芥川龍之介「骨董羹」の「聊齋志異」に現れたる諸注『不詳』とせる「崑崙外史」は蒲松齡友人張篤慶なり!
先日(2010年3月3日)、芥川龍之介を愛読され、私の電子テクスト芥川龍之介「骨董羹」をお読み頂いたSeki氏という方からメールを頂戴した。そこで、Seki氏は、私が「骨董羹」の「聊齋志異」の項に現れる「崑崙外史」に附した以下の注、
『「崑崙外史」筑摩・新全集ともに不詳とする。文脈から言っても、これは「聊齋志異」中の一篇に現われる台詞でなければ意味が通らぬのだが、「崑崙外史」という細項目は「聊齋志異」の中にない。両注がお手上げということは、続く「董狐豈獨人倫鑒」の文字列も「聊齋志異」には見出せないということであろう。今暫く探索してみたい。』
について、次のような事実をお知らせ下さった(メール本文から引用することを、Seki氏よ、お許しあれ)。
実は「崑崙外史」は蒲松齡の友人、張篤慶(字歴友)の雅号です。張篤慶は「聊齋志異」のために、三首の詩を題しました。「聊齋志異」の書首に載せられています。「董狐豈獨人倫鑒」云々の詩はその第一首にあたります。「題詞」は感想などの言葉を綴る文体で、「台詞」ではありません。卑見を述べさせて頂きましたが、ご参考になれば幸いです。
私は舞い上がってしまった。
「崑崙外史」は筑摩全集類聚版の脚注も、最新の岩波新芥川龍之介全集の注も伴に不詳としているのである。更に、この張篤慶なる人物をネット上で検索しても、邦文の記載では数件、それも中国の出版物の彼を含む文人の年譜書名「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」が上がって来るだけなのである。即ち、今現在、芥川龍之介の「骨董羹」を読む日本人の殆んどが知らない事実だと言ってよい。芥川龍之介が言った「崑崙外史」に関わるこの部分を、僕等日本人の多くが、訳も分からず読んでいた、私のように誤魔化して分かった積りでいた、という事実がはっきりしたのである。
早速、Seki氏への御礼と共に、厚かましくも、この「聊齋志異題詞」の原文をお教え頂きたい旨、返信申し上げたところ――当然の事ながら現在、邦訳の出ている「聊齋志異」には所収していないと思われる。私の所持する3種類には少なくともない。そもそも何処かに所収していれば誰かがとっくに気づいていたはず、いや、いなければならなかったはずである――昨日(2010年3月9日)、該当部分の版本の画像をPDFファイルにして送付して下さった。今日、それをとりあえず電子テクストに翻刻、簡単な注を附し、今まで芥川龍之介の「骨董羹」で『不詳』であった真実を詳らかにし、世界中の芥川龍之介の愛読者と共有したい。
世界中である――Seki氏は『今後とも同じく芥川の愛読家として、国境を越えた交流を図りましょう』とおっしゃって下さった――御本人は『芥川龍之介の愛読者』とおっしゃるだけである――――が、記された御本名から、実は有名な日本文化の研究者であられるようだ――しかし、私はここでSeki氏を「同じ芥川龍之介を愛する方」とのみ、名を記させて戴くに止めたい。
今の私の至福は、Seki氏にとっても共有されていると確信するものである。
最後にSeki氏に深い感謝の意を表して、翻刻を示し、私の電子テクスト芥川龍之介「骨董羹」及び『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)』の注及び現代語訳を補正した。
聊齋志異題詞
冥搜鎭日一編中、多少幽魂曉夢通、五夜燃犀探祕籙、
十年縱博借神叢、蕫狐豈獨人倫鑒。干寶眞傳造化工、
常笑阮家無鬼論、愁雲颯颯起悲風、
盧家冥會自依稀、金盌千年有是非、莫向酉陽稱雜俎、
還從禹人問靈威、臨風木葉山魈下、研露空庭獨鶴飛、
君自問人堪説鬼、季龍鷗鳥自相依、
搦管蕭蕭冷月斜、漆燈射影走金蛇、嫏嬛洞裏傳千載、
嵩獄雲迸中九華、但使後庭歌玉樹、無勞前席問長沙、
莊周漫説徐無鬼、惠子書成已滿車、
崑崙外史張篤慶歴友題
[やぶちゃん翻刻注:底本は上記Seki氏より頂戴した「同治丙寅年」西暦1866年刊「聊齋志異評註 青柯亭初雕維堂藏板」の部分画像を用いた。前文で「とりあえず電子テクストに翻刻し」としたのは、この詩が私には難解で訳はおろか、書き下しすらもままならないからである。まだまだこの注は未完成である。もう少し、お時間を頂きたい。
・「冥搜鎭日一編中」という冒頭から意味も分からずに翻刻するのであるが、ここ以外の活字を見ても「日」は確かに「日」であって「曰」ではない。
・「十年縱博借神叢」の「博」は原文では「扌」であるが、「博を縱(ほしいまま)にして」と意と判断し、補正した。「搏」や「塼」では意味が通らないように思われる。
・「蕫狐豈獨人倫鑒」芥川が引用したのはこの部分である。
・「張篤慶」(1642~1720)清代前期の文人。字は歴友、号は厚齋。別号、崑崙山人、崑崙文史。山東淄川(しせん:現在の山東省淄博市。)。の人。提督学政(:省の学務・教育の監督。)であった著名な詩人であった施閏章(しじゅんしょう 1618~1683)に師事、崑崙山麓に住み、博学才穎、詩文の名声高い人物で、「聊齋志異」の作者蒲松齡の友人あった。著作に「班范肪截」「両漢高士伝」「五代史肪截」「崑崙山房集」等がある(張篤慶についての事蹟は主に中文サイトの「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」のブック・レビュー記事等を参考にした)。]