青春の死神 徐京植
昨年、ネット上の靉光の評を縦覧していた際、徐京植「青春の死神」という著作から引用された「白い上衣の自画像」の評が眼に止まった。
『がっしりとした肩幅をもち、苦悩をうちに秘めて屹立している。だが、斜め上方に向けられたその眼は眩しげに細められていて、何かを見つめているというより、もう何も見えないと言いたげである。靉光はただ不器用だったのではない。本質的に、戦争と共存することのできない人間だった。』
という一文に激しく共鳴した。本作については、不安定なシュールレアリスム的手法や画想に靉光が訣別した確かな証拠みたようなアカデミックな評論家の言に、激しい不快を感じたことが蘇って、清々しかった。
そこで本書
「青春の死神 記憶のなかの20世紀絵画」徐京植(ソ・キョンシク)
2001年毎日新聞社刊 2200円
を入手、昨年暮れに読んだ。手にした時の正直な印象は、31人もの強烈に特異な画家たちを取り上げて語るというには、この本、如何にも薄いぞ、という思いであった。
しかも、30人中、僕の知らない作家は1人――少し、意地悪い視線で本を開いたが、見開きカラー挿絵で ガツン! ときた。その知らない1人、
アルベール・マルケ「グラン=ゾーギュスタン河岸、パリ」
の孤独と静謐と誠意に満ちたその絵に、やられた。
徐京植――ソ・キョンシク氏について、以下、ウィキによれば『徐 京植(ソ・キョンシク、1951年 - )は、京都市生まれの在日朝鮮人作家、文学者。東京経済大学現代法学部准教授。兄に立命館大学教授の徐勝、人権運動家の徐俊植がいる。本人は4人兄弟の末っ子。在日朝鮮人の父母のもと、京都市に生まれる。早稲田大学在学中の1971年、二人の兄が留学中のソウルで国家保安法違反容疑で逮捕される(学園浸透スパイ事件)。すぐさま逮捕の不当性を訴えて母や支援者とともに救援活動を展開。1974年に早稲田大学第一文学部仏文学科を卒業するも、依然兄弟は獄中にあり、自らも進学を諦めて兄の解放と韓国民主化運動のため活動を継続する。この活動中に母を亡くす。投獄から17年目の1988年に徐俊植が釈放され、1990年には徐勝も釈放。長期にわたる救援活動の経験は、その後の思索と文筆活動へとつながっていく。この頃より都内の大学などで「人権」や「マイノリティ」をテーマとした講義を持っている。2000年、現在の東京経済大学助教授に就任。作家としての活動は多岐にわたるが、その原点は兄2人の救出活動の経験と共に、在日朝鮮人としての自身のアイデンティティにあるとされる。自叙伝『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995年)は「日本エッセイストクラブ賞」を受賞。以後、ディアスポラ(離散者・難民)をめぐる諸問題に多角的考察を試みる著作活動を展開。ほぼ毎年何らかの著作を上梓し続けるなど、精力的な活動を行っている』とある。
本篇は、こうした氏の政治的現実体験を絡めながら――いや、その体験を軸に作家たちが、その軸線上に立ち現れてくる――絵が、ではない。絵を透かして、その作家自身の実像が、作家を飲み込んだ歴史の血塗られた現存在が、である。
ムンクの「生命のダンス」に始まり、ピカソ・クリムト・コルヴィッツ・マルケ・ルオー・コリント・シャガール・カンディンスキー・キルヒナー・ココシュカ・シーレ・グロス・関根正二・モディリアニ・クレー・池田遙邨・佐伯祐三・マレーヴィッチ・シャーン・リベラ・ディックス・ツィーグラー(この作家をご存知の方は少ないだろう。ヒトラー政権下のナチス・ドイツの御用画家にして帝国美術院総裁であった男である。この忌まわしき彼の章をソ氏は「総統のポルノグラフィー」と皮肉っている。僕も彼の「四元素」の現物を直に見たが、言い得て妙である)・野田英夫・長谷川利行・スーチン・ノルデ・ヌスバウム(僕はこのアウシュヴィッツに死んだこの人の故郷オスナブリュックの美術館にだけは行きたくてたまらない。行き止まりの美術館に)そして靉光、最後は藤田嗣治の戦争画を指弾して、現代日本への痛烈な批判で幕を閉じる。
絵画の成立した政治的な背景、そうした読みに生理的嫌悪を持つ、絵画をマスターベーションとされる方には、全く以って不向きである。
少なくとも僕にとっては、最後には読み終わるのが惜しくて、毎朝の行きの通勤電車、それも東戸塚を過ぎてから開く、一章を過ぎずという拘束までかけた程に、気に入った昨年の摑みの一冊であった。
……実は本ブログに「Art」というカテゴリを創りたくなったのも、この一冊が動機であったことを告解しておく。
ともかくも、思いを書きたかった「吉屋信子」とこの二冊への、昨年の感動した僕への義理、これは一応、果たせた。