耳嚢 巻之二 公家衆其賢德ある事 / 位階に付さも有るべきことながら可笑しき噺の事
「耳嚢 巻之二」に「公家衆其賢德ある事」及び「位階に付さも有るべきことながら可笑しき噺の事」の公家噺、シリアスとコメディ二篇を一挙収載。
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公家衆其賢德ある事
明和の頃、仙洞御所の御普請ありて、松本某など上京せしに、歸り後咄しけるは、公家は何れも貧窮なるが多し。かかる中に、松本某旅宿せし向ふに輕き公家衆有しが、至て不勝手の樣に見受ぬ。或日宿の亭主に、何といへる公家衆なるやと尋ければ、何某と申御方にて、至て御不如意にあらせ姶ふ。夫に付いたはしき咄あり。年久敷召仕ひ給ふ女の童のありぬ。夫婦共に不便を加へ給ふに、最早袖をも留候年頃成故、袖留宮詣ふでを心懸け給へど、雜費の差支ありて心に任せぬと、我等に語り給ふ事のありしといひし故、何程の雜費やと尋ければ、聊の事にありける故、餘りのいたわしさに纔の事なるが、我等より進じ候筋は成難し、其方へ可遣間、其方よりよく取計ひ進じ可然と申ければ、彼亭主兩三日過て松本へ申けるは、此間の趣申つれば、志の程いか計嬉敷思召ぬ。内々ながら關東より助力ありては心も濟ず、其方より取替貰はんも其所謂なし。志は嬉しけれど、心の底に右の趣殘てはいかゞ也、斷給へとの事也、さて不都合共取賄ひ給ひて、此程袖留宮詣ふでも濟しと語りしよし也。やさしき事也と松本かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:たとえ名刀と雖も徳川家御禁制の妖刀を身に近づくることなかれという幕臣の節と、飢え渇えても公家は公家、江戸の武家の下には置かせぬという節で連関。
・「明和」西暦1764年から1772年。
・「仙洞御所の御普請」「仙洞御所」本来は一般名詞として上皇及び法皇の御所のことを言う。ここでは現在の京都御苑内御所南東にある仙洞御所を指している。『これは1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。小堀遠州によって作事された庭園が広がっている』。『仙洞御所の建築群は1854年(安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている』とウィキの「仙洞御所」にある。岩波版長谷川氏注によれば、次に示す『松本秀持は明和八年(一七七一)四月、この普請の功を賞せられた』と記し、この話柄の年代を限定する。
・「松本某」「耳嚢」の一次資料的語部として既に多出する松本秀持(ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)のこと。最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。当時は御勘定組頭で前注に示したように底本鈴木氏注でも『御所造営の事にあずかり、明和八年四月、功を賞賜、ついで翌年には吟味役に抜擢され』たと記す。ここで根岸が「某」を用いているは松本が異例に昇進して話柄の登場人物として憚ったからか。であれば、先行話でも同様な処置がなされてしかるべきであろうし、もしかすると既に勘定奉行に一気に昇進した彼の過去の出来事ととして、公家の貧窮の報告・それへの私的な援助行動というものが微妙に問題があると考えられたからかも知れない。
・「袖をも留候年頃」袖留。留袖を着る年頃のこと。女子の成人の印として、振袖の長い袖丈を短くし、身八口(みやつぐち:着物の脇の下の部分。)を縫い留める習慣があった。現在の既婚女性の礼装と言う意味に留袖が用いられるのは、このようなイニシエーションがあったからである。
・「志の程いか計嬉敷思召ぬ」の「思召ぬ」は文脈上はこの公家自身の自敬表現であるが、それではおかしい(実際、文末では宿主人に対してさえちゃんと尊敬語を用いている)。ここは「いか計嬉敷までの思召」し=「志の程」という捩れが生んだ表現と採るべきであろう。
■やぶちゃん現代語訳
落ちぶれし公家衆にもかかる聡明にして品格のある事
明和の頃、仙洞御所の御普請があって、松本某が上京、職務完了致いて帰府後、私に話して呉れたこと。
……いやもう、公家は何れも経済的に困窮致いて御座っての、どうにも首の回らぬ者、これ、実に多い。……そんな中でも、の、拙者が旅宿して御座った宿の向かいに、身分の高からざる、とある公家の屋敷があったが、……これがまあ、見た目も至ってみすぼらしく、内実は誠(まっこと)不如意ならんとお見受けするばかりの趣きじゃった……。どうにも、そうじゃなあ……『悲惨』を建物にしてみたような佇まい……と申せば分かってもらえようか、のぅ……。
遂にある日、宿の亭主に、
「向かいは何と申される公家衆かの?」
と訊ねた。
「○○家○○とおっしゃるお方で御座いまして……その、言うのも何で御座いますが……貴方さまもお気づきになられましたでしょうが……その、御家内、至って不如意にあらさっしゃいます……それにつきまして、誠(まっこと)傷ましき話が御座います……何でも、年久しく召し使ってあらっしゃる女童(めのわらわ)が一人おりますが……子なきこの公家夫婦、ともに偉(えろ)うこの子を可愛がってあらっしゃいましたが……この子が、丁度、今日び、もう、袖を留めるような年頃となり、袖留(そでとめ)の儀やら、そのお祝いの宮詣りやら、なさらねばならんようになりましたが……実は先だっても……『……何やかやと、いろいろの雑費が掛かり……思うようにならしまへん……』……と私にこぼしてあらっしゃいました……。」
と言うので、
「……いかほどの雑費なるや?」
と訊いたところ、これが、まあ――貴殿にとっても、拙者にとっても――これ、たいした額にては、これなき程なれば、余りのいたわしさ故、
「……僅かな御援助に過ぎぬものなれど、……見知らぬ拙者から直接差し上ぐるのもおかしな話じゃ。……一つ、その方へその支度金全額遣わす故に、……ま、そなたのよきように取り計らって、贈答するがよい。」
と告げて、金一封を渡しおいた。
ところが、その亭主、三日後のこと、封したままの金子を持って参り、
「……恐れ多きこと乍ら……先日の有難いお志、○○家○○さまにお会い致し、申し上げましたところが……
『……そのお武家さまのお志……ほんに心より嬉しくお思い申し上げました……なれど、内々とはいえ……関東の、それもお武家さまより、御助力を得たとあっては……公家の手前、私どもの気(きい)が済みまへん……たとえ、その御方に「立て替えてもろうた」としても……「立て替えてもろう」ということの、人に聞かれても胸張って言える謂われも、これ立ち申しませぬ……ほんにほんに、お志は嬉しゅう御座いますれど……我らが心の底に、こうした思いを残したままにてお受け致いては、これ、如何なものかと……なればどうか、丁重に丁重を重ねて、御貴殿より御先方さまへ、お断り下しゃっされ。』
とのことで御座いました。――しかし、お武家さま、一つ、良いことが御座いましてな。
このお公家さま、この度、手元不如意なれど、何とかうまくお取り繕いになられ、この程、女子(おんなご)の袖留と宮詣り、ともに恙なく済んだとのことにて御座いました。」
と語って御座った。
「……いや、誠、品格に満ちた言葉で御座ったよ……。」
と松本某が語った。
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位階に付さも有べき事ながら可笑しき噺の事
川西某語けるは、同人ちなみある者也し由。遠江三河の邊の者也しが、娘壹人ありしを縁によりて上方へ遣はし、堂上(たうしやう)へ奉公いたさせけるが、久々對面せざりしに、右娘今は宮仕へせし主人の情を受、内室やうになりけると便りに聞侍れば、行て逢ん事を企て上京し、かの公家衆の許を尋ねしに、位たかく祿重き公家衆ならねば家居(いへゐ)のかゝりも美々(びび)しからず、いと貧しげに見へけるが、案内を乞ければ、いかにもきたなげなる親仁(おやぢ)出て尋し故、しかじかの事にて來りたる由答へければ、先夫に扣(ひか)へ候へとて玄關の隅に差置、漸く暫くありて、申上ぬる聞こなたへ來り給へと、塀重門(へいぢゆうもん)やうの口より通して、白洲へ莚やうの物を敷て其上にさし置、外に人もなかりけるや、直に右の老夫白丁(はくちやう)を著し、もみゑぼしなどして簾を卷上げぬれば、堂上なる人我が娘ともに著座にて、遙々尋來し嬉しさよとの言葉をかけ、無程翠簾(みす)を下げぬる故、よしなくも尋來しと思ひけるが、又彼老人の案内にて座敷へ通し、其後は娘にもゆる/\逢て立歸りしが、さるにても氣の毒にもおかしき事なりと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:聡明さと実に満ちた品格の「されど公家」から、公家という格に拘るばかりの愚昧なる名ばかりの「たかが公家」へ連関。本話柄、没落した公家の描写力に欠ける憾みがある。現代語訳では、これでもかと言うぐらい浅茅が宿をごてごて描写した。悪しからず、堂上様。
・「川西某」岩波版長谷川氏注によれば、川西兼郷(かねさと 享保8(1723)年~安永4(1775)年)で『評定所留役・御勘定組頭』とあるから根岸より14歳年上であるが、根岸の本話柄執筆時には根岸は佐渡奉行で、上役になる。
・「遠江三河」遠江国は現在の静岡県大井川西部(但し、当時の大井川河口は現在より東であったから、現在の焼津市の旧大井川町域も大井川の右岸であり、遠江国榛原郡(はいばらのこほり)であった。三河国は現在の愛知県東部。
・「堂上」狭義には室町以降の公家の家格の一つで、清涼殿への昇殿を許された家柄又は公卿に就任可能な家柄を言ったが、近世では広く公家方の呼称となっていた。
・「塀重門」関から表座敷に通ずる庭とを限る高塀にある中門を言う。左右に柱を立てた両開きの扉で笠木を持たない。寝殿造の中門を簡略化したもので、屏中門・壁中門・平地門などとも言う。行幸や勅使到着のための、本来は最も格式ある出入り口として公家屋敷に据えられたものという。玄関からではなく、とりあえずここを通したということは、礼儀上は、この父を相応に迎えたことを意味している。最初、私も調べずに誤読したが、裏木戸などではない。
・「白丁」 糊を強く張った白い布の狩衣ので、下級役人の雑色(ぞうしき)などが着たもの。
・「翠簾」御翠簾(おみす)のこと。一般には黄色地の簾(すだれ)に赤地・青地に彩色した縁取りを施し、白・赤・黒の三色に染め分けた房を複数垂らした簾を指す語。
・「もみゑぼし」揉烏帽子。薄布で作って漆などをかけて揉み込み柔らかくした烏帽子。兜などの下に折り畳んで着用した実用的なもので、古くから庶民が着用した。
■やぶちゃん現代語訳
位階からすればさもあらん尤もなる事乍ら実際には如何にも可笑しき話である事
川西某が語ってくれた以下の話は、彼の親族の者の体験談であるとか。
遠江・三河辺の者、一人娘が御座ったが、縁あってその子を上方に遣わし、あるお公家に奉公させて御座った。
永らく娘に会うこともなかったところ、この女、そのお仕えしている御主人のお情けを受け――偶々そのお公家におかせられては妻なき故――御内室同様の扱いを受けて御座います、との便りを受け取ったれば、
「これはこれは、嬉しきことじゃ! 祝いの序でに、永らく対面(たいめ)致さざる娘なれば、会いに参ろう。」
と思い立って上京致いた。
さて、かの公家衆の屋敷を訪ねて見る――と――位もたいして高くもなく、また禄も多くないお公家衆なれば、その家居(いえい)――とても立派と言える代物にては、これなく――いや、失礼乍ら、大層貧窮と、これ、お見受けする御屋敷――。
案内を乞えば――これでも公家の下男かと思われるよな――如何にも汚ならしいなりの爺いが出て来て、
「何や?」
と質す故、
「――拙者、かくかくの者にして、しかじかの事ありし故、参上致いて御座る――。」
と応(いら)えたところ、その親爺、言葉を改め、
「……左様(さよ)か……なら、まずは、それにお控えなされ……」
とむさ苦しい土間の如き玄関の、その隅に差し置いたまま、永いこと、待たされる――。
暫く致いて、
「御来駕の儀、上に申し上げまする間……どうぞ、こちらへお入りなされ……」
と言う。
されば薄汚き下男と見たは、これ、用人であったかと又しても呆れながら――茅屋の荒れ垣根の裏木戸かと見紛(まご)う――嘗ては塀重門であったと思われるようなる門より通され、――ここそこに泥が見えて白き処の殆んどない――お白洲に、――乞食(こつじき)の敷く莚のようなるものを敷(ひ)いた、その上に、座らされる――。
……そうして……
……そうして、呆れたことに……
……実は、この屋敷には、召し仕われておる「下男」も「用人」も御座らなんだらしい……
……じきに御出座になされたお公家さまなる御主人……これ、先般より鼻も抓まんばかりに見下して御座った臭(むさ)い爺い、その人にて……着するものとてないと思しく、賤しい白丁(はくちょう)の狩衣に、――本来の烏帽子が何十年も年経て、ぼろぼろになったかと思われるよな――揉烏帽子なんどをちょこんと被って現れると、――元は確かに御翠簾(みす)であったことが、巻き上げるという、その動作によってのみ辛うじて感受し得る、向うがすっかり透けて見える――御翠簾を巻き上げて、――巻き上げた爺いが、徐ろに、内に……仕草ばかりは流石に厳かに――それが「堂上の人」と相成って……その横には懐かしい己(おの)が可愛い娘……二人して御着座の上、
「……遙々訪ね来さっしゃる嬉しさよ……」
と一言と言葉をかけたかと思うと、元の爺いに戻って慌てて立つと、するすると――いや、ばらばらと、が正しい擬音であるが――――御翠簾を下げた……。
父なる男、呆然として、
「……なに!?……これで終わりか!?……何とまあ、馬鹿馬鹿しい! とんだ無駄足じゃったわ!」
と腐り切って、その場を退(さが)らんと致いたところ、例の爺い――いえ、お公家の御主人様が、ひょこひょこと出で来ると、黙ったまま、同じその座敷へと――そこも「座敷」と言うよりは「お化け座敷」とも言うべきもので御座ったが――通して、自分は奥へと隠れた。
そこでまあ、ようやっと、娘にもゆるりと親しゅう対面(たいめ)致し、語らった後、里と立ち帰ったということで御座る。
「……それにしても……公家なればとて、さもあらん尤もなること乍ら……如何にも気の毒にして……いや……可笑しきことで御座った……。」
と川西某が語って御座った。