耳嚢 巻之二 臨死不死運の事
「耳嚢 巻之二」に「臨死不死運の事」を収載した。
本未明これより、多分、「最後の」山行に赴く。
僕はもう、世間の人々が「人生の山」なんどと呼ばうものを、わざわざ越えることは――多分、ない――。
*
臨死不死運の事
俳諧の宗匠をして寶暦の頃迄ありし雲桂といへる者の俗姓を尋るに、武家の次男にて放蕩の質にて、新吉原町へ通ひ、深く申しかわせし妓女のありしが、揚代につかへ誠に二度曲輪へも立越がたき程の事なりし故、右遊女へも其譯かたり、遊女も馴染今更別れんも便なしと歎きけるが、兎角相對死をなさんと覺悟を極め、右女を差殺我も死んとせしに、人音に驚きて暫く猶豫の内、表の入口の潛り戸を明る音しければ、此所にて死なず共、一先此所を立出宿にて死せば外聞もあしからずと、支度して表へ立出、程なく大門(おほもん)を出て、堀より船にのり兩國迄來りしが、さるにても數年かたらひし女を殺し、少しも跡に殘らんはいかゞと、船端に立あがり入水せんとせしを、船頭見付て大きに驚き、其儘舟のもやひにて船ばりに結付、柳橋より小石川岸岐(がんぎ)と言る河岸迄飛がごとくに漕付て、我等が舟にて入水ありては我身の難儀也、此所よりあがりて、其後は死ぬとも活るとも勝手になし給へと、言捨て舟漕出しぬ。雲桂も詮方なく、宿へ歸り死せんとせしを、一族など取鎭め、暫くは亂心也とて人も附居たりしゆへいかんとも詮方なし。日數かさなれば其身も死ぬ氣も失て、果は俳諧の宗匠となり渡世を送りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。死のうにも死ねない落語のような話しながら、私には死んだ遊女が哀れで、その上、こういう奴が俳諧の宗匠ときた日にゃ、不愉快極まりない。前の話と反対に、数少ない「耳嚢」の中でも何やらん、好きになれない話柄の一つである。
・「臨死不死運の事」「死に臨みて死せざる運の事」と読む。
・「寶暦」西暦1751年~1764年。
・「雲桂」諸注不詳。ネット検索でも掛からない。
・「俗姓」俳諧宗匠は僧形を装ったことからこのように言ったものであろう。
・「新吉原町」浅草寺裏手の千束村日本堤にあった吉原遊廓のこと。元の吉原遊郭は葺屋町(現在の中央区堀留2丁目附近)から明暦3(1657)年に浅草の北、に移転して来た。
・「大門」新吉原の唯一の入り口。これは「おおもん」で「だいもん」とは読まない。
・「船」猪牙舟(ちょきぶね)であろう。船首が特徴的に尖って全体にスマートな造りで、船速も驚くほど速かった。吉原通いは猪牙舟で、というのが通であった。
・「もやひ」舫(もや)い綱。舟を繋ぐ綱。
・「柳橋」神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一番目の橋。新吉原へ向かうには、ここから舟で漕ぎ出した。現在の中央区と台東区に跨る。
・「小石川岸岐」底本にはこの右に『(專經閣本「小石川市兵衞がん木」』(丸括弧の後ろが落ちている)とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「小石川市兵衞岸岐」とあり、美事折衷なればこれを採用。岩波版長谷川氏注によれば『小石川御門対岸(北岸)辺の河岸。文京区後楽園南方』と同定する。「岸岐」とは河岸や船着場にある乗降用の階段のこと。
■やぶちゃん現代語訳
死を決しながら遂に死ねなかった運命を持った男についての事
俳諧の宗匠として宝暦の辺りまで存命していた雲桂という者、元を尋ぬるに、武家の次男であったものが、放蕩者にて新吉原へ入れ込み、深く契りを交わした妓女があったのだが、そのうち、揚げ代に事欠く様(ざま)となって、遂に二度と廓へ立ち入ることも出来難くなってしまうという仕儀に陥った。そこで、かの妓女へもその事実を打ち明けたところ、彼女もすっかり彼を頼りにして御座ったれば、
「……今更……お別れするは、辛うありんす……」
と泣きすがる……かくなる上は最早相対死に成さんと……覚悟を決め……女を刺し殺し……己(おのれ)も死なんせしが……深夜にも関わらず廊下を慌しく走る人の気配に驚き……息を潜めておったのだが、そのうちに夜が明け、表の潜り戸を開ける音も聞こえてきたので、
「……何も、ここで死なんでもよいじゃ……あいつももうこと切れて、冷とうなった……一先ず、儂にはもう縁のない、こんな廓なんぞは後にして……そうじゃ、自分の屋敷で死のう……されば……外聞も悪うはないわ……」
と身支度をして何食わぬ顔にて表へ抜け、大門を足早に立ち出でると、目の前の堀から猪牙舟(ちょき)に飛び乗り、一気に両国まで下って行く。
……その舟中にて……
『……それにしても……』
『……それにしても……数年の間、契りを交わした可愛い女を刺し殺した上は……このように! 少しでも後に生き残っておるとは! 堪えがたきこと!……』
と思いが込み上げて参り、矢庭にぬっと船端に立ち上がり、あわや入水せんと致いたところ、これを見た船頭、大いに驚き、瞬く間に舫(もや)い綱でもって彼を縛り上げると、そのまんま、柳橋から小石川市兵衛岸岐まで飛ぶように漕ぎ着け、乱暴に繩を解くや、どんと岸岐に突き倒し、
「おいらの舟から入水された日にゃあ、とんだ迷惑でぇ! ここから上がった後は、死ぬも生きるも、勝手にしろぃ!」
と言い捨てて、さっさと舟を漕ぎ去って行った。
彼は如何ともし難く、呆(ほお)けたようなって屋敷へ立ち帰ると、今度は自室にて死なんと試みたたが――この数日、如何にも不審なる様子を見てとって御座った――一族の者どもに見咎められ、叱咤甘言で取り鎮め、暫くの間は内々に「乱心致いた」とて軟禁の上、常に傍らに人が附いて監視怠らざれば如何とも詮方なく、そうこうしているうちに日数(ひかず)も重なれば、死ぬ気のその身も――死ぬ気のやる気も――すっかりしっかり失せて御座った。
――それからは何だ神田と御座る内……
――気がつきゃ五七俳諧の……
――五万と御座る宗匠と……
――なって渡世の私(わたし)舟……