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2010/03/19

耳嚢 巻之二 仁慈輙くなせし事

「耳嚢 巻之二」に「仁慈輙くなせし事」を収載。

 仁慈輙くなせし事

 御靈屋(おたまや)へ予拜禮せし序、東叡山の執事たる佛頂院の許へ立寄けるに、酒などいだし暫く物語せしが、咄の序に、過し天明卯の年諸國農作不熟して米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃、萬民難儀なしけるが、淺間の燒砂降し村々、公儀より御救ひの御普請も被仰付、其外百姓及び御府内(ごふない)の賤民へも御救ひを給り、家々戸々よりも志のある者は夫々の施しをなしぬ。佛頂院などは釋門(しやくもん)の事なれば、朝夕此事に召仕ふ者にも申仕て心懸しかば、限あるを以はかりなきに施す事可行(ゆくべき)樣(やう)もなかりしが、佛頂院へ隨身せし小僧ありしが、日々佛前へ備へ、或は法施(ほつせ)の米食など、常は庭上に其所を極め鳥などにあたへけるを、取集め置て飢に沈む者へ給るやう致べしとて申ける故、尤の事也とて其意に任せぬれば、辰春(たつのはる)に至りては餘程の干飯(ほしいひ)にいたしぬ。よく社(こそ)致しぬるとて、辰の四月日光へ御門主の御供して罷りし頃、旅中飢渇のものへ散財して施し與へしに、御神領などよりは厚く禮に參りしも有しと語りぬ。その小僧は賴母しき出家也、今は如何致せしと尋ければ、此節は上方へ學問に遣しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない、というか、どうも前話は、既に述べてある通り、私には不快な話(言っておくが、それは「生理的に」ではない。やはり被差別者に関わる話だからである)であって、その連関を述べたい気持ちさえ失せると言っておく。

・「仁慈」思いやりや他者への深い情け。

・「輙く」は「たやすく」=「容易く」と読む。

・「御靈屋」一般名詞としては先祖の霊や貴人の霊を祀る霊廟のことであるが、ここでは徳川将軍霊廟のこと。寛永寺と増上寺及び日光の輪王寺(徳川家康と家光)の三箇所に分納されている(最後の徳川慶喜は霊廟はなく東京谷中霊園に墓所がある)が、ここでは直後に山号「東叡山」とあるので寛永寺を指す。徳川将軍15人の内、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人を祀る霊廟があった。現在、日光以外があまり知られていないのは太平洋戦争の空襲によって殆んどが焼失したためである。

・「執事」寺院に常駐して家政及び事務一般を司る僧侶。住職代理に相当。

・「佛頂院」寛永寺塔頭(たっちゅう)の一つであるが、現存しない。

・「天明卯の年」天明3(1783)年。

・「米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃」前掲「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」の「米穀百に四合五合」の注を参照のこと。

・「法施」仏に向かって経を読み、法文を唱えることを言う。ここでは仏像への日々の供物としての仏飯に対して、勤行法要等の際に、それとは別に施主から施される仏飯等を言っているものかと思われる。

・「辰春」翌天明4(1784)年の春。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この謂いからは、本話柄を根岸が聞いたのは天明5(1785)年か翌6年の間に絞り込むことが出来るものと思われる。但し、鈴木氏の執筆区分を考えずに推測するならば、天明の大飢饉の終息後のこととも考えられ、だとすれば天明8(1788)年以降の話柄とも考え得るが、終盤の遊学云々の描写はここから5年以上が経過しているようには思われない。

・「御府内」江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(1818)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。

・「御門主」門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める特定の寺院)の住職を言う。寛永寺は問跡寺院で、特にその門主を「輪王寺宮」と呼称した。寛永201643)年に開山の南光坊天海没後、『弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた』。輪王寺宮は『水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(以上、引用はウィキの「寛永寺」から)。

・「御神領」日光東照宮領。社殿神域に加え、経済維持のための周辺近隣に及ぶ。前記注の如く、その最高責任者も輪王宮である。

■やぶちゃん現代語訳

 仁慈なるものは容易に行い得る事

 ある時、寛永寺御霊屋を拝礼致いたついでに、その頃、同寺執事に当って御座った塔頭仏頂院に立ち寄ったところ、酒など出されて歓待されたことがあった。その際の雑談の中で聞いた話で御座る。

 過ぎし天明三年のこと、諸国農作物不作となり、米価、小売り百文で四、五合という値いまで高騰、万民難渋致いたは記憶に新しい――。

 加えて同年七月の浅間大噴火――その火山灰や土石流が降り下った村々には、御公儀より救援の御普請方も仰せつけられ――私自身、その役を仰せつかったので御座った――その他広範な地域の百姓及び御府内の賤民に至るまでも御救済方思し召しを賜わり、ありとある町屋百姓の主だった家々からも、その志ある者は、それぞれに出来得る限りの施しを致いたもので御座った――。

「……本院などは、これ、仏門のことなれば、言うに及ばず、朝夕この窮民救援の仁慈のこと、召し使(つこ)うておるあらゆる者どもに申しつけ、心懸けさせては御座ったれど……仏道の本意たるところの――「施さん」との無辺の仁慈を以って、しかも聊かも「施さん」という卑小なる作善の思い上がりを持たずに「施す」こと――これ、なかなか難しいことにて御座った。

 そんなある日のことで御座った。

 本院にて修行致いておる一人の小僧が御座ったのじゃが、この少年が、

『日々仏前へお供え致し、或いは法事の際に御布施として致します仏飯などは、今まで、それを目当てに致いて常に庭にやってくる鳥なんどに与えておりしたが、これをやめ、皆々集めた上で腐らぬように保存致し、飢餓の底に沈み苦しむ民へ給わられるよう、取り計らわれるとよろしいかと存じます。」

と申します故、

『それは誠(まっこと)よきことを思いついたの。』

とて、この小僧の思うように任せてみ申したところ、翌天明四年の春までには相当量の干飯(ほしいい)を造り成して御座った。

 同年四月初夏、この小僧は寛永寺御門主輪王寺宮様に随身して日光東照宮へ参詣致いたので御座ったが、かの干飯を、道中、沿道の飢渇せる者どもに、広く施し、分け与えたので御座った。

 後日、沿道に当って御座った御神領各所の、その施しを受けた民ぐさの中には、輪王寺宮様へ厚く礼に詣でた者も御座ったと言いまする――。」

聞き終えた私は、感嘆して言った。

「その小僧――なかなかに頼もしき沙門じゃ。さても、今はどうして御座るか?」

と尋ねたところ、

「この度は上方へ学問に遣わして御座います。」――

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