耳嚢 巻之二 藝道上手心取の事
「耳嚢 巻之二」に「藝道上手心取の事」を収載した。
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藝道上手心取の事
土佐節の上手と世に申傳へたる何某とやらん有しが、其門弟の由にて御小人目付勤たるおのこ、所々屋敷方へ出入て土佐淨璃理をかたりけるが、實は門弟には無之處、或日出入の屋敷へ至りしに、彼上手を招き座敷にてその藝を施し居ける故、兼て弟子と僞りし言葉の顯れんも如何と座敷へ出かね居たりしを、主人頻りに呼れしゆへ無是非座敷へいで、彼太夫(たいふ)へ對し、久々にて懸御目候杯と挨拶に及びければ、相應の答いたしけるに、主人申けるは、此人は我等方へ他事なく出入者也、御門弟の由と有ければ、前々は殊の外出精いたされ、近頃は無精に候。尤淨璃理は我等弟子に候へども、師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候とて、和合の挨拶にて其日は事濟けるが、翌日彼者思ひけるは、扨々忝取合哉、ひとへに彼が取合にて我等の僞も知れず外聞もよかりしと、銀貳枚持參して、實は門弟にも無之處、かく/\の譯ゆへ相應の挨拶いたし候處、存の外美しき取合忝段述ければ、右の者答へけるは、夫は大きなる御了簡違也。凡土佐節の淨璃理をかたり給ふ人なれば、誰が弟子なりともそのみなもとの某なれば、我等が弟子に違なき事故、右の通挨拶いたし候也。何か禮式を受申さん迚、右の銀子をも返しけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:名工の細工に名筆の和歌を記した楽器の琴の話から、音曲土佐節名人で美事に連関。また、「卷之一」の「鬼谷子心取物語の事」の事に次ぐ、「心取」第二弾。
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。
・「土佐節」古浄瑠璃(後の「土佐淨璃理」注参照)の一派。土佐少掾(とさのしょうじょう)橘正勝を祖とする。延宝から宝永年間(1673~1711)に江戸で流行した。初代土佐少掾橘正勝(生没年未詳)は江戸の薩摩浄雲座の人形遣であった内匠(たくみ)市之丞の子で、浄瑠璃の一派浄雲の門下として江戸虎之助・内匠虎之助を称したが、寛文11(1671)年に土佐座を起立、延宝2(1674)年頃に土佐少掾の称を授けられ、土佐太夫とも呼ばれた。硬派の浄雲系浄瑠璃の中にあって、上品でしとやかな芸風であったと言われる。通称、内匠土佐。二代目の土佐少掾橘正勝(?~寛保元(1742)年)は初代の長男で内匠(たくみ)太夫と称し、父のワキをつとめていたが、後に二代目を継ぎ、江戸で操座(あやつりざ)を興行した。(以上、二人の橘正勝については「デジタル版日本人名大辞典+Plus」のそれぞれの該当項を参照した)。
・「御小人目付」監察糾弾を職務とする御目附(おめつけ)の支配下で御徒士目附(おかちめつけ)と共に目附の式を受けてお目見(めみえ)以下の者を直接、監察糾弾する警務職種。
・「土佐淨璃理」土佐浄瑠璃。以下、浄瑠璃について、「大辞泉」から引用する。『語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平(きんぴら)・播磨(はりま)・嘉太夫(かだゆう)節などの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東・一中・宮薗(みやぞの)・常磐津(ときわず)・富本・清元・新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節』。
・「太夫」は本来は芸能を以って神事に奉仕する者の称号であった。そこから中世の猿楽座の座長、江戸以降は、観世・金春・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などと呼称するようになり(古くは能のシテ役のみを指した)、その後、説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手に対しても汎用するようになった。
・「師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候」これは男が謡う土佐節が正統なものでないと見抜き、屋敷主人が太夫との音調の異なる点に聊か疑問を持ったのを感じ取った太夫の巧みな謂いである。その辺りが分かるように、現代語訳では敷衍的に意訳してある。
・「銀貳枚」基準値の重量単位で換算すると銀1枚=43匁、1匁=3.75gであるから銀2枚=86匁≒322g。慶長14(1609)年の金1両=銀50匁の公定相場から推測すれば、金2両弱である。今の数万円から十数万円相当か。
■やぶちゃん現代語訳
芸の名人たる者の読心心得の事
土佐節の名人と世に評判の何某とやらいう者が御座ったが、その門弟と自ら喧伝致いておった御小人目付を勤めて御座った男がおった。この男、あちこちの屋敷へ出入りしては、土佐浄瑠璃を語っておったれど、実は――何某名人門弟というは、真っ赤な嘘で御座った。
ある日のこと、予ねて出入りの屋敷へ訪れてみたところが――何と、かの名人を招いて座敷にてその土佐節を披露致いておるところに出くわしてしもうた。
男は勿論、予てより弟子と偽って御座ったことが露見するのを恐れ、座敷内に入りかねておった。
されど主人は頻りに呼び入れんとする。
ええい、ままよ、と止むを得ず座敷に入り、その土佐節何某太夫(たゆう)に向かい合(お)うて、
「……久方ぶりに、お目にかかり、申し上げまする……お師匠さま……」
なんどと、苦し紛れの挨拶を致いて御座ったが、不思議に太夫はそれを受け、当たり障りのない挨拶を返してよこした。
主人が太夫に言う。
「このお人は、日頃、我らが方へ、親しく出入り致いて御座る者にて、太夫の御門弟だそうで御座いますな?」
すると、太夫が答えて言った。
「はい。この者、大部前までは、よく稽古にも励んでおったれど、そうさな、近頃は聊か、怠けておりますな――尤も、これはこの者の謡いがまずうなったという謂いにては、これなく――浄瑠璃は我らが弟子にて御座っても、師弟と雖も音曲に於きましては、大きく語り口も違(ちご)うて御座いますればこそ――この者には、この者の良さが、御座る。」
と、意外にも如何にも和気藹々たる談笑の内にその日は何事もなく済んで御座った。
翌日になって、かの男、
『……ああっ! なんとかたじけないお心遣いであったことか! 偏えにあのお方が話を合わせて下さったればこそ……我らの偽りも露見致さず……それどころか外聞もまたよろしきこととなった……』
と思い、銀二枚を持参の上、太夫の家を訪れると、
「……実は門弟にては、これ、御座らぬところ……かくなる訳にて……話を合わせた不遜なる御挨拶を致しましたところが……存外の美事なられるお取り合わせをなさって戴け、誠(まっこと)、かなじけなき御心(みこころ)、有難く存じ申し上げ奉りまする……」
と素直に事実を述べて謝ると、礼金をさし出だいた。すると太夫は、
「それは大いなる御料簡違いで御座る。――凡そ土佐節の浄瑠璃を語る者なれば、誰(たれ)の弟子であろうとも、その祖は拙者なれば――さればこそ、我らが弟子に違い御座らぬ――故、あのように挨拶致いた。――なればこそ、何の謝礼なんど――受け取るいわれは御座らぬ――。」
と右金子をも男へ返した、ということである。