耳囊 卷之二 猫の人に化し事 及び 猫人に付し事
「耳囊 卷之二」に「猫の人に化し事」及び「猫人に付し事」の二篇を収載した。
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猫の人に化し事
鄙賤の咄に、妖(ようびやう)猫古く成て老姥などをくらひ殺し、己れ老姥と成る事あり。昔老母を持たる者、其母猫にて有し故、甚酷虐にて人をいためし事多けれど、其子の身にとりてすべき樣なく打過しが、或時猫の姿を顯し全く妖怪に相違なし、しかれば、我母をくひし妖猫とて切殺しける。母の姿となりし故大に驚き、全く猫に紛(まがふ)なき故に殺しぬるに、母の姿と成し是非もなき次第也、いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬるとて懇意の者を招きて、切腹いたし候間此譯見屆吳候樣申しける時、かの男申けるは、死は安き事なれば先暫く待給へ、猫狐の類一旦人に化して年久しければ、縱(たとへ)其命を落しても暫くは形を顯はさぬもの也とて、くれぐれ押留ける故其意に任せぬるが、其夜に至りて段々形を顯し、母と見へしは恐ろしき古猫の死がひなりけるとぞ。性急に死せんには犬死をなしなんと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:見た目の母殺害(せつがい)という尊属殺人、その責任をとって性急に自害に及ばんとし、間一髪で大団円というモチーフで直連関。にしても、この話柄も如何にもおかしな感じがする。特に事実譚ならば、最もリアルに描写し得るはずの「或時猫の姿を顯し」の部分が余りにもあっさりし過ぎている点、事実ならば最も詳述されてよいエンディングの変容シーンがまるで描かれていないという点である。この老女は実は、本来、他虐性の強いサディスト的異常性格であったものに加えて、ある種の精神病や脳神経障害若しくは老人性痴呆やアルツハイマー等が発症し、それを持て余した息子が懇意の者と騙らって、斬殺した老女の死体を隠匿した上、猫の死骸に老女の衣服など被せて、周りの者にかくなる虚言を信じさせたものではなかろうか。昨今の事件を考えると、こんな想像も突飛とも思えぬのが、恐ろしい……。
・「全く妖怪に相違なし」この部分は前文と繋がって句読点がないことから、地の文であると鈴木氏は採っておられるようである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「相違なし。」として地の文としている。私としては息子の言葉として臨場感を出したいと思う。
・「いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬる」「「いわれざる」はママ。正しくは「言はれざる事」で、「言はれざる」は一般に「言はれぬ」と用いて、「言ふ」+可能の助動詞「る」+打消の助動詞「ず」の連体形から構成される連語で、「道理に外れた・無理な」又は「余計な・無用な」の意を表わす。人が猫に変じたという現象を錯覚と捉えて、そのような幻覚に惑わされた自身の意識を「道理に外れたもの」と表現したものか。動揺している男の様子を良く伝えるが、後の「いれざる大罪」にリズムとして呼応し、「犯しぬる」の慙愧の念を示す完了(強意)の助動詞の連体形の「ぬる」の活用語尾の一部である「る」との響きも小気味よい。
■やぶちゃん現代語訳
猫が人に化けた事
田舎の下賤の者の語った話。
年経た妖猫が老女を喰い殺して、自身、化けて老女に成りすましていたという話である。
昔、老いた母を持った男がいた。
その母――実は妖猫――は老女なれど、甚だ粗暴にして冷酷、残虐にして酷薄なる性質(たち)で、誰でも彼(か)でも打擲罵倒すること甚だしかったのじゃが、息子の身にてあれば、男は如何ともし難く、苦痛の内にも、何とのう、日を過して御座った。
そんなある日のこと、男は遂に――その母御前(ごぜ)が猫の姿を露わにしておるのを目の当りにした――。
「これは! 全く以って妖怪に間違いなかったッ! されば! 既に我が母者(ははじゃ)を喰い殺した妖獣であったっかッ!」
と、おぞましき妖猫を、その場で一刀の元に斬り殺した……
……しかし……
……しかし、その猫の死骸は……瞬く間に母御前の姿に変じてしまった――。
男は大いに驚き、
「全く猫と紛(まご)うことなき故に殺したに!……いや! これ、紛れもなく我が母御前になった!……なった……のでは、ない……母御前、じゃ!……こうなっては……是非もない!……道理に外れた錯覚に陥って、母殺しという天神地祇の許さざる大罪を……犯してしまったッ!……」
と慙愧の念にうち震え、思い余った男は近隣の懇意にして御座った者を家内に密かに呼ぶと、母御前の遺体をありのままに見せた上、
「……かくかくの訳にて母者を斬り殺したれば……これより切腹致すによって、是非もなき以上の顛末、呑み込んで貰(もろ)うた上……どうか見届けて下されい……」
と頼んだ。それを聞いた知れる者、口を極めて、
「死は易きことなれば! 先ず、暫く! 待たらっしゃい! 猫・狐の類いの、一旦人と化して年久しく経て御座ったれば、たとえその命を失いても……暫くは、その本性を現さぬものにて御座るぞ!……」
と、何度も押し留めた。
されば、男も半信半疑ながら思い留まり、取り敢えずは懇意の者の言に従って――待った。
その日の夜に至り……彼らの眼前にて……母御前の遺体は……徐々に……そう、徐々に、その姿を変え……その本当の姿形を、現わし始め……遂に……母御前と見えたその「もの」は……見るも恐ろしい老猫(ろうびょう)の死骸となったという――。
この男、性急に自害致いておれば、これ、妖猫死ぬるばかりか――男も犬死にをするところで御座った――。
* * *
猫人に付し事
右猫の人に化し物語に付或人の語りけるは、物事は心を靜め、百計を盡し候上にて重き事は取計ふべき事也。一般猫の付しといふもあるよし也。駒込邊の同心の母有しが、件の同心は晝寢して居たりしに、鰯を賣もの表を呼り通りしを母聞て呼込、いわしの直段(ねだん)を付て、片手に錢を持此いわし不殘可調聞直段を負候樣申けるを、かのいわし賣手に持し錢を持候を見受、それ計にて此鰯不殘賣べきや、直段も負候事も成がたしと欺笑ひければ、殘らず買べしといひざま、右老女以の外憤りしが、面は猫と成耳元迄口さけて、振上し手の有樣怖しともいわん方なければ、鰯賣はあつといふて荷物を捨て逃去りぬ。其音に倅起かへり見けるに、母の姿全くの猫にて有し故、扨は我母はかの畜生めにとられける、口惜しさよと、枕元の刀を以何の苦もなく切殺しぬ。此物音に近所よりも駈付見るに、猫にてはあらず、母に相違なし。鰯賣も荷物とりに歸りける故、右の者にも尋しに猫に相違なしといへども、顏色四肢とも母に違ひなければ、是非なく彼倅は自害せしと也。是は猫の付たといふ者の由。麁忽(そこつ)せまじきもの也と人のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:化け猫から猫憑きで直連関。前掲の尊属殺人とも連関するが、こちらはどちらと比しても悲劇的結末である点で極めて対照的。しかし、これなど、見るからに病的なヒステリーを主症状とする、ある種の精神病と考えてよい。因みに、猫が人に憑いたとされた精神病様状態の最も最近の報告例としては、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪データベース」の「猫憑き」のカード(No.0770007)に、執筆者江口重幸氏の論文「滋賀県湖東―山村における狐憑きの生成と変容」(昭和62(1987)年国立民族学博物館発行『国立民族学博物館研究報告』12巻4号1113p~1179pの1158pに昭和54(1979)年の『精神医学』21巻4号に滋賀県愛知郡愛東町の事例として『嫌いな男から逃れるために週刊誌で見た呪術を用いた24歳の女性が猫憑きになり発病し、四足で歩いたりの記述がある』とあり、決して過去の馬鹿げた出来事と一蹴は出来ぬのである。
・「欺笑ひ」底本では「欺」の右には『(嘲)』とある。無論、「嘲笑」で採る。
■やぶちゃん現代語訳
猫が人に憑くという事
前話にて人に猫が化けた話を致いたが、それを聴いたある人が、こういう話もある、と語って呉れた話をもう一つ。
この一件は、何事も事を処理するに当たっては心を静め、百計を尽くした上、その結果として重大な実行行為を行使するに際しては、十分過ぎるほどの深慮を図らねばならないという、よい例である。
具体的には、猫は――化けるのではなく――人に憑依するという例もある、ということなのである。
駒込辺りに、さる同心が母とともに住んで御座った。
倅であるその同心、ある非番の日、居間の厨近くにて昼寝を致いておったところ、表を鰯売りが売り声を上げて通ったのを、厨にあった母親が屋敷内に呼び込んだのを、うつらうつらしている耳に聴いて御座った。
――鰯売りを前に、母御前(ごぜ)は鰯の値段を聴いた上、片手に僅かばかりの銭を乗せた手を差し出し、
「……この鰯……一匹残らず買い取ります故……値段を、おまけなされ……」
と言う。この鰯売り、老女の持ったそのはした金を見て、呆れ果て、
「それっぱかりでこの鰯を残らず買う、だ? 『値段をおまけなされ』たあ、ちゃんちゃら可笑しいゼ!」
と嘲笑(せせらわら)った。
――と――
「……残らず……買うと言ったら……買うん、ダ! ヨッ!」
急に叫びながら、老女、異様な興奮と共に怒りだしたか――
――と見る見るうちに――
――その面相、猫そのものとなり!
――その口、耳元まで裂け上がり!
――銭投げつけて振り上げたその両腕、それ! 猫の手振りそのままにて!
――最早! 怖ろしいなんどと言うどころの騒ぎではない!
鰯売り、
「わああッツ!」
と叫ぶが早いか、ばーん! と棒手振(ぼてぶ)り振り捨てて逃げ去ってしまった。
その騒ぎに目が覚めた倅、居間から、ふと庭表を見る――
――と――
――そこに母御前(ごぜ)……と思いし人の姿は――
――これ、全くの猫なればこそ!
「さては! 真実(まこと)の母者は、かの化け猫めに喰われてしもうたかッ! 口惜しやッ!!」
――と――
――枕辺の刀、抜き取って、一刀両断の下に斬り殺してしまった……。
しかし……この物音に近隣の者どもが駆けつけて見れば、
……猫にてはあらず……
……見紛う方なき、その倅の母御前の御姿、そのまま……
暫く致いて、鰯売りも荷物を取りに戻って参った故、この者にも問い質いたところが、
「……いえ! もう、確かに! 猫にて! 相違なし!……」
との答えが返っては御座ったれど……
……遺体の顔も、その姿も……何時まで経っても……常の女……倅は勿論のこと、近隣の者どもも知るところの……かの常の母御前に相違なきことなれば……
……この同心、是非なく、その場にて自害致いた、ということで御座った……。
これ、猫が人に憑いたという例に他ならぬ、という由。
「……いやもう何より、物事、早計に断ずること、これ、決して致いてはならぬものにて御座る……」
と、その人が語って御座った。
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