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« 耳嚢 巻之二 執心殘りし事 | トップページ | 耳嚢 巻之二 日の御崎神事の事 »

2010/02/10

耳嚢 巻之二 吉比津宮釜鳴の事

「耳嚢 巻之二」に「吉比津宮釜鳴の事」を収載した。

 吉比津宮釜鳴の事

 桑原豫州長崎往來に吉比津の宮へ參詣せしに、右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し。御供(ごくう)を獻じ候ときは、神人(じにん)米壹合程右の釜の内へ入、磨鹽水などにて淸め、松ばを少し釜の下にて焚候へば、最初は鈴の(音の響く程に鳴りて段々嶋音高く、後にはあたりへも)響きて移しく聞へける。やがて神人鹽水を打ぬれば鳴音も又止ぬと語りぬ。戸田因州も其席におはしけるが、先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが、不思議の事と語り給ひし。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に強い連関を感じさせないが、幽霊譚から神仏霊験譚の流れとして自然。

・「吉比津宮」岡山市北区吉備津(備中国と備前国の境にある吉備中山の北西)にある吉備津神社。吉備津彦命(きびつひこのみこと:孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍(崇神天皇10B.C.88?)年に天皇より北陸・東海・西道・丹波に、まつろわぬ民あらば平定せよ、との命を受けて派遣された、大彦命(おおびこのみこと)・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・吉備津彦命(きびつひこのみこと)・丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す)の一人として山陽道に派遣され吉備を平定したとされ、吉備臣のルーツ。)を主祭神とする山陽道屈指の大社。社殿は本邦唯一の比翼入母屋造り(吉備津造り)。以下の釜鳴神事(上田秋成の「雨月物語」のズバリ「吉備津の釜」で広く知られる)、主神と釜に纏わる桃太郎伝説の地としても知られる。

・「釜鳴」吉備津神社の縁起及び岡山県で伝承されている神話によれば、吉備津彦命は『鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ』、更に一説には『命の家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われ』る(以上の引用はウィキの「吉備津彦命」によるが、この神話には別に細部に関わる因縁譚があり、それは次で示す)。この釜鳴神事は、釜を用いて米を蒸す際、釜が奇妙な音を出し、その音の強弱・長短などを以って吉凶を占う(一般には強く高く長く鳴れば吉、無音なれば凶とする)神事で、各地に見られるが、ここ吉備津神社をルーツとすると言われる。熱湯による真偽の判断を占う盟神探湯(くがだち)やその流れを汲む湯立(ゆだて)・湯起請(ゆぎしょう)と等の呪術と同じい。以下、科学的考察も絡めてコンパクトに纏めている、ウィキの「鳴釜神事」の吉備津神社のパート部分を引用する。吉備津『神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神官の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神官と共に神事を執り行った。現在も神官と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。神事は『まず、釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神官が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、音は、米と蒸気等の温度差により生じる振動によると考えられている。100ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って1㎜ぐらいの穴を通るとこの現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも鉄鍋と蒸篭を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の百済の王子が来訪、土地の豪族となったが、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。被征服民族の神を邪神に引き下ろして滅ぼしながら、その御霊(ごりょう)を畏れてそれを祀り、祀りながらそれを自国防衛の宗教的システムに取り入れてゆくという、狡猾な国策である。公平を期すために、「吉備津神社」の公式サイト「釜鳴神事」解説からも引用しておく(記号の一部を変更した)。『当社には鳴釜神事という特殊神事があります。この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされる。永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されており、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます』。『釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらし』く、それに『陰陽道的解釈が加えられていったと考えられます』。『この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております』。『お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました』。『この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます』(以上の引用部分の著作権表示(C)2008.Kibitsu Jinja All rights reserved.)。

・「桑原豫州」桑原伊予守盛員(もりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。

・「右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し」「すへ」はママ(据えるの意味の古語は「据う」でワ行下二段活用又は「据ゆ」でヤ行下二段活用であるから「すゑ」又は「すえ」でなくてはならない)。私は吉備津神社に行ったことがないので、吉備津神社公式サイトの境内図等で確認したところ、少なくとも現在、釜は本殿にあるのではなく、本殿の左手から回廊を本宮社のある山手へ向かった中間点を右に下った神池畔に釜殿という特別な社殿が設えられており、釜はここにあって、釜鳴神事もそこで執り行われている。

・「御供(ごくう)」は底本のルビ。岩波版は普通に「お供(そなえ)」と振るが、古語としては底本がいい。神仏に供える物、お供物。ここでの「米」は神事・卜占に用いる以上、立派なお供物である。

・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。

・「戸田因州」戸田因幡守忠寛(ただとお 元文4(1739)年~寛政131801)年)。肥前国島原藩第2代藩主・下野国宇都宮藩(77850石)初代藩主。ウィキの「戸田忠寛」によれば、宝暦4(1754)年に『肥前国島原藩主となり、従五位下因幡守に叙せられ』、『明和7年(1770年)、奏者番となる。安永3年(1774年)、領地を転じて下野国宇都宮藩主となり、宇都宮城を居城とする。幕府より5,000両を借りて城を造営し、同5年(1776年)、寺社奉行を兼ねて、天明2年(1782年)9月、大坂城代となる。同年、旧領改め、河内国、播磨国に所領を移封され、同4年(1784年)5月、京都所司代に補任し侍従に任官する。同年9月、所領を河内国、摂津国に移され、同7年(1787年)12月、所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となる。この年に、京都伏見にて市人争訟の儀あったが、その計らいが不十分であったとされ、出仕が停められた』。『間もなく免ぜられ、寛政10年(1798年)6月21日に致仕・隠居した。同13年(1801年)正月晦日に没する。享年63』とある。さて、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、天明4(1784)年には佐渡奉行として赴任しているから、この三者の同席の下限は天明4(1784)年より以前ということになる。しかし、戸田は「先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが」と言う以上、これは天明2(1782)年に岡山に近い播磨国に戸田が移封された折のことを指すとしか考えられない。すると、「先領」と言って過去形を用いていることから、自動的に、これは天明4(1784)年9月以降、所領を河内国・摂津国に移封されて以降のことになる。天明4(1784)年ならば桑原は勘定奉行で江戸在住である。ところが、ここに疑問が生ずる。それは、この時期の戸田は京都所司代であるから、江戸にいて桑原・戸田・根岸の三者がゆるりと談話するというシチュエーションは考えにくいと私は思うのである。そうすると、推定し得る可能性は、根岸が佐渡奉行から勘定奉行に栄転して帰府した天明7(1787)年以降、同7年12月に戸田が所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となってからであると考えるのが自然ではないかと思われる(桑原は勘定奉行・大目付であるから問題なく江戸に在住する)。更に言えば、その下限は桑原と戸田二人がほぼ同時に致仕・隠居したと考えられる寛政101798)年以降まで含まれるもののように思われる。いや、この話柄そのものが隠居した大先輩を相手にして根岸が聞き書きしたものと考える方が分かりがよいように私は思うのである。鈴木氏の執筆年代推定は各巻の年代が特定出来るものを用いたものであって、厳格な区分とは言えない(もし私の推測が正しく、執筆区分が厳密なものであるとすれば、この話柄は下限を文化元(1804)年7月までとする「卷之六」になくてはならない)。100話に揃え、整序する作業は当然、全巻の執筆後にも行われたものと思われるから、以上から、私は本話の成立は天明7(1787)年よりもずっと後、寛政101798)年前後ではなかったかと推定するものである。

・「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」底本注で鈴木氏は『他領の神社へ度々参ったというのは解しがたい』とされているが、当時の備中国一宮(現・岡山県岡山市)に所在する吉備津神社と戸田の旧領である播磨国(現在の兵庫県南西部)は姫路と吉備間でも直線距離で100㎞を超える。これを「右最寄」と言うかどうかも、やや疑問ではある。それに、縁も所縁もないこの播磨国に、たかだか2年間の移封中、「度々」国入りし、更に100㎞も先の吉備津神社「へも至りし」というのは、やや解せぬどころではない気がするのは、私だけであろうか。

■やぶちゃん現代語訳

 吉備津の宮釜鳴り神事の事

 長崎奉行をされたことのある桑原伊予守盛員殿の話。

「拙者が長崎へと赴く道中、吉備津の宮に参詣致いた折り、この神社の中には、直径四尺余りの大釜が、曰く、釜壇という場所に据えられて、鎮座致いて御座った。御供物を献じて御座れば、神主が米一合ほど、この釜の中に入れ、塩を含んだ水などを以って、清めたつつ、釜中に注ぎ入れて、松の葉を少しばかり釜の下にて焚いて御座れば、最初、鈴の響きほどの音(ね)が鳴り始め、だんだんと鳴る音が高うなり、遂には辺りへも大きに響くほど、びっくりするような音(おと)が聞えてくるので御座る。やがて神主が、釜の中にぱっと塩水を打つと、鳴る音(おと)も止んで御座った。」

 この話を聞いた折りには、戸田因幡守忠寛(ただとお)公もその場に同席しておられたが、

「拙者の前の領地、その近辺にて御座ったれば、度々その宮を参詣致いたが、誠(まっこと)、不思議なる釜鳴りであったよのう――。」

と仰せられた。

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