南方熊楠「武辺手段の事」中「韃靼帝の子カッサン」注補正
南方熊楠「武辺手段の事」の「韃靼帝の子カッサン」の注を、同僚の世界史の先生からの教授を受けて以下のように補正した。カッサンの同定の誤りを直し、不明としていたガザン・ハンとエジプトとの戦い(イル・ハン国のシリア侵攻)について補足した。
・「韃靼帝の子カッサン」とはモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国又はフレグ・ウルスとも呼ぶ)の第7代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān ロシア語表記:Газан-хан 1271~1304)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であるフレグはチンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンはイスラム教に改宗してイラン人との融和を図るなどして内政を安定させ、政治的にも文化的にもイル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、34歳で夭折した。1299年当時のエジプトはバフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、南方の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンがシリア侵攻を開始、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが実戦経験が乏しかったために大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した。
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