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2010/02/13

耳嚢 巻之二 無思掛悟道の沙汰有し事

「耳嚢 巻之二」に「無思掛悟道の沙汰有し事」を収載した。早朝にアップしたが、HPへの転送を失念していた。これは一見、この僧を軽蔑しているようにも見えるが、禅話としては、こうした話柄決して珍しくないものである。少なくとも、これを自ら語る禅僧は僕には魅力的である。

 無思掛悟道の沙汰有し事

 予が知音の元へ來る禪僧の咄けるは、禪家に入座禪を致し習ふ始には甚だ苦しき故足をゆはへて仕習ひける事也。夫に付おかしき咄の有とて語りけるは、彼僧初學の節檀家の病死人ありて棺中へ納、側に彼の出家を頼み附置、親族なども代るがはる居たりしが、例の通り結伽趺座して足を結ひ座禪修行の心にて心を靜め居たりしに、右亡者浮腫の煩ひ故哉(や)、棺中にて水気洩れ候と見へて怪しき音小高く聞へければ、側に居たりし親族の男女はわつといふて右一間を互に逃出ける故、僧も恐しく逃んと思ひけるが、足を結ひ置しゆへ立事叶わず、無據心を靜め居たりしが、全(まつたく)浮腫の死骸故水の溢れ候と心付て怖敷事去りぬれば其優に有しを、家内親族追々立戻り、流石は禪氣の勝れし出家なりと感心して寄依しけるもおかしけれと語りしとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏に纏わる奇譚(但し、こちらは霊異譚ではなく、事実談として解析も美事)で連関。

・「結伽趺座」通常は「結跏趺坐」と書く。「跏」は足の裏、「趺」は足の甲の意で、坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ反対の大腿部の上に乗せて押さえる。先に右足を曲げ、左足を乗せるのを降魔坐(ごうまざ)と言い(修行の体)、その逆を吉祥坐という(悟達の体。蓮華座とも)。仏の坐法であり、禅宗の座禅行で用いられる。

・「浮腫」通常は主に顔や手足の末端に近い部分が、体内の水分の増加によって多くは痛みを伴わずに腫れる(むくんでくる)症状。医学的には細胞外液量の増加により発生する症状で、生化学的には体内の総ナトリウム量の増加によって、浸透圧が上昇、細胞間質(液細胞組織内の液体部分)と血液・リンパ液との圧力バランスが崩れて、それにより水分の貯留が惹起される現象である。ただの疲労によるむくみもあるが、典型的な浮腫が顕著に見られるものとして心不全・ネフローゼ症候群・肝硬変の他、甲状腺異常・血管及びリンパ系循環障害・悪性腫瘍・深部静脈血栓症等の重篤な疾患も疑われる。

・「寄依」底本では、「寄」の右に『(歸)』と注する。

■やぶちゃん現代語訳

 思いがけず悟達の名僧たる評判を得た事

 私の親しくして御座る友のもとへ、しばしば訪れる禅僧の話したことにて御座る。

「……禅家の門叩いて、座禅を致し、それを習う始めの頃……これが、まあ、直(じき)に足が痺れ、甚だ苦しい思いを致しまする故に、両の足、これを紐にてきゅっと結わえて修行致すので御座るが……それに附、いや、もう何ともお笑いの話が御座っての……」

と前置きの上、かの禅僧が語り出した話は――

「……さても拙僧入門初学の折りのこと、檀家に病死致いた者が御座って、その葬いに参ったのじゃが……家の者、死人(しびと)を棺に納めて後、拙僧に、棺の側にあって回向せんことを頼まれ、親族なんども代わる代わる、同じく棺の傍らにて勤行など致して御座った……拙僧は例の通り、結跏趺坐致いて、足を細き紐にて結わえ、常の座禅修行の心を以って気を静めて御座ったのじゃが――後で思えば、この死人、生前、浮腫を患って御座った故か――棺の中から――水気(すいき)が死体より弾け出でて御座ったと見えて――何やらん……グリュグリュ、ブリブリ、ブオン!……と……いや、もう、聴くもおぞましい奇怪な音が……はっきりと聞こえて来たので御座った……傍に御座った親族の男女は……ワッ! と叫ぶが早いか、先を争うように一目散に部屋から逃げ出す……勿論、拙僧も恐ろしゅう御座ればこそ逃げんと思うた……ところが、じゃ……ほれ、脚を結わえて御座ったれば……立ち上がることも叶わず……青くなって震えながらも……『最早、万事休す』……『ここは一つ、肚(きも)を据えて落ち着く外なし』……と思うての……いや、そこでよくよく考えて見たところが――先程、申し上げた通り、この仏は確か生前、浮腫を患って亡くなった、ということに改めて思い至ったのじゃ――いや、これはもう、単に、その水気が死骸から漏れ出でたに過ぎぬと気づいて御座ったれば……そうと決れば、こっちのものじゃ……これと言って、恐ろしいと思う気持ちも去っての、実際、その後は、何事も起こらなんだ……拙僧は、かくしてそのまま、穏やかな座禅の三昧境に入って御座った……と、相応に時が過ぎて……追々、恐る恐る家内親族の者どもが立ち帰って参った……すると拙僧の姿を見るや……「流石は禅の境地を極めた御出家にて御座る!」……と残らず感心、讃嘆の極み……その後、ただの青同心の拙僧に……いや、もう、夥しい者どもが熱心に帰依して御座った……ハッハ! いや、なんともはや、可笑しなことで、御座ったの……」

と語ったとか。

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