耳嚢 巻之二 鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事
「耳嚢 巻之二」に「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」を収載した。米価の感覚がつかめず、少々手間取った。
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鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事
上州吾妻郡鎌原村は淺間北裏の村方にて、山燒の節泥火石を押出し候折柄も、たとへば鐵炮の筒先といへる所故、人別三百人程の場所、纔に男女子供入九十三人殘りて、跡は不殘泥火石に押切れ流れ失せし也。依之誠に其殘れる者も十方(とほう)にくれ居たりしに、同郡大笹村長左衞門、干俣村小兵衝、大戸村安左衞門といへる者奇特成にて、早速銘々へ引取はごくみ、其上少し鎭りて右大變の跡へ小屋掛を二棟しつらへ、麥粟稗等を少しつつ送りて助命いたさせける内に、公儀よりも御代官へ御沙汰有りて夫食等の御手當ありけると也。右小屋をしつらいし初め三人の者共工夫にて、百姓は家筋素性を甚吟味致し、たとい當時は富貴にても、元重立(おもだち)の者に無之侯ては座敷へも上げず、格式挨拶等格別にいたし候事なれど、かゝる大變(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)右小屋にて親族の約諾をなしける。追て御普請も出來上りて尚又三人の者より酒肴などおくり、九十三人の内夫を失ひし女へは女房を流されし男をとり合、子を失ひし老人へは親のなき子を養はせ、不殘一類にとり合ける。誠に變に逢ひての取計ひは面白き事也。右三人とも鎌原村に限らず、外村々をも救ひ合奇特の取計ゆへ、予松本豆州申合申上ければ、白銀を被下、三人共其身一代帶刀、名字は子孫まで名乘候樣被仰付ける。善事は其德の盛んなる事、たとへんに物なし。右三人の内、干俣村の小兵衞といへるはさまで身元厚き者にもなく、商をいたし候者の由。淺間山燒にて近郷の百姓難儀の事を聞て、小兵衞申けるは、我等の村方は同郡の内ながら隔り居候故、此度の愁をまぬがれぬ。しかし右難儀の内へ加り候と思はゞ、我が身上を捨て難儀の者を救ひ可然とて、家財をも不惜急變を救ひけると也。此故に其年は米穀百に四合五合といへる前代未聞の事也しが、小兵衞が名印(ないん)だにあれば、米金の差引近在近郷いなむ者更になく差引いたしけると也。呼出して申渡候節、右の者樣子も見たりしが、働有べき發明者とも見へず、誠に實躰(じつてい)なる老人に見へ侍りき。
□やぶちゃん注
○前項連関:庶民の誠心で連関。また根岸が担当した浅間山大噴火復興事業に於ける被災実見録シリーズの一篇。
・「(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)」底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを補って訳した。
・「鎌原村」上野国吾妻郡鎌原村。浅間山火口北側約12㎞の吾妻川南岸。現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原。ウィキの「鎌原観音堂」によれば、鎌原村は天明3(1783)年7月8日の浅間山の天明の大噴火による土石流に襲われて壊滅、噴火の際、村外にいた者と土石流に気付いて村内の高台にあった鎌原観音堂まで避難出来た者合計93名のみが助かった。『当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた』とあり、本文の記載とは異なる記録が示されるが、こちらの方が現在の定説数であるようだ(後掲)。『1979年(昭和54年)の観音堂周辺の発掘調査の結果、石段は50段あることが判明した(言い伝えでは150段あまりの長い石段であるとされていたが、この幅で150段もの長い石段を建設することは、現在の建設技術をもってしても物理的に不可能であること。仮に150段であったならば、およそ20メートルもの高さになるため、わざわざそれだけ高い位置に観音堂を建立する事自体が不自然であることなどが疑問視されていた)。現在の地上部分は15段であり、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹、母親と嫁など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』。『また、天明3年の浅間山の噴火で流出し、すべてのものを飲み込んだ土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,500名の尊い命が奪われる大惨事に及んだ。また、当時鎌原村にあった「延命寺」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された』。『村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ』るとあるが、火山災害では『生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建』するのが通例であるのに、本話の中で描かれるように鎌原では『生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である』とある。『現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となって』いるそうである。また、この鎌原村を襲った火砕流・岩屑流については、酒井康弘氏のHP「鬼押出し熔岩流のナゾにせまる」の、「鎌原村を襲った土砂について」で詳細な考察が行われている。本話の重要なプレ場面であるから、少々長い引用となるがお読み頂きたい。『七月八日四ッ半時(午前十一時)に、山頂から熔岩流、砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し、アッという間に上州側の北側を流れ下り、六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし、傾斜を嬬恋、長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)』。また他に『浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は熔岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下った』という従来の見解を提示しつつ、『しかし、最近では、その堆積物の見られる範囲が鬼押出熔岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もある』として、『7月8日午前10時ころ、中腹のくぼ地辺りで大きな爆発があった。現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり、この強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した。このため流下しつつあった鬼押出熔岩流の一部が巨大な岩塊となって北麓の土砂、沼地を掘り起こし土石なだれとなって北麓を流れ下った。これが鎌原火砕流と呼ばれているが、実際は岩屑なだれと呼ぶのが正しいという。その他には噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられており、火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させた。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、火砕流が起こったと考える人もいる』という見解を紹介、『浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没させたという考え方が一般的である』とする。以下、1979年に始まり、13次に及んだ鎌原村の発掘調査結果に触れ、『十日ノ窪の埋没家屋の一部に火災を思わせる部分があったものの、ほかのすべてにおいて、建築用材、生活用品に焼けたり焦げたりした形跡は認められなかった。一方、火山地質の検討からしても、鎌原村を覆う押し出しによって堆積した層の中で、天明3年の噴火の際、直接火口から飛び出した熔岩は、全体の熔岩中5パーセント前後であることが判明した。このようなことから鎌原村を襲った押し出しとされる現象は、熱泥流とされるものではなく、常温に近いく、しかも乾燥したものであることが明らかとなり、“土石なだれ”と呼ぶこととなった』。『鎌原村の被害は、江戸時代という比較的新しい時代のできごとであり、その状況を示す古文書や記録類も多く、また、言い伝えもあが、発掘調査によって得た知見は、その多くが古文書や記録類では知ることのできなかった新事実が明らかとなり、言い伝えなどとはかなり異なるものもあった』とされ、ここに酒井氏の「鎌原土砂移動に関する仮説」が示される。『大噴火の当日、それまで3ヶ月ほど断続的に続いた噴火現象が静かになり、晴れ上がった夏の午前を村人はほっとして過ごしていたという。現在の嬬恋村鎌原(旧鎌原村)は突如、火砕流・岩屑流(土石なだれ)・泥流などのいずれかに急襲され、あっというまに土砂の下になったといわれ、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げた93人のみであった。発掘調査をした人の話では家屋、家財道具などの痛み具合からは、土砂による押出した力は従来から考えられたような高速でしかも強力な圧力ではないという。そして土砂が襲ってきたとき、高い方へ逃げた人は助かり、土砂を背にして逃げた人は埋もれてしまったという。地元の人の話では、旧鎌原村から観音堂の石段までは急げば5分位で到達できると言う。そして50段の石段も健康なひとであれば5分以内には登れるであろう。土砂移動をみてから逃げる時間は少なくとも10分くらいはあったのではないか』。『大量の熔岩が雪崩を起こして柳井沼に突っ込んだとき、大轟音が聞こえた。この大轟音は火山の噴火とは違う大きな音で人々は外へ出て、浅間山の方を見上げた。しかし、残念ながら旧鎌原村からは小高い丘がじゃまして浅間山はみえない。しばらくするとざざーという泥水が小熊沢に沿って流れてきた、次いでピチピチといいながら熔岩を混じえた大量の土砂が押し寄せてきた。逃げろと言う声とともに、その時、高い方向かって逃げた人と、下へ向かった逃げた人に分かれた。逃げ出す程度の時間的な余裕はあった』。土砂は『従来からかなりの高速で鎌原村を襲ったと考えられているが、中腹から吾妻川への傾斜は緩やかで、土砂の時速30から40kmくらいではないかと推測される(私の考えでは時速100kmなどいうことはない)。しかも大量の土砂は御林(一里あまりの松林)を押し倒しながら北へ向かう時、有る程度スピードが落ちるはず』で、『土砂の流れは時速30から40kmくらいではないか(私の考えでは時速100kmなどいう岩なだれではない)。鎌原観音堂の石段の五十段付近で見つかった老若二人の遺体も流される事なく、石段のところで倒れていた。もし、時速100kmほどの高速の岩なだれであれば、二人とも流されてしまうであろう』と推論されている。シャーロック・ホームズを髣髴とさせるスリリングな論考である。鎌原村遺跡発掘をなさった元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治氏の研究によれば、宝暦13(1763)年の観音堂須弥壇造立の際の奉賀連名帳によれば村の総戸数は118戸と推定され、文化12(1815)年の観音堂参道入口にある供養碑によれば罹災時の戸数は95とある。これより天明3年被災時は100戸前後と推定され、その人口は安政4(1860)年に山崎金兵衛という人物が記した「浅間山焼荒之日并其外家并名前帳」に、犠牲者477人、生存者93人とあることから、被災時は、『一応570人とみられる。しかし、異なった数字をあげている史料もある』とし、『農業に不向きな標高900メートル前後の浅間山北麓の地に、戸数100戸前後、人口五百数十人の大型村落が形成されたことは意外である。しかし、この地は、上州と信州を結ぶ交通の要所にあり、加えて、200頭前後の馬が飼育されていることからすると、単なる山村ではなく、宿場的機能をもった村落と推定される』とする(以上は「元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治先生講義録」を参照した)。訳では一般的に通りがよい「土石流」を採用した。
・「鐵炮の筒先」溶岩流・火砕流・土石流の直撃した場所を指す噴火後の呼称であろう。
・「人別」人別改による村民数。人別改は一種の人口調査で、後には宗門改と合わせて行われるようになり、享保11(1726)年以降は6年ごとに定期的に実施された。
・「大笹村」上野国吾妻郡大笹村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村。鎌原村の西南西約2㎞の吾妻川南岸に位置する。現在の嬬恋村を横切っている国道144号線は、江戸時代には大笹街道(仁礼街道とも)と呼ばれた北国街道の脇往還で、沼田~吾妻~上田、高崎~仁礼~善光寺を結ぶそれの通行人・草津への入湯客等を取り締まるため、寛文2(1666)年に沼田薄主真田伊賀守により大笹関所が設置されている。山村ながら大笹宿として栄えた村である。
・「干俣村」上野国吾妻郡干俣村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村干俣。鎌原村の西北約2.5㎞の吾妻川北岸の支流である干俣川上流に位置する。吾妻鉱山や万座温泉で知られる。
・「大戸村」上野国吾妻郡大戸村。現・群馬県吾妻郡東吾妻町で、鎌原村の東約10数㎞の吾妻川支流の温川及びその支流である見城川東岸にあり、かなり鎌原村からは離れている。同町から温川(ぬるがわ)を下った吾妻川合流地点にある郷原は、縄文期の印象的なハート型土偶の出土地として知られる。
・「夫食」一般庶民への救援食糧物資。
・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任時代の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。お馴染みの「耳嚢」の一次資料的語部の一人でもある。
・「白銀」贈答用に用いた楕円形の銀貨で白紙に包んである。通用銀の三分とされるが、通用銀は天保丁銀を指し、天保8(1837)年より通用開始されたもの。丁銀は銀の含有比率が低く(20~80%)形も重さも一定でなかったが、この白銀は銀純度が高く、形も切り揃えて成形してあり、重量も43匁と決まっていた。資料によると本話柄の40年程前、元文年間(1736~1741)で白銀一枚=0.7両とある。
・「米穀百に四合五合」100文で米4~5合しか買えない、1合が20~25文したということである。以下にしらかわただひこ氏の「コインの散歩道」の「1文と1両の価値」のページにある分かり易い対照表から、米一升の小売価格の推移と相対比較するための蕎麦屋の蕎麦(もり・かけ)の値段を引用する。
【米1升(小売値)】↓ 【蕎麦一枚】
慶長・元和 25文 ↓
(1596~1623)
寛永 30文 ↓
(1624~1643)
寛文 50文 6文
(1661~1672)
元禄 80文 8文
(1688~1703)
享保・元文 80文
(1716~1740)
宝暦・明和 100文 16文
(1751~1771)
文化・文政 120文 16文
(1804~1829)
天保 150文 16文
(1830~1853)
慶応 500文 20文
~1000文 ~24文
(1865~1867)
明治33年 16銭 1銭5厘
(1900)
昭和35年 124円 35円
(1960)
平成12年 700円 474円
(2000)
一見2~3倍弱にしか見えないが、当時は今とは考えられないくらい米食に依存しているから(一日5合程度の消費量が考えられる)、天命の大飢饉に加えて浅間大噴火のダブル・ダメージを受けた当時の被災民にとっては、とんでもない高騰であったと考えてよいであろう。
■やぶちゃん現代語訳
浅間山山麓鎌原村で起こった大異変に際し稀に見る誠意に満ちた取り計らいを致いた者の事
上州吾妻郡鎌原村は浅間山北側に位置している村であるが、かの天明三年の浅間山大噴火の際には、広範囲に溶岩や土石が押し寄せた折りから――この鎌原村は、特に噴火後には「鉄砲の筒先」と呼ばれたほど、直撃を受けた被災地であった――人別帳の上でも三百人ほどの村民の内、成人男子・女子・子供をも含んで九十三人だけが生き残ったばかり、後は残らず総て、流れ下る土石流に押し埋められ、皆、流失、亡くなった。
この事態に、残されたその者たちもただただ途方に暮れていた。
ここに同郡大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門という者たち、稀に見る誠意を持って、即座にこれらの生き残った被災者をそれぞれに分担して引き取り、救援致いた。のみならず、浅間の噴火が少し鎮まって後には、三人の者共同で、この壊滅した鎌原村跡に仮住居として小屋を二棟掛け、それぞれの村から救援物資として麦・粟・稗なんどを少しずつ送っては彼らの生活を引き続き援助致いた。勿論、同じ頃には御公儀からも現地の代官にお指図これあり、当地の被災した一般庶民への広範な食糧援助等が行われていたことは言うまでもないので御座ったが。
さても、右仮小屋を建てるに際し、以上の三人で協議致いて、救援の大方針として、さる秀抜なる工夫を編み出して御座った。
――そもそも百姓というもの、実は何やらん、誰ぞと変わらず、先祖伝来の家柄血筋やら先祖素性やらに、殊の外、拘るものにて、たとえ現在は富貴にして高雅なる家(や)の者であっても、その村にて先祖代々重んじられて御座った家系の者でない限りは、応対するに際しても己(おの)が座敷にさえ上げず、万事内外、格式やら挨拶やらに格別に五月蠅きものなれど――この三人、小屋二棟の被災者全員を招集致すと、
「さても、かくなる危難に遭(お)うて生き残りし九十三人は、これ、誠(まっこと)、骨肉相和す親族と思わねばならぬ。」
と、この小屋にて親族の約諾を致させたので御座った。
その後、私も関わったところの御公儀による災害復興事業が成功裡に終わった頃、なおまた、この三人は、この鎌原村被災者全員に酒肴を送って祝った上――九十三人の内、夫を失した女には女房を流された男を取り合わせ――また、子を失った老人には親を亡くした子を養わせて、計九十三人、残らず、名実共に一家一族と成したので御座った。
誠に変事に遭(お)うての味な取り計らい方、これ、見事なもので御座る。
右の三人、実はこの鎌原村に限らず、外(ほか)の噴火罹災した村々へもやはり同じように稀に奇特なる救援を施し、同様に格別の取り計らいを致いて御座ったことなれば、私、勘定奉行であられた松本豆州秀持殿とも協議の上、お上へ上申致いたところ、三人総てに白銀を御下賜なされた上、一代限りの帯刀及び子孫代々姓を名乗ること、これ、お許しとなったので御座った。
善行というものは、その徳、則ち、心からの誠意の表れあってこそのことと――その譬えとしてこれ以上相応しい出来事は御座らぬ。
この三人の内、干俣村の小兵衛という者はさほど由緒ある人物にてはこれなく、ただ普通に商いを致いておる者である由。浅間山噴火により、近在の百姓の難儀を聞き及び、小兵衛思えらく、
「……我らの村は同じ郡乍ら、はるかに峰と川を隔たっておる故、この度の災厄を免れた……なれど、もし、同じように、かの被害に遭(お)うたとならば……今こそ、己(おの)が財産を捨て、難儀致いておる人々を救はんとするは、当たり前のこと――」
と、家財惜しまず投げ打って、急変を救ったのだということで御座った。
この天変地異によって、その年の米価は高騰、百文出しても四~五合、という前代未聞の事態となったのであるが、この干俣村商人小兵衛の署名・印さえあれば、米の交換を拒む者は近在には一人としてなかったのであった。
この小兵衛なる者には、恩賜の件に付、申し渡した際、この私も会うてその風体を実見致いたが、失礼乍ら、これと言って利発という感じの男にては、これなく、ただただ如何にも実直そうな老人とのみ見えて御座った。