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2010/03/24

耳嚢 巻之二 藝道手段の事(二篇)

「耳嚢 巻之二」に「藝道手段の事」(二篇)を収載した。

 藝道手段の事

 

 古人のかたりけるは、享保の初めに山中平九郎といへる戲場役者ありしが、公家惡(くげあく)の上手にて、山中隈取(くまどり)とて怨靈事其外の面隈取方あり。寶暦の頃迄座元せし市村羽左衞門が顏の塗は則平九郎が傳にてありし由。山中が公家惡の粧ひ威有て猛く、見物の小兒など泣いだし候程の事也しが、古市川柏莚、未(いまだ)若年の※(かほ)見せに山中は坊門の宰相の役、柏莚は篠塚の役にて、大福帳とやらんを引合ふ狂言ありしが、柏莚橋掛りより出て、舞臺の平九郎と立合大福帳を引合に、見物の者平九郎のみを見て其上手を稱歎し、柏莚をよきと言ふ事なく、我心にも平九郎にのまれ候樣に覺へければ、色々工夫して着せる大紋をいかにも大きく拵へ、橋懸りより出るや否、足早に出て右大紋の袖を平九郎が面へ打かぶせ、袖にて平九郎をかくし例の通り睨みければ、見物の貴餞どつと柏莚を稱美しけると也。

[やぶちゃん字注:「※」=「白」()+「ハ」(下)。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:歌舞伎役者名人譚で連関。

・「享保の初め」享保年間は西暦1716年から1736年。次注に見るように初代山中平九郎は享保9(1724)年に没している。

・「山中平九郎」初代山中平九郎(寛永191642)年~享保9(1724)年)公家悪(後注参照)・怨霊事を得意とし、「江戸実悪の開山」と称される。鬼女の隈取を試みていた平九郎の顔を垣間見た妻が失神したというエピソードが伝わり、現在の歌舞伎隈取の型の一つとして「般若隈」(目と口に紅を加えて般若の面相を象徴)別名「平九郎隈」として伝わる。これは正に「山中隈取とて怨靈事其外の面隈取方あり」のことであろう。「実悪」とは所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。

・「公家惡」は皇位を奪取せんとするような身分の高い大逆の公家の役柄を言う。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年~1764年。

・「座元せし市村羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年)市村座座元。元文2(1737) 年八代目を襲名後、寛延元 (1748)年に芸名を羽左衛門と改めた(以後、襲名は羽左衛門となる)。座元を60年間務めながら若衆・女形・実事・敵役等の幅広い役柄をこなして名人の誉れ高かった(以上はウィキの「市村羽左衛門 8代目を参照した)。

・「古市川柏莚」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。岩波版長谷川氏の「古市川柏莚」の注には『以下の記述に混乱がある』として、まず以下に記される狂言は享保2(1717)年に森田座で顔見世(後注参照)興行された「奉納太平記」で、そこで篠塚五郎を演じたのがこの「古市川柏莚」=二代目市川團十郎、坊門の宰相役を演じたのは山中平四郎(平九郎ではない)であると記す(以下、後注の便を考え、一部に恣意的な改行を施した)。

「篠塚五郎」は篠塚貞綱(定綱とも)なる武人であるが歌舞伎に暗い私には如何なる人物・役柄かはか不詳(因みに同様の理由により「奉納太平記」なる外題についてもここに語ることが出来ない)。

「坊門の宰相」というのは坊門清忠(?~延元3・暦応元(1338)年)は南北朝時代の公家。本名は藤原清忠。後醍醐天皇の側近。忠臣楠木正成を戦死させた人物として極めて評判の悪い人物である。この「大福帳」なる場面については吉之助氏の「歌舞伎素人講釈」の「歌舞伎とオペラ~新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」の一篇「アジタートなリズム・その13:荒事の台詞・2」の中に、正にその享保2(1717)年の「奉納太平記」のズバリ二代目市川團十郎自作の「大福帳」についての詳細な解説があるので引用させて頂く。但し、長谷川氏の注によれば、本文の「大福帳」の出来事は、この狂言ではないとするので注意されたい(後述)。

   《引用開始》 

歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。

『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』

この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調になりますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。

   《引用終了》

長谷川氏は続いて、正徳4年顔見世興行の「万民大福帳」で、この「古市川柏莚」=二代目市川團十郎が鎌倉権五郎景政を、この山中平九郎が松浦宗任を演じており、ここで根岸が書いた

『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』、享保2(1717)年の「奉納太平記」ではなく、この正徳4年顔見世「万民大福帳」でのことであると解説されている(先と同様の理由により、私は「万民大福帳」なる外題についても、該当大福帳場面についてもここに語る能力を持たないが、登場人物から少なくとも前九年の役と後三年の役をカップリングして舞台に借りていることは確か)。

「鎌倉権五郎景政」(延久元(1069)年~?)十六歳で後三年の役に従軍、右目を射られながら、射た敵を切り、戦友が目の矢を抜こうとしたが抜けず、足下に顔を踏んで抜こうとしたところ、それを無礼と斬りかかったというエピソードで知られる勇将。御霊信仰の対象である。

「松浦宗任」は安陪宗任(長元5(1032)年~嘉承3(1108)年)のことと思われる。安陪貞任の弟。前九年の役で奮戦、捕虜となって四国伊予国、治暦3(1067)年には再度、筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。一説に彼は肥前の水軍集団松浦(まつら)党の開祖とも伝えられていた。

なお、以上の語部である老人の(根岸のではあるまい)錯誤部分については、複雑な様相を呈しているため、現代語訳ではその錯誤のまま、訂正を加えていないので注意されたい。

・「※(かほ)見せ」歌舞伎で年に一度、役者を交代して新規の配役にて行う最初の興行を言う。当時の役者の雇用契約は満1年で、11月から翌年10月を一期間とした。従って配役は11月に一新、その刷新された一座を観客に見せるという歌舞伎界にあって最も重要な行事であった(以上はウィキの「顔見世」を参照した)。

・「坊門の宰相の役」前掲「古市川柏莚」注中の「坊門の宰相」の箇注を参照のこと(わざと改行してある)。

・「篠塚の役」前掲「古市川柏莚」注中の「篠塚五郎」の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大福帳とやらんを引合ふ狂言」前掲「古市川柏莚」注中の『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大紋」元は鎧の下に着た直垂(ひたたれ)の一種。以下、ウィキの「大紋」から引用する(記号の一部を省略した)。『鎌倉時代頃から直垂に大きな文様を入れることが流行り、室町時代に入ってからは直垂と区別して大紋と呼ぶようになった。室町時代後期には紋を定位置に配し生地は麻として直垂に次ぐ礼装とされ』、『江戸時代になると江戸幕府により「五位以上の武家の礼装」と定められた。当時、一般の大名当主は五位に叙せられる慣例となっていたから、つまり大紋は大名の礼服となったのである。このころの大紋は上下同じ生地から調製されるが、袴は引きずるほど長くなり、大きめの家紋を背中と両胸、袖の後ろ側、袴の尻の部分、小さめの家紋を袴の前側に2カ所、合計10カ所に染め抜いた点が直垂や素襖との大きな違いである』とする。『現在では歌舞伎や時代劇の「勧進帳」で富樫泰家が、「忠臣蔵」松の廊下のシーンで浅野長矩が着用している姿を見ることが出来る。このように今では舞台衣装としてのみ存在している着物である』とあり、如何にも本話柄にぴったりな記載を、ウィキの執筆者の方、忝い。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事

 

 ある年寄の語った話。

「……享保の初めの頃、山中平九郎という歌舞伎役者が御座ったが、公家悪の名人として知られ、今に「山中隈取」と言って、怨霊事その他に用いられておる隈取り方の考案者でも御座った。

 宝暦の頃まで市村座座元を勤めた名優市村羽左衛門の顔の塗り方は、皆、この平九郎から伝授されたもの、とも言われる。

 山中の描く公家悪の粧いは、これ、見るからに猛悪で御座って、見物の小児なんどは見るなり、泣き出した者もあった由。

 かの名人、後の市川栢莚団十郎が今だ若かりし頃、さる顔見世にて、山中は坊門の宰相清忠の役、栢莚が篠塚五郎の役にて大福帳か何かをを奪い合う芝居が御座ったが――栢莚が橋懸かりより出でて、舞台上の平九郎とはっしと向き合い、大福帳を引っぱり合う――

――と――

――見物の者、平九郎の演技ばかりに魅了され、その妙技を称嘆するばかり――

――栢莚には声をかける者ばかりか、目を向けている者とて一人として、これ御座らぬ――――栢莚自身も平九郎の演技にすっかり呑まれたかのように感じて御座ったれば……

 直ぐに演技や何やらさんざん悩んだ挙句、一つの工夫を思いついた。

 舞台で着る篠塚五郎の大紋を、とんでもなく大きく拵えた。

 次の舞台にて、栢莚、橋懸かりより出でるやいなや、足早に平九郎に駆け寄ったかと思うと――

――その大紋の巨大なる袖を以って――

……ふわん……

――と、平九郎の頭にすっぽり被せ――

――その大いなる袖にてすっかり平九郎の姿を隠しおおせた上――

――普段通りに――

――はっし!――

と睨んだ――。

見物の貴賤からは、どっと、栢莚、賞美の声起こり……やんや! やんや!……

……そんなことが御座いましたなあ……」

 

 

*   *   *

 

 

   又

 

 是も右柏莚弟子に市川門之助とやらいへる女形ありしが、柏莚十郎の役にて門之助大磯の虎の役をなしけるが、何か狂言の仕組にて、嫉妬にて十郎祐成(すけなり)を恨み胸ぐらをとりての愁歎の所有しが、狂言濟て柏莚門之助に申けるは、嫉妬のやつしあの通りにては情のうつるものにてなしといふ。門之助も色々工夫してかく其事をなしぬれど、いくへにも柏莚よしといわず。餘りの事に澤村訥子(とつし)長十郎といへる、柏莚同樣其頃上手といわれし役者へ尋ければ、夫は其筈なり、嫉妬の時胸ぐらをとり膝に喰付などするまねをなすならん。翌日の狂言には膝へ誠にくひ付、胸ぐらも其本心にてとり見べきと教へければ、忝由を述て翌日其通りになしけるに、果して見物も聲をかけ、殊の外樣子よかりしが、樂屋へ入て柏莚かの門之助に向ひ、今日のは殊の外よかりし。しかし其方が工夫にては出來まじ。誰が教へたると尋ける故、始はいなみしが、後は有の儘に語りければ、訥子ならでは其傳授の仕やうは爲るまじといひしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:古市川柏莚=二代目市川團十郎絡み歌舞伎芸道譚その二。

・「柏莚」二代目市川團十郎。前話注参照。

・「市川門之助」初代市川門之助(元禄4(1691)年~享保141729)年)市川柏莚=二代目市川団十郎の弟子。市川長之助・市川弁次郎という芸名を経、初代市川門之助を名乗った。容貌口跡共に優れ、「若衆方の開山・名人」と称された(「若衆方」とは美少年役及び専らそうした役を演じることを得意とする役者を言う)。時代物・世話物にも巧みで、丹前六法の演技や濡れ場、武道、音曲などを得意としたと言う。「丹前六法」とは「丹前振り」とも言い、歌舞伎の演技様式の一つ。丹前風呂(後述)に通う遊客・粋人の風俗を様式化した演技法で、特殊な手振り・足の踏み方を特徴とする多様なメソッドであったらしいが、現在は荒事の引っ込みの芸として知られる所謂「六方」(六法とも書く)にのみ名残があるだけで、その多様な型は伝承されないという。「丹前風呂」とは江戸初期に神田佐柄木(さえぎ)町堀丹後守屋敷前で営業していた銭湯の屋号。美麗な湯女(ゆな)を置いて客を誘い、かぶいた町奴や通人に人気で、大いに繁盛したが、風俗壊乱を理由に明暦3(1657)年に禁止された。

・「大磯の虎」虎御前(安元元(1175)年~寛元3(1245)年)のこと。相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。特に柏莚の父初代市川團十郎が延宝4(1676)年正月に江戸中村座で「寿曾我対面」(ことぶきそがのたいめん)を初演し、この時の曽我五郎が大当りして後、正月興行の定番となった。以下、ウィキの「寿曽我対面」から引用して、曾我物の概略を押さえておきたい。まずは梗概。『源頼朝の重臣工藤祐経は富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられることとなり、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎、化粧坂の少将が祝いに駆け付けている。そこへ朝比奈三郎(小林朝比奈)が二人の若者を連れてくる。見れば、かつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父の敵とはやる兄弟に朝比奈がなだめ、工藤は、巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与え双方再会を期して別れる』という江戸っ子好みの人情武辺譚に美化されている。先に記したように『享保期に江戸歌舞伎の正月興行に曽我狂言を行うしきたりができてから、最後の幕の「切狂言」に必ず演じられるようになった。それ以降初春を寿ぐ祝祭劇として、更にさまざまな演出が行われるようになり、一千種ともいわれる派生型ができた。現行の台本は河竹黙阿弥により整理され、明治36年(1903年)3月に上演されたものが行われている』。その配役は『座頭の工藤・和事の十郎・荒事の五郎・道化役の朝比奈・立女形の虎・若女形の少将・敵役の八幡・立役の近江・実事の鬼王と、歌舞伎の役どころがほとんど勢ぞろいし、視覚的にも音楽的にも様式美にあふれた一幕である。特に五郎は典型的な荒事役として知られる』。『江戸時代には毎年さまざまな演出が行われてきた。戸板康二によれば、「釣狐の型」や工藤が鳥目になったり、障子で琴を弾いたりするのがあった。桜田門外の変をとりこんだ「雪の対面」もあったという』から、いや、流石は江戸時代! かぶいたぶっ飛びの芝居ではある。岩波版長谷川氏注によれば本話柄の「曾我物」は「若緑勢曾我」(わかみどりいきおいそが)で享保3(1718)年に『門之助虎、団十郎十郎』で演じられたものとする。因みに、これは歌舞伎十八番の一として知られる「外郎売」(ういろううり)、そう、あの演劇に関わった者ならまずは発声練習でお目にかからでおくべきかの台詞が登場する芝居の、実は正式な原題名なのである。曾我十郎が、実在する小田原の「透頂香」(とうちんこう)通称「外郎」(ういろう)の売薬に身を窶して現れ、その由来や効能を立板に水するという絶技である。私の記憶では、二代目市川團十郎自身が生薬透頂香(現在・小田原ういろう本舗)を愛用、自ら進んでこの台詞を編み出して勝手に入れたものと聞いている(透頂香側からのオファーがあったわけではない)。早口言葉としてとして知られる「外郎売」には異同が多いが、ウィキの「外郎売」から引用してそろそろ本注を〆たい。改行は総て排除した。蛇足すると、私は発声練習の早口言葉は苦手だったから、これも恐怖ものであったが、『武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具』の部分は、実は大好き!

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。一つへぎへぎ、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒。書写山の社僧正、小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。繻子・緋繻子、繻子・繻珍。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。古栗の木の古切り口。雨合羽か番合羽か。貴様が脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。河原撫子・野石竹。野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。来るは来るは何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁蛸。落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く。三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目を外して今日御出での何れ様にも、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃいませぬか。

・「十郎祐成」曾我祐成(すけなり 承安2(1172)年~建久4(1193)年)。河津祐泰の長男。曾我五郎時致(ときむね)の兄。安元2(1176)年祐成5歳の折り、父河津祐泰が伊豆国伊東荘を巡る所領争いによって同族工藤祐経に闇討ちにされた後、母の再嫁先であった相模国曾我荘領主曾我祐信を養父として育ち、曾我氏を称した。建久4(1193)年、将軍頼朝の富士の巻狩りの際、弟時致と共に仇敵工藤祐経を殺害し、本懐を遂げたが、彼は頼朝家臣仁田忠常に討たれ、弟時致は頼朝を襲撃するも捕縛された。本人から仔細を聞いた頼朝は助命を考えたが、祐経遺児の懇請により斬首された。

・「澤村訥子長十郎」初代沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年)京都の武家の出。初代「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。前出「戲藝侮るべからざる事」に既出。そこでも同じ「澤村訥子長十郎」の表記である。現代語訳では、後文で俳号で呼称しているので、そのまま用いた。

・「膝に喰付」勿論、喰らい付くかのように縋りつくことを言う。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事 その二

 

 市川栢莚二世團十郎の弟子に市川門之助という女形が御座った。

 さる顔見世にて、栢莚が曾我十郎、門之助が大磯の虎役を務めたのじゃが、さて、そこに妬心に胸焦がす虎が十郎を恨んで、その胸倉を摑んで愁嘆にくれる、という濡れ場が御座った。

 ところが初日の舞台がはね、楽屋へ戻るや、栢莚が門之助に一言、

「お前さんの嫉妬の演技――あのまんまじゃあ、十郎どころか、俺の情せぇ、微動だにしねぇな」――

 翌日から門之助、いろいろと工夫を凝らしてはみたものの、何日経っても、かの場面の演技に、栢莚、頑として肯んじては呉れぬ。

 策極まって、門之助、当時栢莚と並に称せられて御座った現し身の達人、後の沢村訥子長十郎という役者のもとを訪ね、教えを乞うた。

 訥子は一言、

「……それは、当たり前というものじゃ。……そなた、その嫉妬の折り、ただ……胸倉を摑んだ真似をしい、ただ……膝にとり縋る真似をして御座っしゃろう……一つ、明日の芝居にては、その膝に……がっし! と喰らいつくが如、縋りつき……その胸倉をも、本気で、しっか! と摑んでみられい――」

と教えた。門之助、何かが落ちたかのように、

「忝(かたじけな)き仰せ!」

と清々しい面持ちで礼を述べると、早々に辞去致いた。

 翌日の舞台――門之助、自然体にて訥子の教え通りに演じたところ――

――果たして見物の者からも驚嘆讃美の声がかかり――

――その日の内に殊の外の評判となって御座った。

 その日、楽屋へ戻るや、栢莚、門之助に向かい、

「……今日のは……殊の外、良かったじゃねえか!……だがよ、こいつぁ、お前さんの工夫じゃあ、編み出せる代物(しろもん)じゃあ、ねえな?……誰ぞに教わったか? あん?」

と糺した。門之助も己が面子もあれば、最初の内は否んで御座ったれど、流石に師匠の手前、遂にありのままに白状致いたところ、栢莚、

――ぱ~ん!――

と一打ち膝を打って、何度も首を縦に振りながら、

「……訥子ならでは……そんな伝授の仕方、誰にも出来んの!……」

と一人ごちで御座ったと。

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