フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 耳嚢 巻之二 怪我をせぬ呪札の事 | トップページ | 耳嚢 巻之二 浪華任俠の事 »

2010/02/22

耳嚢 巻之二 非人にも賢者ある事

「耳嚢 巻之二」に「非人にも賢者ある事」を収載した。

僕はこの一本を映画に撮ってみたい欲求に襲われる程、好きである。「耳嚢」の「卷之一」の始まりから、ここまでの中で、私は随一と言ってよい話柄と思っている。御覧あれ。

 非人に賢者ある事

 天明二年の事なりしが、人の語りけるは、あらめ橋のたもとに出居たる雪踏(せつた)直しあり。往來の侍雪駄をふみ切、懷中貯錢の心付なく、右雪駄を直させける上にて懷中を見るに一錢も無之、家來は外へ使に遣しける故甚當惑いたし、其譯を雪駄直しの非人に斷りて明日にも可差越段申ければ、右非人以の外憤りて彼是申、後には惡口(あくこう)など致しけれども、彼侍無念を怺(こら)へ色々申宥(なだめ)けるを、側に居たりし同職の非人、中へ入りて右侍へ對し、同職の非人甚の不屆なり、誠に御難儀可申樣も無之、彼へはいか樣にも私申宥め可相濟(あひすますべし)、人立ちも如何に候間早々御歸可然段申ければ、彼侍甚過分に思ひて、其方の住所小屋は何れにて名前は何と申哉と尋けれ共、御謝禮等申請べき存寄なし。少しも早く歸り可然とて達(たつ)てすゝめける故、右侍もその意に任せ歸りけると也。其側に町人居たりしが、始終の樣子を見請、其方の小屋は何方(いづかた)やと尋ければ、鎌倉河岸邊の由申しければ、左あらば我等歸り道也、ちと賴度用事ある間、一所に可歸とて同道して、途中にて申けるは、其方は生れながらの非人にも見へずとありければ、成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也と答ふ。さあらば我等事汝がけふの取計ひ感ずるに餘りあり、用に立べきもの成間、引出し可召抱と有ければ、近頃思召忝(かたじけな)けれども望なし。都て橋爪に出て雪駄直し等いたし候非人は、御武家方其外急成差支の節は、隨分代錢に不拘働き可申事、非人の役にて珍らしからず、右惡口いたし候非人は何も不存(ぞんぜざる)者故也。且又武家方の難儀を見受候故、非人の我等ながら無據(よんどころなく)中へ立、事を納めたる也、然し御侍の身分にては左こそ無念に思召なん、御身始終樣子見給はゞ、何として立入御侍の難儀をすくひ取計給はざるや、かゝる御心得の人に引出され隨身(ずいじん)せん事、望む所にあらずと答へければ、彼町人も赤面して歸りしとなり。非人ながら怖敷者也と人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:天明二年の話で連関。この話、私は「卷之二」随一の巧みな名話と感じている。

・「天明二年」西暦1782年。

・「あらめ橋」荒布橋。日本橋川の江戸橋から北に流れていた西堀留川の河口に架かっていた橋。現在は西堀留川自体が埋め立てられており、橋は存在しない。この頃は、この辺りは海岸線に近かったから、干満と海底地形の特質から、褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclisの脱落個体が橋脚に掛かったりしたことから命名されたのではなかろうか。アラメは水深2~3mの岩礁上に有意に密な海中林を形成し、主に本州の太平洋沿岸北中部に分布している。アラメに関しては、私の電子テクスト「和漢三才図会 巻97 藻類 苔類」の「海帶」等を参照されたい。

・「雪踏」雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。以下、参考にしたウィキの「雪駄」によれば、その由来は『諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くため、あるいは積雪時、下駄では歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれて』おり、『主に茶人や風流人が用いるものとされたが』、『江戸時代には江戸町奉行所の同心がかならずばら緒の雪駄を履いており、「雪駄ちゃらちゃら」(後金の鳴る音)は彼らのトレードマークであった』と記す。この「ばら緒」というのは鼻緒の一種の呼称で、竹皮縄のこと。麻緒の芯に竹の皮を丁寧に綯(な)い、太い縄にしたものを言う。

・「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。

・「小屋」非人小屋のこと。通常の非人は非人頭が支配する非人小屋(幕府や諸藩が設置)に属しており、更に小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。非人は小屋に属して人別把握がなされ上で正式な非人となり、身分保障されたのである。

・「成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也」処罰としての非人手下(てか)によって非人の身分に落とされた者であることを言う。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)で両人共に生き残ったか(女が死んだ場合は生き残った男は死罪。これには同情する)、(3)のあだなる縁(えにし)であったか(個人的には余りこれには同情し得ない)、いや、矢張り、武士や町人の幸せな子であった者が、疫病天災や騒動によって天涯孤独になって、ひもじさからわずかな食い物を掠め取って、捕らえられ、投擲され、果てに非人小屋へ連れて行かれ……といった(6)辺りを想定してみて――この実在した男には勝手な想像で失礼ながら――ちょっとしんみりした感じになってくる方がいい。

・「鎌倉河岸」以下、「千代田区総合ホームページ」の「町名由来板ガイド:神田鎌倉町・鎌倉河岸」より引用する(改行及び一部の読みを省略、記号の一部を変更した)。『天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。 江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋(おじま)公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです』。

・「御侍の身分にては左こそ無念に思召なん」この侍の内心は、勿論、非人に理不尽な悪口を浴びせられたことを核心とするが、この男の話の流れから言えば、それに加えて、同じく賤しい非人である私(=主人公の男)如きに救われたということも加えて「無念」にお思いになられたことであろう、という意を含めるものと解釈すべきであり、そこまで他者を慮っているからこそ、賢者と言えるのである。

■やぶちゃん現代語訳

 非人にも賢者のある事

 天明二年のことであった、とある人が語ったという話。

 荒布橋のたもとに出て雪駄直しを商売に致いておった者どもがあった。

 ある時、往来の侍が雪駄を踏み切った。――この侍、迂闊にも懐中に持ち合わせが全くないことに気付かぬまま――この雪駄直しの一人の若者に直させた上、さて駄賃を渡そうと懐中を探ったところが――一銭もない――持ち合わせがまるでないということに今更、気がついた。家来は他に使いに出したばかりで、生憎、そのまま屋敷に戻るよう命じて御座った――甚だ困った侍は、とりあえず、その雪駄直しの若い非人にその訳を述べ、金子は明日にも必ず持参致すべき旨、これを告げたのだが、これを聞いた非人は、異常なほどに憤って、この侍に対して、かれこれ難癖をつけ、遂には無礼な悪口(あっこう)まで吐き始める始末であった。

 この侍、逆立ち致いても一銭も出ぬ事実に加え、人柄も穏やかであったがために、ひたすら無念を堪(こら)え、色々と非人を宥(なだ)めて御座ったところ、傍にいた同じ雪駄直しの非人仲間の一人が、二人の中に割って入(はい)って、

「同業のこの非人の振舞い、甚だ不届きにて御座いまする。先程よりの御武家様の御難儀、申し様もこれなき程にて、仰せられしことも、これ悉く、道理に叶(かの)うて御座ればこそ、かの者には、如何様(よう)にも言い聞かせ、宥めますればこそ。さても、次第に人だかりも致いて御座れば、ここは一つ、お引き取り下され。」

と言う。かの侍も甚だ感謝に堪えず、

「……いや、有難い……その方の住所及び小屋は何処(いづこ)にて、名は何と申す?」

と訊ねたけれども、

「いえ、御礼なんどを頂戴するいわれは御座らぬ。さ、さ、どうか一刻も早う、お引き取りなされるがよろしゅう御座る。」

と頻りに急かすように勧める――実際、彼等の周りには次第に野次馬の人だかりが出来始めて御座ったれば――かの侍も、その非人の言うにまかせて、礼を言うと、帰って行った。

 さて、その野次馬の中に、一人の町人がおった。

 この町人、この一部始終を凝っと見ていたのだったが――野次馬どもが、何事か面白いことが起こるものという秘かな期待を裏切られて何事も起こらぬことに大いにあからさまな失望の声を挙げながら三々五々立ち去ってしまった後(のち)も――ずっとそこに残ったまま、割って入った男が先の非人を宥め落ち着かせるまで待ち、そうして男が雪駄直しの道具類を片付け始めるのを見てとると、そっと近づき、

「その方、小屋は何処だ?」

と尋ねた。

「へえ? 鎌倉河岸辺りで御座えやすが――何か?」

「それなら私の帰り道だ。……実は、ちょいと頼みたい用事があるでの……ま、一緒に参ろうや。」

と同道する。

 その道すがら、町人が男に話しかける。

町人「……その方……失礼ながら……生まれながらの非人には見えぬが……」

男 「――へえ、仰る通り、生まれながらの非人では御座らぬ。若気の至り、ちょいとした心得違いより、かくなる身となり申した。」

町人「……されば……私はお主の、今日の一件の一部始終、見て御座った……その取り計らい方、大いに感ずるに余りあったれば……お主のような人物、実に役に立ちそうな者なればこそ……非人小屋から請け出し、そなたを召し抱えとう思うのじゃが……どうじゃ?」

男 「――めったにない、大層有難い思し召しに御座りまするが、お断り致しましょう。――そもそも、橋詰めに出でて雪駄直しなんど致しておる非人というものは――御武家方その他の方々の急な差し障りの折り折りには――およそ、代銭の有る無しに拘らず、お手伝い致すべきこと、非人の当然の役目――決して珍しいことにては御座らぬ。――あの悪口致いた非人は、未だその辺りの道理を存ぜぬ若輩者にて――かつ、また、かの御武家様の難儀を見申し上ぐればこそ――我ら、非人の分際ながら、よんどころなく、出しゃばり致いて中に割って入り、まあ、かく事を納め申したに過ぎませぬ。――しかし――御侍の身分にては、かく非人に口汚く罵らるれば、さぞ、御無念に思われたことで御座ろう。――貴方――貴方はその一部始終を見て御座った――なれば、何ゆえに割って入(い)り、御侍の難儀をお救いし、お取り計らいなさらなんだ?――かかる御心得の持ち主に、請け出され、御付き申し上げんこと――これ、望むところにては、御座らぬ。――」

 これを聞いた町人、路上にありながら、思わず赤面、そそくさと別れた、という。

「……誠(まっこと)、非人とは申せ、恐ろしき切れ者で御座る。」

とある人が語った。

« 耳嚢 巻之二 怪我をせぬ呪札の事 | トップページ | 耳嚢 巻之二 浪華任俠の事 »