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« 耳嚢 巻之二 蕎麥を解す奇法の事 | トップページ | 井上英作兄悼 又は ファイアー・ローズ »

2010/02/03

耳囊 卷之二 解毒の法可承置事

 

「耳囊 卷之二」に「解毒の法可承置事」を収載した。

 

 

 解毒の法可承置事

 

 予白山に有し比(ころ)同隣の人語りけるは、大前古孫兵衞の屋鋪の中間(ちゆうげん)、或日庭のうちに出來し菌(きのこ)を調味して給(たべ)けるが、頻に笑ひ出しいかに叱り尋ても答へはなく只答ひ苦しみけるが、全く狐狸のなす所と山伏など加持なしけれど其印なし。其頃御藥園(おやくゑん)肝煎(きもいり)いたしける小川隆好(りゆうかう)といへる醫師是を見て、食毒なるべしとて尋ければ、傍輩(はうばい)なるもの、今朝庭の内楓の根にできたる茸を給し由語りければ、さればこそ楓に出來たる茸は笑ひ茸とて毒氣ありて笑ひ止(やま)ず、終には死せる事なりとて、兩便不淨などいたせる所の最寄に土色黑くなりし所をとりて、湯にほだて呑せけるに、吐却して毒氣を解(げ)しけるが早速快復せしと也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。蕎麦溶解術・歯痛除去術とこれで三連発。

 

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。

 

・「大前古孫兵衞」大前孫兵衞。「古」は「故」人で「故人」の謂いかと思われる。底本の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、岩波版長谷川氏注では、この「古」=「故」に着目し、先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。

 

・「中間」仲間。本来は公家や寺院などに召し使われた男性を言い、身分が侍と小者との間にあったことからの謂い。中間男。江戸期に入ってから、武士に仕え、雑務に従った者を言うようになった。

 

・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年1221日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。

 

・「肝煎」支配役・世話役。今風に言えば小石川養生所院長である。幕府職制の中で新規制度であったために(江戸幕府の職制にはそれ以前から肝煎という職名が存在し、同じ職掌中で支配役または世話役に相当する者を指したが、一般に知られているのは高家肝煎・寄合肝煎等である)、このように呼ばれているものと思われる。

 

・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文121672)年~宝暦101760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)121日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、

 

身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること

 

幕府医師が交代で養生所での治療にあたること

 

看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること

 

維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと

 

と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年1221日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)614日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保111726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。

 

・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus ウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径24cm、柄の長さ510cm。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ( Panaeolus sphinctrinus )と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン (R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は510㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。

 

   《当該ブログからの引用開始》

 

ワライタケ

 

Panaeolus papilionaceus

 

ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属

 

春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。

 

エピソード:

 

大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。

 

その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。

 

本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。

 

   《当該ブログからの引用終了》

 

最後に注しておくと、小川は「楓に出來たる茸は笑ひ茸とて」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への限定的植生はない。

 

・「ほだて」は「攪(ほだ)つ」で、掻き回す、掻き回すの意。

 

・「解しけるが」岩波版は「解しけるか」。そちらを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 種々の実際的解毒法はそれなりに知っておくべきである事

 

 私が白山に住んで御座った頃、隣人から聞いた話。

 

 ある日のこと、故大前孫兵衛殿の屋敷の中間が、屋敷の庭内に生えた茸を料理して食ったところが、頻りに笑い出し、傍(そば)の者が、

 

「うるさい! 止めんか!」

 

とどんなに叱ろうとも、

 

「何が可笑しい!?」

 

と声高に訊ねても一向に答えず、ただもう、笑い苦しんでおるばかり。

 

「……これはもう、てっきり、狐狸の成す業(わざ)じゃ!」

 

と、山伏なんどを呼んで加持祈禱致たれど、一向に験(しるし)がない。

 

 その頃、近くの小石川の御薬園の支配方を命ぜられて御座った小川隆好(りゅうこう)という医師を呼び、診て貰ろうたところ、一見して、

 

「恐らく食中毒で御座ろう。」

 

と見立て、傍輩の者に、当人のここ数日の食事について尋ねたところ、

 

「……そう言えば……今朝方、庭内の楓の根元に生えた茸を食って御座ったの……」

 

と語る。すると即座に、

 

「さればこそ――楓に生えたる茸はワライダケと申しての、毒気が御座って笑いが止まらぬようになるもの。この症状、放置せば、遂には死に至るものにて御座る――」

 

というや、隆好は屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡ってどす黒くなった場所の土を採取致いて、湯に入れて素早く掻き混ぜ、中間に一気に飲ませた――すると、たちどころに吐瀉し――間に合(お)うて解毒出来たものか、即座に恢復致いたとのことで御座った。

 

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