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2010/03/27

耳嚢 巻之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事

「耳嚢 巻之二」に「村政の刀御當家にて禁じ給ふ事」及び「利欲應報の事」の妖刀村正がらみ二篇一挙収載。

 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事

 村政の刀を御當家にて禁じ給ふ事は、後風土記・三河記等にも委しく、人の知る所也。ある日藏書にありし迚(とて)人の語りけるは、難波御陣(なんばごぢん)とや、又は其已前の事也けるか、織田有樂齋(うらくさい)手づから討留し首を持參して、御前へ出けるに、手柄いたしたりやと上意あり。老人のおとなげなく少し働き、手作りの首の由申上ければ、遖の由御賞美にて、其打物御覧可被遊由にて、有樂の鑓を上覽の處、いかゞ被遊けるや少々御怪我ありし故、此鑓は村政の作なるべしと御尋被成。御尋の通の由申上けるに、村政は不思議に御當家に相當なき由人々申けるゆへ、即座に折り捨しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:妖猫から妖刀(妖刃と言うべきか)で連関。

・「村政」村正が正しい。伊勢国桑名(現・三重県桑名市)の刀匠の名及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。別に千子(せんご)村正とも呼ぶ。以下、ウィキの「村正」には、本話柄の妖刀伝説について詳細な記述が見られるので、以下、長くなるが引用する。『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及』び、『「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその問跡を幕末まで残している』。『なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている』とし、その妖刀伝説を分析する。冒頭に語られるのは、正に本話柄と殆んど同じであるが、人物が織田信長の弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった織田長孝(?~慶長111606)年)は、戦国時代の武将。本姓は自称平氏。実際は忌部氏か。家系は平資盛を祖と称する越前国織田剣神社祠官の流れで尾張守護代織田氏の庶流。江戸時代前期の大名で、美濃野村藩の初代藩主。長益系織田家嫡流2代。に代わっている。また、場面も関ヶ原である。『徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に家臣が取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正であった。家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した』というもの。以下、「伝説の真偽」として、『実際には現在でも徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので』、『徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。然しながら、この尾張家伝来の村正が』無傷の完成した刀であるにも関わらず、『「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されており』、『時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避されていたことは間違いないと考えられる』とする。但し、本来、『村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である』と記す。最後に、伝説のルーツである家康の父広忠の死因は多くの史料が病死と記しており、『謀叛による暗殺説は岡崎領主古記等の一部の説』に過ぎない旨、注する。続いて「妖刀伝説の由来」の一つとして、『家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった』という説を示すが、『この説には疑問があり、家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振が徳川美術館に保存されている』のみと疑義を呈している。次に「妖刀伝説の流布」という見出しで、『寛政9年(1797)に初演された歌舞伎「青楼詞合鏡」で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀としての伝説が広まっていた。1860年(万延元年)には河竹黙阿弥の八幡祭小望月賑が初演され、大評判を博し』ていた事実を示すが、本「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話柄から考えても、恐らく1700年代中期頃(元文から寛延、西暦で1736年から1751年)には本伝承は広範囲に一般的記録として(「藏書」とある。これは特別な人物という限定もなく、また特殊で一般人が披見できないような「藏書」とも思われない表現である)流布していた考えてよいであろう。『幕末から維新期にかけて執筆された「名将言行録」には、「真田信繁(幸村)は家康を滅ぼす念願を持っており、常に徳川家に仇なす村正を持っていたという。このように常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と徳川光圀が賞賛したという逸話が記載されており、村正は徳川家に仇なす妖刀であるという伝説は幕末頃には定着していたと見られる』。『この伝説は、徳川家と対立する立場の者には、良いゲンかつぎとして好まれた。徳川政権初期に謀反の疑いで処刑された由井正雪も村正を所持していたと』伝えられ、『幕末期の倒幕派志士らも好んで村正を求めたといわれ、西郷隆盛も村正を所持していた。このため、多数の村正の贋物が出回ることになった』とある。こうなると逆に妖刀様々、大変な金蔓となるというのが面白い。末尾に「その他の妖刀・村正のエピソード」として、幾つかの興味深い事実が示されているので抜粋する。『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期である』。『戦前、東北大学工学博士・本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ったところ、皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだのだが、妖刀と呼ばれる村正だけが、何故か測定ごとに数値が一定しなかった。科学雑誌『ニュートン』に書かれた、本多光太郎伝の一エピソードである。本多氏はこのことから、「これが本当の『むら』正だ」と言い、「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になった』。『南総里見八犬伝には「村雨」という刀が登場するが、後世になって村正と混同され「妖刀村雨」と呼ばれることもある』。最後に研師のリアルな話。『村正の斬れ味に纏わる逸話は数多いが、刀剣研磨師にもエピソードがある。「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」(永山光幹著「日本刀を研ぐ」から要約)』。正しく今も妖刀であるらしい。なお、根岸が本話柄の標題や冒頭で「村政」と書くのも、正宗の弟子という伝承もさることながら、徳川家に仇なす妖刀故に別字を以って示す呪(まじな)いのようにも取れる。現代語訳では総て「村正」とした。

・「御當家」徳川家。

・「後風土記」「三河後風土記」著者不詳。全45巻。以下、ウィキの「三河後風土記」によれば(記号の一部を変更した)、『徳川氏創業史の一つで、徳川氏の祖とされる清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。著者・成立年代については、慶長15年(1610年)5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。のち改編を行った成島司直は沢田源内の著作とする。また、「三河物語」、「松平記」といった他の創業史参照は見られない。類書として「三河後風土記正説」、「三河後風土記正説大全」があり、広く流布したと目されるが、速見行道の「偽書叢」など偽書目録の多くで偽書とされ、著者・成立年代に不備があり、徳川家歴代を賛美する面が強い』。『天保3年(1832年)9月には、徳川家斉の命により、成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、序文・首巻が付けられた「改正三河後風土記」全42巻(天保8年完成)が作られている。こちらは将軍に献上もされており、偽書ではなく江戸幕府の編纂物の一つともいえる。ただし成島の完全な著作ではなく、原典に他の文献を出典として明示している形式である』という。偽書から出た正史とは、摩訶不思議な代物。

・「三河記」前掲注の中の「三河物語」のこと。「大久保彦左衛門筆記」「大久保忠教自記」とも言う。別名でお分かりの通り、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた御存知、大久保彦左衛門忠教(ただたか 永禄31560)年~寛永161639)年)の家訓書。「ウィキ」の「三河物語」によれば、『元和8年(1622年)成立。3巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている』。『本来門外不出とされ、公開するつもりもなく子孫だけに向けて記されたため、逆に忠教の不満や意見などの思いがそのまま残されている。しかし忠教の思惑とは裏腹に写本として出回り、人気になったと伝えられている。もっとも、下巻の巻末には読み手に対して、「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」といった趣旨の言葉が記されており、門外不出と言いながらも読み手を意識しているという忠教の人間くささがうかがえる』。『内容的には徳川びいきの記述が目立ち、また、大久保氏が関わった部分にも創作がある。しかし、同時代の一次資料とも合致する部分も多く、多くの学術書の出典となっており、良質な資料として評価されていると言える。また、珍しい仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある』と記す。

・「難波御陣」大坂の陣。江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした大坂冬の陣及び大坂夏の陣の戦闘を総称した呼び名。慶長191614)年~慶長201615)年。この場合、人物が旧豊臣(後に離反、徳川間者説もある)の「織田有樂齋」となれば、大坂夏の陣の戦闘しか考えられない。但し、先に記したウィキの「村正」の妖刀伝説が古形であり、伝承のルーツとしては正しいとするならば、この大坂の陣ではなく関ヶ原の戦い(慶長51600)年)まで遡り、且つ、登場人物も弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった長孝ということになるが、この織田長孝は関ヶ原の合戦に父有楽齋と東軍の将として従軍し戦功を挙げ、一万石の大名となっているから、本話柄の役柄として不足はない。

・「織田有樂齋」織田長益(ながます 天文161547)年~元和7(1622)年)織田信長実弟。織田信秀十一男。有樂齋如庵(うらくさいじょあん)と号し、茶人としても知られた。ウィキの「織田長益」によれば、『千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている』とある。私事ながら、この如庵、かつては大磯に移築されていた。私は小学校4年生頃だったか、まる半日、父母と共にこの国宝如庵に滞在したことがある。海遊びに行った帰り、偶々迷い込んだそこで、私たちだけに管理人のお爺さんが解放してくれ、案内してくれたのであった。嘘のような素敵な体験だった。僕はあの時、数寄屋造という哲学の中に教外別伝で貫入していたような気がする。少なくとも知識や作法ばかりが脳味噌に入った今の僕は、茶室に入っても何らのエクスタシーを感じなくなってしまったことは確かである。『1570年代頃から織田信長の長男信忠の旗下にあり、天正10年(1582年)の本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあった。この時、信忠が長益の進言に従って自害したのに対し、長益自身は城を脱出。近江安土を経て岐阜へ逃れた。この時のことを、京の民衆たちには「織田の源五は人ではないよお腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られている。しかし、信忠が腹を切った時点では既に二条御所は明智軍に重包されており、脱出はほぼ不可能である。事実としては明智勢の来襲以前に逃亡していたと思われる』とする。『変後は甥である織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の講和に際して折衝役を務めたという。その後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)2000石を領した』。『関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに総勢450の』兵を率いて参戦し、少数の乍ら『長孝が戸田重政、内記親子の首を取ると有楽斎も石田三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げ』たとする。この時に出来事がまず妖刀伝承のルーツであるから、一応、首を掻っ切られた人物を示しておく。この「戸田重政」とは戸田勝成(かつしげ 弘治3(1557)年~慶長5(1600)年1021日)の別称。豊臣秀吉家臣。ウィキの「戸田勝成」によれば、『慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に共鳴して西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも槍を受けて討たれた。この時、嫡男内記も同じく討死している』とあり、知られる妖刀伝説譚とぴったり一致する。なお、『勝成は諸大名と広く親交を深め、東軍の将の中にその死を悼んで涙を流したものが多かった。優れた人物として伝わっており、「謀才俊雄の英士」と称されたという』名将でもある。本話柄では、首は語られない。せめて、本注でその遺蹟を讃えておきたい。話を織田有樂齋長益に戻す。『戦後に有楽斎は大和国内で32000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。しかし、戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた』。『大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。一説には幕府の間者であったともいう』とある。案外、本話柄が大坂の夏の陣にずれているのは、間者―妖刀という邪悪な連想でも働いたものか? 『大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた』とある。……そうか、あの静謐な如庵の持主は、少年の僕がイってしまったあの空間を創り出したのは、こんな人だったのか(私は戦国時代史は全くの守備範囲外である)……今更ながら知って、感慨無量である……。

・「老人」織田有樂齋長益ならば、関ヶ原にては54歳、大坂夏の陣にては72歳である。息子の長孝より老人の有樂齋方が、話として様になる。また、伝承では家康は怒って立ち去るのだが、ここでは家康が怒らなくて(少なくとも怒っている感じはまるでない。家康がその程度で有樂齋に怒っては「鳴くまで待つ」ことは出来まいよ)、逆にいい感じがする。現代語訳は、そのようなシーンに仕立てた。

■やぶちゃん現代語訳

 村正の刀御当家にては御禁制である事

 村正の刀が御当家にては御禁制なること、「後風土記」「三河記」なんどにも詳しく記されて御座って、人も知り申し上げて御座ることであるが、ある日、自身の蔵書の中の一節に、その由来をこう書いてあったと、ある人の語った話にて御座る。

 難波の御夏の陣或いはそれよりも以前――関ヶ原の戦さ――の折りのことか、織田有楽齋殿、自ら討ち取った首を持ち参って権現様御前へ出でたところ、

「いやとよ! 良き手柄致いたの!」

と御上意あり、有楽齋、畏まって、

「……老人の、年甲斐ものう、少々働きまして、大汗をかき申しましたが、……一つ、とりあえずは誰(たれ)の手も加えて御座らぬ、手作りの首にて御座る……。」

と敵将の首級を差し出だした。

「遖(あっぱれ)じゃ!」

と上様、お褒めになられた上、槍の上手と言われし有楽齋殿の持ったるそれをちらと御覧になられ、

「一つ、その打ち物、見たいものよ!」

との仰せにて、有楽齋殿、その敵将を仕留められし槍を上覧に供し申し上げた。

「――痛(つ)ぅ!――」

何がどういう弾みで御座ったかは分からねど、その刃先にて、上様、少しばかりのことながら、御怪我なされてしまわれた。

 有楽齋殿のことを鑑みられた上様、周囲の騒ぐをお鎮めになられ、

「大事ない……掠り傷じゃて……時に、有楽齋殿……この槍、村正の作にて御座ろう?……」

とお訊ねになられた。

 己(おの)が槍にて上様御怪我なれば、すっかり恐縮して畏まって御座った有楽齋殿は、

「……ははッ!……流石は上様、仰る通りの、得物にて御座る……」

とお訊ねの通り、消え入るような声で申し上げるや否や、地べたに蟇の如く、這い蹲る。

 上様は、さもありなんとの御表情をされると、少し苦笑なさった。

 その時、お側の者ども、何人も合点し、首を縦に振りつつ、

「……村正は不思議に……御当家には相応(ふさわ)しからざるものなればこそ……やはり……」

と呟いた。

 それを聴いた有楽齋殿は、その場にて即座に、その槍を折り捨てて、上様にお詫び致いたということで御座った。

*   *   *

 利欲應報の事

 村政は正宗の弟子にて美濃の住に有りし由。至ての上手にて切れ物なれども、其人となり亂心同樣の生質(せいしつ)にてありし故や、右打物所持いたし候へば、御當家昵近(ぢつきん)の者に限らず怪我致候由。今も村政が子孫差添(さしぞへ)にて剃刀など打しが兎角怪我いたしける故、今は其家業も止めしと也。いつの此にやありし、打物の商ひしける者、村正の短刀を才覺し、村正と銘有ては人々嫌ひ候ゆへ銘をすり潰し侯へば正宗に成侯とて、甚悦しを心安き人聞て、夫は不宜事也と意見加へしに、商賣筋に左樣の事を忌嫌候ては金のもふけはならざる物也と欺き笑ひて過しが、其妻いかゞせしや、右村政の短刀にて自殺しけるゆへ、驚きて右刀を捨てしと也。予一年佐州に在勤の折から、召仕ふもの村政の拂ひ物調ひ候積の由にて見せけるが、至て見事成ものにて好しき刀也。然し聞及びし事もあれば、此刀は調ひ申事かならず無用の旨切に申含め早々返させける。

□やぶちゃん注

○前項連関:妖刀村政連関。前話の注は総て参照されたい。

・「正宗」鎌倉末期から南北朝初期にかけて相模国鎌倉で活躍した刀匠正宗(生没年不詳)及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。刀鍛冶としての正宗は日本刀剣史上最も著名な刀工と言ってよい。但し、前の「村政」の注にウィキの「村正」からの引用で示した通り、ここにあるような村正が『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話』に過ぎない。

・「其人となり亂心同樣の生質」というような異常性格の記載が何処にあるのか、定かでない(そもそも村正の大雑把な事蹟さえ不明である)。これは妖刀からの逆輸入現象であろう。

・「美濃の住」前話の「村政」の注にウィキの「村正」から引いた通り、『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない』とする。「赤坂千手院鍛冶」とは大和の最も古い刀鍛冶師の集団で大和の千手院という寺に所属していた寺院鍛冶集団のこと。正宗も手本としたと言われる名刀工の誉れ高い職能集団であった。

・「差添」通常は刀に添えて腰に差す短刀・脇差のことを言う。太刀は最早鍛えず、脇差ばかりにて、それでも妖刀の噂絶えず、剃刀などを打っていたが……という意味か? 岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「美濃」とする。分かり易いが、底本で以上のように訳す。

・「予一年佐州に在勤の折」「耳嚢」の執筆の着手は根岸の天明4(1784)年の佐渡奉行着任の翌天明5(1785)年頃に始まったとされ、且つ「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この部分は5年末か天明6年初と、一応、考え得る。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「信州」となっており、これだとそれよりも前、天明の大噴火後の天明3(2783)年の勘定吟味役浅間山復興事業のための巡検役の頃ということになる。

■やぶちゃん現代語訳

 利を貪らんとする者に必ず相応の報いある事

 村正は正宗の弟子で美濃の国の人であったということである。

 至って神技に類する刀匠の上手にして、その作、業物(わざもの)として知られものの――その人となり、乱心同様の異常なる性格の持主で御座ったためか――彼の打ちし物なんどを所持致いて御座ると、御当家に所縁(ゆかり)のあられる方に限らず、きっと怪我を致すことに相成る由。

 村正の子孫というは、太刀は最早、流石に鍛えず、最近まで脇差ばかりにて鍛えて御座ったというが、それでも妖刀の噂が絶えず、剃刀なんどを打って御座ったれど、その剃刀にても、とかく怪我致す者の後を絶たざるにて、今は家全く鍛冶の家業はやめてしもうたと聞いて御座る。

 何時の頃のことか忘れたが、打ち物の商いを致いておる商人(あきんど)、物好きにも、あれこれ苦心致いた上に、この村正の短刀を手に入れた。

「……切れ味は申し分ない、いや、神技の如き斬れ味じゃて!……しかし……この『村正』の銘があるばっかりに……人に嫌われる……されば、これほどの業物……勿体ない……銘を磨り潰しさえ致さば……この切れ味じゃて! 『正宗』になる、わ、い、な!……」

と大喜びした。

 ところが、偶々それを親しい者にこっそり洩らしたところ、

「……嘘偽りのことを置くとしても……これは妖刀村正じゃ……いや……それは宜しうないぞ!……」

と切に諫めた。しかし商人、

「商売筋に、そんなこと気に掛けて忌み嫌(きろ)うて御座ったら、へぇ、金の儲けは、ハァ、ないわいナア!」

なんどと浄瑠璃みたような声色して、嘲笑ってとり合わなんだ。

……ところが、ほどなく……

……その商人の妻……何が御座ったかは知らねど……この村正の短刀を用いて……自殺致いた。

 商人も驚懼(きょうく)して、この短刀を捨てたとのことである。

 附けたり。

 私も佐渡に在勤して既に一年、ある時のこと、召使って御座るある者、

「……名刀の誉れ高い、村正の、売り払われて御座る打ち物、この通り、古物商の持ってまいりましたれば……」

と言って私の元に持って参って――この者、私がこれをきっと買い求めるであろうと見越して――私に見せた。

 見た――。

 ――確かに、流石は村正――至って美事なる出来の如何にもよい太刀で御座った――。

 ――が、しかし、かく聞き及んで御座ったこともあれば、

「――この刀、買い調い候こと、決して無用――。」

の旨、屹度申し渡し言い含め、早々に返品させたは、言うまでもなきこと。

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