耳囊 卷之二 幽靈なしとも難極事
「耳嚢 巻之二」に「幽靈なしとも難極事」を収載した。
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幽靈なしとも難極事
天明二年の夏の初め、淺草新シ橋外の町家娘、武家に哉(や)又は町家に候哉、借老のかたらひなして、圍ひ者といへる樣に其親元へ預け置しが、一子を生て產後より血勞のやうに煩ひしゆへ、右小兒は最寄の輕き町家へ里子に遣し置けるが、右女養生叶はずしてみまかりけるが、其夜彼里子の許へいたりて門口より會釋せしまゝ、里親は右小兒を寢せ付居たりしが、能こそ來給へりと右里子を抱て見せければ、扨々よく肥り生人いたしたりとて抱取て色々介抱し、扨々愛らしく成たる者を捨て別れんも殘念なりといひしに、里親夫婦心付て、右女子は大病のよし聞しに、いかゞ不審成事と存けれ共、最早火もともす時分人影もさだかならざる折から故、火などとぼしければ、右女子を歸し、挨拶などして立歸りけるが、其翌日親元より右娘夜前病死せる由知らせ越しけるにぞ、母子の情難捨心の殘りしも恩愛の哀れなる事と、同町の醫師田原子(し)來りて語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。「卷之一」より続く「~難極事」怪談奇談シリーズ。
・「天明二年」西暦1782年。底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しに近いこの話は、アップ・トゥ・デイトな都市伝説の一つであったものと推測される。
・「新シ橋外」「江戸名所図会」巻之一の筋違橋(すじかいばし)の条に昌平橋について叙述し、昌平橋はこの筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷(しやうへいきやう)に比して号(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠(ほこら)は、この地淡路坂にあり。旧名を一口(いもあらひ)稲荷と称す』とあり、これに同定するのが正しいように読めるが、実は別に「新シ橋」と呼ばれた橋があった。江戸切絵図を見て発見、現在の「美倉橋」がそれである。なお、「外」は江戸城を内とした外側か。「近く」で訳した。
・「血勞」漢方では、「気血虚労」で気が衰退し、血が消耗して全身が疲労虚脱した状態にあることをいうが、ここは産後の肥立ちが悪い、と言うより、妊娠中毒症や出産時の異常出血等によって母体がダメージを受けたことを言っていると思われる。
・「生人」底本では右に『(成人)』と注する。
・「右女子を歸し」底本では右に『尊經閣本「右小兒をかゑし」』と注する。
・「田原子」田原氏のことであろう(「田原子」(たわらご)という姓でなかったとは言い切れぬものの)。
■やぶちゃん現代語訳
幽霊は存在しないとも極められぬ事
天明二年の夏の始めのこと、浅草あたらし橋近くに住んでおった町屋の娘――この娘、本来は武家の出身であったものか、元々町家の者であったものかは、実は定かでないが――ある男と婚姻の約束をしながら、実際には妾同然に扱われて、親元――とりあえず、その町屋が親元とということにしておく――に預けられたままになって御座った。
やがて、一子を出産致いたものの、産後の肥立ちが殊の外悪うして、その子は近所の低い身分の町屋の家に里子出して御座った。
この女、その後、養生叶わずして、身罷って御座った……。
その亡くなった日の夕暮れのことで御座った。
女が、かの子を里子に出して御座った家を訪ねて参って、門口で会釈をして御座るのを、丁度、その子を寝かしつけて御座った里親の母ごが見かけ、
「ああ、よく来なすったの。」
と、この子をかき抱いて、女に見せてやったところ、
「……なんと、まあ、よう肥えて、大きゅうなりました……」
と、己が子を抱き取って、懇ろに愛でて御座ったが、ふと、
「……なんと、まあ、愛らしゅうなったものを……捨てて、別れねばならぬも……残念なこと……」
と呟くのを聴いた里親の夫婦、はっと気付く――。
『……そう言えば、この母ご……病い重きこと甚だしと聞いて御座ったに……このような夜ふけに、また……何やらんおかしい……』
と思いながらも、暫くそうして御座った――。
気づけば、既に日も暮れ、最早、家内には火を灯す時分になって、人の姿・面貌もはっきりとは見えぬようになって御座った折柄、家内に灯をとぼしたところ、女は子を養母の手に返し、行灯の火の及ばぬところにすーっと下がると、
「……どうか……よろしゅう……お願い致します……」
と挨拶致いて、かの親元の家の方へと帰って行ったので御座った――。
その翌日のこと、その親元より、かの娘、昨夜病死致いた由、知らせを寄越した、と――。
「……母の子を思う情、捨て難(がと)う……魂魄の心残り致いた業(わざ)か……慈愛、哀れなること……」
と、その亡き娘と同じ町内に住まうておった医師、田原氏が私の家を訪ねた折りの、語りで御座った。

