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2010/03/20

耳嚢 巻之二 神道不思議の事

「耳嚢 巻之二」に「神道不思議の事」を収載した。

 神道不思議の事

 凡そ世の中に巫女神人(じにん)など神變不思議をかたり奇怪の事をなすなどあり。予其怪妄を親しき鬼女の戲れと思ふ事のみなりし。安永の酉年より同亥年迄、日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤せしに、日光山御宮の御威光奇特(きどく)は申も恐れなれど、正(まさに)外遷宮(げせんぐう)の夜は今まで打曇りし空もはれ渡り、吹風枝を鳴らさぬ有樣、申もおろかながら、是は誠に宇宙を平均なし給ひ、御武德千歳の今も津々浦々迄其澤(たく)を蒙らざるものもなく、萬人渇仰の御所德なれば申も愚かならん。其外日光は深山幽谷たり、魔魅の住所迚(とて)是迄色々の奇怪を申習しぬれど、予三年の在勤の内聊怪しき事も聞かず。或日新宮の御湯立(ゆだて)とて、本坊御留守居の寺院より案内にて、右拜殿の棧敷へ至り、松下隠州丸毛一學依田五郎左衞門など一同見物なしけるに、湯立の釜三つ鼎(かなへ)を並べ熱湯玉をほとばしる、神人白き單物(ひとえ)を着し風折(かざをり)烏帽子にて白きさしぬきをして、神樂(かぐら)に合せ舞曲を盡す。右舞曲神樂のさまいかにも古雅にして、今江戸表などにて舞はやすの類ひにあらず。さて熱湯に向ひ何か祈念して幣帛(へいはく)をとりて、右柄をもつて湯の中ヘ書き湯中を廻しぬるに、湯氣ほとばしり煮たつ煙すさまじかりしが忽に靜りぬ。扨笹の葉をとりて己が身へ浴びけるに、湯かたさしぬきもひた濡れに成ぬれど、聊かあつきと思ふ氣色もなし。傍に見物せし者へ右湯のかゝけるに、誠にたゆべくもあらぬ由。誠に神國のしるし、神道のいちじるき事を始て覺へぬる故爰にしるし置ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:日光東照宮連関。それにしても前にも指摘したが根岸は神道には寛容。かなりの国学肌を感じる。

・「神人」日本史の用語では神社に隷属し雑役などを行った下級の神職・寄人(よりゅうど)を指し、正式な神主・神官とは厳然と区別されるが、ここでの根岸の謂いは神主・神官などをも広く含んでいるものと思われる。

・「安永の酉年より同亥年迄」安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。

・「日光御宮」徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮。

・「御靈屋」岩波版長谷川氏注では徳川家光廟があるとのみ注する。これは日光東照宮は徳川家康を神格化した東照大権現を祀るものであり、所謂、狭義の「御靈屋」家光の大猷院廟のことのみを言うと判断されての注と思われる。また、厳密に言うと大猷院廟は神仏習合であった輪王寺の中にあるので、「日光御宮」は家康の霊廟を示したものとし、これを大猷院廟とされたのでもあろう。

・「本坊向」「本坊」は日光山輪王寺のこと。天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』おり、先に記した『徳川家光をまつった大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い』とある。「向」は輪王寺関連付属施設の謂い。

・「奇特」これは「きどく」と読んで、神仏の持つ超人間的な力や霊験のことをいう。

・「外遷宮」日光東照宮では本社を修理する際には祭神東照大権現の神霊が一時的に御仮殿(おかりでん)と呼ばれる建物に移された。この儀式を外遷宮と言う。一般的に伊勢神宮のような例外を除いて神社本殿の改築・修理では仮社殿を直前に設置し、新本殿完成後は仮社殿は取り壊すのが普通であるが、日光東照宮では古くは本社修理が頻繁に行われたために、この御仮殿は常設建物となった。寛永161639)年建立と伝えられ、本社と同様、拝殿・相の間・本殿からなる権現造りとなっており、神儀一切が本社と同様にここで行われた。この外遷宮式は過去19回行われているが、文久3(1863)年を最後として、その後は行われていない。

・「新宮」上記「本坊」で示した「日光山」を構成する日光二荒山神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命(おほなむちのみこと:大国主)・田心姫命(たごりひめのみこと:宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。以下、ウィキの「日光二荒山神社」から引用する。『下野国の僧勝道上人(735 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える』。二荒山は「ふたらさん」とも読むが)これは一説に『観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った』。戦国期には一時衰退したが、『江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた』。『江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている』。

・「湯立」神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。

・「本坊御留守居の寺院」これは恐らく寛永寺門主で日光山主を兼ねる輪王寺宮が寛永寺に在って「不在」の折りの「留守居」役=執事役の塔頭寺院のことであろう。

・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭・作事奉行・鑓(やり)奉行を歴任したとある。「卷之一」の「人性忌嫌ふものある事」に既出。

・「丸毛一學」岩波版長谷川氏注に、丸毛政良(まさかた)とする。それによれば、安永8(1779)年に本話柄に示された日光修理の業績で賞せられ、同9(1780)年普請奉行に、天明2(1782)年には京都町奉行就任したと記す。しかし、この人物、京都東山学園教諭石橋昇三郎氏の「天明伏見町一揆越訴事件の顛末記」によれば、京都町奉行としてはとんでもない悪吏となったようである。『天明七年の洛中での「天明の飢饉」による米価高騰の折、町衆が「お千度参り」なるデモンストレーションを御所の周りで繰り広げたが、時の東町奉行丸毛政良が、町民を救済するどころか、逆に米商人近江屋忠蔵らと結託し、米を隠匿し、米価をつり上げ、暴利を貪り、町年寄をも圧迫した為、町衆が「丸毛和泉守は商人なり」、奉行は「丸屋毛兵衛だ」と棹名して嘲ったという』とある(引用元注によればこれは原田伴彦著「江戸時代の歴史」三一書房の二五二頁及び辻ミチ子著「京都こぼればな史」京都新聞社刊の九一頁を参照した由)。直前で天明の飢饉の仁慈を称揚した同じ町奉行となった根岸にしてみれば、この丸毛の悪行三昧、怒り心頭に発したであろうこと、想像に難くない。

・「依田五郎左衞門」岩波版長谷川氏注に、依田守寿(もりかず)とする。それによれば『日光修理に関係。天明三年駿府町奉行。同八年御留守居』とある。

・「三つ鼎」「鼎」は金属製の器で通常は3本の脚を持つ。中国古代に於ける王侯の祭器とされ、後には王権の象徴ともなった。ちょっと分かり難いのであるが、「三つ」は三脚を意味し、その鼎を炉として、その上に釜を置いたのであろうか。とりあえずそのように訳しておく。

・「風折烏帽子」正式な立(たて)烏帽子は機能的でないため、上部1/3程度を折って用いることがあったが、これを烏帽子の一種として実用的に改良したもので、見た目は立烏帽子の頂が風に吹き折られた形になっている。狩衣(かりぎぬ)着用の際に用いられ、細かな礼式にあっては上皇仕様右折りで組紐使用、左折りで紙捻使用は一般用であった。極めて類似した略式のものに平礼烏帽子(ひれえぼし)というものもあった。

・「さしぬき」「指貫」と書く。袴の一種。裾口に紐を刺し通して、着用の際に裾を括って足首に結ぶもの。

・「幣帛」本来は神社で神官が神前に奉献するものを総称するが、所謂、一般に良く見るところの幣(ぬさ)のことである。ここでは前出の笹の葉が幣である。

■やぶちゃん現代語訳

 神道の不思議真実(まこと)の事

 凡そこの世にあっては、巫女やら神主やらと称する者の中に、やれ、神変、やれ、摩訶不思議なんどと称し、語りならぬ騙りを致し、見るからに怪しげ千万な奇術なんどをして見せては、人を惑わす輩がおるものである。私は、永年、こうした奇術妄説の類い、十把一絡げに、女子供を驚かすだけの他愛のない戯れに過ぎぬとのみ思って御座った。

 しかし乍ら神道の不思議なること、これ真実(まこと)なり、という経験を致いたことがかつて御座った――。

 私は安永六年より安永八年に至る三年の間、日光東照宮・大猷院様御霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物、並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のため、日光山に赴任して御座った。

 日光山の御宮の御威光やそのあらたかなる御霊力御霊験の程は、今更申し上げるも畏れ多いもので御座るが――まさにかの外遷宮の夜は――それまで曇って御座った空があっという間もなく晴れ渡り、それまで吹いて御座った風もぴたりと止んで、一枝一葉さへ鳴らさぬ有様となって、一山水を打ったように静まり返って御座った。申すも愚かなること乍ら――これは、真実(まこと)に全宇宙森羅万象を一つ残らず統べなさって、その広大無辺の御武徳が千年の後の今に至るまで、本邦津々浦々に至るまで、蒙らざるものは一つとしてない、この世のありとある万民が渇仰するところの御神徳の成せる技なればこそ――やはり、申すも愚かなることなので御座ろう――。

 今一つは、それとは別のこと、日光という場所、深山幽谷多き地にて、魔性のものや魑魅魍魎の類いが住まう所と噂され、これまでもいろいろと奇怪なる出来事これ有り、なんどと世間にては噂されて御座るが、私が三年在勤して御座った内、奇怪なる一件だに見聞きしたことはなかった――ところが――

 ある一日、新宮二荒山神社の御湯立神事の儀、これ執り行うに付、是非とも御参詣あれかし、と本坊輪王寺留守居の塔頭(たっちゅう)より案内(あない)これあり、二荒山神社拝殿の桟敷へと参り――当時共に日光山御普請御用に携わって御座った松下隠州守昭永(あきなが)殿、丸毛一学政良(まさかた)殿、依田五郎左衛門守寿(もりかず)殿らと一緒に見物致いたので御座ったが――。

 ……神前には三脚の鼎、その上に湯立の釜を置いたものを並べて、釜の内には熱湯が煮え滾(たぎ)って御座る……そこに神主、白き単衣(ひとえ)を着し、風折烏帽子を冠し、白き差貫を穿いて、神楽に合わせて神楽を舞う……その舞曲、これが如何にも古雅にして、今時の江戸表なんどで流行っておるところのえげつない舞いの類いなんどとは、比べものに成らぬほど品格が御座る。

 ……その後、神主、ごほごほと沸き立つ湯気に向かいて、何やらん祝詞を捧げ、幣帛(へいはく)を手にし、その柄を以って熱湯の中にずいと差し入れたかと思うと、柄にて何やらん文字なるようなものを熱水中に書いて御座る様子……と、かっと熱湯をこき混ぜる……と……それまでぐわらぐわらと迸(ほとばし)って煮立って濛々たる白煙を噴き上げて御座った朦々たる熱湯が、忽ちのうちに静まった……さても神主、徐ろに笹の葉を執りて湯にずんと差し入れ、即座に抜き取ると……己が身へばっさばっさと浴びせかける……神主の薄き浴衣差貫、すっかりひた濡れに濡れて、身ぐるみこれ熱湯にてずぶ濡れとなる……されど……聊かも熱がって御座る気色もない……時に、傍らにて見物致いて御座った者の一人に少しばかりこの幣帛の飛沫(しぶき)がかかって御座ったところが……その者、余りの熱さに耐えようもないほどであった由……。

 誠(まっこと)、神国の御印(みしるし)、神道の著しき霊験を初めて目の当たりして感無量、故にここに永き真実(まこと)の摩訶不思議として、記しおくものである。

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