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2010/02/28

耳嚢 巻之二 實心可感事

「耳嚢 巻之二」に「實心可感事」を収載した。

 實心可感事

 本目隼人といへる佐渡奉行は、佐州におゐて病死せし故、右の墳墓も佐州相川の寺院にありぬ。海上百里の隔なれば、家督の者よりも其墳墓への音信もおもはしからず。然るに石野平藏佐渡奉行と成て二在勤の頃にも有りしや、隼人三囘忌の年の由。平藏雇足輕をいたしける者彼墳墓寺へ來りて、麻上下(かみしも)など着替、金子百疋(ぴき)寺納して隼人靈牌へ參拜しける故、住僧こなたへと請じて掛合など振舞樣子を承りぬれば、彼者答て申けるは、われらは隼人幼年より一所に育て、隼人在世の内は厚く召仕ひけるが、二代目に成て小身にもあれば今は外に罷在。隼人大病の由來りて、何卒罷越んと千度百度願ぬれ共、許容なければ詮方なく、殘後何とぞ佛參せんと隼人家督へ願ひぬれど不如意の事故許容なし。餘りの事に絶兼し故、佐渡奉行の往來日雇入口(いれくち)へ賴み、此度足輕に成て來り本懷を達し侍る也、いか程にも寺納もいたしたけれ共、隼人跡式にては我思ふ程の心得にあらず、我等子供兩人當時外(ほか)屋敷に勤て、彼(かの)家などの賜り物にて聊の香典をも納ぬる由語りしに、住僧も涙を流し厚く挨拶に及びしと。右僧侶、組頭岸本彌三郎方へ來て語ぬと、予佐渡奉行勤し頃岸本物語也。奇特の深切も有もの也。

□やぶちゃん注

○前項連関:巧妙な騙りの逆の真正の真心で逆連関。

・「本目隼人」本目親英(ほんめちかふさ 宝永2(1705)年~天明元(1781)年)。六百石。目付から佐渡奉行(安永7(1778)年4月~天明元(1781)年2月)となり、在任のまま死亡した。岩波版長谷川氏注によれば、佐渡国雑太(さわだ)郡にある蓮光寺に埋葬され、『家督の者は子の親豊(ちかとよ)』とある。

・「佐渡奉行」老中配下の遠国奉行の一。正徳2(1712)年以降は基本定員2名で、島内民政を管轄する町奉行及び佐渡金山他の金銀の鉱物資源の管理・経営を専門とする山奉行の二職に分かれ、海上警衛・年貢・外国船監視を職務とした。現在、佐渡市に含まれる相川町(あいかわまち)にある佐渡金山と共に佐渡奉行所が置かれていた。

・「おゐて」はママ。

・「海上百里」誇張表現。佐渡島~本州の直線距離は約60㎞(最短距離は30㎞強)であるが、国道350号では新潟港~両津港間の海上区間を67km(9里程度)と計算している。当時の和船の操舵や海路距離の測定がどのようなものであったかは知らないが、どう航海しても390kmは大袈裟。根岸も勤めたことのある当時の流罪の地でもあった佐渡の、とんでもない辺境性を示したかったのであろう。その誇張が逆に本話柄の誠心を強調する。勿論、訳ではそのまま用いた。

・「石野平藏」石野広通(享保3(1718)年~寛政121800)年)本姓は中原。大沢・蹄渓と号した歌人でもあった。御納戸番・御膳奉行・御納戸頭・佐渡奉行・普請奉行を経て西城御留守居を歴任。佐渡奉行は本目親英の現職死去の代任で、天明元(1781)年2月~天明6(1786)年12月まで勤めた。3百俵。この時に纏めた佐渡地誌「佐渡事略」及び普請奉行時代に御府内上水道調査報告書「上水記」等を記した。歌人としても宝暦年間(175164)の江戸冷泉門下の主力歌人の一人として、また続く明和年間(176472)には江戸武家歌人六歌仙一として数えられた。編著に江戸堂上派私撰集「霞関集」、家集に「五百四十首」等がある(主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。因みに、次にもう一人の佐渡奉行であった宇田川平七定円が天明元(1781)年閏5月に転任後、同年6月、戸田主膳氏盈(うじみつ)が着任、その戸田氏盈が天明4(1784)年3月に転任後、慶長6(1601)年初代から数えて六十番目の佐渡奉行として天明7(1784)年7月まで根岸九郎左衛門鎮衛が勤めることになるのである。石野広通は三年弱根岸と共に佐渡にて同じ佐渡奉行を職掌したことになる。根岸より19歳年上の大先輩である。

・「隼人三囘忌の年」御承知の通り、年忌は三回忌以上は数え年となるので、天明元(1781)年2月に亡くなった本目親英の三回忌の年は2年後の天明3(1783)年ということになる。

・「雇足輕」「足輕」平常は雑役に従い、戦時は歩卒となる者。江戸時代は武士の最下層に位置付けられていたが、実際には多くの場面で武士階級とは区別されていたらしい。以下、ウィキの「足軽」の「江戸時代」のパートより引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』。『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』とある。原義は足が軽くてよく走る者の意から。「雇足輕」はそうした原則一代限りの常勤の足軽ではなく、何らかの急な欠員や急務増員にのために臨時に雇用された者を言うと思われる。ここでは、石野平蔵が佐渡奉行就任に合わせて一緒に派遣された「雇足輕」ではなく、着任の翌年である天明2(1782)年か、同3(1783)年の年初に臨時雇用した者と考えたい(先に示したように本目親英の三回忌は天明3(1783)年2月であり、この話柄のシークエンスは間違いなくその祥月命日と考えられるからである)。但し、この後の「此度足輕に成て來り」という男の叙述からは、彼の本来の身分は足軽よりも遙かに上であったと考えられる、いや、考えてこそ、この話柄は生きる。

・「上下」裃。江戸時代の武士の礼装・正装。肩衣(かたぎぬ)と、同じ地質と染め色の脇が広く開いた袴とからなる。紋付きの熨斗目(のしめ)または小袖の上に着る。麻製の上下を正式とする。

・「金子百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、2万5000円程か。

・「掛合」あり合わせのもので作った軽い食事のこと。

・「不如意の事故許容なし」嗣子親豊は経済的にかなり厳しかったのであろう。父の家来が父の看病や墓参に向かうと言えば、ただ許諾するだけにては体裁がつかぬ。同道出来ざれば、相応の品や旅費の手配をもするのは常識であろう。そうしたことさえ、手元不如意なれば、出来ぬ、というわけである。

・「われらは隼人幼年より一所に育て」本目隼人親英は享年77歳であったから、この足軽は有に75歳を越えていると考えねばならない。

・「佐渡奉行の往來日雇入口」佐渡奉行と江戸(或いは新潟)との間を往復し、必要な臨時雇いの人員を確保する口入屋(職業斡旋業)のことを言うものと思われる。

・「奇特」は、言行や心がけなどが優れ、褒めるに値するさまの意の他、非常に珍しく、不思議なさまの意もある。ここは両義を掛けている。

・「組頭岸本彌三郎」岸本一成(かずしげ)。岩波版長谷川氏注に、安永7(1778)年に御勘定、同9(1780)年に佐渡奉行支配の組頭、寛政元(1789)年には代官となったとあるから、根岸が佐渡奉行であった3年間(天明4(1784)年3月~天明7(1784)年7月)の間もずっと佐渡奉行支配組頭であった。

・「予佐渡奉行勤し頃」この表現と過去の助動詞「き」に着目するなら、本話柄は天明7(1784)年7月よりも後でなくてはならぬ(「卷之二」の下限を天明6(1786)年とする鈴木氏に執筆年代推定は年の明記された話柄からの線引き)。

■やぶちゃん現代語訳

 誠心感ずるに相応しいものがあるという事

 本目隼人親英(ちかふさ)殿という佐渡奉行は、佐州で在任のまま病死なさったので、その墳墓も佐渡の国相川(あいかわ)という地の蓮光寺に埋葬されて御座る。

 本土から隔つこと、遙か海上百里、家督を継いだ子の親豊(ちかとよ)殿さえも、その実父の墳墓に参ること、ままならざるもので御座った。

 ところが――先輩の石野平蔵広通殿が佐渡奉行となって、確か佐渡在任二年目のことであったとか――その年は、丁度、本目隼人殿三回忌に当たる年で御座った――。

 雇い入れたばかりの、平三殿の足軽を致しておる、ひどく老いた男が、独り、その蓮光寺にある本目隼人殿の墳墓を訪れ、その墓前にて、麻上下などに着替えると、金百疋寺納の上、隼人位牌を参拝致いた。

 それを不思議に思うた住職は、この足軽を寺内に招き入れ、あり合わせの軽い食べ物なんど振舞い、徐ろにいわれを訊ねてみた。

 その老人が語り出す――

「……拙者、主(あるじ)本目隼人様とは、幼き頃より御屋敷内にて一緒に育ちまして御座る。隼人様が御在世の間は厚く召し使われておりましが、二代目親豊様の代となってからは、御小身の御身分にて、旧来の家来等にも暇(いとま)これ申し付けられ、拙者も他家に勤仕(ごんし)して御座る。……されど、過ぐる年、隼人様が大病を患っていらっしゃると噂にて承り、何としてもその御病床に参上致さんものと、当時嗣子で御座った親豊様に何度も何度も願い出ましたものの、遂にお許しを頂くこと、叶いませなんだ。……没後も、何としても御仏にお参りせんものと、再応、親豊様に願い出ましたが、……手元不如意によって、これもお許しになられませなんだ。……余りのことに堪えかねまして御座ればこそ……佐渡と江戸とを往来している佐渡奉行付日雇業の口入れを致いておる者に、老人ながら達ての願いあればとて、強引に頼み込み、……晴れて、この度、足軽となって佐渡に来たり、本懐を遂げること、出来申した……相応なる寺納を致したく存ずれども、隼人殿跡目にては……拙者が思うほどの――子なればこそ当然の思い、成すべき仕儀というもの、これあるはず、と存ずれども―御心得はこれなく……実は、拙者には二人の子供が御座って、只今、他家に勤仕して御座いまして、その倅どもから凡父の佐渡行の話をお聴きになられた、その、それぞれの主家より、有難き賜り物をば頂戴致いて御座れば、それを、聊かの香典として納めまして御座る……」

 住職も涙を流し、厚い挨拶を成したと――。

 この僧侶が、組頭岸本弥三郎の家を訪れた際、直接本人から聞いたと、私が佐渡奉行を勤めていた頃、私の部下であった岸本本人から聞いた物語である。

 誠(まっこと)、かく奇特なる深き真心の持主も、あるものなのである。

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