耳嚢 巻之二 蟲齒痛を去る奇法の事
「耳嚢 巻之二」に「蟲齒痛を去る奇法の事」を収載した。
*
蟲齒痛を去る奇法の事
韮の實を火に焚て、右煙を以て痛(いたみ)侯所を管(くだ)などにて通し、いぶし候へば即效有りと人の語りしに、又或人のいへるは筆を燒て半盥(はんどう)やうの物へ入、韮の實を龜湯をかけ候へば煙り立ち候を、右煙にて耳を蒸し候へば、耳より白き物出候。右白き物は蟲齒の蟲也といへるが、まのあたり樣(ため)し見しと人の語りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。蛇を愛玩する奇癖→御茶屋倅の奇物→虫歯の虫を押し出す奇術と、「奇」繋がりではあるが、「耳嚢」の総体は「奇」であればこそコジツケ。
・「蟲齒痛を去る奇法」これについて、2008年4月10日発行の『日本歯科医史学会会誌』に『「耳嚢」にみられる歯痛の治療法について』という鶴見大学歯学部の佐藤恭道・戸出一郎・雨宮義弘各氏による共著論文があることが、国立情報学研究所の論文情報ナビゲータによって確認出来る(出来るが、有料論文で、興味はあるものの、流石に金を払ってまで見る気は、私はしない。興味のあられる方はどうぞ)。
・「韮の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目ネギ科ネギ属ニラAllium tuberosumの実は、漢方で日干しにして乾燥させたものを「韮子」(キュウシ)と称して生薬として用いる。但し、現在知られる効能は強壮・強精・止瀉で、インポテンツ・遺精・頻尿・腰気(こしけ)・下痢を適応症としており、歯痛鎮痛の記載はない。但し、富山県氷見市村上養生堂漢方薬局(懐かしい! 私は高校時代、氷見の同級生の女性と付き合っていた。この店の前もデートの折りに――交換日記のノートを買うために歩いた、その街角にあったのを確かに覚えているのだ――通ったことがある!)のHP中の「歯痛あれこれ」に『虫食い齲歯にも古人は沢山の簡便法を持っている。例えば王海藏は梧桐泪で火毒風疳の齲歯を治しているし、林元礼は蟾酥で虫歯を治し、朱丹渓は韮子を艾葉と共に燻じて煙で虫を追い出している。呉崑は新しい石灰を蜜丸にして虫食いの所へ入れて手で抑えて治している。これらは我々もつとに試みている事で確かに効果がある。歯科のない農村にあっては大変活用されている』とあり(コピー・ペーストであるが改行を省略した。下線はやぶちゃん)、古くはその効用が認められていたものと思われる。因みに引用文下線部の朱丹渓(1281~1358)は元代の名医。艾葉は双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科ヨモギ属の変種ヨモギArtemisia indica var. maximowicziiの葉を乾燥させた生薬で、単独では胆汁分泌促進・食欲増進・止血作用を持ち、高血圧・神経痛・下痢・便秘・胸焼け・鼻血・痔・血尿・冷えによる腹痛などを適応症とする。
・「筆」底本ではこの右に『(尊經閣本「瓦」)』とある。「筆」を採った。
・「半盥(はんどう)」は底本のルビ。諸注は「耳盥」とか「飯銅」と記すが、これは「半桶」「盤切」等とも書く「半切り」(はんぎり)のことであろう。盥(たらい)状の浅くて広い桶。「半切り桶」「はんぎれ」等とも呼称し、「半盥」は音読みするなら「ハンクワン(カン)」で、「はんどう」とは読めない。「盥」の「どう」という音訓はないのである。これは「半桶」の音読み「ハントウ(ハンドウ)」と、その盥のような形状から造語してしまったものではなかろうかと私は考える。現在の医療用の膿盆のようなものを想起すればよいように思われるが、如何?
・「實を龜湯を」:底本ではこの右に『(尊經閣本「實を置」)』とあるが、これは「韮の實を置かけ候」なのか「韮の實を置候」なのか、判然としない。注位置からは「韮の實を置かけ候」の謂いと見える。
・「龜湯」岩波版ではただ「湯」とする。亀湯では銭湯の名前みたようで訳しようがない。岩波版を採った。
・「樣(ため)し」は底本のルビ。「試す」の意で訳した。
○補足:平塚市にある平野歯科医院(院長・平野美治氏)のHPにある「院内新聞バックナンバー【第05号】」(発行:医療法人社団慈篤会 平野歯科医院 発刊日1999年6月4日)に院長平野氏御本人の記事で「古老のつぶやき-第3話-虫歯の話(お呪い)」というのがあり、氏の40年来の御友人で愛知県岡崎市生のN氏の知る、奇妙な歯痛の呪(まじな)いについての詳細な施術記載と、驚くなかれ、この「耳嚢」の記載がそのまま『明治大正時代の歯の文献』に記載されていること等が示されている。以下に引用しておく(非常に失礼乍ら、OCRによる読み込みのままにアップされたものらしく、誤りが非常に多い。そこで、読みやすくするために一部に改行・句読点を施し、示されていない図指示部分をカット、誤りと思われる部分その他に注を附してある。平野先生、御容赦の程)。
《引用開始》
1. 火鉢に鉄板を起き加熱する。
2. その上にゴマの油を数滴たらす。
3. その上にお椀のそこに穴を開け女竹を差し込んで、椀をかぶせる禅に置く。[やぶちゃん注:「椀をかぶせる。膳に置く。」の誤りか?]
4. 女竹の先から煙が出る。その煙を痛む側の耳の穴に入れ、しばらくそのままして…[やぶちゃん注:「…」はママ。]
5. 椀を採ると、鉄板の上に白いカスが出る。これが通稻虫歯の虫で、これが出れば痛みは治る[やぶちゃん注:「通稻」は「通稱(称)」の誤りであろう。]。
とのことであった。当然歯科医師の私には信じられるものではなく一笑に付した。ところが最近明治大正時代の歯の文献を読んでいると偶然にもN氏の話と同様なことが記されていた。
(よはい草 第1輌)
韮の実を火に焚いて、右煙を以て、痛むところへ管を以て通じいぶしければ、即効なり。亦瓦を焼いて半盥やうの物に入れ、韮の実をおいて湯を掛け喉へば煙り立つを、その煙にて耳をむせば、耳の中より白きもの出れば虫歯の虫なり。
これを見て今更の様に当時の庶民生活の一端を彷彿させられた。そこで「お呪い」について調べると、
・茄子の帯を黒焼きにして寝る前につける[やぶちゃん注:「黒焼きにし七」とあるが、独断で「て」に改めた。]。
・半紙へ自分の顔を描き、口を大きく描き、歯の数を書いて、その痛む歯に灸をすえて、紙を焼きぬくと治る。
・白紙を十六カ所折り、痛む歯のうえから押さえる。
・桃の枝を折って噛む。
・蛸の絵を紙に書き、逆にして下に貼り、終始水をかけると治る。
・ざくろの皮を噛みしめる。
・腹蛇の骨を痛む歯で噛む[やぶちゃん注:「腹蛇」は「蝮」「蝮蛇」でマムシの誤りではあるまいか?]。
等に多数あるが特に神奈川県におけるお呪いでは[やぶちゃん注:「等に」はママ。]、
真言宗大師堂の両側に八視大師の像がある。この画像に「死ぬる前に一年を差上げる故癒して下さい。」と祈念する[やぶちゃん注:「八視大師」は不詳。所在する寺院も分からない。]。
落雷がした杉の木の一片を噛む。
相模国愛甲郡小鮎川上流の河畔に繭歯地蔵というのがある。画歯になやむ者、己の常用する箸を持ち小鮎川にかけた小橋を渡れば治る。ただし大橋を渡れば一旦治っても亦痛む。大橋より小橋の方が人通りが多いのはこれ故なり[やぶちゃん注:「繭歯」「画歯」は何れも「蟲(虫)歯」の誤りであろう。]。
《引用終了》
■やぶちゃん現代語訳
虫歯の痛みを除去する変わった療法の事
韮の実を火にて焚(た)き、その煙を竹・木管などを用いて痛むところの虫歯の部分に導いてやり、燻(いぶ)してやると即効ありとある人が語ったのであるが、また、ある人は、長く用いた筆を焼き、膿盆様のものに入れ、その上に韮の実を撒き散らし、湯をかける。すると、煙が立つ。立ち始めるたら、袋等を用いて即座に、その煙を以って耳を蒸してやると、耳から白いものが滲出してくる。その白いものは虫歯の虫である――と、言うのであるが、如何(いかん)?――「目の当たりに試して見て、事実であった。」とは、これまた、人の話では御座る。