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2010/03/18

耳嚢 巻之二 人の血油藥となる事

「耳嚢 巻之二」に「人の血油藥となる事」を収載した。

 人の血油藥となる事

 ひゞあかぎれの類其外切疵などに、穢多の元より出る膏藥妙なる由。右穢多膏藥は專ら人油(じんゆ)を用るといふ物語の序、是も石黑かたりけるは、同人一族の由、尾州にての事成しが、至て強勇の兄弟あり。或夜盜賊大勢押入て家財を運ぶ樣子聞付て、兄弟枕にありし刀を引下げ立出けるに、盜賊共庭へ逃出しを追缺(おひかけ)、矢にはに兩人切倒しけるが、兄なる者けさに切倒したる胴の中へ、其足先を踏込(ふんごみ)しと也。跡にて兄語りけるは、右胴へ踏込侯節は、誠に熱湯へ足を入し如く、扨々人の血肉は熱する物也と語りしが、右兄從從來垢切にて難儀せしに、其年よりは右踏込し方の足はあかぎれ絶てなかりしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:石黒平次太談話にて連関。一種のプラシーボ効果かも知れず、はたまた、かくなる効果がないとも言い切れぬであろう。しかし、どうも本件には、その導入部分からして、明白な差別意識が働いている。その点を十分理解しながら、批判的に読み下されんことを望むものである。

・「油藥」読みは「ゆやく」か。「あぶらぐすり」でもよい。

・「人油」この話柄は前後が天明の大飢饉絡みであることから、高い確率で飢饉で人肉食が行われた事実が談話の中に上ったことから引き出されてきた話ではないかと私は推測するものである。

・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(126488)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の2字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(129399)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「石黑」石黒平次太敬之。前話注参照。

■やぶちゃん現代語訳

 人の血が油薬となる事

 ひび・あかぎれの類、その他、切り傷などに、穢多が製薬した油薬(あぶらぐすり)が絶妙な効果を持っている由。

 偶々談話の折り、この穢太膏薬なるものは専ら人肉・人血を素材とした油を用いるらしいという話に及んだ際に、やはり石黒平次太が語った話で、以下、同人一族の、知れる者の実話なる由。

 尾張国での話、恐ろしく強腕の兄弟があった。

 ある夜のこと、彼等の屋敷に盗賊一党が押し入り家財を持ち出す様子を聞き付け、兄弟、枕元の刀を引っ下げて立ち出でたところ、盗賊どもは庭に逃げ出した。

 それを追撃して矢庭に二人切り倒したが、兄なる者――兄弟して先に袈裟懸けに切り倒した盗賊の――その残骸の胴の中に、もろに足を踏ん込(ご)んだという。

 その後、兄なる者の話に、

「あの時、斬ったばかりの遺骸の胴に足を踏ん込(ご)んだ時は、誠(まっこと)、熱湯に足を入れた如く、さてもさても人の血肉とは、熱きものじゃ!」

と語ったというのだが――この兄なる者、それまで冬になればあかぎれ致いて難儀致いておったものが――その件の御座った年の冬以来、この踏ん込(ご)んだ方の足のみ、あかぎれが絶えて生じなくなったとのことである。

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