耳嚢 巻之二 淺草觀音にて鷄を盜し者の事
「耳嚢 巻之二」に「淺草觀音にて鷄を盜し者の事」を収載した。
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淺草觀音にて鷄を盜し者の事
淺草觀音堂前には、所々より納鷄(をさめどり)鳩(はと)など移しく、參詣の貴賤米大豆等を調へ蒔て右鷄にあたへけるなり。天明五年師走の事なりしに、大部屋中間の類ひ成しや、脇差をさし看板一つ着したる者、右鷄を二ツ捕へしめ殺して持歸らんとせしを、境内の楊枝みせ其外の若きもの共大勢集りて、憎き者の仕業也とて、衣類下帶迄を剥取棒しばりといふものにして、右衣類を背に結付脇差も同じやうにして、殺せし鷄を棒の左右に付て、大勢集りてはやしたて花川戸の方迄送りしよし。いかゞなりしやと、予が許へ來る人の昨日見しとて語りぬ。佛場の事なれば結縁(けちえん)法施(ほふせ)等はなさずとも、納鷄を〆殺しなどせし志、極重惡心といふべけれ。萬人に恥辱をさらしけるは則佛罰ともいふべけれ。然し右境内の者ども、かゝる狼籍自刑を行ふ事いかなる心ぞや。若(もし)右の者舌を喰ひ身を水中に沈めなば、公の御吟味にもなりたらんは、かく計らひし者も罪なしともいわれじ。却て佛慮にも叶ふ間數不慈(ふじ)の取計ひと爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:神仏にかこつけた「霊験」なるものに盲目な庶民への批判から、仏罰にかこつけた「自刑(私刑・リンチ)」に及ぶ残忍なる庶民への批判で連関。後に名町奉行となる根岸の熱い思いが伝わってくる。
・「淺草觀音堂」金龍山浅草寺。本尊は聖観音菩薩で当時は天台宗(第二次世界大戦後、聖観音宗の総本山に改宗)。
・「納鷄鳩」寄進に境内に放つ訳であるが、これは所謂、江戸時代に流行った放ち泥鰌や放ち鰻・放ち鳥の習慣と同じで、殺生戒の御利益を狙ったもので、更に派生的にそうした鳥に餌を買って与えることが施しと見なされ、更なる利益(りやく)を呼ぶというわけである。私が小さな頃は、よく夜店で雄のヒヨコが売られており、大きくなって鳴き声殊の外五月蠅く、体よく神社に持っていって捨てたという話をよく聴いた。私の義父なんども、妻が小さな時に可愛がっていた雄鶏の「ピピちゃん」を納め鶏と称して熱田神宮に捨てちゃったの、と未だに恨み節を言っておる。嘗て訪れたタイの寺院では、蝶や亀、蛇、雀を始めとする多種の鳥の類等、多様な「放ちもの」を見たが、鳥の類は放った後、必ず売主の元に戻って来るので最も安上がりです、と現地ガイドが言っていたのも思い出す。
・「天明五年」西暦1785年。
・「大部屋中間」「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした格下の質の悪い中間の謂いであろう。
・「看板」武家で、主家の紋所を染め出して、中間や出入りの者に与えた衣服。
・「楊枝みせ」楊枝店は浅草寺境内にあった床店(とこみせ:商品販売のみで人の住まない店のこと。)で、楊枝やお歯黒の材料などを売った店のことを言う。女を置いて、密かに売春の場ともなった。「楊枝屋」とも。
・「棒しばり」民間で行われた私刑の一種。公刑の晒(さらし)を真似たもので、ここに示されたように裸にして、背に十文字に棒を縛り付け、その棒の先に制裁を受けた内容を示す証拠の品をぶら下げ、市中を引き回すもの。花川戸ならば、それほどの距離ではない。
・「花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。確かに、それほどの距離ではない。しかし、ここは隅田川岸である。簀巻き同様、この中間、隅田川に突き入れられた可能性、私は極めて高いと思うのである。
・「結縁」仏に帰依して後日の悟達のために因縁を結ぶ祈願祈誓や参拝。
・「法施」仏に向かって経を読んだり、法文を唱えたりすること。「ほっせ」とも読む。
・「自刑」私刑。
■やぶちゃん現代語訳
浅草観音にて鶏を盗んだ男の事
浅草観音堂前にはあちこちからの納め鶏・納め鳩が夥しく棲みついて御座って、参詣の者は、貴賤を問わず、米や大豆を買うて蒔き、これらに施すのが習わしとなって御座る。
天明五年師走のことであったが、大部屋中間の類いであろうか、脇差一本差し、看板一枚を着た如何にもやくざな男が、境内にいた鶏二羽をとっ捕まえて絞め殺し、持ち帰らんとした。
それを見咎めた境内の楊枝店その他の若い衆が大勢集まって、
「ふてえ野郎だ!」
「何たる仕業!!」
と、捕えられた男は衣類・下帯まですっかり剥ぎ取られて、あそこも丸出し、素っ裸の上に――これを巷間に棒縛りという――その引き剥がした衣類を丸めて脇差と一緒に結わい付けて、左右の腕を張り渡した横棒の先に、彼が殺した鶏の死骸をぶら下げたままに、大勢でどやしつけ、囃し立てながら、花川戸辺りまで引き回して行ったとの由。
「……その後、どうなりましたやら……」
と、拙宅を訪れた人が、昨日見た話、と前置きの上、私に語った。
そもそも仏を祭った神聖なる場のことなれば、結縁・法施(ほっせ)は致さずとも、納め鶏を絞め殺すなんどという所行、これ、極めて重き悪心に満ちた、悪(わる)と言うにふさわしい者ではあろう。巷の万人の民に、その恥辱を晒すこととなったは、則ち、仏罰ともいうべきものではある。
しかし――この境内の者ども、かかる乱暴狼藉の私刑を行うというは、如何なる心積りにてあるか!
もし、この男、かかる私刑の弾みに舌を嚙んで死ぬる、或いは、冗談半分、川に身を投じられて、そのまま溺れ死ぬるとなれば、これは逆に公(おおやけ)の御吟味ともなることなれば――そうなったとしたら、かくこの男を罰するを計らった者にも罪がないとは、到底、言えぬ。却って仏の広大無辺大慈大悲の深奥深慮にも叶うとはとても思われぬ惨忍至極の無慈悲なる取り計らい、とここに記しおくものである。
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