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2010/03/03

耳嚢 巻之二 人の不思議を語るも信ずべからざる事 又は やぶちゃんの関係妄想的大脱線注 

「耳嚢 巻之二」に「人の不思議を語るも信ずべからざる事」を収載した。

この根岸の鋭い観察眼と、論理的な一面は僕の頗る好むところである。

また今回の注には、久々に僕の授業みたような関係妄想的大脱線を注にしくんでおいた。お楽しみあれ。

 人の不思議を語るも信ずべからざる事

 小湊誕生寺は、日蓮出生(しゆつしやう)の舊跡にて大地也。其最寄に日蓮矢疵養生の窟あり。今日は日蓮の像を安置して庵室あり。誕生寺は海邊なるが、夫より海邊に付少し山へ登りたる所也。予川々御普請の御用に付誕生寺へも詣で、右の岩窟へも古老の案内に任せ村移りの序立寄しに、右岩窟の内、其邊には白く鹽の付て居しを、所の者并召連れし者抔申けるは、此鹽は山上にて此通り生じ侯事、偏に宗租の悲願なれ。諸國より來る道者旅人等、此鹽を貯、眼を洗ひ或は疵抔を治するに至て妙也と語りぬ。げにも岩窟の内に鹽の生じぬる事も不思議と、召連れし宗旨の者など、紙に包み信心渇仰(かつぎやう)し懷中しける。夫より段々山を越へ村をうつりし侍るに、海上遠からぬ所の岩或は石古木には、風の吹荒候節自然と潮氣運び候ゆへや、右日蓮の窟の通り鹽を付てあり。道端の石地藏又は踏石にも有なれば、是も高租上人の悲願なるやと笑ひけるが、聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也。可笑しき事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。それにしても根岸家の宗旨は何であったのか。ここまでの話柄全体を俯瞰してみると、彼はかなり神道系の霊験に受容的であることが伺われる。少なくとも、本話柄によって東国武士に比較的多く見られる日蓮宗でないことだけは明らか。

・「小湊誕生寺」現在の千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗の大本山である小湊山誕生寺。日蓮は貞応元(1222)年に小湊片海に生れ、12歳までこの地に暮らした。建治2(1276)年に日蓮の直弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、明応7(1498)年及び元禄161703)年の大地震や津波によって損壊、現在地に移転した。その後、26代日孝が水戸光圀の庇護を受けて七堂伽藍を再興、小湊山誕生寺と改称したが、宝暦8(1758)年の大火により仁王門を残して焼失、天保131842)年になって49代日闡(にっせん)により現在の祖師堂が再建された。私は少年の頃、ここを訪れた記憶がある。鯛の浦で鱗を煌めかせて舞い上ってくる鯛の鮮やかな映像と、海岸動物が大好きな私のために父が岩場でいろいろ採って呉れているうちに、役所の係員が密漁者と勘違いしてこっぴどく叱られているのを目の当たりにして、父がひどく可哀想になった思い出が妙に脳裏にこびりついている。そして、次は、「あのシーン」で再び私は「そこに」出逢った――。

 斯んな風にして歩いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又歩行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。

 我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然とは覺えてゐませんが、何でも其所は日蓮の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二尾磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。

 其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其所に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買つて被つてゐました。着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度斷られるに違ないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考が違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寐やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

 其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

 Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜して拵らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

 我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆んど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鶏を食ひました。Kは其勢で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。

 宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黒くなつたばかりでなく、無暗に歩いてゐたうちに大變瘠せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久し振に聞いた所爲でせう。

勿論、「こゝろ」である(「先生と遺書」三十と三十一の章を繋げて記した。各章の鉤括弧は意識的に外した。因みに、この鉤括弧が曲者であることを皆さんはご存知か? 「先生と遺書」の鉤括弧は各章の頭にはついていながら、終わりにはついていないのだ)。この場面の直前には例の強烈な一場面「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。」がある(二十八)。この誕生寺の先生とKの訪問は極めて重要なシークエンスである。生家が浄土真宗の寺であったKは、肉食妻帯のその思想を頗る嫌っていたと考えてよい。Kの思想を探るには日蓮の思想が不可欠だ。

――そうして――

Kとは賢治のKでもある。浄土真宗の徒であった父宮澤政次郎との確執、「雨ニモマケズ」には最後に以下の経文が記されていることを誰もが知っているとは私は思わない。否、「雨ニモマケズ」を紹介するに際して、何故にそれを排除してきたのかを、考えるべきである。私はそのことが、賢治の解読を賢治のイメージを不当に歪曲しているとさえ、私は思うのである。私は信仰もなく、日蓮を尊敬もしない(寧ろ人間としての親鸞の方が頗るつきに好きである)。しないが、このことに対しては大いに「不当」であると感じるのである――。

   南無無邊行菩薩

  南無上行菩薩

 南無多寳如来

南 無 妙 法 蓮 華 経

 南無釈迦牟尼佛

  南無浄行菩薩

   南無安立行菩薩

――以上、やぶちゃんの授業的な大脱線でした。御粗末。

・「日蓮矢疵養生の窟」現在の鴨川市内浦の岩高山日蓮寺にある。誕生寺の北東約1㎞の山上にあり、小松原の法難(現千葉県鴨川市小松原で予てより恨みを持っていた念仏信者で地頭の東条景信が日蓮を襲い、弟子日暁と信者工藤吉隆が斬殺され、日蓮も額を斬られて左手を骨折して重傷を負った)の際、この岩高山の窟の岩砂を削り、血止めに用いたという伝承が残る。剣難厄除けに効ありとされる。

・「大地」底本では右に『(大寺カ)』と注する。それで採る。但し、前掲した通り、宝暦8(1758)年の大火で誕生寺は仁王門以外既に焼失しており、根岸の言うのは規模(敷地)のことと思われ、なればこそ正しく「大地」ではある(そこまで皮肉に訳すことはやめた)。

・「川々御普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏の「卷之一」の「妖怪なしとも極難申事」の注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の同項の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、天明3(1784)年まで同役に就いている。

・「悲願」これは、仏や菩薩が、この世の生きとし生ける総ての衆生を済度するために立てた誓願と同義の使用法。

・「信心渇仰」喉が渇けば水を欲し、山を慕えばそれを仰ぐように、仏を信じて慕い求めること。

・「越へ」の「へ」はママ。

・「たくし」は「託し」。

・「聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也」ここで根岸は、必ずしも全否定している訳ではない。所謂、プラシーボ効果があることをも認めた上での、現実的考察として読むべきであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 人が摩訶不思議なことだと言うても容易には信ずべきでない事

 安房小湊の誕生寺は日蓮出生の地と伝えられる大寺(おおでら)である。そのすぐ近くに日蓮矢傷養生の窟(いわや)がというのがある。現在では日蓮の像を安置し、庵室も備える。誕生寺は海辺である。こちらの窟はそこから海伝いに行ったところを、少し山を登ったところにある。

 私は川々御普請御用のため、安房へも足を延ばしたことが御座って、この誕生寺へも詣で、また、件の窟へも土地の古老の案内(あない)するに任せて、次の村への職務上の移動の序でに立ち寄った。

 この窟の内壁には、所々白く塩が付着していたのだが、土地の者や召し連れて御座った者どもが申すことには、

「この塩、山上でありながら、この通り、生じて御座ること、偏えに宗祖日蓮御上人樣御慈悲の本願の顕現にて、これ、御座る。諸国から参る信者は言うに及ばず、旅人らも、この塩を貯え、目を洗い、あるいは傷なんどの癒すに用いれば、絶妙なる効験これあり!」

と語って御座った。

「如何にも。山上の窟の内に塩の生じるということ、これは確かに不思議のこと!」

と、召し連れて御座った日蓮宗を宗旨とせる部下なんどは、この塩を丁重にこそぎ落とし、紙に包み、如何にも大慈大悲日蓮上人への信心渇仰して、大事そうに懐中に収める。

 さて、その地を発し、更に山を越え、村を移って御座ったところが、道々の、海からさほど遠からぬ所の岩或いは石及び古木の表面には――風が吹き荒れたりした折り、自然、潮気が運ばれて来たからでもあろうか――かの日蓮の窟と全く同様に、塩が附着しているのである。

 道端の石地蔵から、踏みしだいておる敷石にまで附着致いておるので、

「この塩も高祖御上人様御慈悲本願ならんか? 本願大盤振舞じゃのう?」

と皮肉を言うて、皆で大笑い致いたので御座ったが、世の中、何でもないことであっても、神仏にかこつければ、自然、「霊験」とか申すものも「ある」ということになるのである。如何にも可笑しなことではある。

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