耳嚢 巻之二 賤者又氣性ある事
「耳嚢 巻之二」に「賤者又氣性ある事」を収載した。
* 賤者又氣性ある事
寶暦の初迄在し戲場役者坂東薪水彦三郎といひしは、名人と人の評判せし者也。日蓮宗にて至て信心の者成しが、或時外より日蓮正筆の曼陀羅の由にて大金にかへ調ひしが、兼て歸依しぬる僧に見せて目利を賴ければ、かの僧得(とく)と見て、高金を出し姶へど是は正筆には無之、あからさまなる贋筆也。扨々費成る事し給ひぬ。然し調ひ候價にはならずとも、我等拂ひ遣すべしと有ければ、彦三郎有無の答に及ばず、傍成火鉢へ打入煙となしぬ。彼僧驚きて尋ければ、いやとよ正眞と思ひて調しに、似せ物なれば貯へて益なし。此末貯へ置ば、今御身の仰の通、價をへらしなば調る人も有なん。左ありては我贋ものに欺れ又人をも欺んやと答えへける。賤敷河原者ながら、上手名人と人のいふも理り也と、或る人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前話主人公俳諧宗匠雲桂は「寶暦の頃迄ありし」男、本話主人公歌舞伎役者坂東薪水彦三郎は「寶暦の初迄在し」男で連関。
・「寶暦の初」宝暦年間は西暦1751年~1764年。以下に見る通り、初代坂東彦三郎は寛延4年1月1日に逝去しているのであるが、寛延4年は10月27日(グレゴリオ暦で1751年12月14日)に宝暦に改元されていることから、このような謂いとなったものであろう。
・「戲場役者」歌舞伎役者。
・「坂東薪水彦三郎」初代坂東彦三郎(元禄6(1693)年~寛延4(1751)年)。薪水は俳名。ウィキの「坂東彦三郎(初代)」によれば、『大坂の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見の武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれ』、『最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永3年11月 (1706) に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで好評を得て京坂で活躍』、『1729年江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。1740年11月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた』とある。岩波版長谷川氏注には『実事・武道を得意とし、実悪を兼ねた』とある。「実事」は「じつごと」と読み、立役(たちやく:主人公クラスの善人の男役。)の中でも、常識を供えたスマートな役柄を言い、対する「実悪」は所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。
・「日蓮正筆の曼陀羅」とは一般に日蓮の法華曼荼羅呼ばれる法華曼荼羅のこと。ウィキの「法華曼荼羅」によれば『法華曼荼羅とは、法華経の世界を図、梵字、漢字などで表した曼荼羅の一種』で、天台宗・真言宗の密教に於ける法華曼荼羅は『法華経前半十四品(迹門)に登場する菩薩などを表したもので』あるが、ここに示されたものは日蓮宗独特のもので、『日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。中央の題目から長く延びた線を引く特徴から、髭曼荼羅とも呼ばれている。また、一部には文字でなく画像で表したものもある』。『十界の諸仏・諸神を配置していることから十界曼荼羅(日蓮奠定十界曼荼羅・宗祖奠定十界曼荼羅)などとも称され』、『1271年(文永8年)に書いたものが最初で、日蓮直筆は127幅余が現存する』とある。
・「得(とく)」は底本のルビ。
・「河原者」河原乞食。本来は日本古来の被差別民への卑称であるが、この場合は芸能者・役者の蔑称として限定的に用いられている。明白な職業差別用語である。以下、ウィキの「河原者」より引用する(一部の記号を変更し、改行を省略した)。『平安時代の「左経記」長和5年(1016年)正月2日の記述から、当時、死んだ牛の皮革を剥ぐ「河原人」のいたことが知られる。これが史料上の初出である。室町時代に入ると「河原者」の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。それらの地域に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説とがある。ちなみに、当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能、運搬業、行商、造園業などにも従事していた。河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。河原者の中で最も著名なのが、室町幕府の八代将軍足利義政に仕えた庭師の善阿弥で、銀閣寺の庭園は彼の子と孫による作品である。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。河原者は、穢多や清目と称される事もあった。ここでいう穢多は江戸時代のそれとは異なる。近世初頭、豊臣秀吉、徳川政権によって固定的な被差別身分が編成された際に、河原者はその中に組み込まれたと言われる。近世において「河原者」「河原乞食」と呼ばれたのは主に芸能関係者である(近代以降も「河原乞食」と賤しんで呼ぶことは続いた)。中世の被差別民は一般的に非人と称されたが、河原者がその中に含まれるかどうかについて、論争が行われている。近年、中世の河原者の居住地と、近世の被差別民の居住地が重なる例が京都や奈良を中心に報告され、部落の起源論争の大きな焦点となっている。これを理由に、部落の中世起源説を支持する人々もいる』。
■やぶちゃん現代語訳
賤しい者にも優れた見識ある事
宝暦元年頃まで存命していた板東薪水彦三郎は名人の誉れ高い歌舞伎役者であった。
彼の宗旨は日蓮宗で、これまた、熱心な信者であったが、ある時、日蓮真筆の曼荼羅なる代物を大金を叩いて手に入れ、かねてより懇意に致いて御座った宗僧に見せて、目利きを頼んだ。
その僧、凝っと見つめて御座ったが、
「……大金をお出しになられたそうで御座るが……遺憾乍ら、これは真筆にては、これなく……見るもまごうように筆遣いを似せただけの贋作にて御座る。……さてさて、勿体ないことをなさったものじゃ……いや、されど、誠によく似せて御座る品にて、これ自体は、真面目で立派な曼荼羅に仕上がって御座れば……勿論、貴殿がお買い上げになられた額というわけには参らねど、相応な金額にて、一つ拙僧が買い上げて進ぜましょう程に……」
と答えた。
彦三郎はそれに応えることなく、黙って傍らの火鉢にその曼荼羅を投げ入れた。
曼荼羅は勢いよく白煙を上げて燃え上がると、みるみるうちに白い灰となってしまった。
かの僧、余りの仕儀に聊か驚いて、彦三郎に訳を尋ねたところ、
「いや――真筆と思えばこそ買い求めたものにて、偽物(ぎぶつ)となれば持っておっても無益。――万一、このまま所持致いておらば、今正に御身が仰せられた通り、値を減ずれば買わんとせし人も御座ろう。――そうなっては、我ら、偽物に欺かれしのみならず、また、その御仁をも欺くことに他ならず――。」
と答えたという。
「……賤しき河原者ながら、芸道上手歌舞伎名人と人の呼ぶも、これ、理(ことわり)あることにて御座る。」
と、ある人が語って御座る。