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« 耳嚢 巻之二 賤妓家福を得し事 | トップページ | 耳嚢 巻之二 非人にも賢者ある事 »

2010/02/21

耳嚢 巻之二 怪我をせぬ呪札の事

「耳嚢 巻之二」に「怪我をせぬ呪札の事」を収載した。HPの方では、印字出来ない字は画像でも示してあるので御確認頂きたい。

――さて、明日の公開予定の一本、「非人に賢者ある事」は、僕が「耳嚢」中、優れた名話と感ずる逸品である。乞う、ご期待。

 怪我をせぬ呪札の事

 天明二寅年の春、御小性を勤仕(ごんし)の新見(しんみ)愛之助といへる人登城の折から、九段坂の上にて乘物に驚きけるや、數十丈の探き御堀の内へ馬と一所に轉び落けるが、怪我もせず着服等改め直に登城ありしと也。其後右の咄出て、何ぞ格別の守護等も有しや、數十丈の所轉び落んに、如何にしても少しは怪我も有べきに、ふしぎの事也といひしに、外に守やうの物もなかりしが、一年不思議の事ありしとて、知行の者より差越たる守護札ありしとて、書付けて愛之助より有尋し者へ見せける由。右同人知行の者、或日野に出て雉子を射けるに、其矢雉子に當りしと思へども雉子は恙もなく、敢て立んともせざりし。弓術上手といわるゝ者共爭ひいたりしが、外の雉子は弦(つる)に應じて斃るゝといへども右雉子に矢當らず。何れも驚きて追廻し捕へけるに、羽がひに左の文字認有由。 右の文字を書たる札百姓の與へけるを、其儘に懷中せしと物語の由。何の譯に候哉(や)。文字も作り文字と相見へわかりがたけれど、其頃貴賤となく小兒などにも懷中させしと也。

  ※1抬※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}

□やぶちゃん注

○前項連関:神の御加護のこもった冨札から、霊験の呪力を持った守護札で連関。

・「天明二寅年」西暦1782年。壬寅(みずのえとら)。

・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「新見愛之助」岩波版長谷川氏注によれば新見正登(まささだ)のこととする。『天明元年(一七八七)七月より御小性。六年家を継ぎ八百十石』とある。寛政5(1793)年に小十人頭、同7(1795)年から121800)年まで目付を勤めた。この人、息子の方が有名。「朝日日本歴史人物事典」によれば、新見正路(寛政3(1791)年~嘉永1(1848)年)は幕臣。『伊賀守。文政121829)年大坂西町奉行となり,淀川の大浚い工事の土砂で築かせた天保山は、長く市民の娯楽の場となった。天保121841)年に天保の改革が始まると、将軍徳川家慶の側近である御側御用取次となる。水戸藩士藤田東湖が、「誠によき人物、誠実顔色にあらわれ」と評した人柄を見込まれ、将軍と老中の間に立って両者の円滑な意思疎通と機密の保持を求められる御側御用取次に登用されたのである。また、古典の教養も深く、蔵書家で邸内に賜蘆文庫を設けた』(引用に際して記号の一部を変更した)とある。

・「九段坂」九段は現在の九段南・九段北1~4丁目に相当する町名。町名及び九段坂の名は、この丘陵地の傾斜部分に9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する(ウィキの「九段」を参照した)。

・「乘物に驚きけるや」岩波版では「乘馬物に驚きけるや」とある。こちらを採る。

・「數十丈」現在でもこの九段下や竹橋辺りの堀はかなり深く見えるが、1丈=10尺≒3.03mであるから、流石に「数十」では最低でも90mを超え(江戸城自体の高さが約60m)、堀は深いものでもせいぜい十数m内外と思われ、誇張表現である。

・「知行」新見正登の細かい事蹟が分からないので、この知行地は不詳。幾つかの資料から、一つの可能性として新見氏の領地としては、現在の神奈川県内の何処かが候補としては挙げられそうには思われる。郷土史研究家の御教授を乞う。

「※1抬※1※2」[「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}。「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}。]

底本注で鈴木氏は山崎美成(寛政8(1796)年~安政3(1856)年):作家。江戸下谷長者町薬種商長崎屋の子で家業を継ぐも趣味の文芸に入れ込んで破産、江戸派の国学者小山田与清に従った。滝沢馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢との交流もあった。)の「提醒紀談」(嘉永3(1850)年刊三から引用して『「世に※1抬※1※3の四字を書して、怪我除の護符とす。その験あること人のしるところなり。さて此符字の伝へ一条ならず。或記に、寛永二年三月晦日に将軍家狩したまふに、御鷹大なる※4を捕りけり。その※4の胸に四の字あり。その文字は袷※5※6※7と、かくの如くなり。実に不思議なることなりと見えたり。次にまた寛文八年に紀州に住める鉄砲師吉川源五兵衛といふ人、江戸に居ける日、大宮鷹場の中、青野村といふところにて白き雉子を覘すまして打たれども中らず。さればやうやう機檻にて捕へ得たり。その雉子の背に※1抬※1※3の文字あり。思ふに此文字こそ、定めて怪我除けの符ならんかとて、角(マト)にこの字をしるして、打試みるに幾度打ども中らず。【大久保酉山筆記】といへることあり」として、次に耳袋の新見某の話柄を記し、「何れも正しき記録なれば信ずるに足れり」といっている。』と注する[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+{(つくり上部)「巳」+(つくり下部)「口」}。「※4」=「鳫」の「鳥」の右に(にんべん)。「雁」。]「※5」=「衤」+「盒」。「※6」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「冋」}。「※7」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「幸」}更に東洋文庫版「耳袋」では同じ鈴木氏が、この「※1抬※1※2」の文字は「サンバラサンバラ」と読む、とも記している(岩波長谷川氏注の孫引き。恐らく類型字である「提醒紀談」所収の二つも同じように発音すると考えてよいだろう)。この発音からは、これは梵語(サンスクリット語)をそのまま音で漢訳した真言と考えてよい(「根本真言(大陀羅尼)」や「一切如来随心真言」等に現われる)。従って、本漢字の語義を調べることは意味がないと思われる、というか、多分、調べてみても出て来そうもないし、納得出来るように分かるわけはないと踏んだ、有体に言えば、実は調べるのがメンドクサイのであった。少なくとも「※1」「※2」は「廣漢和辭典」には所収しないし、「抬」は「うつ・あげる・かつぐ・になう」の意の「擡」の俗字で、音は「チ」若しくは「タイ・ダイ」であって「バラ」とは程遠く、現代中国音でも“tái”である。序でに暴露してしまうと「提醒紀談」も持っているが、引き出すと本の崖が崩れて生き埋めになるので原本との照合も諦めたのが事実である。

○岩波版カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の完本(旧三井文庫本)では、この末尾に以下のような三淵正繁による追記がある(ルビを一部排除し、歴史的仮名遣に直した。「わ」はママ))。

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

  右呪の文字に附添居(そひゐ)候歌の由、予が承り及候に付書添置ぬ。

   文政五年九月十七日      三淵正繁

同岩波版長谷川氏の注によれば、この三淵正繁については、『寛政三年(一七九一)二十歳で小性組番士。西丸新番頭・鎗奉行等歴任。天保十四年(一八四三)没。』とある。根岸より35歳年下になるが、事蹟から見ると、根岸が南町奉行となった頃(寛政101798)年)には年下の友人として親交があったものと推測される。この歌、「きし」は「岸」と「雉」、「まつ」は「松」と「待つ」、「みぎわ」は「水際」と「右羽」、「こと」は「異」と「琴」、「とこ」は「常」と「床」、「「わきみ」は「分き身」と「脇身」、「つま」は「妻」と「褄」などが掛けられたものと思われるが、元々和歌の嫌いな私には通釈すべき意欲も起こらぬ、どうも分かったような分からぬ和歌である。「きしひ」が先ず分からん。「岸庇」で、川沿いの岸の高みのことか。識者の御教授を乞うが、そもそも呪(まじな)いであるのだから、通釈出来なくていいんじゃないか、と勝手に決め込んだ。悪しからず。「文政五年」は西暦1823年で、根岸の死後8年後のことである。以下、とりあえず訳しておく。

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

右の呪文の文字に添え付けて御座った歌の由、私三淵正繁が生前の根岸殿とのお話の折りに承ったによって、書き添えておく。

   文政五年九月十七日      三淵正繁

■やぶちゃん現代語訳

 怪我をせぬ御札の事

 天明二年寅年の春、御小姓を勤めて御座った新見愛之助正登という御仁、登城の折りから、九段坂の上にて、騎して御座った馬が何物かに驚いたのであろうか、突然、暴れだして、数十丈はあろうかという堀の底へ馬と一緒に真っ逆様に転がり落ちて御座ったが、怪我一つせず、衣服を改めた上、直ぐに登城致いたという。

 そのことがあって暫くして、このことが談話に上り、ある人が新見殿に訊ねた。

「……貴殿、何ぞ、特別な神仏の守護なんどを受けておられるのかのう。数十丈の落差を転げ落ちたれば、どうあっても多少は怪我も受くるであろうほどに、全くの無傷というは。誠(まっこと)不思議ぞ!?……」

すると、新見殿は、

「……これといってちゃんとした御守なんどという物も御座らねど……いや、そういえば……実は、一年前に……不思議な一件、これあり……」

と言いながら、新見殿、懐紙を取り出して、筆を所望の上、

「……実は拙者の知行地の者から……送り寄越した守護札が御座って……」

と不思議な字を書き付けてその場の者どもに見せつつ、いわれを語ったとのこと。

――この新見愛之助殿知行地の者、ある日、仲間内と野に出て、雉子を狩った。

 一羽の雉子を見つけ、即座にその者が射たのであったが、確かに矢は当たっているはずであるのに、その雉子、一向に平気の平左、飛び立とうとさえせぬ。

 弓の上手と誇る手だれの者数人が中に御座って、争うように雉子の群れを狙って射ては、悉く美事射抜いて御座った――が――同じ時、同じ場所に何匹もの他の雉子が御座って、それらは、その者どもが次々と弦を弾いては繰り出す矢の餌食となってゆくというのに――この雉子一匹だけは――やはり平然としておる――一向に彼らの矢も当たらぬのである。

 誰もが驚きあきれ、遂には、その一匹を皆で追い回し、素手で捕まえたところが、羽と羽の間、その背に次のような呪文の字が書かれていたそうな――。

  ※1抬※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}

「……この文字を書き写した札を、その近所の百姓が拙者に送って寄越したれば、何となく、それ以来、懐中にしては、おりました……」

と物語って御座ったとの由。

 さても、如何なるいわれがある呪言で御座ろうか? 文字というも、如何にも作った嘘字らしく見えるし、意味は勿論、何と読むやらも皆目分からぬが、何でも当時は、貴賤を問わず、子供などにも懐中させた流行の呪(まじな)いで御座ったとのことである。

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