。(2)寺の住職の代理者。(3)普化宗(ふけしゅう)の寺の住職の三つの意味があるが、ここは(2)。

 

・「谷中大念寺」岩波版長谷川氏注には『鶴林山泰然寺か』とある。しかし現在、このような山号及び寺名の江戸(東京)の寺院は検索にかかってこず、「江戸名所図会」の索引にもない。廃寺となったものか。現存するもので「大」がつく幾つかの寺があるが、高光山大円寺は感応寺の旧宗旨の日蓮宗で発音も近い。他には同じ日蓮宗の円妙山大行寺、長昌山大雄寺というのもある。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 卑賤の娼婦が思わぬ家福を得た事

 

 これは最近の出来事である。

 

 下谷広小路辺りに、あの辺りを徘徊する例の下賤の売女(ばいた)であるけころが、専ら二階を御用達としている、通称「けころ茶屋」と申す一群の曖昧宿が御座った。

 

 ある日、加賀藩の足軽らしい男が、通りすがりのけころを買って上がると、一時、遊んで帰って行ったのだが、その折り、財布を落としていったので、直ぐにそのけころが茶屋から出て追い駆けた。しかし、沿道からは最早、男の姿はかき消すようになくなっていた。

 

 女は、広小路の真ん中で、財布をぽんと掌で打ち上げて、また摑むと、

 

「……まあ……これで、また……来て下さる、わ、ね……」

 

と見えぬ足軽の影に向かって、色っぽく声かけたのだった――。

 

 茶屋へ戻って中を改めてみると、谷中感応寺の富札が一枚入っているだけ――。

 

 とりあえず、その財布は茶屋主人――実は、そのけころの、若い親方――に預け置いた。

 

 ところがその後、この足軽、一向にやってこない。

 

 尋ねようにも、名も分からねば、探しようもない。

 

 親方は、この富札、捨ておいてしまうのも如何にも勿体なかろう、ということで、かのけころ女に、

 

「お富の日には感応寺さんへ行って見といで。お前さんには、よう当る有難いお『的』があるで……『一発』、当たらんとも、限らんぜ……。」

 

と軽口を言って渡した。

 

 女は富籤当日、その富札を袂に入れて、序でにいいカモの一人も見つかればいいわ、ぐらいな気持ちで感応寺を訪れた。

 

――ドン!――

 

と一発、太鼓が打ち鳴らされる――一等の符丁が読み上げられる――。

 

「……!!!……」

 

女は――声が出ぬ――。開いた口が塞がらぬばかりか、外れんばかり――。

 

「……ヒ、ヒ、ヒエ~ッ!!!……」

 

握った札が震え出す――。富籤の口上が高らかに叫ぶ!――

 

「――大当たり~ぃ!――金、百両!――」

 

 大枚を懐に巻き入れ、腰も抜けんばかりになって、女は下谷広小路茶屋へ戻った。

 

 親方も驚くまいことか、目にしたこともない大金に、思わず、小心者故の正直な性質(たち)故に、

 

「……それにしてもさ……ともかくも、何だよ、そら……この富籤は儂らのもんでは、ないんだから……その何とか、この足軽を捜して出してだな……ま、その、この金を渡そう、な……少しは礼も貰える……それで儂らには十分だろ?……」

 

と、何やらん、もじもじとして独りごちた。そんな若い親方を見ながら、このけころの女は内心、

 

――可愛い!――

 

と思った……。

 

 翌日より、この親方、加賀藩藩邸は勿論のこと、加賀藩御分家にて御座る出雲守殿、備後守殿御屋敷その他関わりのありそうなところを、総て残る隈なく尋ね歩いたのであったが、もとより、名も分からぬ相手なれば、雲を摑むような話、結局、その足軽は見つからず仕舞いであった――。

 

 その夜のこと、親方の若い男は、籤を拾うたけころと差し向かいで、

 

「……これはまあ、誠に感応寺の仏の御加護であろうて……」

 

と、二人して大枚の金子に手を添えて、感応寺さんに感謝致いたという――。

 

 

 

 暫くして、感応寺門前にそれを元手に相応にしっかりした居酒屋を開業致し――いまだ独り身だったその男、例のけころを妻に迎えて――今も豊かに暮らしているということで御座る――。

 

 とは、感応寺院代を勤めて御座る谷中大念寺という寺の僧が語ったことにて御座る。

 

2010/02/19

耳嚢 巻之二 賤妓發明加護ある事

「耳嚢 巻之二」に「賤妓發明加護ある事」を収載した。

 賤妓發明加護ある事

 濱町河岸箱崎近邊の河岸へ、船まんぢうとて船にて賣女(ばいぢよ)する者あり。至て下賤の娼婦也。餘程むかしの事と也。下町邊の町家の若者、大晦日に主人の申付に任せ、賣掛とり集めて右河岸邊を通りしに、舟饅頭舟へ醉狂の儘立寄り、聊雲雨の交りして立別れけるに、折角取集し賣掛を入し財布を、いづちへ忘れけん懷中になければ、始て大きに驚き、爰かしことその日走り廻りし所々を尋けれど行方知れねば、川へ身を投て死んや、又首をしめて死んと、爰かしこ明る元日にも尋廻り、三日も過て四日に至り、若彼舟饅頭の舟に落しける事もやと、河岸の邊に立て、あれ是と船まんぢうの船を尋けるに、晦日に乘りし舟に彼女子も見へける故、心悦てさらぬ躰(てい)にてかの舟に移りければ、彼女聲をひそめ、御身はさりし晦日に來り給へる人なりや、忘れ給ふ品有べしと尋。いかにもかくかくの品を忘れたりとて、我身の命もけふ翌(あす)と限りの由歎きかたりければ、左あらんと思ひて其後夜々此所へ出て待しとて、右財布を渡しけるにぞ、嬉しさいわん方なく、金子を出しければ、いさゝか金子を受取て跡は返し、何の禮に及んと也。是によりて女子の名、親方の町所など聞て立歸りけるに、親方にても兩三日も立不歸事なれば、懸けを取集缺落(かけおち)致しける迚、請人(うけにん)など呼て吟味いたしける折から歸り來る故大きに驚き、いかゞして日數立歸らずや、數年實躰に勤めし故よもやとは思へども、全缺落したると思ひしに、色もあしきはいかゞせしと受人ともども尋ねければ、今更何か包ん、かく/\の譯にて既に死を決し侍れども、不思議の事にて命全ふして立歸りぬとて、財布帳面を渡しけるに、聊帳面勘定も違はざれば、親方も受人も大に驚き、いやしき勤の身にかゝる正直の心ありけるこそ不思議なれ、汝も最早家持にいたし可然事なればとて、則相應に別家して右船夜發(ふなやほつ)を受出し妻にいたさせけるに、夫婦まめやかに暮して今は相應の町人となりしが、彼妻後に語りけるは、右金子我等正直計(ばかり)にて返し候にはなし。舟まんぢうの親方抔はいかにも貪欲無道の者にて、船饅頭など金子の少しも持しと見ば、その儘打殺しなどいたすべけれとおもひ、彼是を考へぬれば、御身は此金子ゆへ命にも及ばん、さあれは我も右金子故かへつて一命をはたしけんと思ひし故、夜々相待て親方へも深く隱しけると語りし。才發なる女子也と、濱町邊萬年何某の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:あっちはすっきり、ふところうっかりの若者と、賤しき身分ながら利発の娼婦のハッピー・エンド類話第二弾。

・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。

・「箱崎」現在の中央区日本橋箱崎町。古くは隅田川の永代橋の上手に西側にあった人工島であったが、南方部分が埋め立てられたとする。大部分が武家屋敷で占められ、延享3(1746)年には田安家が拝領、庭園を楼閣を備えた大邸宅を拵えている。

・「船まんぢう」隅田川に小舟を浮かべ、その中で春を鬻いだ下級の私娼。「舟君」ふなぎみ)・「河童」等とも呼んだ。「達磨船」というのもあるが(達磨は娼婦のこと)、これはやや新しい呼称か。現代語訳では、私の数少ない大好きな日本映画、宮本輝原作・小栗康平の名画「泥の河」に敬意を表して哀しく美しい響きを持った「廓舟(くるわぶね)」を用いた。言うまでもないが、「まんぢう」は饅頭で、女性性器の隠語である。

・「翌(あす)」は底本のルビ。

・「請人」保証人。

・「受人」請人に同じ。

・「船夜發」船饅頭のこと。「夜發」は「やはつ」「やほち」等とも読み、夜、路傍で客を引いた下級の私娼の通称。「夜鷹」「辻君」「総嫁(そうか)」なども同じ。

■やぶちゃん現代語訳

 卑賤ながら利発な娼婦に神仏の加護のある事

 浜松河岸は箱崎近辺の河岸に出没する、「舟饅頭」という、廓舟(くるわぶね)で身を売る女たちがおった――外娼の中でも至って下賤の売女(ばいた)である。

 余程、昔のことで御座るが――下町辺の町家に奉公する若者、大晦日に主人の言いつけで売掛の金を方々から取り立て集め、その帰り、この河岸の辺りを通りかかった。溜まっておったは、主人の売掛ばかりにてはこれなく、少しばっかり彼も溜まって御座ったれば、一人のちょいと可愛い舟饅頭に酔狂を起こし――ひょいと乗り、聊かゆらりゆらゆら、二人が揺れると――一遊びして、元気百倍、金を払って舟を上った――。

 暫くして、ふと気がついてみると、一日かけて取り集めた大枚の売掛を入れた財布が――何処へ忘れたのか――懷に、ない――。

『ない! ない! 財布が! ない!……』

 今更ながら、大いに驚き、ここかしこ、その日借金取りに走り回って行った先々を、あちこちと探し回ったれど……ない……ないものは、ない……。

 ……最早、川へ身を投げて死ぬるか……はたまた、首を括って死のう……なんどと、一晩中思いつめつつ、そのまま翌元日にも探し歩った……が……ない……二日も過ぎ……三日も過ぎ……四日になっても、ものも食わずに、右往左往……が……ない……ないものは、ない……と……その時、若者は一つ思い出だいた――。

「……もしかすると……あの舟饅頭んとこで、落としたのかも知れん!……」

と、箱崎にとって返し、近辺の河岸に立っては、あれこれと舟饅頭の舟を探した。

 すると、すぐに大晦日に乗った廓舟が見つかった。

 そればかりか、あの晩に抱いた当の女が乗って御座った。

 心は浮き立ち、藁にもすがる思い……なれど、落とした財布の中身は大枚なればこそ……その中身を知っておれば、この売女、如何なる手練手管で包み隠さんとも限らず……もし、知らぬとなれば、何食わぬ顔して鼻紙袋を返してくんなとさりげなく言うが得策……いいや、あの持ち重りで大金と分からぬ者は馬鹿じゃて……なんどと考え考え、とりあえずは何気ない素振りで舟に、とん、と乗り移った。

 口で覗いていた女が、にっこりと笑うと奈落へ手招きをする。

 中へ入るなり、女は若者の耳に口を寄せると、甘い言葉をかけるように、こう囁いた。

「……大晦日の日にいらっしったお客さんだね。……お忘れになった物が、あるんでしょ……。」

若者は、最早、下手な芝居を打っている暇はない。吃りながら、

「……い、いや!……そ、その通り!……ほ、ほれ、こうした、こんな!……財布じゃあ!……」

と言うや、この数日の思いがどっと襲って、涙洟で顔をくしゃくしゃにしながら、

「……財布が、見つからねば……我が身の命も今日明日限りと……」

と、思い嘆きの限りを語った。

「よかったね! あんたの忘れもんだと思ってさ、あれからずっと、毎晩、あの晩と同(おんな)じ処(とこ)に舟をもやって、待ってて上げたんよ。」

と満面の笑みを浮かべて、懐から大事に出した財布を男に渡した。

 財布は暖かく、ほんのりと女の匂いがした。

 若者は勿論、嬉しさ言わん方なく、財布の中の己れの金を底まで叩(はた)いて、女に謝礼として渡した。

 すると女は、その中から、あの晩、やらせてもらったのに支払ったのと同じだけの金子を数えると、残りは――ざらぁっと――すべて若者の手に返し、

「何にもお礼はいらないわ。」

と言って――早う、お帰り――と若者を促した。

 そこで若者は、浮き足立つ気持ちを抑えながら、とりあえず女の名と彼女の親方の住所などを訊いて、飛ぶように主家に帰ったのであった――。

 店では親方が、彼が数日もの間、一向立ち帰らぬということなれば、最早、取り集めた売掛を懐に、出奔致いたに違い御座らぬ、と若者の請人をも呼び出し、お上へ訴え出る手続きなんどを相談致いて御座った――そこに、げっそりと痩せ細った若者が走りこんで来たから――親方達、驚くまいことか……

「一体、手前(てめえ)は何処をほっつき歩いていたんでェ! この数年、実直に勤め上げておったから、まさかとは思ったんだが――いや、こりゃもう、売掛ぽっぽに入れたまんまトンヅラしやがったな! とばかり思っていたぜ!……おい! 何やら、顔色も悪いぞ!?……一体、何があった?」

と請人共々、若者に詰め寄った。若者は、

「今更、何を包み隠し致しましょう……」

と一部始終を素直に話し、

「……という次第……既に最早、死を覚悟致いておりましたが……かく、不思議なる巡り合わせによりまして、幸いにして命全うして、こちらへ立ち帰ること、出来申した。」

と、財布と帳面を親方に渡す。

 その売掛金とその帳簿を突き合わせてみたが、勘定に聊かの違いもない。

 さて、落ち着いてみて、親方も請人も、この女に今更ながら、大いに驚き、

「……卑賤の勤めの身にありながら、かく正直なる心を持ったること、不思議なことじゃ……そうじゃ! お前もそろそろ、一軒お店(たな)持たせてもよいころじゃのぅ!……あん?……」

と言うや、親方はすぐに、この若者にお店の暖簾分けを致して独立させると同時に、相応の金を払って、この舟まんじゅうの娼婦を請け出し、若者と娶(めあ)わせた。

 後、二人はまめやかに暮らし、今はそれなりの町人夫婦として生活して御座る。

 かの妻は後日、夫に、こう語ったという。

「……あんたに、あの時、金子を返したんは……私が正直だったからばかりでは、実は、ないの……舟饅頭の親方なんてえのはね……みんな、貪欲無道の極悪人なんよ……支配の舟饅頭が少しばっかり身分不相応な金子を持っているなんてこと、知ればさ……あの親方なんか、もう絶対、有無を言わさず、あたいを打ち殺してこの大枚を手に入れようとするんだろうなぁ、って思った……そんなこと、いろいろ、考えてたら……気がついたの……あの町人さんも、もしや、この金子のために、己が身をはかなんで、命を落とすやも知れぬ……そうだとしたら、私も、この金子のために、親方か誰ぞに命を奪われるやも知れぬ……そう思ったの……だからね……毎晩あなたを待って……親方へも、この金子のことは深く隠していたんよ……。」

「……と、まあ、どうです?……誠(まっこと)利発な女で御座いましょう……。」

と浜町辺りに住む万年何某という者が私に語った話で御座る。

2010/02/18

耳嚢 巻之二 正直に加護ある事 附豪家其氣性の事

「耳嚢 巻之二」に「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」を収載した。

寝たりないのに眠れない――地獄の二日間の幕開けである――糞食らえ――粛々とストックで作成しておいた「耳嚢」を公開するのみ――

 正直に加護ある事 附豪家其氣性の事

 淺草藏前札さしの内とやらん、一説には伊勢屋四郎左衞門共いひしが其名は慥(たしか)ならず。下谷邊へまかりし折から、いづれの町にや茶屋の女子み目よきありて、右のおのこふと懸想して二階へあがり、高龍雲雨の交りをなして歸る時【此茶屋の女を俗にけころといひて賣情の婦なり。】鼻紙袋を落して歸りし故、右女子鼻紙入を持て門口迄追缺(かけ)しが、最早行方を失ひし故、其内を改めみれば、印形の手形などありて捨置がたきと思ひけれ共、深く隱し置て思ひなやみ居たりしに、折節此邊へ來る車力有し故、藏前邊に伊勢屋といへる札差の人ありやとよそながら尋ければ、車力答て伊勢屋といへるは藏前に何軒もあるを、何しに尋給ふといへる故、此程藏前伊勢屋なる人來りて忘れ置し品有とひそかに語りければ、右車力大きに驚き、我等も其事に付賴れてけふも爰に來りぬ。其品を見せ給へといひしかば、いや/\知り給はぬ事ならば見せまじ、彌賴まれ給ふ人は何と言たる人にて、年頃は幾つ計也と念頃に聞て、此文を屆け給はれ迚則文を渡しける故、右車力は親方の事なれば、早速藏宿へ至りてかく/\と語りければ、右帋入(かみいれ)の内には御切米手形裏判濟も有て、無據奉行所へも可訴出、もとよりいづちへ落したるやもしれざれば、所々へ手分して何となく手掛りを搜し、神佛へ祈誓し、誠に家内は上下なげき沈居たる折からゆへ大に悦び、親子同道も先方いかゞと、彼車力に倅を召連させ、親仁は跡に下りて右茶屋へ至り二階へ上り、彼女に逢ふてしかじかの禮を申述ければ、日々情を商ふ賤敷勤の身、數多き客ながら、其日と存る頃御越の人に相違はなけれども、右鼻紙袋の樣子并に内の品逸々(いちいち)申し給へ迚尋るに、相違なければ則右鼻紙入を渡しける故、數々禮を述べて子息と親仁入かわり、何卒親方に逢度由申ければ、彼女答て、親方は心よからぬ者なれば未咄も致さず、いかなる巧(たくみ)を可致もしれねば、逢給ふもよしなからんと答へければ、聊左樣の事にあらずといふて、親方を無理に呼出し、此女子我等方へ申受たし、如何と申ければ、隨分遣し可申旨故、かゝる勤の身なれ ば女衒(ぜげん)へも懸合可申といひしに、いや/\此女は女衒にかゝり合なし、在方より拾四兩程の給金にて年季を限り抱たる者なれば、右金子さへ給はれば可渡由故、以來親元其外無構の證文を認、金子三百兩を渡しければ親方も大きに驚き、かゝる大金には不及由を述けれども、右女子の儀に付、身の上にも抱り候事何事なく納(をさま)りし儀なればとて三百兩を渡し、已來手切の趣重々證文取極め、則娘にいたしけると也。かゝるよからぬ親方故、金子を惜み候はゞ跡々迄も何か立入いかゞあるべけれど、其所を思ひて大金を以て手をきりし、流石豪家の氣性と人の語りける也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。ただ、ここから、娼婦を主人公とした極めて類似したハッピー・エンドが三連発となる。

・「札さし」旗本及び御家人の俸禄の内、蔵米(現品支給された米)の受領から換金までの手続一切を請負うことを業務とした、浅草蔵前在住の商人に対する特別な呼称。但し、実際には本業よりも、その米を抵当に、旗本・御家人を対象とした高利貸が主で、それによって巨万の富を築いた。米の受取人の名を記した札を蔵役所の蒿苞(わらずと)に差したことからこう呼ばれる。

・「一説に伊勢屋四郎左衞門」浅草蔵前の有力な札差の一人。名字は青地氏。初代が江戸で始めた米問屋と金貸業を継いだ3代目が札差業に進出、享保91724)年に札差株仲間の起立人となっている。4代目以降も堅実な経営を続け、本話が根岸によって綴られた直後、寛政元(1789)年頃には札差業者の最有力者の地位を得ていた(屋号は世襲)。本話柄の少し後の文化年間(180418)に最盛を誇ったという。天保9(1838)年の江戸城西丸火災の際には幕府上納金10万両余の世話方を勤め、その功により町方御用達に列せられ、青地姓を許された。参照した「朝日日本歴史人物事典」の「伊勢屋四郎左衛門〈代〉」には、エピソードとして、零落していた昔馴染みの吉原の遊女を引き取って妾とし、通人たちの評判となった、とあるので、その変形譚かとも思われる。何れにせよ、この書き出しからして、執筆当時にあった話柄という雰囲気ではない。但し、不明と言いつつ、伊勢屋を本文中で出してしまうというのは、逆に今の伊勢屋の話であることを、確信犯的にばらしているようにも読めないわけではない。

・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。

・「高龍雲雨の交り」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語であるが、また「雲雨」には、龍が雲や雨に乗じて昇天するという伝承から(「呉志」周瑜伝を故事とする)大事業・大変革を起こす好機の意を持つ。されば、この主人公の女の吉兆をも暗示する語であるかもしれぬ。また、「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳は『雲雨の交わりを成して帰って行った』としたが、実際には、この場面は実際のこの後の展開を考えるなら、あっさり『一発やってすっきりして帰って行った。』ぐらいな訳の方が、本当はいいように思われる。

・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

・「鼻紙袋」財布。

・「印形の手形」印を押した手形。

・「車力」荷馬車を用いた運送業者。

・「藏宿」底本では右に『尊經閣本「藏前」』とある。それで採る。

・「御切米手形裏判濟」ウィキの「蔵米」によれば、中・下級の旗本・御家人の『俸禄は年3回に分けて支給されるのが常で、2月と5月に各1/410月に1/2が支給された。それぞれ「春借米」「夏借米」「冬切米」と呼んだ(「借米」は「かしまい」と読む)。ただし、俸禄は全量米だけで支給されるわけではなく、米の一部はその時季の米価に応じて金銭で支払われるのが通例であった。浅草の札差がそれらの米を百俵に付き金1分の手数料で御米蔵から受取り、運搬・売却を金2分の手数料で請け負った』とあり、岩波版長谷川氏の注によれば、ここに言う「手形裏判濟」とはその札差が役所から受取る際の『給付の米受領に必要な証文』のことで、『頭・支配に属する者は、本人が表判を押し、頭・支配が裏判をする必要があった』とあるので、この紛失は依頼された本人以外に、その上司にも迷惑がかかる可能性があるということであろう。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

・「女衒」女性を買い付けて遊郭などへ売る仲介業者。人身売買に際して彼等が保証人になっている場合があった。

・「抱り」底本ではこの右に『(拘)』と注する。誤字であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 正直者に加護のある事 附豪商の豪気の事

 浅草蔵前の、ある札差にまつわる話である――一説には伊勢屋四郎左衛門ともいわれるが定かではない。しかし、とりあえず「伊勢屋」として話を進めよう――。

 伊勢屋の若旦那が所用で下谷へ出かけた。その帰り、どの辺りの町やらん、通りかかった茶屋で、小股の切れ上がったちょいといい女が御座って、若旦那、相談一決、ととん、と二階へ上がって、雲雨の交わりを成して帰って行った[根岸注:この茶屋の女は俗に「けころ」と呼ばれる娼婦である。]。

 ところがこの時、若旦那、財布を忘れて行ってしまった。

 女がそれと気づいて、財布を手に門口まで追いかけたのであったが、もう既に男の姿はなかった。

 そこで女は、財布の中を改めてみた。と、見たこともない御大層な印形(いんぎやう)を黒々と押した手形なんどが入っており、これはいい加減にしておれるものにてはない、と思ったけれども、いろいろと考えるところもあって、こっそりと隠し置いて悩んでおった。

 それから二日も経たぬ頃おい、時折、この辺りに姿を見せる荷車引きの男が、この女を買った。

 一つるみ終えると、女は、隣りに横たわっている男に、

「……ねぇ……蔵前辺りに、さ……伊勢屋っていう札差のお方はある?……」

と、それとなく訊ねた。

 男は、ちょいと女の方に顔を向けると、

「……あん?……いや、伊勢屋っう札差は蔵前には何軒もあらあな……ただ、それがどうしたい?……」

と、妙に怪訝そうに反問した。すると、

「……あのさ……実はね、ついこないだ……蔵前の伊勢屋っていう客が来てね……忘れ物、したんさ……」

とこっそりと女が男の耳元で呟き終わるのと同時に、男は素っ頓狂な声を挙げた。

「――あんだって! 実はよ! 俺もよ! そ、そのことで伊勢屋さんに頼まれて、この辺に来たんだって!――さっ、さ! そ、そいつを見せておくんな!」

と早口で捲くし立てる。

 しかし、女は、手を左右に振って、

「だめ、だめ!……だって、あんたは……その財布、どんなもんか……知ってる?――知らないでしょ! だから見せるわけには、い・か・な・い、の!……まずさ、頼んだ人は何というお人? 年の頃は幾つぐらい?……」

と、女の謂いは、これまた、なかなか用心深い。

 車引きも悪い男にては、これなく、有り体に知れることを語り、女も馴染みなれば、男の正直さも知っておった。

 女は部屋の隅へ行って何やらん、ごそごそと書いておったが、しばらくして向き直ると、

「……とりあえず、この文、先方へお届けになって。」

と手紙を渡した――。

 この車引き――といっても、れっきとした親方で、今度のことも御用達の伊勢屋大旦那から直に呼ばれて頼まれた内密の探索事であった――早速に蔵前へとって返し、女の手紙を伊勢屋の大旦那に、かくかくしかじかと――まあ、女と一発やった下りはごまかして御座ったが――今日のその一件を語った。

 ……そもそも、この若旦那が忘れた財布の内には、伊勢屋御用の旗本・御家人衆の裏判も済んだ切米手形数冊も入って御座って、もし、このまま出でずとならば、最早、奉行所へもお届け申し上げるほかなし――されば、栄華を誇るこの伊勢屋の、身代に関わる重罰を受けること、必定――さりとも、もとより何処(いずこ)へ落としたのやら、皆目、検討もつかぬ体たらく――ありとあらゆる所へ、ありとあらゆる手がかりを求めて、探しに探して四方八方――言うに及ばぬかしこみ南無阿弥法蓮華経の神仏祈誓――誠(まっこと)、家内は上から下まで嘆きのどん底、釜底地獄の阿鼻叫喚――最早、これ以上の沈みようはないという程の気鬱憂鬱沈鬱鬱鬱――

――が!――この手紙に!

――いや、もう、鯛は上へ、鮃は下への、大喜び!

 親子同道にて曖昧茶屋に出向いては、これまた、先方で不審に思うであろう、とりあえず、あの車引きに倅を同道させ、大旦那はその後から遅れて出、かの茶屋に向かった。

 まずは倅が二階へ上がり、女と二人になってから、面と向かうと、この度のことにつき、深く礼を述べた。すると女は、

「……私は日々春をひさいでおりまする卑しき勤めの身……数多(あまた)のお客さまの相手を致いて御座います……されど確かに覚えて御座いますよ……あの日あの刻限に、いらした方に相違御座いません……でも、万が一の私の記憶違いということも御座いましょう……念のため、御財布の色や形ならびにその中の品を一つ一つ、仰ってみて下さいませ。」

と、訊いてきた。

 若旦那が、一つ一つ、それらを暗誦した。一つとして違(たが)うものはなかった。

 女は財布を渡す。

 と――若旦那が重ねて礼を述べているそこに、大旦那が上がって参り、前後、息子と席を入れ代わる。と大旦那は開口一番、

「――お女中、何卒、この屋の親方にお逢い致しとう御座る――。」

と言う。女は少し声を潜め、

「……親方は……心悪しき者なれば……この度のこと、一切何の話も致いて御座いません。……だって……こんなことを知ったら……どんな悪だくみをするか知れたもんじゃないんです……だから……会っても、決していいことは御座いませんことよ……」

と答えたのだが、大旦那は右の掌を掲げつつ、にっこりと笑うと、

「いえいえ。――そのようなことにては御座らず。また――決してかくの如くは、成り申さぬ。」

と意味深なことを言うて、落ち着き払って御座った。

 結局、大旦那のたっての願いということで、無理に親方を呼び出だして二階に上げる。

 大旦那曰く、

「――さても、この女子(おなご)、我らが方に申し受けたく存ずるが、如何(いかが)?――」

親方は、大旦那の形(なり)から、相当な身請けの金は搾れそうと、あらかじめせり上げを胸算用しながらも、にこやかに、

「いや、そりゃもう、御大尽様なればこそ、結構で御座んすよ。」

と言う。口元には、早、涎が滴りかかっておる。

 大旦那は即座に、

「――されば、このような境遇なればこそ、世話致いた女衒とも、直接直ぐにかけ合いましょうかの――。」

と畳み掛けたところ、親方は、

「いやいや、この女は女衒を通して手に入れた者(もん)じゃ御座んせんでの。田舎の親元の在から十四両ほどの給金で年季を限って抱えた者(もん)で。まあ、それ分だけ払(は)ろう貰(もろ)うたなら……へへ、お渡し出来るってえ、もんで……」

――ツツッ――

と親方は涎をすする。

 すると大旦那、矢立と紙を出だすと、

――以来、親元其の外一切お構い無し――

という証文をその場にて認(したた)めたかと思うと、懐から金子(きんす)三百両をむんずと摑み出すと目の前に置く――。

 親方、驚くまいことか、

「……ヒ、ヒェッ!……こ、こんな大金には……お、及ばねえで、ご、御座んすが……」

と震える声で及び腰となる。

 大旦那曰く、

「いえいえ、この女子(おなご)の身の上に関わることにて御座れば、向後、何事もなきように――納まるよう、仕儀致すことなればこそ――まあ、これほどはお納め下されい。」

と、その三百両を親方に渡し、以後、一切手切れの趣きを認(したた)めた先の証文に双方署名の上、即座にこの場で、この女子(おなご)を自身の娘と致いたので御座った。

「――かかるよからぬ親方であったからには……金子を惜しんだならば、後々までも何かと付き纏うて不都合が御座ろうほどに……と、その辺り、深慮の上、大金を以って綺麗さっぱり、はい、さようならと、手切れ致いた……いや、流石、豪商の豪気――」

と、世間では専らの噂であったそうな。

ハーレムと巨大ザリガニと「雨月物語」

ネタリナイノニネムレナイ――ダカラヘンナ夢ヲミタ――

少年少女を侍らせて、自身は何も語らぬ教祖的芸術家(であるが何を作っているのかも定かではない)の元を友人のHに連れられて訪れる。

少年や少女は人懐こく、僕は浦島太郎のようにそこでいろいろなことを教えて(というより、ある言葉を示して黙示する)日がな一日優雅に暮らす。

家の裏手は急峻な崖となり、北から南へ蛇行した丁度その角が淵となっている。ふと、そこを覗くと、体長5メートルを超える巨大なアメリカザリガニがうようよ泳いでいる。振り返るといつも居る教祖がいない(このシチュエーションは教祖は淵の化け物であるという暗示かも知れない)。

僕の横にはアメリカザリガニの大嫌いなSが居る(彼が少年少女のハーレム染みたところに居るのは自然である)ので、僕は少年にかつてサルバドール・ダリの電話のダイアル機の上にロブスターが載った彫刻写真をガラス張りのテーブルの下に仕組んでSを恐怖させたこと(これは20数年前の事実である)を語って面白がる。しかし、Sは本物の巨大ザリガニに顔面蒼白である。

気がつくと、何日も絶っている。明日は山岳部のOBと山ではないか!(これは実際に3月に予定されている)

少年少女に別れを告げる。僕は先に教祖がくれた上田秋成の「雨月物語」の袖珍本を手にして出る(これは数年前、忘れられた磯子の古本屋で手に入れた五十年以上も前のものである)。しかしこの本、気がつくと前半分だけで後がない。

僕はあせりながら駅までの道を急ぐ。公衆トイレに入るが込んでいる上に、出ようとすると自動扉が開かない。僕はガラスを突き破って進む。

歩きながら、

「もう、家に帰っていては間に合わないな――よし、この着の身着のまま、革靴で山に登るしかない!」

と思う……トコロデ目ガ醒メタ〔覚醒時刻 今朝 4:44〕

2010/02/17

耳嚢 巻之二 藝道上手心取の事

「耳嚢 巻之二」に「藝道上手心取の事」を収載した。

 藝道上手心取の事

 土佐節の上手と世に申傳へたる何某とやらん有しが、其門弟の由にて御小人目付勤たるおのこ、所々屋敷方へ出入て土佐淨璃理をかたりけるが、實は門弟には無之處、或日出入の屋敷へ至りしに、彼上手を招き座敷にてその藝を施し居ける故、兼て弟子と僞りし言葉の顯れんも如何と座敷へ出かね居たりしを、主人頻りに呼れしゆへ無是非座敷へいで、彼太夫(たいふ)へ對し、久々にて懸御目候杯と挨拶に及びければ、相應の答いたしけるに、主人申けるは、此人は我等方へ他事なく出入者也、御門弟の由と有ければ、前々は殊の外出精いたされ、近頃は無精に候。尤淨璃理は我等弟子に候へども、師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候とて、和合の挨拶にて其日は事濟けるが、翌日彼者思ひけるは、扨々忝取合哉、ひとへに彼が取合にて我等の僞も知れず外聞もよかりしと、銀貳枚持參して、實は門弟にも無之處、かく/\の譯ゆへ相應の挨拶いたし候處、存の外美しき取合忝段述ければ、右の者答へけるは、夫は大きなる御了簡違也。凡土佐節の淨璃理をかたり給ふ人なれば、誰が弟子なりともそのみなもとの某なれば、我等が弟子に違なき事故、右の通挨拶いたし候也。何か禮式を受申さん迚、右の銀子をも返しけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:名工の細工に名筆の和歌を記した楽器の琴の話から、音曲土佐節名人で美事に連関。また、「卷之一」の「鬼谷子心取物語の事」の事に次ぐ、「心取」第二弾。

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。

・「土佐節」古浄瑠璃(後の「土佐淨璃理」注参照)の一派。土佐少掾(とさのしょうじょう)橘正勝を祖とする。延宝から宝永年間(16731711)に江戸で流行した。初代土佐少掾橘正勝(生没年未詳)は江戸の薩摩浄雲座の人形遣であった内匠(たくみ)市之丞の子で、浄瑠璃の一派浄雲の門下として江戸虎之助・内匠虎之助を称したが、寛文111671)年に土佐座を起立、延宝21674)年頃に土佐少掾の称を授けられ、土佐太夫とも呼ばれた。硬派の浄雲系浄瑠璃の中にあって、上品でしとやかな芸風であったと言われる。通称、内匠土佐。二代目の土佐少掾橘正勝(?~寛保元(1742)年)は初代の長男で内匠(たくみ)太夫と称し、父のワキをつとめていたが、後に二代目を継ぎ、江戸で操座(あやつりざ)を興行した。(以上、二人の橘正勝については「デジタル版日本人名大辞典+Plus」のそれぞれの該当項を参照した)。

・「御小人目付」監察糾弾を職務とする御目附(おめつけ)の支配下で御徒士目附(おかちめつけ)と共に目附の式を受けてお目見(めみえ)以下の者を直接、監察糾弾する警務職種。

・「土佐淨璃理」土佐浄瑠璃。以下、浄瑠璃について、「大辞泉」から引用する。『語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平(きんぴら)・播磨(はりま)・嘉太夫(かだゆう)節などの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東・一中・宮薗(みやぞの)・常磐津(ときわず)・富本・清元・新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節』。

・「太夫」は本来は芸能を以って神事に奉仕する者の称号であった。そこから中世の猿楽座の座長、江戸以降は、観世・金春・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などと呼称するようになり(古くは能のシテ役のみを指した)、その後、説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手に対しても汎用するようになった。

・「師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候」これは男が謡う土佐節が正統なものでないと見抜き、屋敷主人が太夫との音調の異なる点に聊か疑問を持ったのを感じ取った太夫の巧みな謂いである。その辺りが分かるように、現代語訳では敷衍的に意訳してある。

・「銀貳枚」基準値の重量単位で換算すると銀1枚=43匁、1匁=3.75gであるから銀2枚=86匁≒322g。慶長141609)年の金1両=銀50匁の公定相場から推測すれば、金2両弱である。今の数万円から十数万円相当か。

■やぶちゃん現代語訳

 芸の名人たる者の読心心得の事

 土佐節の名人と世に評判の何某とやらいう者が御座ったが、その門弟と自ら喧伝致いておった御小人目付を勤めて御座った男がおった。この男、あちこちの屋敷へ出入りしては、土佐浄瑠璃を語っておったれど、実は――何某名人門弟というは、真っ赤な嘘で御座った。

 ある日のこと、予ねて出入りの屋敷へ訪れてみたところが――何と、かの名人を招いて座敷にてその土佐節を披露致いておるところに出くわしてしもうた。

 男は勿論、予てより弟子と偽って御座ったことが露見するのを恐れ、座敷内に入りかねておった。

 されど主人は頻りに呼び入れんとする。

 ええい、ままよ、と止むを得ず座敷に入り、その土佐節何某太夫(たゆう)に向かい合(お)うて、

「……久方ぶりに、お目にかかり、申し上げまする……お師匠さま……」

なんどと、苦し紛れの挨拶を致いて御座ったが、不思議に太夫はそれを受け、当たり障りのない挨拶を返してよこした。

 主人が太夫に言う。

「このお人は、日頃、我らが方へ、親しく出入り致いて御座る者にて、太夫の御門弟だそうで御座いますな?」

すると、太夫が答えて言った。

「はい。この者、大部前までは、よく稽古にも励んでおったれど、そうさな、近頃は聊か、怠けておりますな――尤も、これはこの者の謡いがまずうなったという謂いにては、これなく――浄瑠璃は我らが弟子にて御座っても、師弟と雖も音曲に於きましては、大きく語り口も違(ちご)うて御座いますればこそ――この者には、この者の良さが、御座る。」

と、意外にも如何にも和気藹々たる談笑の内にその日は何事もなく済んで御座った。

 翌日になって、かの男、

『……ああっ! なんとかたじけないお心遣いであったことか! 偏えにあのお方が話を合わせて下さったればこそ……我らの偽りも露見致さず……それどころか外聞もまたよろしきこととなった……』

と思い、銀二枚を持参の上、太夫の家を訪れると、

「……実は門弟にては、これ、御座らぬところ……かくなる訳にて……話を合わせた不遜なる御挨拶を致しましたところが……存外の美事なられるお取り合わせをなさって戴け、誠(まっこと)、かなじけなき御心(みこころ)、有難く存じ申し上げ奉りまする……」

と素直に事実を述べて謝ると、礼金をさし出だいた。すると太夫は、

「それは大いなる御料簡違いで御座る。――凡そ土佐節の浄瑠璃を語る者なれば、誰(たれ)の弟子であろうとも、その祖は拙者なれば――さればこそ、我らが弟子に違い御座らぬ――故、あのように挨拶致いた。――なればこそ、何の謝礼なんど――受け取るいわれは御座らぬ――。」

と右金子をも男へ返した、ということである。

2010/02/16

教え子への返礼 又は 豊太郎の母の死は諫死にあらず

僕は実に30年間、森鷗外の「舞姫」についての授業で、豊太郎の母の死は自然死であると教授してきた。ところが先日、妻や同僚が、それは間違いだ、諫死に決まってるという。教授資料にそう書いてある、映画じゃそうなってた、というのである。僕は免官通知――それが電信で齎されたという僕の推定から――と母の手紙の到着という時間的問題から考えてそれはあり得ないのだ、と僕は無数の教え子に教授してしまっているのである……。

……僕はしかし、承服出来なかった。

そもそも諫死なら、それが「舞姫」の何処かに必ずや、示されねばならぬと考えるからである。そして、それは自信を持って言うが――ない――。そうして、諫死であったことを完全に隠蔽して豊太郎があの日記を書いているのだとしたら、僕は今まで以上に豊太郎を嫌悪することになる。そうだとしたら僕は、四月の最初の授業で、首を覚悟で、生徒たちに教科書からこの忌まわしい愚劣な「舞姫」という小説を引き裂け! と命じるであろう……。

母は自然死である、諫死は物理的にあり得ない――というこの疑義を今年の年賀状で、僕はある教え子にぶつけてみた。

1月、即座に調べてくれた諫死説を提唱の数篇の論文と共に、教え子は僕の免官通知電信説と言う物理的な疑義に同感してくれた。先週、その最終調査結果が齎された。そこには当時の免官通知が「電信」で送られていたことを立証する第一級資料が同封されていた――当時、実際に免官された実在の人物の事実により――僕の免官は電信という判断は正しかったことが立証されたのである。

勿論、これによって豊太郎母諫死が否定された訳ではないが、僕は僕の

「豊太郎母は自然死である。豊太郎の免官とは無関係である。」

というオリジナルな説を、彼女の示してくれた資料を示して、残る教員生活に於いても、胸を張って授業することを宣言する。

――なんどという偉そうなことを言いたいのでは、実はない――

――いや、多少の自負と、教え子の苦労に報いるためにも――それも言いたかった、ということは事実ではある――

――で――本当に書きたいのはこれからだ……

その教え子は僕の御礼を固辞した。

僕としては、どうあっても御礼がしたいのであった。

そこで僕は、「あるもの」を御礼の手紙に同封した。それは――

それは28年前の彼女――彼女は僕が25歳の時、初めて担任を持った時の「あ」で始まる姓(旧姓)の子であったから、1年8組のクラス写真では仲良く(?)にこやかに微笑んで僕と並んで座っている――

――その28年前、僕が現代国語の授業でやった詩の、彼女が書いた、黄色くぱりぱりになったザラ紙の原稿用紙に鉛筆で書かれた、直筆の感想文――であった

一昨日、日曜日、『心底驚きました』と返事が来た――。

最後に申し上げておく。彼女は――文学部の学生――なんどではない。

僕の30年間の教員生活の中で逢った瞬間に「僕など及ばぬ」と直感した数少ない教え子の一人。

御茶ノ水から東大大学院を経、現在はある大学で文学部の准教授として勤め、若手研究者として嘱望されている。

専門は――

森鷗外

――因みに、彼女が28年前、感想文に選んだ好きな詩は――

高村光太郎の「裸形」であった――

追伸:あの時のクラスの生徒諸君へ。彼女のだけじゃ、勿論、ない――全員、残してあるんだよ――

やぶ爺じゃ 爺は感謝感激じゃ

昨日は現役の生徒も含め、最後は2010年2月15日23:59に海の彼方の可愛い教え子(名をズバリ「花ちゃん」という言う僕の秘蔵っ子)から、40以上の祝福の手作りチョコやら手焼煎餅(!)やら花やらメッセージを貰うた。帰ったら娘のアリスも腹見せ興行で向かえおった。

――こんなに沢山の祝福は、何だか初めてのような気がする(……昔、教員になった年に授業に行ったら、教室がお誕生日会モードされていて、まんまとほぼ授業を潰された記憶を除いて……あん時の室長は今や天下の朝日新聞の記者をやってるH江君だったな……)――

あなたがたの祝福を糧に、もう少し人生を頑張ってみようという気に、本当になった。

ありがとう! 君たちの瞳に乾杯!!!

2010/02/15

53歳の誕生日 又は 耳嚢 巻之二 古物不思議に出る事

53歳の誕生日である。

その今日も何時に帰れるか分からない。いや、今週は死ぬことも許されない殺人的(?)な仕事の山である。糞食らえ。

「耳嚢 巻之二」に「古物不思議に出る事」を収載した。

53の誕生日に合わせたわけではないが――如何にもなイカさまの骨董譚――助動詞「べらなり」――賞味期限切れのハッタリ国語教師の僕には相応しい一本である。受験生の諸君は序でに「べらなり」を学んでおけ。少しはためになるように例など挙げて注を作っておいた。

 古物不思議に出る事

 

 黒田豐前守老職たりし時、上野へ參詣の折から古き道具見世にありし琴を輿中(よちう)より見給ひて、殊に古物と目利(めきき)ありて、歸宅のうへ早々人を遣し買調ひ改め被申しに、何れより拂ひに出しものや、琴の澤に赤銅(しやくどう)の蟹をひしと彫付ありし故、その細工は凡ならざるを以、彫物師を呼て目利有しに、後藤家の古彫にて、甲を放し見られければ、琴の海に山下水の流るべらなりと筆太に貫之の手にて書有し。依之、有德院樣へ獻上ありければ、則山下水と召れ、御重寶に被成ける由。其折から、御前伺候の面々、貫之の歌ながら、べら也とはおかしきてにおはと申しければ、其節御小姓を勤仕(ごんし)ありし田沼主殿頭(とのものかみ)【此主殿頭は當時老職勤仕ある主殿意次公の父也】申けるは、べらなりといへるてにおは數多有と、古き歌數十首を證歌として言上有ければ、上にも其堪能を感じ思召けると也。安藤霜臺の物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:音楽神弁財天から琴で連関。

・「黒田豐前守」黒田直邦(寛文61667)年~享保201735)年)。常陸下館藩主・上野沼田藩初代藩主。延宝81680)年、徳川徳松(五代将軍綱吉長男であったが5歳で夭折)の側近として仕え、後、小納戸役や小姓を経て、元禄131700)年、1万石の大名に列した。元禄161703)年に常陸下館に封ぜられて、享保81723)年に奏者番、寺社奉行兼任。享保171732)年、沼田へ移封、老中となった。名君として賞賛され、享保201735)年現職のまま没した(主にウィキの「黒田直邦」を参照した)。

・「老職」老中。

・「上野」寛永寺。徳川家菩提寺として、将軍家はもとより、諸大名の帰依も厚かった。

・「琴の澤」私の妻は四十数年琴を弾いてきたが、このような呼称はない、という。「磯」ならば琴の側面の部分(弾く際の手前の側面や向こう側の呼称)を言う。飾りとして蟹が配されるには「磯」ならば、確かに相応しい。「向うの磯」で訳した。

・「赤銅」銅に金及び銀を少量加えた銅合金。熱処理によって美しい黒紫色を発する。

・「後藤家」岩波版の長谷川氏の注によれば、『室町時代の後藤祐乗を祖とする、刀剣金物の装飾を彫る業の家』系という。ウィキの「後藤祐乗」によれば、後藤祐乗(ゆうじょう 永享121440)年~永正9(1512)年)は美濃国生、装剣金工の後藤家の祖。『室町幕府8代将軍足利義政の側近として仕えたが、それを辞して装剣金工に転じたと伝えられる。義政の御用をつとめ、近江国坂本に領地300町を与えられた』。『作品は、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、金や赤銅の地金(じがね)に龍・獅子などの文様を絵師狩野元信の下絵により高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた』とある。

・「甲」琴木部本体の上面を言う。龍甲(琴自体が龍を象ることから)。

・「琴の海」やはり、このような呼び方を妻は聞いたことがないという。ただ、側面を「磯」とすれば、甲を外した本体内部をそのように呼んだとして、自然ではある。和歌が記されていたのが甲の裏側でないとは言えないが、「海」という表現から「内底」と訳しておいた。

 

・「山下水の流るべらなり」これは「後撰和歌集」巻第四・夏の部に載る紀貫之の和歌のことを指している。但し歌句が異なる。

      夏の夜、深養父が琴を弾くを聞きて

   短か夜の更けゆくまゝに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く

                       藤原兼輔朝臣

に続いて、

      おなじ心を

   あしひきの山下水は行きかよひ琴の音にさへながるべらなり

                          紀貫之

とあるもの。友人の清原深養父(清少納言の祖父)の元に遊んだ友人藤原兼輔と貫之が深養父の琴の音(ね)に唱和した和歌である。

○やぶちゃん通釈:

山から滴るわずかな流れのような目立たぬ私――そんな私でも――あなたの琴の音に心の琴線が共鳴致し、山下水が自然に流れるように、自然、泣かれてくるようで御座います……。

・「べらなり」は特殊な助動詞(形容動詞ナリ活用型)。推量の助動詞「べし」の語幹「べ」に接尾語「ら」と「に」が付いた「べらにあり」の短縮形である。活用は、

 ○   未然形

べらに  連用形

べらなり 終止形

べらなる 連体形

べらなれ 已然形

 ○   命令形

で、接続は「べし」と同じであるから、活用語の終止形接続。但し、ラ変型には連体形接続。意味は、推量の意味だけで、「確かに……のようだ、……の様子である。」の意であるが、平安時代、特に古今集成立前後に男性の間で、主に歌語として流行したが、その後は擬古的な和歌で稀に用いられた程度で、忘れられた語法と言える。以下に用例を示す。

「古歌(ふるうた)に、『数は足でぞ帰るべらなる』といふことをおもひ出でて」(「土佐日記」一月十一日の条)

 :昔の歌に、「雁は連れ合いを失って数足りぬまま、北へと帰っていくようだ」とある文句を思い出して。

[補注:新潮日本古典集成頭注に、『「北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて来し数は足でぞ帰るべらなる」(『古今集』覉旅、よみびと知らず)。左注「この歌は、ある人、男女もろともに人の国へまかりけり、男女もろともに人の国へまかりけり、男、まかりいたりてすなはちみまかりにければ、女ひとり京へ帰る道に、雁の鳴きけるを聞きてよめる、となむいふ」。』とある。]

「桂川わが心にもかよはねどおなじ深さにながるべらなり」(「土佐日記」二月十六日の条)

 :とうとうたる、かの桂川――あの川が私の心に流れてきて通じ合うというわけでは、勿論、ないのだが――でも、この私が深く都を懐かしく思う気持ちと同じように――あの桂川も深く水を湛え、流れているのであろう……。

「春のきる霞の衣ぬきを薄み山風にこそ乱るべらなれ 在原行平朝臣」(「古今和歌集」春歌上)

 :春という季節――それが着ている軽やかな霞の衣――その衣は横糸が薄い――だから、山風が吹くと、たちまちのうちに乱れてしまいそう……。

「秋の夜の月の光し明かければくらふの山も越えぬべら也 在原元方」(「古今和歌集」秋歌上)

 :秋の夜――月の光が殊の外、明るい――だからきっと、その名にし負う暗部山でさえも、楽々と超えて行けるであろう……。

[補注:「くらふの山」は実在地名と思われるが不詳。一説に鞍馬山の古名とも。]

「不知(しら)ヌ茸(たけ)ト思スベラニ、独リ迷ヒ給フ也ケリ。」(「今昔物語集」二八巻「比叡山横河僧酔茸誦経語第十九」)

 :(比叡の峰にお住まい乍ら、)おそらくは(その峰も茸も)知らない嶽(茸)と思いになられたようで、独り、お迷いなさったので御座った。

[補注:これは毒茸を食した比叡山の僧坊の主僧が激しい中毒に罹り、さる導師が祈禱をしたが、その祈禱の末尾にいやしく多量の毒茸を食った僧への滑稽な教化の言葉を添えた笑話で、これはその中毒僧を慇懃無礼に揶揄した核心部分。「茸」(たけ)に比叡山の「嶽」(たけ)を掛けてある。]

「天地の清きなかより生れ来てもとのすみかに帰るべらなり 北条氏照」

 :清き天地の中より生まれ来て――汚濁の満ちた世の穢れ、そいつをさっぱり拭い去り――元の住処に帰るらんとする――。

[補注:これは比較的新しい用例の例となる。北条氏照(天文9(1540)年~天正181590)年)は戦国・安土桃山時代の武将。後北条氏。武蔵滝山(現・八王子)城主。小田原の陣で小田原城に籠城して徹底抗戦、降伏後、豊臣秀吉から切腹を命じられて自刃した。これは、その際の辞世である。]

 

・「貫之」紀貫之(貞観8(866)年又は貞観14872)年頃~天慶8(945)年?)。三十六歌仙の一で、「古今和歌集」の編者の一人。それにしても、この古物、如何にも嘘臭い、臭過ぎると言ってよい。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「てにおは」はママ。

・「御小姓」武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「田沼主殿頭」田沼意行(おきゆき 又は もとゆき 貞享3(1686)年~享保191735)年)以下、ウィキの「田沼意行」より引用する。『紀州藩の足軽の子。父義房(意房とも)は病にかかり、紀州藩の禄を離れて和歌山城下で静養することになったため、子の意行は田代七右衛門高近(紀州藩家臣)に養われることとなり、その娘婿となった。紀州藩に仕官したが、享保1年(1716年)に徳川吉宗が将軍に就任した際に、吉宗に小姓として召されて、幕府旗本に列した。6月、将軍の小姓となり、300俵を受けた。享保4年(1719年)7月27日にのちに幕府老中となる田沼意次を生む。享保9年(1724年)11月に従五位下主殿頭に叙任し、享保18年(1733年)9月には300石を与えられて、これまで支給されていた切米も石高に改められて、相模国高座大住郡に600石を賜った』。「主殿頭」は本来は律令制の宮内省に属した主殿寮(とのもりょう)の長官で、宮中の清掃・灯燭・薪炭管理、行幸の際に用いる牛車・輿、調度を司った役所であるが、勿論、ここでは単なる名目位官名。

・「主殿意次」享保4(1719)年~天明8(1788)年)遠江相良(さがら)城主。第十代将軍徳川家治の側用人から老中となり、後に田沼時代と呼ばれる権勢を握った。赤字に陥った幕府財政を改善するために重商主義による急激な改革を行ったが、保守勢力の反撥に加えて賄賂が横行、批判が高まり、天明6(1786)年8月に家治の死去と同時に完全に失脚した。「耳嚢」の執筆の着手は根岸の佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話は正に田沼時代の終焉が誰の目にも明らかであった頃のもので、そうした凋落への一種のオマージュとして挙げられたものなのかも知れない(それが皮肉なものか素直なものかは定かではない)。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 骨董に不思議な発見のある事

 

 黒田豊前守直邦殿が老中職にあった頃の話。

 黒田殿が上野寛永寺に参詣の折り、沿道の古道具屋の店先に置かれて御座った琴を、御輿の中よりご覧になられ、これはいわくある時代物の琴、と目利きなさり、御帰宅早々、人を遣わして買い求めさせなさった。

 運ばれてきた琴を仔細にご覧になられたところ、如何なる名家より払い出されたものか、琴の向うの磯に、赤銅にて彫せられた美事な蟹が一匹、しっかりと据えつけられて御座った。その細工たるや、並の者の手になるものとは思われる故、知れる彫物師を呼び目利きさせたところ、金物細工の名匠で知られる後藤家の手になる、古い彫物に間違いなしとのことであった。

 更に甲を外してみたところ、琴の内底には、

   山下水の流るべらなり

と、墨痕鮮やかに、何と、かの紀貫之の手跡で記されて御座った。

 余りの逸品で御座ったれば、黒田殿、有徳院吉宗様にこれを献上致いたが、上様は即座に「山下水」という銘をお付けになられ、御重宝(じゅうほう)にされたということである。 

 また、その折りのこと、御前に連なった面々が、

「……いや、それにしても、貫之の歌とは申せ……『べらなり』と云うは、如何にも聞いたこともない、可笑しなもの謂い――。」

と難癖をつけたところ、丁度、その当時御小姓として勤仕致いて御座った田沼主殿頭意行(とのものか(おきゆき)殿[根岸注:この主殿頭殿とは現在老中職にある田沼意次公の御父上であられる。]が、

「いえ、『べらなり』と云うは、多く用例が御座います。――」

と、古歌数十首を立板に水する如、証歌として言上申し上げたので、上様もその堪能振りには、殊の外、御満悦であられた、ということである。

 安藤霜台惟要(これとし)殿の物語である。

2010/02/14

耳嚢 巻之二 信心に奇特ある事

「耳嚢 巻之二」に「信心に奇特ある事」を収載した。

 信心に奇特ある事

 予が許へ來る山中某とて、御抱席(おかかへせき)の與力より後は御代官に昇進せしが、最初大願の始め彼是上に立人の心どり六ケ敷、思やうに事調はざりしが、深く辨天を信じ成願の法などを修し貰ひしが、相州江の嶋の辨天は靈驗いちじるしきと聞て、三日斷食をなして代拜の者を差遣しけるが、彼代拜の者江の嶋にて不思議の靈夢を蒙りし由。誰ともなく、山中が願望當時世話有し川井何某の手にては出來ざれども、跡役の人并に權門家の何某心得候間、始終は成就すべきとの事也。右代拜の者は其世話いたし候人の名前などは委敷(くはしく)知るべきものならねば不思議におもひけれ共、いまだ川井も盛んに勤の事故強ひて心にも留めざりしが、無程川井身まかりて跡役の時節にいたり願の叶ひけるよし。最初より少しも能(よく)と存(ぞんず)る事を聞しは多分辰巳の日也と語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏に纏わる霊験譚で連関。

・「奇特」ここでは宗教用語として、神仏の摩訶不思議な験(しるし)、効験(こうげん)の意。

・「御抱席」その一代限りで召抱えられる地位を言う。之に対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。この山中殿、筆頭与力になれたのであろうか。人事ながら、ここまで運気の強かった彼、気になるところではある。

・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。

・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「深く辨天を信じ」何故、この山中某が弁才天を信仰していたのか、その辺が見えてくると、もっと面白くなるという気がするのだが。

・「相州江の嶋の辨天」神奈川県藤沢市江の島の島内にある江島神社のこと。日本三大弁天(異説はあり)の一つ。現在の祭神は宗像(むなかた)三女神(海人族の女神。島の西最奥の奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・中央の中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)・北の入り口にある辺津宮(へつみや)に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀る)。江戸末期までは金亀山与願寺という寺院で、弁才天が主神として祀られており、江島弁天と呼ばれ、岩本院等、多くの宿坊を備えていた。廃仏毀釈によってかくなったが、現在も辺津宮境内にある奉安殿に八臂(はっぴん)弁才天と妙音弁才天を安置する(この妙音弁才天は女性生殖器をリアルに彫りこんであることで有名)。欽明天皇13552)年、神宣による勅命を受けて、江の島の南側海食洞(御岩屋と称する)に宮を建てたのを嚆矢とすると伝える。「吾妻鏡」寿永元(1182)年の記載には、源頼朝の命によって文覚上人が岩屋に弁才天を勧請したとあり、北条時政絡みの霊異譚にもこの弁天の祠が登場する(北条氏の紋所の三つ鱗はこのエピソードの龍神の鱗に由来するとも言われる)。江戸期には豊穣神・芸能神である弁天信仰で栄え、商人や芸者衆の厚い信仰を受けた。……さて、私にとっても……江の島は青春と秘やかな思い出の地である――尾崎放哉にとってそうであったのと同じように――34年前、弁天橋から、富士の夕景――

・「川井何某」はまさに筆頭与力であったか。

・「辰巳」は日時ではなく南東の方位しか言わないから、これは干支の誤り。弁才天の縁日は己巳(つちのとみ)であるから、それを書き誤ったものと考えられる。また弁才天と龍神、龍神は宇賀神(蛇神)とそれぞれ密接に関連(というか一体に習合)するので、その思い込みから辰と巳を組み合わせてしまったものとも思われる。いや! もしかするとこれは洒落かも? 山中殿、この日は丁度、江戸の辰巳の深川遊廓にくり出した日だったのかも!?(辰巳芸者でお分かりの通り、「辰巳」は深川遊廓を指す隠語でもある)……いや、遊里――芸者――弁天――江の島弁天たぁ、こりゃ、美事にすっぽり、ずっぽりと繋がる、じゃあ、ござんせんか?!……

・「最初より少しも能と存る事」聞いた初めから、完全によく成就するという内容の予言、という意味であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 信心に奇特がある事

 私のもとによく訪ねて参る山中某という者は、御抱席の与力から、後には代官にまで昇進した人物であるが、未だ与力であった昇進大願の発願始めの頃には、あれこれ、上司の思惑を測りかね、上手く立ち回ることも出来申さず、どうにもこうにも思うように行かずにおったという。

 さても、彼は日頃から弁才天を深く信仰して御座って、これまでも昇進祈願のために、弁才天の請願成就の修法(ずほう)なんどを特別にとり行って貰ったりなんど致いておったのだが、ある時、相模国江の島の弁才天、霊験著しき由聞き、早速三日断食致いて精進潔斎の上、代拝の者を江の島に遣わした。

 この代拝の者、島に泊ったその晩、摩訶不思議なる霊夢を見た。

――夢の中で、何者か分からぬ誰かが、

「……山中が願望……今の上司たる川井××殿の手にては叶わぬ……されど……その川井殿後任の者並びに関係有力者の○○○○殿がこのことについて理解を示してくれることになっており……畢竟、成就致すこと間違いなし……」

と言うのが聞こえた――というのである。

 この代拝に遣わした男は、川井××の名は勿論、山中が少しばかり知って御座った権勢家○○○○殿の姓名なんど、詳しく知るはずもない者で御座ったれば、川井は如何にも不思議なことと思ったけれども、当時の上司川井某は如何にも健やかに勤めて御座ったれば、強いて夢のことは、心に留めずにおいた。

 ところが、ほどなく川井某は急逝、後役が就任するや、直ぐに川井の昇進が叶ったとのこと――。

「……その代拝の者に全き祈願成就のお告げの御座ったは……多分……弁才天の縁日の己巳(つちのとみ)の日で御座った……」

と語った。

2010/02/13

耳嚢 巻之二 無思掛悟道の沙汰有し事

「耳嚢 巻之二」に「無思掛悟道の沙汰有し事」を収載した。早朝にアップしたが、HPへの転送を失念していた。これは一見、この僧を軽蔑しているようにも見えるが、禅話としては、こうした話柄決して珍しくないものである。少なくとも、これを自ら語る禅僧は僕には魅力的である。

 無思掛悟道の沙汰有し事

 予が知音の元へ來る禪僧の咄けるは、禪家に入座禪を致し習ふ始には甚だ苦しき故足をゆはへて仕習ひける事也。夫に付おかしき咄の有とて語りけるは、彼僧初學の節檀家の病死人ありて棺中へ納、側に彼の出家を頼み附置、親族なども代るがはる居たりしが、例の通り結伽趺座して足を結ひ座禪修行の心にて心を靜め居たりしに、右亡者浮腫の煩ひ故哉(や)、棺中にて水気洩れ候と見へて怪しき音小高く聞へければ、側に居たりし親族の男女はわつといふて右一間を互に逃出ける故、僧も恐しく逃んと思ひけるが、足を結ひ置しゆへ立事叶わず、無據心を靜め居たりしが、全(まつたく)浮腫の死骸故水の溢れ候と心付て怖敷事去りぬれば其優に有しを、家内親族追々立戻り、流石は禪氣の勝れし出家なりと感心して寄依しけるもおかしけれと語りしとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏に纏わる奇譚(但し、こちらは霊異譚ではなく、事実談として解析も美事)で連関。

・「結伽趺座」通常は「結跏趺坐」と書く。「跏」は足の裏、「趺」は足の甲の意で、坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ反対の大腿部の上に乗せて押さえる。先に右足を曲げ、左足を乗せるのを降魔坐(ごうまざ)と言い(修行の体)、その逆を吉祥坐という(悟達の体。蓮華座とも)。仏の坐法であり、禅宗の座禅行で用いられる。

・「浮腫」通常は主に顔や手足の末端に近い部分が、体内の水分の増加によって多くは痛みを伴わずに腫れる(むくんでくる)症状。医学的には細胞外液量の増加により発生する症状で、生化学的には体内の総ナトリウム量の増加によって、浸透圧が上昇、細胞間質(液細胞組織内の液体部分)と血液・リンパ液との圧力バランスが崩れて、それにより水分の貯留が惹起される現象である。ただの疲労によるむくみもあるが、典型的な浮腫が顕著に見られるものとして心不全・ネフローゼ症候群・肝硬変の他、甲状腺異常・血管及びリンパ系循環障害・悪性腫瘍・深部静脈血栓症等の重篤な疾患も疑われる。

・「寄依」底本では、「寄」の右に『(歸)』と注する。

■やぶちゃん現代語訳

 思いがけず悟達の名僧たる評判を得た事

 私の親しくして御座る友のもとへ、しばしば訪れる禅僧の話したことにて御座る。

「……禅家の門叩いて、座禅を致し、それを習う始めの頃……これが、まあ、直(じき)に足が痺れ、甚だ苦しい思いを致しまする故に、両の足、これを紐にてきゅっと結わえて修行致すので御座るが……それに附、いや、もう何ともお笑いの話が御座っての……」

と前置きの上、かの禅僧が語り出した話は――

「……さても拙僧入門初学の折りのこと、檀家に病死致いた者が御座って、その葬いに参ったのじゃが……家の者、死人(しびと)を棺に納めて後、拙僧に、棺の側にあって回向せんことを頼まれ、親族なんども代わる代わる、同じく棺の傍らにて勤行など致して御座った……拙僧は例の通り、結跏趺坐致いて、足を細き紐にて結わえ、常の座禅修行の心を以って気を静めて御座ったのじゃが――後で思えば、この死人、生前、浮腫を患って御座った故か――棺の中から――水気(すいき)が死体より弾け出でて御座ったと見えて――何やらん……グリュグリュ、ブリブリ、ブオン!……と……いや、もう、聴くもおぞましい奇怪な音が……はっきりと聞こえて来たので御座った……傍に御座った親族の男女は……ワッ! と叫ぶが早いか、先を争うように一目散に部屋から逃げ出す……勿論、拙僧も恐ろしゅう御座ればこそ逃げんと思うた……ところが、じゃ……ほれ、脚を結わえて御座ったれば……立ち上がることも叶わず……青くなって震えながらも……『最早、万事休す』……『ここは一つ、肚(きも)を据えて落ち着く外なし』……と思うての……いや、そこでよくよく考えて見たところが――先程、申し上げた通り、この仏は確か生前、浮腫を患って亡くなった、ということに改めて思い至ったのじゃ――いや、これはもう、単に、その水気が死骸から漏れ出でたに過ぎぬと気づいて御座ったれば……そうと決れば、こっちのものじゃ……これと言って、恐ろしいと思う気持ちも去っての、実際、その後は、何事も起こらなんだ……拙僧は、かくしてそのまま、穏やかな座禅の三昧境に入って御座った……と、相応に時が過ぎて……追々、恐る恐る家内親族の者どもが立ち帰って参った……すると拙僧の姿を見るや……「流石は禅の境地を極めた御出家にて御座る!」……と残らず感心、讃嘆の極み……その後、ただの青同心の拙僧に……いや、もう、夥しい者どもが熱心に帰依して御座った……ハッハ! いや、なんともはや、可笑しなことで、御座ったの……」

と語ったとか。

2010/02/12

小さな空 武満徹

青空見たら 綿のよな雲が 悲しみを乗せて 飛んでいった……
 いたずらが過ぎて 叱られて泣いた 子どもの頃を 思い出した……

夕空見たら 教会の窓の ステンド・グラスが 真っ赤に燃えてた……
 いたずらが過ぎて 叱られて泣いた 子どもの頃を 思い出した……

夜空を見たら ちいさな星が 涙のように 光っていた……
夜空を見たら ちいさな星が 涙のように 光っていた……
 いたずらが過ぎて 叱られて泣いた 子どもの頃を 思い出した…………

沢山の僕の「あなた」に――

(――著作権を訴えられた場合でも、僕はこれを削除するつもりは全くない――何故ならこれは僕の心の木霊だから――僕の心の木霊を制する権利は誰にもない――金なら幾らでも払ってやる――いつでも僕の玄室に取りに来るがいい……)

2010/02/11

耳嚢 巻之二 日の御崎神事の事

「耳嚢 巻之二」に「日の御崎神事の事」を収載した。

 日の御崎神事の事

 日の御崎神事の節は神人(じにん)海邊に出、波打際に立居ける事なるが、毎年日時を違へず沖の方より藻の上に小蛇とぐろして流れより侯を、神人兩手を以て受て、直(ぢき)に神前へ相備侯恆例也。右蛇は或は一日又は兩日程其儘にて動かずありて死しけると也。夫を直に干かため年々の蛇形を納め置て、信仰し乞候ものあれば附屬しける由。戸田因州公も去年右神主より差越し受納ありしと、寺社奉行勤の節物語也。尤白蛇とは唱候得共、全く白に無之、黑ずみ候蛇の由也。

□やぶちゃん注

○前項連関:大先輩、戸田因幡守忠寛(ただとお)絡みで、更に摩訶不思議なる神事でも連関。

・「日の御崎神事」島根県出雲市大社町日御碕、島根半島最西端にある、「出雲国風土記」「延喜式」に載る日御崎神社(祭神は天照大神と素戔嗚尊)の神事。旧暦1011日の神迎祭に始まり、14日の龍神祭、17日の神等去出祭を以って終る。これは所謂「神在祭」で、全国から集まる八百万神招来の確認を意味している。そして、この時期に浜にやってくるウミヘビを、その神々の先導役とされる大国主の使者、竜蛇神として迎えた。このウミヘビは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビPelamis platura である。以下、ウィキの「セグロウミヘビ」によれば、『全長は60-90㎝。体形は側偏する。斜めに列になった胴体背面の鱗の数(体列鱗数)は46-68。名前の由来は、背が黒いことから。腹面は黄色や淡褐色。これは、主に沖合の海面付近に生息するために、外敵に見つかりにくい色になったためであり、サバやマグロなどの回遊魚と同様の進化である。本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化し』、『頭部は小型で細長い』。『牙に毒を持つが、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない。黄色と黒というその非常に特徴的な体色は肉が毒を持つことの警戒色の意味もあるのではないかと考えられている。ウミヘビの中では比較的性質が荒い種であり、動物園で飼育されていた本種は給水器に何度も噛み付くほど凶暴だったという』。『外洋に生息する。暖流に乗って北海道辺りまで北上することもある。完全水棲種で、腹板が退化しているため陸地に打ち上げられると全く身動きがとれずにそのまま死んでしまうことがある。反面遊泳力は強い』。『食性は動物食で、主に魚類を食べる』。『繁殖形態は卵胎生で、11月頃に海岸に近づき、海中で2-6頭の幼蛇を産む』。とあり、更にズバリ、本日御崎神社の神事の記載が以下のように現われる。『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦10月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』。但し、近年、海洋汚染や護岸工事による潮流変化により、セグロウミヘビが浜に来ることは稀となり、祭事は龍蛇が奉納されたものとして行われるのみで、悲しいことに、根岸の綴るような神異を目の当たりにすることは最早、出来ない。日御崎神社の狩野・土佐両派の手になる天井画を持つ現社殿は、寛永211644)年に三代将軍家光の命を受けた松江藩により造営されたもので、国指定重要文化財に指定されている。旧暦1月5日にワカメを刈る和布刈神事(わかめかりしんじ)が行われるとある。この神事、私にとっては中学時代に読んだ松本清張の「時間の習俗」に登場する懐かしいものだ(但し、あれは福岡県北九州市門司区門司にある和布刈神社の同じ神事。あの小説も今の連中にはトリックが廃れた神事みたようなもんで訳が分からんだろうなあ)。「直に神前へ相備侯」という根岸の叙述が正確ならば、本文冒頭の神事は旧暦1014日のことと考えられる。

・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。

・「附屬」古語の「付属」には、付き従こと、またはそのものという現代語と同様の意味の他に、宗教用語として、教義経文を信者や弟子に伝授する、という意がある。

・「戸田因州」戸田因幡守忠寛。前項注参照。彼が寺社奉行であったのは安永5(1776)年から天明2(1782)年9月の間であるから、この話は前話と異なり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までという期間に綺麗に入る。こうなると、前の話もこの話と同じ時期に採取されたとも考えられないではないが、そうなると、前の話の戸田の言「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」が理解出来なくなるという大きな問題点が発生するのである。

■やぶちゃん現代語訳

 日御崎神社神事の事

 日御碕神社神事の節は、神主が海辺に出、波打ち際に立つ――すると、毎年、その必ず日時を違えず、藻の上にとぐろを巻いた小蛇が、沖つ方より流れ寄って御座ったものを、神主が両手にて掬い受け、直ちに神前に供え申し上げることを恒例としておる。

 この蛇、一日若しくは二日ほど凝っとして御座って、そのまま動くことなく死ぬという。それを干し固め、年々、とぐろの蛇形(じゃけい)の木乃伊(ミイラ)を拵え納め置いて御座れば、参詣する者の中で、信心深く神体を乞う者があれば授けるのだとのこと。 

 戸田因幡守忠寛(ただとお)公も、

「……そうそう、去年、その日御碕神社の神主より、かく製せられた奇品を受納致いたことが御座ったわ……」と物語られたのを、公が寺社奉行を勤めておられた折りに、お聞きしたのを覚えて御座る。

 公のお話によれば、それは、

「……う~む、霊蛇にして白蛇(はくじゃ)と聞き及んで御座ったが……白いものにては御座なく、黒ずんで御座った蛇であったのう……。」との由。

2010/02/10

耳嚢 巻之二 吉比津宮釜鳴の事

「耳嚢 巻之二」に「吉比津宮釜鳴の事」を収載した。

 吉比津宮釜鳴の事

 桑原豫州長崎往來に吉比津の宮へ參詣せしに、右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し。御供(ごくう)を獻じ候ときは、神人(じにん)米壹合程右の釜の内へ入、磨鹽水などにて淸め、松ばを少し釜の下にて焚候へば、最初は鈴の(音の響く程に鳴りて段々嶋音高く、後にはあたりへも)響きて移しく聞へける。やがて神人鹽水を打ぬれば鳴音も又止ぬと語りぬ。戸田因州も其席におはしけるが、先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが、不思議の事と語り給ひし。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に強い連関を感じさせないが、幽霊譚から神仏霊験譚の流れとして自然。

・「吉比津宮」岡山市北区吉備津(備中国と備前国の境にある吉備中山の北西)にある吉備津神社。吉備津彦命(きびつひこのみこと:孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍(崇神天皇10B.C.88?)年に天皇より北陸・東海・西道・丹波に、まつろわぬ民あらば平定せよ、との命を受けて派遣された、大彦命(おおびこのみこと)・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・吉備津彦命(きびつひこのみこと)・丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す)の一人として山陽道に派遣され吉備を平定したとされ、吉備臣のルーツ。)を主祭神とする山陽道屈指の大社。社殿は本邦唯一の比翼入母屋造り(吉備津造り)。以下の釜鳴神事(上田秋成の「雨月物語」のズバリ「吉備津の釜」で広く知られる)、主神と釜に纏わる桃太郎伝説の地としても知られる。

・「釜鳴」吉備津神社の縁起及び岡山県で伝承されている神話によれば、吉備津彦命は『鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ』、更に一説には『命の家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われ』る(以上の引用はウィキの「吉備津彦命」によるが、この神話には別に細部に関わる因縁譚があり、それは次で示す)。この釜鳴神事は、釜を用いて米を蒸す際、釜が奇妙な音を出し、その音の強弱・長短などを以って吉凶を占う(一般には強く高く長く鳴れば吉、無音なれば凶とする)神事で、各地に見られるが、ここ吉備津神社をルーツとすると言われる。熱湯による真偽の判断を占う盟神探湯(くがだち)やその流れを汲む湯立(ゆだて)・湯起請(ゆぎしょう)と等の呪術と同じい。以下、科学的考察も絡めてコンパクトに纏めている、ウィキの「鳴釜神事」の吉備津神社のパート部分を引用する。吉備津『神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神官の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神官と共に神事を執り行った。現在も神官と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。神事は『まず、釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神官が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、音は、米と蒸気等の温度差により生じる振動によると考えられている。100ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って1㎜ぐらいの穴を通るとこの現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも鉄鍋と蒸篭を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の百済の王子が来訪、土地の豪族となったが、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。被征服民族の神を邪神に引き下ろして滅ぼしながら、その御霊(ごりょう)を畏れてそれを祀り、祀りながらそれを自国防衛の宗教的システムに取り入れてゆくという、狡猾な国策である。公平を期すために、「吉備津神社」の公式サイト「釜鳴神事」解説からも引用しておく(記号の一部を変更した)。『当社には鳴釜神事という特殊神事があります。この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされる。永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されており、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます』。『釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらし』く、それに『陰陽道的解釈が加えられていったと考えられます』。『この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております』。『お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました』。『この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます』(以上の引用部分の著作権表示(C)2008.Kibitsu Jinja All rights reserved.)。

・「桑原豫州」桑原伊予守盛員(もりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。

・「右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し」「すへ」はママ(据えるの意味の古語は「据う」でワ行下二段活用又は「据ゆ」でヤ行下二段活用であるから「すゑ」又は「すえ」でなくてはならない)。私は吉備津神社に行ったことがないので、吉備津神社公式サイトの境内図等で確認したところ、少なくとも現在、釜は本殿にあるのではなく、本殿の左手から回廊を本宮社のある山手へ向かった中間点を右に下った神池畔に釜殿という特別な社殿が設えられており、釜はここにあって、釜鳴神事もそこで執り行われている。

・「御供(ごくう)」は底本のルビ。岩波版は普通に「お供(そなえ)」と振るが、古語としては底本がいい。神仏に供える物、お供物。ここでの「米」は神事・卜占に用いる以上、立派なお供物である。

・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。

・「戸田因州」戸田因幡守忠寛(ただとお 元文4(1739)年~寛政131801)年)。肥前国島原藩第2代藩主・下野国宇都宮藩(77850石)初代藩主。ウィキの「戸田忠寛」によれば、宝暦4(1754)年に『肥前国島原藩主となり、従五位下因幡守に叙せられ』、『明和7年(1770年)、奏者番となる。安永3年(1774年)、領地を転じて下野国宇都宮藩主となり、宇都宮城を居城とする。幕府より5,000両を借りて城を造営し、同5年(1776年)、寺社奉行を兼ねて、天明2年(1782年)9月、大坂城代となる。同年、旧領改め、河内国、播磨国に所領を移封され、同4年(1784年)5月、京都所司代に補任し侍従に任官する。同年9月、所領を河内国、摂津国に移され、同7年(1787年)12月、所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となる。この年に、京都伏見にて市人争訟の儀あったが、その計らいが不十分であったとされ、出仕が停められた』。『間もなく免ぜられ、寛政10年(1798年)6月21日に致仕・隠居した。同13年(1801年)正月晦日に没する。享年63』とある。さて、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、天明4(1784)年には佐渡奉行として赴任しているから、この三者の同席の下限は天明4(1784)年より以前ということになる。しかし、戸田は「先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが」と言う以上、これは天明2(1782)年に岡山に近い播磨国に戸田が移封された折のことを指すとしか考えられない。すると、「先領」と言って過去形を用いていることから、自動的に、これは天明4(1784)年9月以降、所領を河内国・摂津国に移封されて以降のことになる。天明4(1784)年ならば桑原は勘定奉行で江戸在住である。ところが、ここに疑問が生ずる。それは、この時期の戸田は京都所司代であるから、江戸にいて桑原・戸田・根岸の三者がゆるりと談話するというシチュエーションは考えにくいと私は思うのである。そうすると、推定し得る可能性は、根岸が佐渡奉行から勘定奉行に栄転して帰府した天明7(1787)年以降、同7年12月に戸田が所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となってからであると考えるのが自然ではないかと思われる(桑原は勘定奉行・大目付であるから問題なく江戸に在住する)。更に言えば、その下限は桑原と戸田二人がほぼ同時に致仕・隠居したと考えられる寛政101798)年以降まで含まれるもののように思われる。いや、この話柄そのものが隠居した大先輩を相手にして根岸が聞き書きしたものと考える方が分かりがよいように私は思うのである。鈴木氏の執筆年代推定は各巻の年代が特定出来るものを用いたものであって、厳格な区分とは言えない(もし私の推測が正しく、執筆区分が厳密なものであるとすれば、この話柄は下限を文化元(1804)年7月までとする「卷之六」になくてはならない)。100話に揃え、整序する作業は当然、全巻の執筆後にも行われたものと思われるから、以上から、私は本話の成立は天明7(1787)年よりもずっと後、寛政101798)年前後ではなかったかと推定するものである。

・「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」底本注で鈴木氏は『他領の神社へ度々参ったというのは解しがたい』とされているが、当時の備中国一宮(現・岡山県岡山市)に所在する吉備津神社と戸田の旧領である播磨国(現在の兵庫県南西部)は姫路と吉備間でも直線距離で100㎞を超える。これを「右最寄」と言うかどうかも、やや疑問ではある。それに、縁も所縁もないこの播磨国に、たかだか2年間の移封中、「度々」国入りし、更に100㎞も先の吉備津神社「へも至りし」というのは、やや解せぬどころではない気がするのは、私だけであろうか。

■やぶちゃん現代語訳

 吉備津の宮釜鳴り神事の事

 長崎奉行をされたことのある桑原伊予守盛員殿の話。

「拙者が長崎へと赴く道中、吉備津の宮に参詣致いた折り、この神社の中には、直径四尺余りの大釜が、曰く、釜壇という場所に据えられて、鎮座致いて御座った。御供物を献じて御座れば、神主が米一合ほど、この釜の中に入れ、塩を含んだ水などを以って、清めたつつ、釜中に注ぎ入れて、松の葉を少しばかり釜の下にて焚いて御座れば、最初、鈴の響きほどの音(ね)が鳴り始め、だんだんと鳴る音が高うなり、遂には辺りへも大きに響くほど、びっくりするような音(おと)が聞えてくるので御座る。やがて神主が、釜の中にぱっと塩水を打つと、鳴る音(おと)も止んで御座った。」

 この話を聞いた折りには、戸田因幡守忠寛(ただとお)公もその場に同席しておられたが、

「拙者の前の領地、その近辺にて御座ったれば、度々その宮を参詣致いたが、誠(まっこと)、不思議なる釜鳴りであったよのう――。」

と仰せられた。

2010/02/09

耳嚢 巻之二 執心殘りし事

「耳嚢 巻之二」に「執心殘りし事」を収載した。

  執心殘りし事

 是も右最寄の事也。其日稼にて時のものなど商ひてかつがつの暮しする男有しが、隨分律義者にて稼けるが金子十兩程も稼ため、同町の者方へ來り、金貳兩と錢拾四五貫文持參し、其志を見請て預け置しとなり。然るに右男近頃病氣にて有しかば、預りし金錢を持參いたし病氣を尋ね、預りし品を歸可申段申しければ、彼男申けるは、我等死にも可致哉(や)とて 返し被申哉(や)、持參にも及ざると申にぞ、いやとよ左には非ず、病氣なれば入用も有るべしと持來りし也。先差置て入用にも無之ば、快氣の上又々預るべしと言て差置歸りけるが、無程身まかりける故、子供親類もなく獨り者の事故、など集りて、輕く寺へ送り家財改けるに、金錢十兩程も有しを、家主店請など配分して相濟しけるに、其日より兎角右老人元店のまへに立居たり、又は其邊にて彷彿と見へし沙汰頻(しきり)にあれば、大屋店請も大きに恐れ、右金子を以て厚く吊(とむら)ひて法事を十分にいたしけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:冒頭で「是も」前項「幽靈なしとも難極事」「最寄の事也」と、幽霊譚で連関する。この「最寄の事」は場所ではなく、前項が本巻執筆時に近い天明2(1782)年の事で(底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しであるここは正に天明2(1782)年春直後の記載メモに基づくものと考えられ、美事に一致するのである)、それと同じように最近の出来事、という意味で用いているのであろう。

・「同町の者方」この人物は本話柄の後半部には直接は登場しない人物で、とりあえず主人公の老人の守銭奴ぶりや生への執着の深さを強調するエピソードとして機能している。但し、後半のシークエンスにこの同町内の、数少ない老人が信頼していた人物が関わらないというのは妙な話である。実は、粗末な葬送で済ました大屋たちが老人の金を猫糞していることを、この人物が察知し、このような幽霊譚をしくんでちょいと懲らしめた、という真相なんどを私は想像したくなってしまうのであるが、如何?

・「錢拾四五貫文」当時は実質的変動相場制であったから、正確には言えないが、通常、金1両=銀5060匁=銭4貫文=銭4000文とされるので、銭1415貫文は4両弱に相当するか。預けた金の総金額は6両程度となる。

・「大屋」貸家の持主。貸主。⇔店子(たなこ:借家人。)

・「店請」借家人の身元保証人。

・「五人組」幕府が町村の町人・百姓に強制的に組織させた隣保制度(第二次世界大戦中の隣組組織と相似)。近隣の5戸を一組として、連帯責任制を適用して防火・防犯・キリシタン等宗門及び浪人の取締・年貢の貢納管理等を行わせ、合わせて相互扶助(厚生事業)にも当たらせた。町村の条例相当の遵守事項・五人組毎の人別・各戸当主・村役人連判を記した五人組帳という帳簿が作成されていた。

・「兎角右老人元店のまへに立居たり」底本には右に『尊經閣本「兎角に右店請の前又は家主の所へ右老人立居たり」』と注する。シチュエーションとしての面白さから、両方を贅沢に採った。

・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

■やぶちゃん現代語訳

 執念の世に残れる事

 これも同じく最近聞いた心霊譚にて御座る。

 日雇い稼ぎを主とし、或いはその季節の物なんどを少し仕入れては行商致いて、かつかつの生計(たつき)を立てておった年寄りの男が御座った。

 ところが実は、随分な律義者にてあったれば、酒色好事に耽るでなし、だんだんに稼ぎ貯め、金子十両ほども貯まったため、ある日、同じ町内にて日頃、幾分、親しくして御座った者――と言ってもこの老人、偏屈寡黙にして知り合いも少のう御座ったが――の方を訪れ、彼に金二両と銭十四~五貫分を持ち参り、

「少しばかり、金子溜まり候えばこそ、御身を見込んで――。」

と預け置いたそうな。

 しかし、この老人、最近になって病に倒れたとのことを、金を預けられた男、聞き及び、予ねて預かった金を持参の上、見舞いに訪れ、病とのことなればこそ金預かっておった金をお返し致すがよかろうとて参った、と言ったところが、かの老人、以ての外に不快の形相にて、

「……儂が今にも死ぬんじゃなかろかと、様子を見に返しに来よったふりをしたか?!……ふん! 勝手に殺されるか!……儂は死なんぞ! 預けた儂の金は儂のもんじゃ! 必ず取りに返らでおくべきか! 持参にも、ペッ! 及ばぬわ!……」

と意想外の剣幕。かの男は困って、

「いや、そうではない。落ち着きなさい!……病気ということなればこそ、医薬滋養と、いろいろ物入りにて御座ろうほどにと持参致いたものじゃ。……まあまあ、とりあえず、手元に置いておき、使う必要もこれといってなかったならば……それはそれで、また、よしじゃ……首尾よく快気致いた上は、また私が預かろうほどに……。」

と言って、金を置くと、ほうほうの体で帰って行った――。

 程なく、老人は死んだ。

 この老人、子供も親類もない、天涯孤独の独り者であったがため、老人の借家の大屋や、呼び出されたところの、老人の借家保証人となっていた店請の者、更に老人の住んで御座った町内の五人組などが集まり、形ばかりの粗末な葬式を出して同町の知れるところの寺に送った。

 さて葬送も終えて、老人の家財を改めてみたところが、何と金銭が総額十両程も御座ったれば、大屋・店請・五人組ら、語らってこっそり山分けにし、そ知らぬ風をして済まそうということになった。

 ところが――

……その、山分けにしたその日以来……

……亡くなった老人が、昔の自分の店(たな)の前に……ぼんやりと立っているのを見た……

……昨日は、大屋の玄関先に……亡くなった老人が、恨めしそうに立ち竦んでおるのをはっきりと見た……

……いやいや、店請の男の家(うち)の真ん前に……憤怒の相で立って御座ったのを確かに見た……

……先日は、見通せる五人組の各々の家の前に、独りずつ、同じ老人が五人立って奥を見ておったと!……

……といった噂が頻りに広(ひろ)ごり、当の大屋や店請らも――実際に見たのか、見なかったのか知らねども――何やらん、大いに恐れ戦いて、結局、山分けに致いた右金子を総て回収の上、その金を以って老人を、再度、手厚く弔ったということで御座った。

2010/02/08

耳囊 卷之二 幽靈なしとも難極事

 

「耳嚢 巻之二」に「幽靈なしとも難極事」を収載した。

 


 幽靈なしとも難極事

 

 

 天明二年の夏の初め、淺草新シ橋外の町家娘、武家に哉(や)又は町家に候哉、借老のかたらひなして、圍ひ者といへる樣に其親元へ預け置しが、一子を生て產後より血勞のやうに煩ひしゆへ、右小兒は最寄の輕き町家へ里子に遣し置けるが、右女養生叶はずしてみまかりけるが、其夜彼里子の許へいたりて門口より會釋せしまゝ、里親は右小兒を寢せ付居たりしが、能こそ來給へりと右里子を抱て見せければ、扨々よく肥り生人いたしたりとて抱取て色々介抱し、扨々愛らしく成たる者を捨て別れんも殘念なりといひしに、里親夫婦心付て、右女子は大病のよし聞しに、いかゞ不審成事と存けれ共、最早火もともす時分人影もさだかならざる折から故、火などとぼしければ、右女子を歸し、挨拶などして立歸りけるが、其翌日親元より右娘夜前病死せる由知らせ越しけるにぞ、母子の情難捨心の殘りしも恩愛の哀れなる事と、同町の醫師田原子(し)來りて語りぬ。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に連関を感じさせない。「卷之一」より続く「~難極事」怪談奇談シリーズ。

 

・「天明二年」西暦1782年。底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しに近いこの話は、アップ・トゥ・デイトな都市伝説の一つであったものと推測される。

 

・「新シ橋外」「江戸名所図会」巻之一の筋違橋(すじかいばし)の条に昌平橋について叙述し、昌平橋はこの筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷(しやうへいきやう)に比して号(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠(ほこら)は、この地淡路坂にあり。旧名を一口(いもあらひ)稲荷と称す』とあり、これに同定するのが正しいように読めるが、実は別に「新シ橋」と呼ばれた橋があった。江戸切絵図を見て発見、現在の「美倉橋」がそれである。なお、「外」は江戸城を内とした外側か。「近く」で訳した。

 

・「血勞」漢方では、「気血虚労」で気が衰退し、血が消耗して全身が疲労虚脱した状態にあることをいうが、ここは産後の肥立ちが悪い、と言うより、妊娠中毒症や出産時の異常出血等によって母体がダメージを受けたことを言っていると思われる。

 

・「生人」底本では右に『(成人)』と注する。

 

・「右女子を歸し」底本では右に『尊經閣本「右小兒をかゑし」』と注する。

 

・「田原子」田原氏のことであろう(「田原子」(たわらご)という姓でなかったとは言い切れぬものの)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 幽霊は存在しないとも極められぬ事

 

 

 天明二年の夏の始めのこと、浅草あたらし橋近くに住んでおった町屋の娘――この娘、本来は武家の出身であったものか、元々町家の者であったものかは、実は定かでないが――ある男と婚姻の約束をしながら、実際には妾同然に扱われて、親元――とりあえず、その町屋が親元とということにしておく――に預けられたままになって御座った。

 

 やがて、一子を出産致いたものの、産後の肥立ちが殊の外悪うして、その子は近所の低い身分の町屋の家に里子出して御座った。

 

 この女、その後、養生叶わずして、身罷って御座った……。

 

 

 その亡くなった日の夕暮れのことで御座った。

 

 女が、かの子を里子に出して御座った家を訪ねて参って、門口で会釈をして御座るのを、丁度、その子を寝かしつけて御座った里親の母ごが見かけ、

 

「ああ、よく来なすったの。」

 

と、この子をかき抱いて、女に見せてやったところ、

 

「……なんと、まあ、よう肥えて、大きゅうなりました……」

 

と、己が子を抱き取って、懇ろに愛でて御座ったが、ふと、

 

「……なんと、まあ、愛らしゅうなったものを……捨てて、別れねばならぬも……残念なこと……」

 

と呟くのを聴いた里親の夫婦、はっと気付く――。

 

『……そう言えば、この母ご……病い重きこと甚だしと聞いて御座ったに……このような夜ふけに、また……何やらんおかしい……』

 

と思いながらも、暫くそうして御座った――。

 

 

 気づけば、既に日も暮れ、最早、家内には火を灯す時分になって、人の姿・面貌もはっきりとは見えぬようになって御座った折柄、家内に灯をとぼしたところ、女は子を養母の手に返し、行灯の火の及ばぬところにすーっと下がると、

 

「……どうか……よろしゅう……お願い致します……」

 

と挨拶致いて、かの親元の家の方へと帰って行ったので御座った――。

 

 

 その翌日のこと、その親元より、かの娘、昨夜病死致いた由、知らせを寄越した、と――。

 

「……母の子を思う情、捨て難(がと)う……魂魄の心残り致いた業(わざ)か……慈愛、哀れなること……」

 

と、その亡き娘と同じ町内に住まうておった医師、田原氏が私の家を訪ねた折りの、語りで御座った。

 

2010/02/07

耳嚢 巻之二 堀部彌兵衞養子の事

「耳嚢 巻之二」に「堀部彌兵衞養子の事」を収載した。

2週間ぶりに休みがやってきた――

 堀部彌兵衞養子の事

 堀部彌兵衞養子は元來浪人にて安兵衞と號し、牛込邊何某といへる劍術の師の内弟子也しが、伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事を彌兵衞聞及て、實子なければ哀れかゝる武勇のものを養ひ子とせんと思ひしかども手寄(たより)なければ、直に彼師匠の許へ立越へ、安兵衞と言る門弟かゝる働有りと承る、四五萬石の大名の家中にて食祿三百石を領するもの養子を好候間可遣哉(つかはすべきや)、存寄承度(たき)と申談ければ、隨分承知に可有之。併(しかしながら)留守に候間歸り次第可承と右の師匠挨拶に付、彌兵衞は歸りける。扱も右師匠安兵衞へかく/\の養子口有、可參哉(や)、淺野内匠頭家來堀部彌兵衞といふ人の世話也と申ければ、安兵衞事も江戸表に於て親族も無之貧窮の者故、至極望はあれども如何と申ければ、先何れにも彌兵衞方へ罷越可談との事故、彌兵衞方へ罷越案内を申入、則安兵衞の由を申ければ、彌兵衞大に悦び座敷へ請じ對面し、彌々(いよいよ)養子承知に候哉(かな)、養父母は老人にて、主人の高(たか)并宛行(あてがひ)の處先達て師へ咄し候に少しも相違なしと申けるゆへ、困窮の浪人何も支度無之段申ければ、大小さへ所持いたし候へば何も入り不申(まうさざる)段申候上、承知の段安兵衞申ければ、則勝手へ入れ衣類大小を携へ出、則養子致し候者は某(それがし)也、主人の高も五萬石自分食祿も三百石也、今日より拙者悴(せがれ)也、左樣に心得可申段申達(まうしたつし)、さらば勝手へ通るべしと案内しける故、餘りの事に安兵衞も大に驚けるが、やがて父子の約をなしぬ。大石良雄報仇の節も、父子とも四十七人の内隨一の働せし者也と人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、ワライタケのブラックな中間の笑い声が、陽気で鮮やかな弥兵衛の喜悦の笑いに変じて快い。

・「堀部彌兵衞」堀部金丸(かなまる 又は あきざね 寛永4(1627)年~元禄161703)年)は赤穂藩家臣。食禄はここで言う通り、300石であるが、後に隠居料20石が加わっている。以下、ウィキの「堀部金丸」より引用する(相当量の引用となったが、この記事を読むに当ってはどれも省略することが出来ないと私には思われた。お許しあれ)。『浅野長重の家臣堀部弥兵衛綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より浅野長直、長友、長矩(内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から堀部文五郎言真を養子に迎えたが、藩主浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった』。『元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人中山安兵衛を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった』。ところが7年後の『元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。弥兵衛は藩邸を引き払い、馬淵一郎右衛門と変名して江戸に隠れ住む(堀部氏は近江源氏佐々木氏の馬淵氏支族であったので、先祖も称した本家の名字を使用したものと思われる)』。『弥兵衛は婿養子の安兵衛とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)大石内蔵助は仇討ちを決定して江戸に下り、弥兵衛は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、吉田忠左衛門らを招き酒宴を催した』。『1215日未明、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し、槍を持って門の警戒にあたった。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは吉良上野介を討ち果たして本懐を遂げ』、『討ち入り後は細川越中守屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった』とある。実際には弥兵衛にはもう一人養子がおり、堀部文五郎と言った。勿論、彼も『討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので弥兵衛から拒否され、討ち入り直前に連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた(弥兵衛の日記によると文五郎がどうしてもと望むので吉良邸前までは弥兵衛のお供をすることを許したという)。忠見家に帰されたあとも文五郎は堀部姓を名乗り、弥兵衛と安兵衛の切腹後はかわって堀部家を継』いだ。『元禄16年(1703年)赤穂義士に深く感銘していた熊本藩主細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続する』こととなったと記す。

・「安兵衞」堀部武庸(たけつね 寛文101670)年~元禄161703)年)、旧姓は中山。通称の安兵衛の名で知られる赤穂浪士四十七士中一番の剣客。忠臣蔵では大石内蔵助と人気を二分する。浪士の中で江戸急進派と呼ばれる勢力の首魁であった。以下、非常に優れたウィキの「堀部武庸」の記載より引用する(相当量の引用を行ったが、それほど、この記事は素晴らしい。お許しあれ)。『越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士溝口四郎兵衛の間にできた六女。したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたる。姉が三人おり、長女ちよは夭折、次女きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣町田新五左衛門に嫁いでいる』。『母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母・溝口秋香のところへ送られて、秋香を母代わりにして三歳まで育てられたが、秋香が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる』。『しかし安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力』。『浪人後、ほどなくして父・弥次右衛門が死去。孤児となった安兵衛は、はじめ母方の祖父・溝口四郎兵衛に引き取られたが、盛政もその後二年ほどで死去したため、姉きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られていった。元禄元年(1688年)19歳になった安兵衛は、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内源太左衛門の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』。『そんななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)』。『この決闘での安兵衛の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望んだ。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、弥兵衛の思い入れは強く、ついには主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。内匠頭も噂の剣客中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日)、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した』。『これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(827日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されている。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類である。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかる』。『赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主徳川光友正室千代姫(将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、浅野内匠頭からの弔問の使者には、この安兵衛が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた』。『しかし元禄14年(1701年)3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。安兵衛は江戸詰の藩士奥田孫太夫(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老大石内蔵助と面会。篭城、さもなくば吉良への仇討を主張したが、内蔵助からは「吉良への仇討はするが、大学様による浅野家再興が優先だ。時期を見よ」と諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、安兵衛らは江戸に戻ることとなった』。『しかしそれ以降も強硬に吉良への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した大石内蔵助に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。差出日8月19日(9月21日) の書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張』、『大石内蔵助は、安兵衛ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員安兵衛に論破されて急進派に加わってしまう。このため、大石内蔵助自らが江戸へ下り、安兵衛たちを説得しなければならなかった』。『元禄141110日(170112月9日)、大石内蔵助と堀部安兵衛は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。内蔵助は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を安兵衛に約束して京都へと戻っていった』。『しかし帰京した内蔵助は主君浅野内匠頭の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために安兵衛は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。実際、安兵衛は大坂にもよって原惣右衛門を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。しかし7月18日(8月11日)、浅野大学の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石内蔵助も覚悟を決めた。京都円山に安兵衛も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。安兵衛はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(9月3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた』。『そして元禄151214日(1703年1月30日)、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げた』。『松平久松隠岐守定直三田中屋敷跡討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助の嫡男大石主税らとともに松平隠岐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部文五郎が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。そもそも堀部氏は近江源氏佐々木氏族で、佐々木定綱の子馬淵広定より始まる馬淵氏の支族である。堀部家は代々佐々木氏の本家である六角氏に仕えていたが、主家が織豊時代に滅びたため、浅野氏に仕えることとなったといわれている。家紋の目結紋は、佐々木氏族の証しである』。「参考」欄には『安兵衛は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残した人物でもある。安兵衛が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者細井広沢に編纂をゆだね、今日に伝えている』とあり、また『剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係があったりするせいか、堀部安兵衛は、四十七士のなかでも特に人気が高い』とする。『養父弥兵衛とは血統上の関係は一切ないが、二人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(堀内伝右衛門覚書より)。二人の間には、愛し愛される実の親子以上の親交があったのだろう』という部分は、この記事のシーンを髣髴とさせるものである。

・「牛込邊何某といへる劍術の師」これは前注堀部武庸の事蹟にも現われた堀内正春(寛永181641)年~正徳3(1713)年)である。直心影流の剣術家で、通称、源左衛門。ウィキの「堀内正春」によれば、下野国に出身といい、『直心影流に堀内流という一派を立てて、江戸の小石川牛天神下に道場を持った。この堀内道場は江戸においては有数の道場として名を馳せるようになる。赤穂四十七士の堀部安兵衛や奥田孫太夫らも門弟である。特に堀部安兵衛は堀内道場一の高弟』として知られた、とある。

・「牛込」現在の新宿区東北部の地名。当時は大名や旗本の住む武家屋敷が集中していた(後に尾崎紅葉・夏目漱石らの近代文化人の居所としても知られる)。

・「伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事」御存知「高田馬場の決闘」のこと。元禄7(1694)年2月11日に高田馬場で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘。中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は、助太刀として参加したが、結局、これによって安兵衛は名を挙げることとなった。ウィキの「高田馬場の決闘」より引用する(話柄上の直接の関係はないが、私自身、この決闘の本来の原因を今回始めて知ったので、相当量の引用をお許し頂きたい)。『元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決める。『しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方村上家は三兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の関係を結んでいた剣客堀部安兵衛のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野はこれを聞いて同道を許可したので一緒に決闘場高田馬場へいくこととなった』。『元禄7年2月11日、四つ半頃(午前11時過ぎ頃)、菅野・安兵衛・若党・草履取りは高田馬場へ入った。安兵衛が馬場を見回すと、南之方馬場末から村上庄左衛門がやってきた。しかし一人だけとは思えぬと若党に見回りさせると木の蔭に村上の弟中津川祐見(文書の中に「此れは針医者にて御座候」とある)と村上三郎右衛門(「此れは浪人。庄左衛門にかかり罷在候」とある。すなわち村上庄左衛門の家にいる居候の弟のようである)がいた。挟み打つ手だてとみて菅野は安兵衛らに護衛されながら村上に歩み寄った。村上も近づいてきて十間まで迫ったところで二人は言葉を交わした。菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じた』。『そこへ村上の弟村上三郎右衛門が兄庄左衛門の後ろから回って斬りかかろうとしたので安兵衛が三郎右衛門の眉間を切り上げた。三郎右衛門はひるんで左の手を刀から離したが、なおも右の手で刀を振り下ろし安兵衛はこれを鍔で受けた。三郎右衛門は一度離れ、再度斬りかかったが、また鍔で受けとめられ、三郎右衛門の刀が引かれたところを踏み込んで三郎右衛門を正面から真っ二つにした』。『十間ばかり向こうでは菅野と村上が切りあっていた。しかし村上の剣で菅野が眉間を切られたので、安兵衛がはっとして駆け付けようとしたが、菅野も村上の左右の手を討ち落とした。村上は「ならぬ、ならぬ」と悲鳴をあげて引き下がったが、ならぬと言いながらもなおも眉間に打ち込もうとしてきた(手が落ちていては刀を握れないようにも思えるが原文はこうなっている。骨で止まり完全には落ちなかったか)ので安兵衛が西の方の上手で村上を斬り伏せた。さらに今一人(中津川祐見)が切りかかってきたのでこれも打ち倒した』。『この決闘で堀部安兵衛が斬った数は諸説あるが、この文書が安兵衛の書いた本物であるとすれば、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門と村上三郎右衛門と中津川祐見)ということになる』とある。『こののち江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して紹介され、さらに講談や芝居とするため劇化がなされた結果、この決闘にはさまざまな逸話が誕生することにな』り、『その代表的なものが「菅野が安兵衛の家に別れを告げに行ったとき、安兵衛は前夜他所で飲んで酔いつぶれていた為留守だった。菅野はやむなく文を書き残して高田馬場へ行く。昼近く、酔いから醒め家に戻った安兵衛は、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて高田馬場へと駆け出す。」という安兵衛が後から走って駆け付けて来たという逸話と「堀部ほりがこの決闘を見ていて安兵衛にしごきを貸す」という将来の結婚相手と運命的な出会いが決闘の時にあったという逸話』で、「高田馬場の決闘」と言えば、昭和3(1928)年伊藤大輔監督のサイレントの作品「血煙高田馬場」での私の大好きな大河内伝次郎が、たったと速駆けするシーンばかりが私には残っているのである。なお、『決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある』そうである。

・「手寄」岩波版ではこれに「てより」という特殊なルビを振るが、私は「たより」でよかろうと思う。

・「淺野内匠頭」浅野長矩(寛文7(1667)年~元禄141701)年)御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩主。

・「宛行」武家で主君から与えられる扶持(ふち)。禄。

・「支度」通常ならば男子養子縁組では養子側がそれなりの金品を払って養子を買うということなのだろうが、この場合は、逆に被養子側が没落した武士であるから、相応の持参金が必要というニュアンスなのか。それとも、単に養子縁組の儀式の為の支度金さえもない、という意味なのか。ひたすら「困窮」を言うのであるなら後者であろうが、先のウィキの「堀部武庸」には、当時の実際の安兵衛は『堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』とあるから、かなり裕福で、前者のようにも思える。但し、そもそも見た通り、実際には安兵衛は養子縁組に難色を示しており、この話のように即決ではなかったものと思われるから、こうした現実の細部を考えるのは無意味か。困窮で後者としておこう。

・「大石良雄報仇」「大石良雄」は御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。「報仇」討ち入りは元禄151214日(グレゴリオ暦では1703年1月30日)。

■やぶちゃん現代語訳

 堀部弥兵衛養子の事

 堀部弥兵衛の養子は元々浪人で、安兵衛と言うた。牛込辺に道場を構えていた、さる剣術の師匠の内弟子で御座ったが、この安兵衛が伯父の仇討ちに関わって高田馬場に於いて抜群の大働(おおばたら)きを致いたという話を、堀部弥兵衛が聞き及び、彼には男子がなかった故、

「なんと! かかる武勇の者を養子とせん!」

と思い到ったものの、全く縁も所縁もない人物であったがため、直ちにその剣術の師匠のもとを訪ねて、

「安兵衛殿と申す御門弟、大したお働き、と承って御座る。――実は、拙者の知り合いに四、五万石の大名に仕えて御座る、食禄三百石を領する者、良き養子を捜して御座れば――その安兵衛殿を、如何(いかが)? と存知、只今、お答えを戴きたく――」

と切り出したところ、師も、

「それは思いもよらぬ良縁で御座る。本人も必ずや承知仕るものと存ずる……しかし乍ら、只今、丁度、留守にて御座れば、帰り次第、件(くだん)の話を致いて、如何致すか訊き質いておきましょうぞ。」

との右師匠の挨拶なれば、良き感触を得て、弥兵衛は安堵して屋敷へと帰った。

 その日、しばらくして安兵衛が道場に戻ったので、師が、

「……といった養子縁組の話があるのじゃが、如何か? 浅野匠頭家来堀部弥兵衛殿という方の御紹介じゃ。」

と話すと、当の安兵衛も、

「……拙者、江戸表には親族もこれなき上……恥ずかしながら、生活、いたって不如意……願ってもない養子話なればこそ、何ら、異存御座らねど……余りに過褒にして急な話なれば……」

と躊躇する風情。そこで師匠は、

「……そうじゃな……されば、先ずはともあれ、その弥兵衛殿を訪ね申し上げ、少しく詳しい話を伺(うかご)うてから、ゆるりと決めるがよかろう。」

とのこと。

 そこで、その夜、安兵衛は堀部弥兵衛の屋敷を訪ねた。

 案内(あない)を乞うて、

「拙者は、昼つ方、お訪ね戴いた安兵衞にて御座る。」

と名乗ったところ、弥兵衛、甚だ悦んで、挨拶もそこそこに座敷内に引き込み、対座するや、

「いよいよ、養子縁組の話、御承知戴けたのじゃな! さても養父母は老人にて、主君石高並びに先方の禄高なんども、先にお話し致いたものと、全く違(たが)はぬものにて御座る!」

と一気にまくし立てる。

 安兵衛は余りの性急さに、

「……いえ、今日はまず、お話だけは伺わんものと参りまして御座ったもので……何せ、拙者、困窮致したる浪人にて御座れば……養子に入るための僅かの支度金なんども……一銭も御座らねばこそ……」

と言う言葉を弥兵衛、遮り、

「なに! 腰の大小さえ所持致し候らえば、他には何も! いり申さん!」

ときっぱりと告げる。

 余りに自信に満ちた弥兵衛の言葉に、安兵衛はとりあえず、

「……分かり申した。先方の御方へ、養子縁組承った旨、お伝え下され。」

と述べて、別れの挨拶を致そうとしたところが、

「さればこそ!」

と弥兵衛、安兵衛を残して勝手に走り込むや、衣類に新しき大小を抱えてとって返し、

「すなわち! そなたを養子に致したく存ずる者とは、拙者で御座る! 主君浅野匠頭様石高五万石、某(それがし)食禄も三百石! 今日只今より、お主は拙者の悴! 左様心得い!」

と言うが早いか、安兵衛の手をむんずと摑み、

「されば! 勝手へ通るがよいぞ!」

と慌しく家中案内(あない)に連れ回したれば――余りのことに、安兵衛も、吃驚り――やがて、その夜、そのまま堀部弥兵衛屋敷居間にて父子の約(ちぎり)を致いたということで御座る――。

 ――後、大石良雄内蔵助殿仇討の節、父子共々四十七士に加わり、その内、随一の大働きを成した、とある人の語ったことで御座る。

夢野傑作映画館氏より井上英作氏へのラメント

今日僕に送られた僕のマイミクにして畏敬する先輩脚本家夢野傑作映画館氏の井上英作兄への哀悼――

彼は、歴代政権の整合的航空行政の無策、反人民生を撃った。

しかし、3年前には、ほとんどの人が、彼の死を賭した抗議の意味に気づかなかっただろう。

今、航空行政のデタラメさは白日の下に露呈した。

炭鉱の中の酸欠に、まずカナリヤが反応するように、彼の鋭敏な感受性は反応した。

今も、無数の名も無きカナリヤが異常な鳴き声を発している。だがしかし、聴く耳を持たない者には何も聴こえない。まるでヘッドフォンをして、自分だけの音楽の世界に酔いしれている者のように…。

夢野傑作映画館

芥川龍之介「上海游記」の「二十 徐家匯」の「十字聖架萬世瞻依」注訂正写真追加

芥川龍之介「上海游記」の「二十 徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]の明代末の暦数学者にしてキリスト教徒であった徐光啓の墓の十字架に書かれた銘「十字聖架萬世瞻依」についての注で、僕は、

「十字の聖架、萬世(ばんせい)瞻依(せんい)す」
と読んで、
「この聖なる十字架を永遠に仰ぎ尊ぶものなり」
の意味であろう。

とした後、

この「依」は「仰」の誤植か芥川の見誤りではあるまいかと感じている。「瞻仰」(せんぎよう)なら「仰ぎ見る・仰ぎ慕う」という熟語として一般的であるし、「仰」の字と「依」の字はよく似ているからである。この十字架は未だにあるのだろうか? 実見されたことのある方の御教授を乞うものである。

としていたのだが、この私の推測が誤りであることが判明した。その経緯と共に以下のように注を追加補正(誤りはそのまま示して自戒とした)した。

数日前、私の本テクスト注をお読みになられた上海在住の未知の方(以降F様と呼称させて頂く)から、以下のようなメールを頂戴した(御本人の許諾を得て、以下に一部を引用させて頂く。一部改行を追加・省略させて戴いた)。

   ≪引用開始≫

偶然貴方の文章に接する機会があり、その中で下記の文章への疑問を述べられておられましたので散歩がてら調べて参りました。

十字聖架萬世瞻依

の『依』が『仰』ではないかの疑問ですが正しくは以下の通りです。

十字聖架百世瞻依

です。違っていたのは『依』ではなく、『萬』が『百』でした。

『瞻依』は『敬い慕う』の意味で使われたと思われます。この公園は、周囲を散歩する人や、お年寄りの朝夕の太極拳や中国将棋などに利用されております。マテオ・リッチの銅像などもありますがそれらに興味を惹かれる人は少ないようです。以前は徐光啓記念館は入場が有料でしたが今年から万博に併せてか無料になりました。休日の閑消には最適です。

   ≪引用終了≫

まず私は先の注では、迂闊にも辞書を引かずに思い付きで書いていた。確かに、「瞻依」(せんい)という「仰ぎ見て、尊び頼る」の意の、即ち「瞻仰」とほぼ同義の熟語があった。

而して瓢箪からコマで、芥川龍之介が「百」を「萬」と誤っていた事実が判明した。私が誤った誤字推測をしたことから、F様が逆に別な誤字を発見されるに到り、結果としてこの注をより正確なものに止揚することが出来た。

加えて、F様は更に、徐光啓記念館に出向かれ、現在の様子を撮影して下さり、写真を送って下さった。そこには芥川龍之介が眺めた、この「天主堂の尖塔」「十字架」もある。御好意でその総てを芥川龍之介「上海游記」本ページの方に掲載させて戴いた(写真の著作権は総てF様にあるので無断転載・加工一切を禁じる)。写真は、

①現在の徐光啓記念館の入口の石門上の墓誌名。芥川龍之介が記している「煉瓦の臺座」にあったとする「墓誌名」と比較されたい。あれに更に皇帝の顧問役「光祿大夫」が附いている。

②「十字聖架百世瞻依」の十字架。この写真をフレーム・アウト、背後の建物を消去、背景は一面の麦畑、5月、十字架下に芥川龍之介と3人をあなたがシャッターを押す――「不自然なる數秒の沈默」――。

③現在の徐光啓の墓。日本の古墳のような感じとF様のメールにある。独特の形状であり、かくあったならば芥川一行の目に触れなかったとは(更に、随行した現地の他の日本人が知らなかったとは考え難い。しかし、「墓は別にあつたのでせうか?」と芥川らしき「甲」が訊ね、それに「乙」が「さあ、さうかと思ひますが、――」という甚だ心もとない返事をしているところをみると、この墳墓は当時、崩れていて、麦畑の一角でしかなかったのかも知れない(写真中に人物が写っているがF様とは無関係な方である)。

④徐光啓記念館徐光啓胸像。

⑤徐光啓記念館内庭園にある、徐光啓がマテオ・リッチから「幾何学原論」の教授を受けるの像。新しいものであろうが、教えを受ける論理的な内容に比して、二人の妙に優しい視線の交差が何ともよい。

の5葉である。是非、写真を芥川龍之介「上海游記」ページで御覧あれ。

そして、

何よりこのような御教授を下さり、そのための御写真まで撮って送って下さったF様に、心より感謝御礼申し上げます。

井上英作兄悼 又は ファイアー・ローズ

演劇部の合同公演に付き合い――うちは練習不足は否めぬものの、15分の軽いコントとしては及第点だ――いや、それにしても相手校の青年達の心の絆を描くオリジナル脚本「クリスマス・ローズ」の俳優達のテンションは美事であった。久しぶりに高校生らしい祝祭的演劇を見た気がする。君達の瞳に乾杯!――夜帰って、買い込んだ出来合いのイタリアンでワインを飲み、メールを整理し、一週間、入試やら何やらでぐだぐだになって、左耳も右手も不調、疲れが溜まっているから10時半過ぎには寝てしまった――ところが妙に切迫した夢――それはおぼろげな「誰か」の激しい「何か」の怒りの夢、そして未明の路上で僕の財布を奪おうとする男に対して激しい憤りの夢、そんな二つばかりを見て、その強盗の後姿に「ギエェ!!!」という怪物のようなうわ言を発した自分に驚いて――1時に目が覚めたのであった。心臓がいつになくひどくドキドキして、左の耳鳴りの鼓膜に鈍く響く。昼間の芝居のテンションのせいかとも思ったが、ニル・アドミラリの僕にしては如何にも不審であった――ここ数日、どうしてもやりたいテクスト作業が複数あったから、そのせいかとも思ったが、それにしてもこの拍動は妙だ――。メールを開くと、ある知人から「早いものです…」という題名が目に付いた瞬間、気がついた……そうか、もう、あの畏兄の自死から3年経っていたんだ……

井上兄――

一日遅れのファイアー・ローズ……雪よ、降れ! 血のような真っ赤な雪よ、おぞましき滑走路を埋め尽くせ!……

2010/02/03

耳囊 卷之二 解毒の法可承置事

 

「耳囊 卷之二」に「解毒の法可承置事」を収載した。

 

 

 解毒の法可承置事

 

 予白山に有し比(ころ)同隣の人語りけるは、大前古孫兵衞の屋鋪の中間(ちゆうげん)、或日庭のうちに出來し菌(きのこ)を調味して給(たべ)けるが、頻に笑ひ出しいかに叱り尋ても答へはなく只答ひ苦しみけるが、全く狐狸のなす所と山伏など加持なしけれど其印なし。其頃御藥園(おやくゑん)肝煎(きもいり)いたしける小川隆好(りゆうかう)といへる醫師是を見て、食毒なるべしとて尋ければ、傍輩(はうばい)なるもの、今朝庭の内楓の根にできたる茸を給し由語りければ、さればこそ楓に出來たる茸は笑ひ茸とて毒氣ありて笑ひ止(やま)ず、終には死せる事なりとて、兩便不淨などいたせる所の最寄に土色黑くなりし所をとりて、湯にほだて呑せけるに、吐却して毒氣を解(げ)しけるが早速快復せしと也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。蕎麦溶解術・歯痛除去術とこれで三連発。

 

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。

 

・「大前古孫兵衞」大前孫兵衞。「古」は「故」人で「故人」の謂いかと思われる。底本の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、岩波版長谷川氏注では、この「古」=「故」に着目し、先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。

 

・「中間」仲間。本来は公家や寺院などに召し使われた男性を言い、身分が侍と小者との間にあったことからの謂い。中間男。江戸期に入ってから、武士に仕え、雑務に従った者を言うようになった。

 

・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年1221日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。

 

・「肝煎」支配役・世話役。今風に言えば小石川養生所院長である。幕府職制の中で新規制度であったために(江戸幕府の職制にはそれ以前から肝煎という職名が存在し、同じ職掌中で支配役または世話役に相当する者を指したが、一般に知られているのは高家肝煎・寄合肝煎等である)、このように呼ばれているものと思われる。

 

・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文121672)年~宝暦101760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)121日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、

 

身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること

 

幕府医師が交代で養生所での治療にあたること

 

看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること

 

維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと

 

と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年1221日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)614日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保111726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。

 

・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus ウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径24cm、柄の長さ510cm。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ( Panaeolus sphinctrinus )と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン (R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は510㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。

 

   《当該ブログからの引用開始》

 

ワライタケ

 

Panaeolus papilionaceus

 

ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属

 

春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。

 

エピソード:

 

大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。

 

その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。

 

本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。

 

   《当該ブログからの引用終了》

 

最後に注しておくと、小川は「楓に出來たる茸は笑ひ茸とて」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への限定的植生はない。

 

・「ほだて」は「攪(ほだ)つ」で、掻き回す、掻き回すの意。

 

・「解しけるが」岩波版は「解しけるか」。そちらを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 種々の実際的解毒法はそれなりに知っておくべきである事

 

 私が白山に住んで御座った頃、隣人から聞いた話。

 

 ある日のこと、故大前孫兵衛殿の屋敷の中間が、屋敷の庭内に生えた茸を料理して食ったところが、頻りに笑い出し、傍(そば)の者が、

 

「うるさい! 止めんか!」

 

とどんなに叱ろうとも、

 

「何が可笑しい!?」

 

と声高に訊ねても一向に答えず、ただもう、笑い苦しんでおるばかり。

 

「……これはもう、てっきり、狐狸の成す業(わざ)じゃ!」

 

と、山伏なんどを呼んで加持祈禱致たれど、一向に験(しるし)がない。

 

 その頃、近くの小石川の御薬園の支配方を命ぜられて御座った小川隆好(りゅうこう)という医師を呼び、診て貰ろうたところ、一見して、

 

「恐らく食中毒で御座ろう。」

 

と見立て、傍輩の者に、当人のここ数日の食事について尋ねたところ、

 

「……そう言えば……今朝方、庭内の楓の根元に生えた茸を食って御座ったの……」

 

と語る。すると即座に、

 

「さればこそ――楓に生えたる茸はワライダケと申しての、毒気が御座って笑いが止まらぬようになるもの。この症状、放置せば、遂には死に至るものにて御座る――」

 

というや、隆好は屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡ってどす黒くなった場所の土を採取致いて、湯に入れて素早く掻き混ぜ、中間に一気に飲ませた――すると、たちどころに吐瀉し――間に合(お)うて解毒出来たものか、即座に恢復致いたとのことで御座った。

 

2010/02/02

耳嚢 巻之二 蕎麥を解す奇法の事

「耳嚢 巻之二」に「蕎麥を解す奇法の事」を収載した。

 蕎麥を解す奇法の事

 ある人荒和布(あらめ)をうでし鍋を一通りに洗ひ蕎蓼をうでけるに、兎角水になりて用立ざりしといへるを其席の人聞て、あらめはすべて蕎麥を解し侯妙藥の由語りしに思ひ當りぬると人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。次毒キノコ解毒法とで三連発。

・「真核生物クロムアルベオラータChromalveolata界ストラメノパイル Stramenopiles亜界不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclis。但し、アラメに豊富に含まれれるアルギン酸等には、蕎麦の蛋白質を溶解する効果はない。アラメを茹でた際に出る渋(シブ)に何らかの溶解酵素が含まれている可能性がないとは言えないが、そのような記載を見出すことは出来なかった(それどころかアラメを混ぜた蕎麦まで存在する。更に、これは偶然なのか、蕎麦粉のことを「アラメ」と呼ぶのである)。江戸期のアラメEisenia bicyclisに対する認識については、私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海帶(あらめ)」の項を是非、参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 蕎麦を溶かす奇法の事

 ある人が、

「海藻の荒布(アラメ)を茹でた鍋をさっと洗ったもので蕎麦を茹でたのだが、蕎麦がすっかり水に融けてしまい、蕎麦を食い損なった。」

と言ったのを、同席して御座った物知りが聞いて、

「いや、荒布は、全く以って、蕎麦を消化致すによい妙薬なので、御座る。」

との由、答えて御座った――という話を私の知人が、また聞き致いて、これもまた、さもありなん、と思い当たって御座った――と私に語って御座った。

2010/02/01

耳嚢 巻之二 蟲齒痛を去る奇法の事

「耳嚢 巻之二」に「蟲齒痛を去る奇法の事」を収載した。

蟲齒痛を去る奇法の事

 韮の實を火に焚て、右煙を以て痛(いたみ)侯所を管(くだ)などにて通し、いぶし候へば即效有りと人の語りしに、又或人のいへるは筆を燒て半盥(はんどう)やうの物へ入、韮の實を龜湯をかけ候へば煙り立ち候を、右煙にて耳を蒸し候へば、耳より白き物出候。右白き物は蟲齒の蟲也といへるが、まのあたり樣(ため)し見しと人の語りける。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。蛇を愛玩する奇癖→御茶屋倅の奇物→虫歯の虫を押し出す奇術と、「奇」繋がりではあるが、「耳嚢」の総体は「奇」であればこそコジツケ。

・「蟲齒痛を去る奇法」これについて、2008年4月10日発行の『日本歯科医史学会会誌』に『「耳嚢」にみられる歯痛の治療法について』という鶴見大学歯学部の佐藤恭道・戸出一郎・雨宮義弘各氏による共著論文があることが、国立情報学研究所の論文情報ナビゲータによって確認出来る(出来るが、有料論文で、興味はあるものの、流石に金を払ってまで見る気は、私はしない。興味のあられる方はどうぞ)。

・「韮の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目ネギ科ネギ属ニラAllium tuberosumの実は、漢方で日干しにして乾燥させたものを「韮子」(キュウシ)と称して生薬として用いる。但し、現在知られる効能は強壮・強精・止瀉で、インポテンツ・遺精・頻尿・腰気(こしけ)・下痢を適応症としており、歯痛鎮痛の記載はない。但し、富山県氷見市村上養生堂漢方薬局(懐かしい! 私は高校時代、氷見の同級生の女性と付き合っていた。この店の前もデートの折りに――交換日記のノートを買うために歩いた、その街角にあったのを確かに覚えているのだ――通ったことがある!)のHP中の「歯痛あれこれ」に『虫食い齲歯にも古人は沢山の簡便法を持っている。例えば王海藏は梧桐泪で火毒風疳の齲歯を治しているし、林元礼は蟾酥で虫歯を治し、朱丹渓は韮子を艾葉と共に燻じて煙で虫を追い出している。呉崑は新しい石灰を蜜丸にして虫食いの所へ入れて手で抑えて治している。これらは我々もつとに試みている事で確かに効果がある。歯科のない農村にあっては大変活用されている』とあり(コピー・ペーストであるが改行を省略した。下線はやぶちゃん)、古くはその効用が認められていたものと思われる。因みに引用文下線部の朱丹渓(12811358)は元代の名医。艾葉は双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科ヨモギ属の変種ヨモギArtemisia indica var. maximowicziiの葉を乾燥させた生薬で、単独では胆汁分泌促進・食欲増進・止血作用を持ち、高血圧・神経痛・下痢・便秘・胸焼け・鼻血・痔・血尿・冷えによる腹痛などを適応症とする。

・「筆」底本ではこの右に『(尊經閣本「瓦」)』とある。「筆」を採った。

・「半盥(はんどう)」は底本のルビ。諸注は「耳盥」とか「飯銅」と記すが、これは「半桶」「盤切」等とも書く「半切り」(はんぎり)のことであろう。盥(たらい)状の浅くて広い桶。「半切り桶」「はんぎれ」等とも呼称し、「半盥」は音読みするなら「ハンクワン(カン)」で、「はんどう」とは読めない。「盥」の「どう」という音訓はないのである。これは「半桶」の音読み「ハントウ(ハンドウ)」と、その盥のような形状から造語してしまったものではなかろうかと私は考える。現在の医療用の膿盆のようなものを想起すればよいように思われるが、如何?

・「實を龜湯を」:底本ではこの右に『(尊經閣本「實を置」)』とあるが、これは「韮の實を置かけ候」なのか「韮の實を置候」なのか、判然としない。注位置からは「韮の實を置かけ候」の謂いと見える。

・「龜湯」岩波版ではただ「湯」とする。亀湯では銭湯の名前みたようで訳しようがない。岩波版を採った。

・「樣(ため)し」は底本のルビ。「試す」の意で訳した。

○補足:平塚市にある平野歯科医院(院長・平野美治氏)のHPにある「院内新聞バックナンバー【第05号】」(発行:医療法人社団慈篤会 平野歯科医院 発刊日1999年6月4日)に院長平野氏御本人の記事で「古老のつぶやき-第3話-虫歯の話(お呪い)」というのがあり、氏の40年来の御友人で愛知県岡崎市生のN氏の知る、奇妙な歯痛の呪(まじな)いについての詳細な施術記載と、驚くなかれ、この「耳嚢」の記載がそのまま『明治大正時代の歯の文献』に記載されていること等が示されている。以下に引用しておく(非常に失礼乍ら、OCRによる読み込みのままにアップされたものらしく、誤りが非常に多い。そこで、読みやすくするために一部に改行・句読点を施し、示されていない図指示部分をカット、誤りと思われる部分その他に注を附してある。平野先生、御容赦の程)。

   《引用開始》

1. 火鉢に鉄板を起き加熱する。

2. その上にゴマの油を数滴たらす。

3. その上にお椀のそこに穴を開け女竹を差し込んで、椀をかぶせる禅に置く。[やぶちゃん注:「椀をかぶせる。膳に置く。」の誤りか?]

4. 女竹の先から煙が出る。その煙を痛む側の耳の穴に入れ、しばらくそのままして…[やぶちゃん注:「…」はママ。]

5. 椀を採ると、鉄板の上に白いカスが出る。これが通稻虫歯の虫で、これが出れば痛みは治る[やぶちゃん注:「通稻」は「通稱(称)」の誤りであろう。]。

とのことであった。当然歯科医師の私には信じられるものではなく一笑に付した。ところが最近明治大正時代の歯の文献を読んでいると偶然にもN氏の話と同様なことが記されていた。

(よはい草 第1輌)

韮の実を火に焚いて、右煙を以て、痛むところへ管を以て通じいぶしければ、即効なり。亦瓦を焼いて半盥やうの物に入れ、韮の実をおいて湯を掛け喉へば煙り立つを、その煙にて耳をむせば、耳の中より白きもの出れば虫歯の虫なり。

これを見て今更の様に当時の庶民生活の一端を彷彿させられた。そこで「お呪い」について調べると、

・茄子の帯を黒焼きにして寝る前につける[やぶちゃん注:「黒焼きにし七」とあるが、独断で「て」に改めた。]。

・半紙へ自分の顔を描き、口を大きく描き、歯の数を書いて、その痛む歯に灸をすえて、紙を焼きぬくと治る。

・白紙を十六カ所折り、痛む歯のうえから押さえる。

・桃の枝を折って噛む。

・蛸の絵を紙に書き、逆にして下に貼り、終始水をかけると治る。

・ざくろの皮を噛みしめる。

・腹蛇の骨を痛む歯で噛む[やぶちゃん注:「腹蛇」は「蝮」「蝮蛇」でマムシの誤りではあるまいか?]。

等に多数あるが特に神奈川県におけるお呪いでは[やぶちゃん注:「等に」はママ。]、

真言宗大師堂の両側に八視大師の像がある。この画像に「死ぬる前に一年を差上げる故癒して下さい。」と祈念する[やぶちゃん注:「八視大師」は不詳。所在する寺院も分からない。]。

落雷がした杉の木の一片を噛む。

相模国愛甲郡小鮎川上流の河畔に繭歯地蔵というのがある。画歯になやむ者、己の常用する箸を持ち小鮎川にかけた小橋を渡れば治る。ただし大橋を渡れば一旦治っても亦痛む。大橋より小橋の方が人通りが多いのはこれ故なり[やぶちゃん注:「繭歯」「画歯」は何れも「蟲(虫)歯」の誤りであろう。]。

   《引用終了》

■やぶちゃん現代語訳

 虫歯の痛みを除去する変わった療法の事

 韮の実を火にて焚(た)き、その煙を竹・木管などを用いて痛むところの虫歯の部分に導いてやり、燻(いぶ)してやると即効ありとある人が語ったのであるが、また、ある人は、長く用いた筆を焼き、膿盆様のものに入れ、その上に韮の実を撒き散らし、湯をかける。すると、煙が立つ。立ち始めるたら、袋等を用いて即座に、その煙を以って耳を蒸してやると、耳から白いものが滲出してくる。その白いものは虫歯の虫である――と、言うのであるが、如何(いかん)?――「目の当たりに試して見て、事実であった。」とは、これまた、人の話では御座る。

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