フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 夢野傑作映画館氏より井上英作氏へのラメント | トップページ | 耳嚢 巻之二 幽靈なしとも難極事 »

2010/02/07

耳嚢 巻之二 堀部彌兵衞養子の事

「耳嚢 巻之二」に「堀部彌兵衞養子の事」を収載した。

2週間ぶりに休みがやってきた――

 堀部彌兵衞養子の事

 堀部彌兵衞養子は元來浪人にて安兵衞と號し、牛込邊何某といへる劍術の師の内弟子也しが、伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事を彌兵衞聞及て、實子なければ哀れかゝる武勇のものを養ひ子とせんと思ひしかども手寄(たより)なければ、直に彼師匠の許へ立越へ、安兵衞と言る門弟かゝる働有りと承る、四五萬石の大名の家中にて食祿三百石を領するもの養子を好候間可遣哉(つかはすべきや)、存寄承度(たき)と申談ければ、隨分承知に可有之。併(しかしながら)留守に候間歸り次第可承と右の師匠挨拶に付、彌兵衞は歸りける。扱も右師匠安兵衞へかく/\の養子口有、可參哉(や)、淺野内匠頭家來堀部彌兵衞といふ人の世話也と申ければ、安兵衞事も江戸表に於て親族も無之貧窮の者故、至極望はあれども如何と申ければ、先何れにも彌兵衞方へ罷越可談との事故、彌兵衞方へ罷越案内を申入、則安兵衞の由を申ければ、彌兵衞大に悦び座敷へ請じ對面し、彌々(いよいよ)養子承知に候哉(かな)、養父母は老人にて、主人の高(たか)并宛行(あてがひ)の處先達て師へ咄し候に少しも相違なしと申けるゆへ、困窮の浪人何も支度無之段申ければ、大小さへ所持いたし候へば何も入り不申(まうさざる)段申候上、承知の段安兵衞申ければ、則勝手へ入れ衣類大小を携へ出、則養子致し候者は某(それがし)也、主人の高も五萬石自分食祿も三百石也、今日より拙者悴(せがれ)也、左樣に心得可申段申達(まうしたつし)、さらば勝手へ通るべしと案内しける故、餘りの事に安兵衞も大に驚けるが、やがて父子の約をなしぬ。大石良雄報仇の節も、父子とも四十七人の内隨一の働せし者也と人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、ワライタケのブラックな中間の笑い声が、陽気で鮮やかな弥兵衛の喜悦の笑いに変じて快い。

・「堀部彌兵衞」堀部金丸(かなまる 又は あきざね 寛永4(1627)年~元禄161703)年)は赤穂藩家臣。食禄はここで言う通り、300石であるが、後に隠居料20石が加わっている。以下、ウィキの「堀部金丸」より引用する(相当量の引用となったが、この記事を読むに当ってはどれも省略することが出来ないと私には思われた。お許しあれ)。『浅野長重の家臣堀部弥兵衛綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より浅野長直、長友、長矩(内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から堀部文五郎言真を養子に迎えたが、藩主浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった』。『元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人中山安兵衛を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった』。ところが7年後の『元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。弥兵衛は藩邸を引き払い、馬淵一郎右衛門と変名して江戸に隠れ住む(堀部氏は近江源氏佐々木氏の馬淵氏支族であったので、先祖も称した本家の名字を使用したものと思われる)』。『弥兵衛は婿養子の安兵衛とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)大石内蔵助は仇討ちを決定して江戸に下り、弥兵衛は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、吉田忠左衛門らを招き酒宴を催した』。『1215日未明、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し、槍を持って門の警戒にあたった。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは吉良上野介を討ち果たして本懐を遂げ』、『討ち入り後は細川越中守屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった』とある。実際には弥兵衛にはもう一人養子がおり、堀部文五郎と言った。勿論、彼も『討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので弥兵衛から拒否され、討ち入り直前に連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた(弥兵衛の日記によると文五郎がどうしてもと望むので吉良邸前までは弥兵衛のお供をすることを許したという)。忠見家に帰されたあとも文五郎は堀部姓を名乗り、弥兵衛と安兵衛の切腹後はかわって堀部家を継』いだ。『元禄16年(1703年)赤穂義士に深く感銘していた熊本藩主細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続する』こととなったと記す。

・「安兵衞」堀部武庸(たけつね 寛文101670)年~元禄161703)年)、旧姓は中山。通称の安兵衛の名で知られる赤穂浪士四十七士中一番の剣客。忠臣蔵では大石内蔵助と人気を二分する。浪士の中で江戸急進派と呼ばれる勢力の首魁であった。以下、非常に優れたウィキの「堀部武庸」の記載より引用する(相当量の引用を行ったが、それほど、この記事は素晴らしい。お許しあれ)。『越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士溝口四郎兵衛の間にできた六女。したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたる。姉が三人おり、長女ちよは夭折、次女きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣町田新五左衛門に嫁いでいる』。『母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母・溝口秋香のところへ送られて、秋香を母代わりにして三歳まで育てられたが、秋香が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる』。『しかし安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力』。『浪人後、ほどなくして父・弥次右衛門が死去。孤児となった安兵衛は、はじめ母方の祖父・溝口四郎兵衛に引き取られたが、盛政もその後二年ほどで死去したため、姉きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られていった。元禄元年(1688年)19歳になった安兵衛は、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内源太左衛門の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』。『そんななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)』。『この決闘での安兵衛の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望んだ。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、弥兵衛の思い入れは強く、ついには主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。内匠頭も噂の剣客中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日)、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した』。『これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(827日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されている。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類である。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかる』。『赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主徳川光友正室千代姫(将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、浅野内匠頭からの弔問の使者には、この安兵衛が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた』。『しかし元禄14年(1701年)3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。安兵衛は江戸詰の藩士奥田孫太夫(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老大石内蔵助と面会。篭城、さもなくば吉良への仇討を主張したが、内蔵助からは「吉良への仇討はするが、大学様による浅野家再興が優先だ。時期を見よ」と諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、安兵衛らは江戸に戻ることとなった』。『しかしそれ以降も強硬に吉良への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した大石内蔵助に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。差出日8月19日(9月21日) の書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張』、『大石内蔵助は、安兵衛ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員安兵衛に論破されて急進派に加わってしまう。このため、大石内蔵助自らが江戸へ下り、安兵衛たちを説得しなければならなかった』。『元禄141110日(170112月9日)、大石内蔵助と堀部安兵衛は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。内蔵助は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を安兵衛に約束して京都へと戻っていった』。『しかし帰京した内蔵助は主君浅野内匠頭の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために安兵衛は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。実際、安兵衛は大坂にもよって原惣右衛門を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。しかし7月18日(8月11日)、浅野大学の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石内蔵助も覚悟を決めた。京都円山に安兵衛も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。安兵衛はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(9月3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた』。『そして元禄151214日(1703年1月30日)、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げた』。『松平久松隠岐守定直三田中屋敷跡討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助の嫡男大石主税らとともに松平隠岐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部文五郎が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。そもそも堀部氏は近江源氏佐々木氏族で、佐々木定綱の子馬淵広定より始まる馬淵氏の支族である。堀部家は代々佐々木氏の本家である六角氏に仕えていたが、主家が織豊時代に滅びたため、浅野氏に仕えることとなったといわれている。家紋の目結紋は、佐々木氏族の証しである』。「参考」欄には『安兵衛は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残した人物でもある。安兵衛が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者細井広沢に編纂をゆだね、今日に伝えている』とあり、また『剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係があったりするせいか、堀部安兵衛は、四十七士のなかでも特に人気が高い』とする。『養父弥兵衛とは血統上の関係は一切ないが、二人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(堀内伝右衛門覚書より)。二人の間には、愛し愛される実の親子以上の親交があったのだろう』という部分は、この記事のシーンを髣髴とさせるものである。

・「牛込邊何某といへる劍術の師」これは前注堀部武庸の事蹟にも現われた堀内正春(寛永181641)年~正徳3(1713)年)である。直心影流の剣術家で、通称、源左衛門。ウィキの「堀内正春」によれば、下野国に出身といい、『直心影流に堀内流という一派を立てて、江戸の小石川牛天神下に道場を持った。この堀内道場は江戸においては有数の道場として名を馳せるようになる。赤穂四十七士の堀部安兵衛や奥田孫太夫らも門弟である。特に堀部安兵衛は堀内道場一の高弟』として知られた、とある。

・「牛込」現在の新宿区東北部の地名。当時は大名や旗本の住む武家屋敷が集中していた(後に尾崎紅葉・夏目漱石らの近代文化人の居所としても知られる)。

・「伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事」御存知「高田馬場の決闘」のこと。元禄7(1694)年2月11日に高田馬場で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘。中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は、助太刀として参加したが、結局、これによって安兵衛は名を挙げることとなった。ウィキの「高田馬場の決闘」より引用する(話柄上の直接の関係はないが、私自身、この決闘の本来の原因を今回始めて知ったので、相当量の引用をお許し頂きたい)。『元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決める。『しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方村上家は三兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の関係を結んでいた剣客堀部安兵衛のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野はこれを聞いて同道を許可したので一緒に決闘場高田馬場へいくこととなった』。『元禄7年2月11日、四つ半頃(午前11時過ぎ頃)、菅野・安兵衛・若党・草履取りは高田馬場へ入った。安兵衛が馬場を見回すと、南之方馬場末から村上庄左衛門がやってきた。しかし一人だけとは思えぬと若党に見回りさせると木の蔭に村上の弟中津川祐見(文書の中に「此れは針医者にて御座候」とある)と村上三郎右衛門(「此れは浪人。庄左衛門にかかり罷在候」とある。すなわち村上庄左衛門の家にいる居候の弟のようである)がいた。挟み打つ手だてとみて菅野は安兵衛らに護衛されながら村上に歩み寄った。村上も近づいてきて十間まで迫ったところで二人は言葉を交わした。菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じた』。『そこへ村上の弟村上三郎右衛門が兄庄左衛門の後ろから回って斬りかかろうとしたので安兵衛が三郎右衛門の眉間を切り上げた。三郎右衛門はひるんで左の手を刀から離したが、なおも右の手で刀を振り下ろし安兵衛はこれを鍔で受けた。三郎右衛門は一度離れ、再度斬りかかったが、また鍔で受けとめられ、三郎右衛門の刀が引かれたところを踏み込んで三郎右衛門を正面から真っ二つにした』。『十間ばかり向こうでは菅野と村上が切りあっていた。しかし村上の剣で菅野が眉間を切られたので、安兵衛がはっとして駆け付けようとしたが、菅野も村上の左右の手を討ち落とした。村上は「ならぬ、ならぬ」と悲鳴をあげて引き下がったが、ならぬと言いながらもなおも眉間に打ち込もうとしてきた(手が落ちていては刀を握れないようにも思えるが原文はこうなっている。骨で止まり完全には落ちなかったか)ので安兵衛が西の方の上手で村上を斬り伏せた。さらに今一人(中津川祐見)が切りかかってきたのでこれも打ち倒した』。『この決闘で堀部安兵衛が斬った数は諸説あるが、この文書が安兵衛の書いた本物であるとすれば、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門と村上三郎右衛門と中津川祐見)ということになる』とある。『こののち江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して紹介され、さらに講談や芝居とするため劇化がなされた結果、この決闘にはさまざまな逸話が誕生することにな』り、『その代表的なものが「菅野が安兵衛の家に別れを告げに行ったとき、安兵衛は前夜他所で飲んで酔いつぶれていた為留守だった。菅野はやむなく文を書き残して高田馬場へ行く。昼近く、酔いから醒め家に戻った安兵衛は、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて高田馬場へと駆け出す。」という安兵衛が後から走って駆け付けて来たという逸話と「堀部ほりがこの決闘を見ていて安兵衛にしごきを貸す」という将来の結婚相手と運命的な出会いが決闘の時にあったという逸話』で、「高田馬場の決闘」と言えば、昭和3(1928)年伊藤大輔監督のサイレントの作品「血煙高田馬場」での私の大好きな大河内伝次郎が、たったと速駆けするシーンばかりが私には残っているのである。なお、『決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある』そうである。

・「手寄」岩波版ではこれに「てより」という特殊なルビを振るが、私は「たより」でよかろうと思う。

・「淺野内匠頭」浅野長矩(寛文7(1667)年~元禄141701)年)御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩主。

・「宛行」武家で主君から与えられる扶持(ふち)。禄。

・「支度」通常ならば男子養子縁組では養子側がそれなりの金品を払って養子を買うということなのだろうが、この場合は、逆に被養子側が没落した武士であるから、相応の持参金が必要というニュアンスなのか。それとも、単に養子縁組の儀式の為の支度金さえもない、という意味なのか。ひたすら「困窮」を言うのであるなら後者であろうが、先のウィキの「堀部武庸」には、当時の実際の安兵衛は『堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』とあるから、かなり裕福で、前者のようにも思える。但し、そもそも見た通り、実際には安兵衛は養子縁組に難色を示しており、この話のように即決ではなかったものと思われるから、こうした現実の細部を考えるのは無意味か。困窮で後者としておこう。

・「大石良雄報仇」「大石良雄」は御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。「報仇」討ち入りは元禄151214日(グレゴリオ暦では1703年1月30日)。

■やぶちゃん現代語訳

 堀部弥兵衛養子の事

 堀部弥兵衛の養子は元々浪人で、安兵衛と言うた。牛込辺に道場を構えていた、さる剣術の師匠の内弟子で御座ったが、この安兵衛が伯父の仇討ちに関わって高田馬場に於いて抜群の大働(おおばたら)きを致いたという話を、堀部弥兵衛が聞き及び、彼には男子がなかった故、

「なんと! かかる武勇の者を養子とせん!」

と思い到ったものの、全く縁も所縁もない人物であったがため、直ちにその剣術の師匠のもとを訪ねて、

「安兵衛殿と申す御門弟、大したお働き、と承って御座る。――実は、拙者の知り合いに四、五万石の大名に仕えて御座る、食禄三百石を領する者、良き養子を捜して御座れば――その安兵衛殿を、如何(いかが)? と存知、只今、お答えを戴きたく――」

と切り出したところ、師も、

「それは思いもよらぬ良縁で御座る。本人も必ずや承知仕るものと存ずる……しかし乍ら、只今、丁度、留守にて御座れば、帰り次第、件(くだん)の話を致いて、如何致すか訊き質いておきましょうぞ。」

との右師匠の挨拶なれば、良き感触を得て、弥兵衛は安堵して屋敷へと帰った。

 その日、しばらくして安兵衛が道場に戻ったので、師が、

「……といった養子縁組の話があるのじゃが、如何か? 浅野匠頭家来堀部弥兵衛殿という方の御紹介じゃ。」

と話すと、当の安兵衛も、

「……拙者、江戸表には親族もこれなき上……恥ずかしながら、生活、いたって不如意……願ってもない養子話なればこそ、何ら、異存御座らねど……余りに過褒にして急な話なれば……」

と躊躇する風情。そこで師匠は、

「……そうじゃな……されば、先ずはともあれ、その弥兵衛殿を訪ね申し上げ、少しく詳しい話を伺(うかご)うてから、ゆるりと決めるがよかろう。」

とのこと。

 そこで、その夜、安兵衛は堀部弥兵衛の屋敷を訪ねた。

 案内(あない)を乞うて、

「拙者は、昼つ方、お訪ね戴いた安兵衞にて御座る。」

と名乗ったところ、弥兵衛、甚だ悦んで、挨拶もそこそこに座敷内に引き込み、対座するや、

「いよいよ、養子縁組の話、御承知戴けたのじゃな! さても養父母は老人にて、主君石高並びに先方の禄高なんども、先にお話し致いたものと、全く違(たが)はぬものにて御座る!」

と一気にまくし立てる。

 安兵衛は余りの性急さに、

「……いえ、今日はまず、お話だけは伺わんものと参りまして御座ったもので……何せ、拙者、困窮致したる浪人にて御座れば……養子に入るための僅かの支度金なんども……一銭も御座らねばこそ……」

と言う言葉を弥兵衛、遮り、

「なに! 腰の大小さえ所持致し候らえば、他には何も! いり申さん!」

ときっぱりと告げる。

 余りに自信に満ちた弥兵衛の言葉に、安兵衛はとりあえず、

「……分かり申した。先方の御方へ、養子縁組承った旨、お伝え下され。」

と述べて、別れの挨拶を致そうとしたところが、

「さればこそ!」

と弥兵衛、安兵衛を残して勝手に走り込むや、衣類に新しき大小を抱えてとって返し、

「すなわち! そなたを養子に致したく存ずる者とは、拙者で御座る! 主君浅野匠頭様石高五万石、某(それがし)食禄も三百石! 今日只今より、お主は拙者の悴! 左様心得い!」

と言うが早いか、安兵衛の手をむんずと摑み、

「されば! 勝手へ通るがよいぞ!」

と慌しく家中案内(あない)に連れ回したれば――余りのことに、安兵衛も、吃驚り――やがて、その夜、そのまま堀部弥兵衛屋敷居間にて父子の約(ちぎり)を致いたということで御座る――。

 ――後、大石良雄内蔵助殿仇討の節、父子共々四十七士に加わり、その内、随一の大働きを成した、とある人の語ったことで御座る。

« 夢野傑作映画館氏より井上英作氏へのラメント | トップページ | 耳嚢 巻之二 幽靈なしとも難極事 »