耳嚢 巻之二 人の命を救ひし物語の事
「耳嚢 巻之二」に「人の命を救ひし物語の事」を収載した。
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人の命を救ひし物語の事
予留役勤たりし頃同役なしつる石黑平次太は、尾州の産にて親は尾州の御家中なりし。彼親小右衞門とやら言し由、壯年の頃任俠をもなして豪傑にてありしが、獵漁を好みて勤の間には常に漁獵などを慰みけるが、或日川漁に出て夜深(よふけ)の川邊へ出しに、年若き男女死を約せしと見へて、今はこふと思はれければ、早速立寄て引留、何故に死せるやと尋ければ、兎角に死なねばならぬ譯あり、見ゆるし給へとかこちけれども、何分我等見付ては殺し候事成がたしと、品々教諭して、ひそかに我宿へ召連れ委しく承ければ、右男女ともに名古屋の町人の子共なるが、隣づらにてひそかに偕老のかたらひをなしけるが、娘の親なる者は近年仕出し候俄分限(にはかぶんげん)ゆへ、色々媒(なかだち)して願ひけれ共親々得心なく、娘の親も容儀の艷成(ゑんなる)にほこりて、令偶を求めて是亦心なかりければ、かく死を申合せぬるとかたりぬ。夫より彼石黑聞て、何か我に任せよ、始終よきに計らんと彼町人の許へ至り、何か物騷しく忌はしき體(てい)也、いかゞせしと尋しに、壹人の倅風與(ふと)罷出行衞不相知、隣成る娘も是又行衞しれざれば、申合缺落(かけおち)にても致したるならん。若(もし)申合相果もいたし候哉(や)と兩親の歎き大方ならず、江戸上方へも追々追手を差出し、國中をもかくごとく搜し侍ると申ければ、夫は氣の毒なる事也、命だにあらば隨分穿鑿の仕方あらん、隣の兩親をも呼て來れ、我相談いたし遣はさんといひけるにぞ、露をも賴の折から故、早速隣家へも申遣しければ、彼夫婦も取敢へず來りける故、ちと我等搜し方の工夫有り。然し何故年頃似合の兩人、夫婦には致さるぞと尋ければ、さしたる事もなけれど、かくあるべしとも思はず、等閑に打過ぬるよし答ければ、内證には譯もあるべけれど、此人兩人は死しと思ひ、我等に兩人を給りなば手段付可申(つけまうすべし)といふに、いかにも差上可申と兩家の夫婦とも歎きければ、さらば語り聞せん、かく/\の譯を見候故、品々異見して我方へ召連歸りたり。我等に給はる上は我等方にて夫婦の盃婚姻の禮をなして、爰元へ送り歸すべしと申ければ、兩夫婦は誠に我子の活返りし心地して悦び、早速婚姻を調へ目出度榮へけるが、親共存命の内は申に不及、右夫婦兩家の者は、石黑方へは親同前に立入り、今以通路しぬると語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:実際の三途の川一歩手前からの生還で連関。また先行する「孝子そのしるしを顯す事」「又」等と同じく評定所留役時代(宝暦13(1763)年~明和5(1768)年)の話でも連関。
・「留役」評定所留役。基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。
・「石黑平次太」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。父は尾張藩の臣牧七太夫舜尚の四男。文中、『小右衛門とあるのは牧七太夫の子で、石黒伴政の養子となって同家を嗣いだが、子がなかったので弟平次太を迎えて養子にした』(鈴木氏)とある。何か分かったような分からんようなフクザツなことで……。ともかくも間違えてはいけないのは、この話の主人公は石黒平次太ではなく、その親=兄である石黒小右衛門で、場所も尾張名古屋である点である。この話を根岸が聞いたのは石黒平次太敬之と根岸鎭衞の共有する時間内であるから、明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間に絞られる。
・「尾州の御家中」の「尾州」は尾張国。「御家中」は尾張藩。ウィキの「尾張藩」より引用すると、『愛知県西部にあって尾張一国と美濃・三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格にして最大の藩であり、諸大名の中でも最高の家格を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石』。
・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。
・「俄分限」急に大金持ちになること。また、その人。
・「令偶」「令」は「よい」の意、「偶」は「配偶者・連れ合い」又は「めあわせる」の意であるから、高貴な家柄との縁組を言う。
・「此人兩人」底本では右に『(尊經閣本「此子供兩人」)』とある。「子供」は死に、立派な大人の夫婦となるべき流れなればこそ、こちらを採る。
・「夜深(よふけ)」は底本のルビ。
・「風與(ふと)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
人の命を救った物語の事
私が評定所留役を勤めていた頃、同役で御座った石黒平次太は尾張の出身にて、親は尾張藩の御家中の者であったという。
彼の父――実は実の兄――小右衛門(こゑもん)とやらは、壮年の頃、任俠を以って鳴らし、豪傑を誇っておったが、殊の外、狩漁を好み、勤めの合間には常に山野水辺を駆け回って、狩りを楽しみとして御座った。
ある日のこと、川漁のために夜更けの川辺に出向いたところ、年若い男女がおり、相対死(あいたいじに)を約せしと見えて、今は最期と入水せんとすると思われたので、小右衛門、ずいと近づいて、二人をむんずと摑んで引き留め、
「何故に死なんとするカッ?!」
と雷のような声で糺した。すると、小右衛門のあまりの怒気に押されたのか、男は消え入るような声で、
「……兎も角も……死なねば成らぬ訳(わけ)が御座います……どうか……どうか何卒、お見逃し下さいませ!……」
と歎き訴えたけれども、小右衛門、
「――何分、我ら、うぬらの今わの際を見つけた以上は、見殺しに致すこと、これ成り難し!」
と一喝した。
その後、あれこれ説教致いて、ともかくも取り敢えずはと、人目を忍んで小右衛門宅へ召し連れ、そこで詳しく訳を尋ねてみたところ――
……この男女、共に名古屋の町人の子供で、隣同士の幼馴染みにて、いつしか惹かれ合(お)うて秘かに夫婦(めおと)を誓い合う仲となった御座ったのだが、この娘の親なる者はこのところ、急に金回りが良くなって売り出してきたところの、所謂、俄分限で――男の親は内心俄分限の隣りを馬鹿に致し、俄分限の隣りは構えの割にはうだつの上がらぬ隣家を馬鹿にする――ここにきて男も女もいろいろと陰に陽に知る人がりに媒酌してもらい、夫婦(めおと)にならんことを願い出たけれども、双方親共、けんもほろろ。加えて俄分限となって勢いに乗っている娘の親は、ちょいとばっかり娘が艶っぽいのに思い上がって、名家に御縁を求めようなんどという欲を出し、およそ色好む二人の心を分かる心なんどは、これ全くない……
「……さればこそ……かくの如く、死を申し合わせまして御座います……」
と語った。
小右衛門はそれを聞き終えるや、
「よし! 何もかも俺に任せろ! 悪いようには――しねえぜ!」
と言うが早いか、二人をそのまま屋敷に居させた上、自身はまず、男の方の町家を何食わぬ顔で訪ねた。
「――何だ! 何だ! 妙にもの騒ぎで五月蠅(うるせ)えじゃねえか! 何だってえんだッ?!」
と例のドラ声一発で質いたところが、吃驚した家の者、平身低頭、
「……これはどうも五月蠅きことにて失礼致しました……実はこの家(や)の一人息子が行方知れずと相成りまして……また、隣の家(や)の娘も、これまた行方知れずになって御座れば……これは申し合わせて駆け落ちでも致いたに違いない……いいや、もし相対死でも致いたのではあるまいかと……両親の嘆きも一方ならず……ともかくも江戸・上方へも追っ手の者を差し向け、国中をも何としても探し出さんものと……と申せ、両家とも実のところ、捜しあぐねておるので御座いまする……」
と申す。そこで小右衛門、徐ろに、
「それは気の毒なことじゃ! そうなれば、命さえ無事ならよしと致さば――うむ! ならこそ捜索の仕方もあろうぞ! されば、隣りの両親をも呼んで参れ! 儂が一つ、力になろう程に、まずは皆々相談の上――」
と提案した。これを伝え聞いた男の父は、藁にも縋りたい心持の折柄、早速、隣家にも伝えたところ、女の両親もとりあえず揃うた。そこで小右衛門、
「実はの、我らには探し方に我ら独特の伝手(つて)がある――されば大船に乗った気持ちでよいぞ。――しかしのう、仄聞致いた限り年頃似合いの両人、何故(なにゆえ)、夫婦(めおと)に致さざるか?」
と質したところが、両家共、
「……へえ……これと言って、さしたる理由は、これ、御座いませぬが……」
「……こんなこととは露知らず……等閑(なおざり)に致いて御座いましたれば……」
と如何にも歯切れが悪い。そこで小右衛門、すかさず、
「内々にはそれぞれに何ぞ訳も御座ろうがの――一つ、うぬらの子供両人は、最早死んだ、と思うて――我らに両人を呉れてやったという覚悟になれるのであれば――さすれば、探し出す手段に付、今すぐに申し上げること、出来ようぞ! 如何(いかが)?!」
と重厚な面持ちにてやらかした。すると、
「……如何にも!……」
「……へえ、差し上げ申しますればこそ……どうかよろしゅうに!」
とすっかり意気消沈している両家夫婦、訳も分からず気押されて、泣きの涙に合点した。
それを聞いた小右衛門、すっくと背を伸ばして、
「さらば語り聞かさん! 我ら……かくかくしかじか……という訳で、実は両人相対死致さんとせしところを見咎め、いろいろ意見致し、我が屋敷に召し連れて帰ったのじゃ!――二人は我らが賜わった以上、我ら方にて夫婦(めおと)の盃、婚姻の儀を成してそこもとらへ送り帰さんと存ずる!」
と言上げ致いたところ、両家夫婦は、真(まこと)に子供らが生き返ったかのような心地して大いに悦んだのであった。
小右衛門はそのまま屋敷に戻るなり、早速に二人の婚礼を調え、目出度く夫婦の契りを結ばせたという。
二人はその後も末長く幸せに暮らして家も栄えた。
二人の両親存命の間は申すに及ばず、その後もずっと、この夫婦及び両家の家人たちは、石黒家へは親元同様に立ち寄り、今以って親しく交わって御座る――と、実の弟石黒平次太が語ったことで御座る。