耳嚢 巻之二 正直に加護ある事 附豪家其氣性の事
「耳嚢 巻之二」に「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」を収載した。
寝たりないのに眠れない――地獄の二日間の幕開けである――糞食らえ――粛々とストックで作成しておいた「耳嚢」を公開するのみ――
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正直に加護ある事 附豪家其氣性の事
淺草藏前札さしの内とやらん、一説には伊勢屋四郎左衞門共いひしが其名は慥(たしか)ならず。下谷邊へまかりし折から、いづれの町にや茶屋の女子み目よきありて、右のおのこふと懸想して二階へあがり、高龍雲雨の交りをなして歸る時【此茶屋の女を俗にけころといひて賣情の婦なり。】鼻紙袋を落して歸りし故、右女子鼻紙入を持て門口迄追缺(かけ)しが、最早行方を失ひし故、其内を改めみれば、印形の手形などありて捨置がたきと思ひけれ共、深く隱し置て思ひなやみ居たりしに、折節此邊へ來る車力有し故、藏前邊に伊勢屋といへる札差の人ありやとよそながら尋ければ、車力答て伊勢屋といへるは藏前に何軒もあるを、何しに尋給ふといへる故、此程藏前伊勢屋なる人來りて忘れ置し品有とひそかに語りければ、右車力大きに驚き、我等も其事に付賴れてけふも爰に來りぬ。其品を見せ給へといひしかば、いや/\知り給はぬ事ならば見せまじ、彌賴まれ給ふ人は何と言たる人にて、年頃は幾つ計也と念頃に聞て、此文を屆け給はれ迚則文を渡しける故、右車力は親方の事なれば、早速藏宿へ至りてかく/\と語りければ、右帋入(かみいれ)の内には御切米手形裏判濟も有て、無據奉行所へも可訴出、もとよりいづちへ落したるやもしれざれば、所々へ手分して何となく手掛りを搜し、神佛へ祈誓し、誠に家内は上下なげき沈居たる折からゆへ大に悦び、親子同道も先方いかゞと、彼車力に倅を召連させ、親仁は跡に下りて右茶屋へ至り二階へ上り、彼女に逢ふてしかじかの禮を申述ければ、日々情を商ふ賤敷勤の身、數多き客ながら、其日と存る頃御越の人に相違はなけれども、右鼻紙袋の樣子并に内の品逸々(いちいち)申し給へ迚尋るに、相違なければ則右鼻紙入を渡しける故、數々禮を述べて子息と親仁入かわり、何卒親方に逢度由申ければ、彼女答て、親方は心よからぬ者なれば未咄も致さず、いかなる巧(たくみ)を可致もしれねば、逢給ふもよしなからんと答へければ、聊左樣の事にあらずといふて、親方を無理に呼出し、此女子我等方へ申受たし、如何と申ければ、隨分遣し可申旨故、かゝる勤の身なれ ば女衒(ぜげん)へも懸合可申といひしに、いや/\此女は女衒にかゝり合なし、在方より拾四兩程の給金にて年季を限り抱たる者なれば、右金子さへ給はれば可渡由故、以來親元其外無構の證文を認、金子三百兩を渡しければ親方も大きに驚き、かゝる大金には不及由を述けれども、右女子の儀に付、身の上にも抱り候事何事なく納(をさま)りし儀なればとて三百兩を渡し、已來手切の趣重々證文取極め、則娘にいたしけると也。かゝるよからぬ親方故、金子を惜み候はゞ跡々迄も何か立入いかゞあるべけれど、其所を思ひて大金を以て手をきりし、流石豪家の氣性と人の語りける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。ただ、ここから、娼婦を主人公とした極めて類似したハッピー・エンドが三連発となる。
・「札さし」旗本及び御家人の俸禄の内、蔵米(現品支給された米)の受領から換金までの手続一切を請負うことを業務とした、浅草蔵前在住の商人に対する特別な呼称。但し、実際には本業よりも、その米を抵当に、旗本・御家人を対象とした高利貸が主で、それによって巨万の富を築いた。米の受取人の名を記した札を蔵役所の蒿苞(わらずと)に差したことからこう呼ばれる。
・「一説に伊勢屋四郎左衞門」浅草蔵前の有力な札差の一人。名字は青地氏。初代が江戸で始めた米問屋と金貸業を継いだ3代目が札差業に進出、享保9(1724)年に札差株仲間の起立人となっている。4代目以降も堅実な経営を続け、本話が根岸によって綴られた直後、寛政元(1789)年頃には札差業者の最有力者の地位を得ていた(屋号は世襲)。本話柄の少し後の文化年間(1804~18)に最盛を誇ったという。天保9(1838)年の江戸城西丸火災の際には幕府上納金10万両余の世話方を勤め、その功により町方御用達に列せられ、青地姓を許された。参照した「朝日日本歴史人物事典」の「伊勢屋四郎左衛門〈3代〉」には、エピソードとして、零落していた昔馴染みの吉原の遊女を引き取って妾とし、通人たちの評判となった、とあるので、その変形譚かとも思われる。何れにせよ、この書き出しからして、執筆当時にあった話柄という雰囲気ではない。但し、不明と言いつつ、伊勢屋を本文中で出してしまうというのは、逆に今の伊勢屋の話であることを、確信犯的にばらしているようにも読めないわけではない。
・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。
・「高龍雲雨の交り」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語であるが、また「雲雨」には、龍が雲や雨に乗じて昇天するという伝承から(「呉志」周瑜伝を故事とする)大事業・大変革を起こす好機の意を持つ。されば、この主人公の女の吉兆をも暗示する語であるかもしれぬ。また、「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳は『雲雨の交わりを成して帰って行った』としたが、実際には、この場面は実際のこの後の展開を考えるなら、あっさり『一発やってすっきりして帰って行った。』ぐらいな訳の方が、本当はいいように思われる。
・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。
・「鼻紙袋」財布。
・「印形の手形」印を押した手形。
・「車力」荷馬車を用いた運送業者。
・「藏宿」底本では右に『尊經閣本「藏前」』とある。それで採る。
・「御切米手形裏判濟」ウィキの「蔵米」によれば、中・下級の旗本・御家人の『俸禄は年3回に分けて支給されるのが常で、2月と5月に各1/4、10月に1/2が支給された。それぞれ「春借米」「夏借米」「冬切米」と呼んだ(「借米」は「かしまい」と読む)。ただし、俸禄は全量米だけで支給されるわけではなく、米の一部はその時季の米価に応じて金銭で支払われるのが通例であった。浅草の札差がそれらの米を百俵に付き金1分の手数料で御米蔵から受取り、運搬・売却を金2分の手数料で請け負った』とあり、岩波版長谷川氏の注によれば、ここに言う「手形裏判濟」とはその札差が役所から受取る際の『給付の米受領に必要な証文』のことで、『頭・支配に属する者は、本人が表判を押し、頭・支配が裏判をする必要があった』とあるので、この紛失は依頼された本人以外に、その上司にも迷惑がかかる可能性があるということであろう。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
・「女衒」女性を買い付けて遊郭などへ売る仲介業者。人身売買に際して彼等が保証人になっている場合があった。
・「抱り」底本ではこの右に『(拘)』と注する。誤字であろう。
■やぶちゃん現代語訳
正直者に加護のある事 附豪商の豪気の事
浅草蔵前の、ある札差にまつわる話である――一説には伊勢屋四郎左衛門ともいわれるが定かではない。しかし、とりあえず「伊勢屋」として話を進めよう――。
伊勢屋の若旦那が所用で下谷へ出かけた。その帰り、どの辺りの町やらん、通りかかった茶屋で、小股の切れ上がったちょいといい女が御座って、若旦那、相談一決、ととん、と二階へ上がって、雲雨の交わりを成して帰って行った[根岸注:この茶屋の女は俗に「けころ」と呼ばれる娼婦である。]。
ところがこの時、若旦那、財布を忘れて行ってしまった。
女がそれと気づいて、財布を手に門口まで追いかけたのであったが、もう既に男の姿はなかった。
そこで女は、財布の中を改めてみた。と、見たこともない御大層な印形(いんぎやう)を黒々と押した手形なんどが入っており、これはいい加減にしておれるものにてはない、と思ったけれども、いろいろと考えるところもあって、こっそりと隠し置いて悩んでおった。
それから二日も経たぬ頃おい、時折、この辺りに姿を見せる荷車引きの男が、この女を買った。
一つるみ終えると、女は、隣りに横たわっている男に、
「……ねぇ……蔵前辺りに、さ……伊勢屋っていう札差のお方はある?……」
と、それとなく訊ねた。
男は、ちょいと女の方に顔を向けると、
「……あん?……いや、伊勢屋っう札差は蔵前には何軒もあらあな……ただ、それがどうしたい?……」
と、妙に怪訝そうに反問した。すると、
「……あのさ……実はね、ついこないだ……蔵前の伊勢屋っていう客が来てね……忘れ物、したんさ……」
とこっそりと女が男の耳元で呟き終わるのと同時に、男は素っ頓狂な声を挙げた。
「――あんだって! 実はよ! 俺もよ! そ、そのことで伊勢屋さんに頼まれて、この辺に来たんだって!――さっ、さ! そ、そいつを見せておくんな!」
と早口で捲くし立てる。
しかし、女は、手を左右に振って、
「だめ、だめ!……だって、あんたは……その財布、どんなもんか……知ってる?――知らないでしょ! だから見せるわけには、い・か・な・い、の!……まずさ、頼んだ人は何というお人? 年の頃は幾つぐらい?……」
と、女の謂いは、これまた、なかなか用心深い。
車引きも悪い男にては、これなく、有り体に知れることを語り、女も馴染みなれば、男の正直さも知っておった。
女は部屋の隅へ行って何やらん、ごそごそと書いておったが、しばらくして向き直ると、
「……とりあえず、この文、先方へお届けになって。」
と手紙を渡した――。
この車引き――といっても、れっきとした親方で、今度のことも御用達の伊勢屋大旦那から直に呼ばれて頼まれた内密の探索事であった――早速に蔵前へとって返し、女の手紙を伊勢屋の大旦那に、かくかくしかじかと――まあ、女と一発やった下りはごまかして御座ったが――今日のその一件を語った。
……そもそも、この若旦那が忘れた財布の内には、伊勢屋御用の旗本・御家人衆の裏判も済んだ切米手形数冊も入って御座って、もし、このまま出でずとならば、最早、奉行所へもお届け申し上げるほかなし――されば、栄華を誇るこの伊勢屋の、身代に関わる重罰を受けること、必定――さりとも、もとより何処(いずこ)へ落としたのやら、皆目、検討もつかぬ体たらく――ありとあらゆる所へ、ありとあらゆる手がかりを求めて、探しに探して四方八方――言うに及ばぬかしこみ南無阿弥法蓮華経の神仏祈誓――誠(まっこと)、家内は上から下まで嘆きのどん底、釜底地獄の阿鼻叫喚――最早、これ以上の沈みようはないという程の気鬱憂鬱沈鬱鬱鬱――
――が!――この手紙に!
――いや、もう、鯛は上へ、鮃は下への、大喜び!
親子同道にて曖昧茶屋に出向いては、これまた、先方で不審に思うであろう、とりあえず、あの車引きに倅を同道させ、大旦那はその後から遅れて出、かの茶屋に向かった。
まずは倅が二階へ上がり、女と二人になってから、面と向かうと、この度のことにつき、深く礼を述べた。すると女は、
「……私は日々春をひさいでおりまする卑しき勤めの身……数多(あまた)のお客さまの相手を致いて御座います……されど確かに覚えて御座いますよ……あの日あの刻限に、いらした方に相違御座いません……でも、万が一の私の記憶違いということも御座いましょう……念のため、御財布の色や形ならびにその中の品を一つ一つ、仰ってみて下さいませ。」
と、訊いてきた。
若旦那が、一つ一つ、それらを暗誦した。一つとして違(たが)うものはなかった。
女は財布を渡す。
と――若旦那が重ねて礼を述べているそこに、大旦那が上がって参り、前後、息子と席を入れ代わる。と大旦那は開口一番、
「――お女中、何卒、この屋の親方にお逢い致しとう御座る――。」
と言う。女は少し声を潜め、
「……親方は……心悪しき者なれば……この度のこと、一切何の話も致いて御座いません。……だって……こんなことを知ったら……どんな悪だくみをするか知れたもんじゃないんです……だから……会っても、決していいことは御座いませんことよ……」
と答えたのだが、大旦那は右の掌を掲げつつ、にっこりと笑うと、
「いえいえ。――そのようなことにては御座らず。また――決してかくの如くは、成り申さぬ。」
と意味深なことを言うて、落ち着き払って御座った。
結局、大旦那のたっての願いということで、無理に親方を呼び出だして二階に上げる。
大旦那曰く、
「――さても、この女子(おなご)、我らが方に申し受けたく存ずるが、如何(いかが)?――」
親方は、大旦那の形(なり)から、相当な身請けの金は搾れそうと、あらかじめせり上げを胸算用しながらも、にこやかに、
「いや、そりゃもう、御大尽様なればこそ、結構で御座んすよ。」
と言う。口元には、早、涎が滴りかかっておる。
大旦那は即座に、
「――されば、このような境遇なればこそ、世話致いた女衒とも、直接直ぐにかけ合いましょうかの――。」
と畳み掛けたところ、親方は、
「いやいや、この女は女衒を通して手に入れた者(もん)じゃ御座んせんでの。田舎の親元の在から十四両ほどの給金で年季を限って抱えた者(もん)で。まあ、それ分だけ払(は)ろう貰(もろ)うたなら……へへ、お渡し出来るってえ、もんで……」
――ツツッ――
と親方は涎をすする。
すると大旦那、矢立と紙を出だすと、
――以来、親元其の外一切お構い無し――
という証文をその場にて認(したた)めたかと思うと、懐から金子(きんす)三百両をむんずと摑み出すと目の前に置く――。
親方、驚くまいことか、
「……ヒ、ヒェッ!……こ、こんな大金には……お、及ばねえで、ご、御座んすが……」
と震える声で及び腰となる。
大旦那曰く、
「いえいえ、この女子(おなご)の身の上に関わることにて御座れば、向後、何事もなきように――納まるよう、仕儀致すことなればこそ――まあ、これほどはお納め下されい。」
と、その三百両を親方に渡し、以後、一切手切れの趣きを認(したた)めた先の証文に双方署名の上、即座にこの場で、この女子(おなご)を自身の娘と致いたので御座った。
「――かかるよからぬ親方であったからには……金子を惜しんだならば、後々までも何かと付き纏うて不都合が御座ろうほどに……と、その辺り、深慮の上、大金を以って綺麗さっぱり、はい、さようならと、手切れ致いた……いや、流石、豪商の豪気――」
と、世間では専らの噂であったそうな。