耳囊 卷之二 鄙姥冥途へ至り立歸りし事 又は 僕が俳優木之元亮が好きな理由
「耳嚢 巻之二」に「鄙姥冥途へ至り立歸りし事」を収載した。
サブ・タイトルの意味は……注を御覧あれ。これはずっと何処かで言いたかったことなのだった……。
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鄙姥冥途へ至り立歸りし事
番町小林氏の方に年久敷召造ひし老女ありけるが、以の外煩ひて急に差重り相果けるが、呼(よび)いけなどしてほとりの者立さはぎける内に蘇生しけるが、無程快氣して語りけるは、我等事まことに夢の如く、旅にても致し候心得にて廣き野へ出けるが、何地(いづち)へ可行哉も不知、人家有方へ至らんと思へども方角しれざるに、壹人の出家の通りける故呼かけぬれど答へず。いづれ右出家の跡に付行たらんには惡しき事もあらじと、頻りに跡を追ひ行しが、右出家の足早にして中々追付事叶はず、其内に跡より聲をかけ候者ありと覺へず蘇りぬと咄しける由。小林氏の親敷(したしき)牛奧(うしおく)子(し)のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:霊験譚連関。
・「鄙姥」「ひぼ」と読み、田舎出の守女の意(老人とは限らない)であるが、老女でよかろう。
・「番町」所謂、山の手で、皇居に面した西の一帯。現在も当時と同じく名称は一番町から六番町で構成されている。北に抜けると靖国神社である。旗本の内、SPに相当する将軍警護役を大番組と呼んだが、彼等の居所がここにあった。
・「小林氏」不詳。
・「呼いけ」「魂呼(たまよばい)」のこと。私の好きな分野である。まずはウィキの「魂呼ばい」から引用する。これは『日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる』もので、『現代日本では死体は火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託した』。現在でも『死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習が』残っている。歴史的に『魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の「小右記」万寿2年8月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえ』(記号の一部を変更した。「小右記」は平安時代の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(957)年~永承元(1046)年)の日記。万寿2年は西暦1025年)、『沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である』とある。
――最も手頃にこれを見ることが出来る例は黒澤明の映画「赤ひげ」(一九六五年公開)である。石見銀山を煽って危篤に陥った長坊に、療養所の女たちが井戸に向かって「ちょ~ぼう~!」と叫び続ける印象的なシーンである(ここはカメラ・ワークも素晴らしい)。【2023年5月6日追記】英文サイト「Internet archive」のこちらで、全篇を見ることが出来る。当該箇所は、2:56:00以降である。なお、気がついたが、このシークエンスの最後で、カメラが井戸の水面へとティルト・ダウンして叫ぶ女たちの姿を映し出すシーンは、明かにアンドレイ・タルコフスキイの「僕の村は戦場だった」(Иваново детство/ラテン文字転写:Ivanovo detstvo/「イヴァンの幼年時代」:一九六二年公開)の中の井戸のシークエンスをインスパイアしたものだ。
――大学時代に私が唯一畏敬した漢文の吹野先生が講義の中で、御自身の出身地である茨城での少年期の記憶を話されて、亡くなった直後に親族の者がその人の衣服を持って屋根に上り、西(と言われたかどうかは今は定かでないが、とりあえず「西」としておく)に向かってその服をばたばたと煽った事実を話されたことを思い出す。
――また、俳優のジーパンこと松田優作が膀胱癌で亡くなった日(逝去は平成元(1989)年11月6日午後6時45分であった)の夜のニュースを私は思い出す。松田優作の自宅門外が中継された映像で、記者がコメントをする背後に、「優作さ~ん!」と何度も連呼する男の声がかぶった。私は一聴、これは「太陽のほえろ!」で後輩刑事役に当たるロッキー刑事役木之元亮の声であると分かった。恐らく視聴者の中には、あの時、彼は目立ちたいの? なんどと思っている人いるんだろうなあと私は思った。彼は松田優作の、この世を離れんとする魂を呼んでいたのだった……私はしみじみ、あれ以来、俳優木之元亮が大好きになった。因みに、彼は北海道釧路市出身で、元漁師である。
・「出家」岩波版長谷川氏注に『冥界であう出家は地蔵』菩薩である旨、記載がある。
・「親敷」底本では右に『(尊經閣本「親友」)』とするが、採らない。
・「牛奥」旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。
■やぶちゃん現代語訳
老女が冥土に至りながら生還致いた事
番町の小林氏の御屋敷に長年召し使っていた老女があったが、俄かに重き病を発し、瞬く間に危篤と相成って息を引き取ってしまった。
普段の臨終と同様、大声で老女の名を呼んで魂呼ばいの儀式なんどを致いて、床の周囲の者どもが立ち騒いでおったところ、何と! 蘇生致いたのであった。
老女はほどなく快気致いて、その折りのことを思い出して、次のように語ったという。
「……我らこと……誠(まっこと)夢を見ておりますような感じで御座いましたが……旅でも致しておりまするような心地にて、ふと気がつきますと……広い、広い野原へ出でおりました……何処へ行けばよいやらも分からず……ともかくも人家のある方へ参ろうと思いましたが……一向に方角も知れませなんだ……そこへ……ひとりのお坊さまが通りかかられたので……「もし!」……と声をお掛け致いたれど……返事は御座らず……ただひたひたとお歩みになられる……されど……いずれ……お坊様なればこそ……このお坊さまの後について行くならば悪しきこともなかろうと存知まして……ただもうお坊さまの後を追いかけて行きましたが……このお坊さま……いえもう大層足が早やいお方にて……なかなか追いつくこと叶いません……ただただ御跡を慕いて参りますうち……おや? 誰ぞ……後ろから声をかけて参る者が……おる……と思うか思わざるかのうち……蘇って御座いました……」
小林氏と親しくして御座る牛奥氏が私に語った話である。