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2010/03/06

耳嚢 巻之二 百姓その心得尤成事

「耳嚢 巻之二」に「百姓その心得尤成事」を収載した。

旅立つ前の一仕事。では、随分、御機嫌よう。

 百姓その心得尤成事

 淺間山燒にて、上州武州數ケ村砂降泥押の難儀大方ならず。右御普請の奉行として予廻村せし折から、厩橋(まやばし)領大久保村の者どもは、三分川七分川といへる利根川押切り候處の堀割、并に天狗岩堰の用水路埋り候所を掘候ため人足抔出しけるが、右兩所共大造(たいさう)の浚(さらひ)故、近郷數ケ村の老少男女數萬人出て其業をなしけるに、年頃十計の小兒に笊(ざる)を持せ土をはこばせ、乳母やうの者小僧など召連たれば、いかなる者と尋しに、大久保村の内富民の子供の由也。依之右場所の懸り橋爪某、子供故望みて出しやと尋ければ、彼古老答て、小鬼故望みもいたし候へども、かれが親はきびしきおのこにて、此度淺間燒にて國民困窮し、其家督たる田畑を失ひ、或は養ひの基たる用水路を潰し、誠に天災の遁れざる時節、公より國民志にて莫大の御普請被仰付、諸役人も寒凍を侵して日々出役なるに、兎もかふもいたし暮せばとて安居せんは勿躰(もつたい)なし。小兒抔はかゝる時節もありし、かゝるおゝやけの御惠みもありしと覺へ候へば、末々に至る迄難有と申所も辨へ候者也とて、此頃日々右倅を出し候と語りしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:都会人の極悪・独善性・無慈悲に対し、地方の百姓の希有の慈悲心で連関。一連の浅間山大噴火復興事業での実見記の一篇。

・「淺間山燒」以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。天明3(1783)年4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。根岸はこの浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢された。「卷之一」の「人の運は測り得ぬものである事 又」に浅間大噴火関連話柄が既出する。

・「上州」上野国。現在の群馬県。

・「武州」武蔵国。現在の東京都・埼玉県及び神奈川県東部を含む。

・「厩橋領大久保村」「厩橋」は現在の群馬県前橋市のことで、古くは「まやばし」と呼称し「厩橋」と書いた(前橋となったのは慶安年中(16481651)の酒井忠清が城主であった頃という)。但し、この大久保村は現在、北群馬郡吉岡町に編入されている。群馬県県のほぼ中央に位置し、榛名山南東山麓と利根川流域を占める。西半分が榛名山裾野の一部、東半分が洪積台地。町内には特徴的な古墳群を有する。大久保村はこの榛名山東麓の利根川沿岸にあった。

・「三分川七分川」岩波版長谷川氏注は、火山灰や泥流の土砂によって『川の埋まった程度を表わす語か。』とあるが、どうも解せない。これは文脈からは『大久保村の村の衆が、「三分川」とか「七分川」と部分的に呼んでいる利根川本流』という意味と推測され、足して一割になるのもその総体が「利根川本流」であるからではないかと思われた。加えて後文の「右兩所共」というのは正にこの「三分川」と「七分川」の二箇所を指しているとしか読めないのも気になったのである。そこで検索を掛けてみると、「利根川上流河川事務所」HPの「利根川の碑」の群馬県伊勢崎市戸谷塚410に所在する戸谷塚観音の利根川碑についての記載中に、ズバリ、「三分川七分川」という『河川名』が出現するのに出逢った(改行を省略し、下線部はやぶちゃん)。

   《引用開始》

沼の上から流下した利根川は南に八丁河原を衝いて左に折れ、島村の河原で烏川と合流していた。その後この流れは埋まり、新たに北方に流路ができた。それから後ここを掘り下げて利根の水を三割ここに流し、北の流路に七割を流下させた。ところが天明3年の浅間噴火で北の流れはすっかり埋まり、三割分流れていた流路が利根川の幹流となり今日におよんでいるので、この川を三分川といい、埋まった北流を七分川というのである。今の沼の上から東へ歩いてみたが、現在は柴町、戸谷塚、福島あたりに利根の水は一滴も流れていない。すなわち七分川の痕跡は見出せない。本庄から坂東大橋を渡り、すこし先の戸谷塚に子安観音堂がある。ここは浅間山の噴火の際押し流されて来た多くの水死人を葬ったところである。萩原進氏の「上州路」に「天保3年7月8日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った・・・。急に泥流に押し流された吾妻川ぞいの人々は、家もろとも利根川に押し出された高熱の泥流に加えて酷暑の夏のことであったからその死骸はほとんどふらんして下流のあちこちに打ち上げられたものが少なくなかった。土地の人々は、気の毒なこれらの無縁仏を厚く葬り、その上供養塔をたてた。流は川巾が広く浅瀬があるので、なお多くの死骸が打ち上げられた。佐波郡の五料、柴、戸谷塚もそうだ・・・。子安観音境内に一基の座り地蔵尊がある。・・・これは半けっかの座像で、台石の上の竿石の表に「供養塔」、右に「天明4年辰年11月4日」左に「施主、戸谷塚村」と刻してある。・・・」ここには今は利根川の流れはないが、昔の七分川の流路がここにあったことが証拠立てられる。

   《引用終了》

前橋より下流の話柄であるが、これによって「三分川七分川」とは、大河である利根川主流の部分的に分岐した流路に対する名称であることが証明されたと言ってよい。これぞネット時代の、目から鱗の検索の醍醐味と言うべきである。

・「天狗岩堰の用水路」大久保村と漆原村の境界付近から利根川の水を引き入れた人工の用水路の名。何故、天狗と呼称するかについては、財団法人地域活性化センターが作る「伝えたいふるさとの100話」の前橋市の項に「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社そうじゃ領主」に以下の記載がある(読みの多くと語釈の一部を省略した)。

   《引用開始》

 慶長六年(一六〇一年)関ヶ原の戦いの翌年、総社領主となった秋元長朝(あきもとながとも)は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。

 長朝は総社領(現在の前橋市総社町あたり)の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井領に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。

 そこで、白井領主の本多(ほんだ)氏の許しを得るために、高崎領主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。

 しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井領につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。

 知行高が六千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、三年間年貢を取り立てないことにして、慶長七年(一六〇二年)の春に用水工事に取りかかりました。

 工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。

 長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々にいいました。

 「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」

 人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。

 この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。

 総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠(ほこら)を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。

 長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、三年の年月をかけて慶長九年(一六〇四年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地になりました。

 秋元氏は長朝の子である泰朝(やすとも)のときに、甲州谷村(こうしゅうやむら)(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社領の農民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長九年より一七二年後の安永五年(一七七六年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力(つと)めて愛を遺(のこ)せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。

 このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕っていたかを示すものといえましょう。

 封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

   《引用終了》

・「大造の浚(さらひ)」の「さらひ」は底本のルビ。大規模な河川の浚渫作業。

■やぶちゃん現代語訳

 さる百姓の心懸け殊勝なる事

 浅間山噴火の際は、上州・武州数百箇村、砂降り、泥流押し寄せ、その被害は尋常ではなかった。

 この噴火災害復興の普請奉行として、私はこれらの地域の村々を廻村致いたのだが、厩橋領大久保村の村の衆は――現地で「三分川」及び「七分川」と呼んでいる利根川本流の二箇所の川筋の、泥流が押し切ってずたずたに致した堀割並びに天狗岩堰の用水路など――すっかり埋まってしまった場所を掘り返すため、人足を出して御座ったが、この「三分川」及び「七分川」二箇所は大規模な浚渫作業となった故、近郷の数箇村の老若男女数万人が出て、辛い川浚いの作業に従事して御座った。

 その巡検中、ふと見ると、年の頃十歳ばかりの子に笊を持たせ、土を運ばせておる。ところが、その子の傍らには、その子の乳母らしき者、また、その他、如何にも幼年の小僧としか思えぬような者をも召し連れており、その誰もが笊を持って働いておるので、

「あれらは、如何なる者どもか?」

と尋ねたところ、大久保村の富農の倅との由。

 そこでその現場の監督をして御座った橋爪某が、

「子供のこと故……自ずから望んで出ておるのか?」

と土地の古老に質してみたところ、

「へえ、子供のこと故、何とのう様変わって御座れば、好奇心からも自ずから望んでやっておりますことながら……あの子らの父親は、これが実に厳しい男にて、『この度の浅間山噴火により、上野・武蔵の国々の民百姓、甚だ困窮致し、皆、その財産たる田畑を失い、また、その源と言うべき用水路を潰され、誠に天の災い、逃るべからざる折柄、公(おおやけ)より諸国民への御恵みこれあり、莫大な労金を以って災害復興の御普請、仰せ付けられ、諸役人方も寒気を冒して、日々現場に出役なさっておられるのに、ともかくも聊かの蓄えあるによって暮らしの成り、安居して無為ならんは、勿体なくも理不尽なること! 子供心には――このような危難の折りもあった、また、その折りにも、かの公の御恵みもあった――ということを覚えておくことが出来れば、後々、年寄るまでも――有り難きこと――と、申す思いを弁えておることが、出来るというものである。』と言うて、かく、日々に、己が倅を出役させて御座いまする。」

と語ったのであった。

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