初MRI診断記念として「耳囊 卷之二」に「聊の心がけにて立身をなせし事」・「手段にて權家へ取入りし事」・「狂歌にて咎をまぬがれし事」・「火災に感通占ひの事」の以上四篇を一挙に収載した。
*
聊の心がけにて立身をなせし事
近き頃御代官を勤し鵜飼左十郞は、元御徒組を勤て支配勘定に出て、其後猶出世して御代官に成ぬ。左十郞、御徒の時、不時の用心とや思ひけん、藁草履を一足づゝ封じて懷中せしが、或日御成にて御本坊に詰し折から、去大名衆家來、間違ひ、草履に差支、豫參の間に合間敷(まじき)と色々心くるしく思ひ給ひて、はだしにて出んやとありければ、左十郎儀、懷中より用心の草履を出し、是は拙者用心の爲貯へ持し也。急の御間(おま)に合せ可申と渡しけるに、辱(かたじけなき)由厚く禮の上、名前を聞て立別れ給ふが、彼仁(じん)程なく高運にして若年寄被仰付、引續出入して他事なく懇意ありしに、殊の外世話有て、支配勘定へ願ひの通御役出いたし、其後も追々右大名衆世話ありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードとして直連関。
・「近き頃」「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春辺りを基準にすると、鵜飼左十郎(後注参照)の没年の安永4(1775)年は7年前。
・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」 で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。
・「鵜飼左十郞」鵜飼実道(さねみち 宝永7(1710)年~安永4(1775)年)。御徒・支配勘定・御勘定・評定所留役から寛延3(1750)年に代官。石和代官から甲府代官(宝暦7(1757)年~明和元(1764)年)後、関東代官になっている。
・「御徒組」「徒士組」とも書く。将軍外出の際に徒歩で先駆を務め、沿道警備等に従事した。
・「支配勘定」勘定奉行支配で、幕府財政・領地調査に従事した。
・「御本坊」寺名なしで将軍家の御成りということであれば、これは徳川家菩提寺である寛永寺若しくは増上寺への参詣となる。「本坊」とは寺院で住職の住む僧坊を言う。
・「予參」将軍家が寛永寺若しくは増上寺への参詣する際、先に寺へ入って警備や雑務準備に従事することを言う。
・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した。
■やぶちゃん現代語訳
ちょっとした心掛けによって立身出世致いた事
最近まで御代官を勤めて御座った鵜飼左十郎実道殿は、元御徒組を勤め、次に支配勘定に昇進、その後、猶も出世して御代官となった方である。
左十郎殿が御徒士で御座った頃のことである。
彼は普段から――危急の折りの用心と考えて御座ったか――新品の藁草履一足を封じて懐中していた。
ある日、将軍家の御成とて、寺の本坊に詰めて御座った。
さる大名衆が、家来の手違いから、あろうことか、履いて出る草履が見当たらない。
『予参の儀は既に始まる。とてもその出仕に間に合いそうも、これ、ない!』
と、あれこれ焦って思案なさって御座ったれど、いっかな名案も草履も、これ、見つからずにあられた。そこで遂に、
「万事休す――裸足にて参上致す!――」
との御言葉であった。
その時、偶々近くに控えて御座った御徒士左十郎、これを耳にし、懐中より例の用心のための草履を引き出し、
「これは、拙者、用心のために日頃より持ち控えておるものにて御座る。火急の折りなれば、どうぞ間に合わせとしてお使い下され。」
と大名衆の御家来の者に捧げ渡した。
大名衆は例になく言下に、
「忝(かたじけな)い!」
と厚く礼を述べられた上、左十郎の名を聞いて、予参の儀にお向かい申し上げなさるために、左十郎とはその場にてお別れになられた。
ところが後日、この御仁、程なく若年寄を仰せ付けられ、左十郎は予参の折りの縁から引き続いてこの大名衆の屋敷に親しく出入り致すこととなり、懇意にもなった。この大名衆、殊の外、左十郎への助力これあり、本人の希望通り、支配勘定に進み、その後も度々この大名衆の世話が御座ったとのことである。
* * *
手段にて權家へ取入りし事
さる人にてありしが、何とぞ出世もなさんと色々考へぬれど、元より貧しきうへに心ざす手(た)よりつてもなければ、明暮空敷心を勞しけるが、風與(ふと)思ひ付て、其最寄駒込邊と言る所を當時ときめき給ふ權門の菩提所有しが、思ひ立て日々右本堂へ參詣爲して念頓に祈りけるに、雨雪はさら也、大風其外いかやうの事ありても朝々刻限を極め參詣なしけるが、庭を日々掃候中間其外もいつとなく知る人に成て、けふは早々詣で給ふ、或は寒し暑しと申合けるが、或時和尙聞て、重て來り給はゞこなたへ通し候樣申付けるゆへ、僕其由を申て方丈へ案内なしけるに、茶など振舞て、さて/\御身は日每に本堂へ來り給ふ、いか成譯哉と尋けるが、我等は願ひ有て何卒人がましくも御奉公いたしたけれど、貧しければ其勤もならず、或夜不思議に當本尊の靈夢を蒙りし故、難有日每に參詣いたし候と誠しやかに語りければ、住僧もさる者にて打笑ひ、當時の本尊靈夢はさる事ながら、利益ありともいわれず。某利益を取持申さん、かく/\なし給へとて、その且家(だんか)なる權家へ頻に願ひ遣し出入などさせけるが、近きに其願ひも追々成就せしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソード第三弾。
・「權家」「けんか」と読む。権門と同義。位の高い権力を持った家柄。諸注はこの寺を同定しないが、私は少し探ってみた。まず「當時ときめき給ふ」という表現から、「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春よりも前であると考えられ、その観点から「權家」なる存在と駒込の寺院で調べてみると、ズバリの寺が見つかった。現存する駒込の勝林寺である(現在は豊島区駒込にあるが当時は同じ駒込でも駒込蓬来町にあった)。「權家」はかの田沼意次(享保4(1719)年~天明8(1788)年)である。勝林寺は臨済宗妙心寺派、江戸開府の頃の開山で、当初は別な場所にあったらしいが、明暦3(1657)年の大火で焼失、駒込蓬来町へ移転している。安永9(1780)年、勝林寺中興の開基と称される老中田沼意次が下屋敷260坪を寺に寄進、以降、勝林寺は田沼家の強い庇護を受けるようになったという。本話柄にぴったりではあるまいか? 識者の御意見を伺いたい。
・「手(た)より」は底本のルビ。
・「風與(ふと)」は底本のルビ。
・「所を」底本では右に『(尊經閣本「所に」)』と注す。こちらを採る。
・「いわれず」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
ちょっとした手段を用いて権門に取り入った事
さる男の話。
この男、
――何としても出世したいものよ――
と色々と考えては御座ったが、元より貧しい上に、頼りになりそうな手蔓もなし……ただただ日々空しく心を悩ませているばかりで御座った。
ある時、ふと思いついた手段とは……。
彼の住まいの最寄、駒込という所に、当時、権勢を得ておられた、さる権門家の菩提所が御座ったが、男、
「思い立ったが吉日!」
と、毎日毎日、この寺の本堂に参詣致いては、懇ろに御本尊に祈りを捧げ出した。雨雪の日は言うまでもなく、台風が来ようが槍が降ろうが、その他何があろうとも、毎朝、刻限を決め、参詣し続けた。
その内、朝毎に庭を掃く中間やら、その他の寺の者どもとも、何時とはなしに顔見知りになり、
「今日は、また何時もよりお早いお参りで御座いますな。」
とか、
「いや、お寒う御座る。」
だの、
「何とまあ、お暑いことで。」
なんどと、挨拶も交わし合うような仲になる。――
ある時、この奇特なる参詣人のことを和尚が聞き及び、
「今度、来られたならば、必ず私のところにお通し致すように。」
と申し付けておいた。
翌日の朝、何時もの通り、参詣に訪れた男に、寺の下僕が、和尚の言を伝え、方丈へと案内致いた。和尚は、茶なんどを振る舞いつつ、
「さてさて――御身は日々本堂へ参らるる。如何なる訳に御座る?」
と訊ねた。男は、
「……我らの如き凡夫にも宿願が御座って……何とかして人並みに御奉公を致いたいと思うて御座るが……貧しければ、それも叶いませぬ。……されど、ある夜のこと、不思議にも、こちら様の御本尊様顕現の霊夢を頂戴致しました故……誠(まっこと)これ、あり難き思し召しならんと……日毎に参詣致いておりまする……」
という、デッチ上げた話を、実(まこと)しやかに語った。
如何にも嘘臭い話し乍ら、この住僧も然る者にて、
「かんら、からから、」
と、うち笑い、
「はっはっは! いや、当寺の御本尊顕現の霊夢、然ること乍ら、そのような次第にては、いっかな御利益(ごりやく)ありとも言われませぬのぅ。……さても一つ、某(それがし)が、その『御利益』とやらを取り持ち申そうぞ。……まずは、そうさな、かくかくしかじかのことをなされるがよい……」
と約した。――
その後、住僧は、この男を、檀家である、かの権門家に頻りに願い出て、出入りさせるように仕向けたれば、近頃、その男の宿願も、追々、成就致いて御座る、とのことである。
* * *
狂歌にて咎をまぬがれし事
天明の比、世に狂歌、以の外に、はやりて、人々、翫(もてあそ)びしが、其比の事にはあらず、明和安永の頃也しが、品川高輪の邊に何とやら名は忘れたり、狂歌俳諧などして世を渡る貧僧ありしが、或時、品川宿のしれる旅籠屋へ見𢌞りに、捉飼(とりかひ)御用にて、御鷹匠(たかじやう)大勢右の宿に有。御鷹匠はさもなけれど、其外に附て輕きものは、御鷹の御威光に任せ、彼是、やかましきもの也。彼、はたこやの門にも架(ほこ)を置て、御鷹を休め居(をり)しに、彼僧、門を出る迚(とて)右の架に障りし故、御鷹、大に驚きければ、彼僧を御鷹匠の者、召捕、いかなれば御鷹を驚かせし、とて、以の外、憤りける故、右僧は勿論、旅籠屋の家内も出て、品々、詫言などしけるに、御鷹も別條なければ、御鷹匠も少しは憤りをやめて、何者なるやと尋けるに、狂歌よみの由答へければ、左あらば狂歌せよとていひしに、畏(かしこま)り候とて一首を詠じけるにぞ、御鷹匠も稱歎して赦しけると也。
富士二鷹 三 茄子
一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし
[やぶちゃん字注:「富士二鷹 三 茄子」は底本ではややポイント落ちで狂歌の右に記されている。これは鈴木氏の注ではなく、底本本文に示されているものと思われる。]
□やぶちゃん注
○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードから、ちょっとした諧謔が効を奏したエピソードで連関。
・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。因みに私は狂歌というと、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた大田蜀山人の、
死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり
を思い出すのである(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義ノートだけは、今も、大事に持っているのである)。
・「天明」西暦1781年から1789年。
・「明和安永」西暦1764年から1781年。天明頃より20年前頃。
・「高輪」現在の東京都港区の地名で、現在の地下鉄泉岳寺辺りから品川駅西側一帯を言う。江戸市中と郊外との遷移地域である。
・「見𢌞りに」底本には「り」と「に」の間の右に『(しカ)』の注を附す。それで訳す。この「見廻り」とは、単に訪れるという意味ではあるまい。所謂、俳諧・狂歌で点を取るために、生業(なりわい)として巡回しているのであろう。
・「捉飼御用」将軍家が鷹狩に用いる鷹を飼育・調教する仕事。ウィキの「鷹狩」から近世のパートを一部引用する。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている』。
・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。
・「先の注で示した有象無象の最下位の鷹匠同心50名や鷹匠ら個人の従僕を言うのであろう。
・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。
・「一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし」「麁相」は「そさう(そそう)」と読む。軽率な過ちや手抜かりのこと。勿論、夢に見ると縁起がよいとされる目出度いもの、「一富士二鷹三茄子」を夢にも引っ掛けながら洒落て読み込んだ謝罪と言祝ぎの狂歌である。この諺は江戸初期からあったらしい。個人のHP「野菜の語り部・チューさんの野菜ワールド」の「一富士二鷹三茄子」にその由来説につき、詳細な考察が示されているので、以下に引用する。まず3説を提示している。
《引用開始》
1.駿河国(するがのくに・今の静岡県中央部)の名物を順にあげた。
2.徳川家康が、自分の住んだ駿河国の高いものを順にあげた。鷹は鳥ではなく、富士山の近くにある愛鷹山(あしたかやま)のこと、茄子は初物(はつもの・その年の最初の収穫品)の値段の高さをいう。
3.富士山は高くて大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起が良い。
このうちでは、1の駿河国の名物説がもっとも有力で、「三茄子」のあと「四扇(おうぎ)」「五煙草(たばこ)」と続くといいます。けれどチューさんは2の説が本当ではないかと思います。その根拠は、
A.ナスは奈良時代かその前に渡って来て、早くから東北地方の北部を除く日本国内に広まり、江戸時代には全国各地に土着して広く栽培されていた。ナスは外皮が傷つきやすくて遠方へは運びにくく日持ちも悪いので、みやげ物や名物にはなりにくい。古くから駿河国の三保で早出し栽培が行なわれていたが、1説の駿河国だけの名物というわけではない。
B.ナスが「成す」との語呂合わせで縁起が良いのなら、昔からの書物に何回も登場するはず。ところが古典文学にナスはほとんど採り上げられていない。だから3説もこじつけと思う。
C.ナスは野菜のうちでもっとも高温に適した種類。その反面、寒さには大変弱い。だから、ハウスや温室のなかった江戸時代には油紙を張った障子で囲って促成(そくせい)栽培をしていたので、ナスの初物は非常に値段が高かった。それで2説がもっともだと思う。ただし、鷹は愛鷹山でも鳥の鷹でもどちらでもよいし、徳川家康が言ったかどうかも怪しい。
こんな理由で2説の「ナスの初物価格」が本当と思いますが、あなたはどう思われますか。
このほか異説として、一富士は曾我(そが)兄弟、二鷹は赤穂浪士、三茄子は荒木又右衛門の伊賀上野の仇討と、いわゆる日本三大仇討のことだという人もあります。でも、伊賀上野はナスの名産地とはいえませんし、このことわざが江戸時代のかなり早い時期から言われていたことから、仇討由来説は当たらないでしょう。日本三大仇討については別に
「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に上野の花ぞ咲かせる」
という有名なフレーズがあります。この短歌調の文句は江戸時代の講釈師が言い出したものですが、三大仇討を初夢縁起のナスに結び付けようとして
「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀の仇討」
ともいいます。これを見ても仇討由来説はあとでこじつけた説だと思います。
《引用終了》
この歌は、即ち、
一節に鷹匠さんに爲す麁相哀はれ此の事夢になれかし
を表の意とし、そこに
一富士二鷹三に茄子→此の事夢になれかし
を掛けてあるという訳である。特に訳す必然性を感じないが、敢えてやるなら、
*
目出度やなあ――一富士二鷹三茄子(なすび)……ふとしたことからこの坊主……お上の大事な鷹匠さんに……お掛けしましたこの沮喪(そそう)……ああぁ! この事、出来るなら……夢であってちょーだいな!
*
といった感じだろうか。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌にてお咎めを免れた事
天明の頃、狂歌がとんでもない勢いで流行り誰もが狂歌を捻った時期があったが、その頃の話ではない。もっと前、明和安永の頃の話である。
品川は高輪辺に住んでいた――何と言ったか、名は忘れた――狂歌・俳諧なんどを詠んで辛くも世を渡っておった乞食坊主がおった。
ある時、近くの品川宿は馴染みの旅籠屋に廻ったところが、鳥飼御用の御為(おんため)、御鷹匠(たかじょう)が大勢、この宿に泊って御座った。――今も昔も、上役の御鷹匠はそれほどでもないが、その下に付き従う下級の者どもと言ったら、上様御鷹という御威光を笠に着て、なんだかんだと無理難題を吹っかけるような厄介な連中で御座る。――
その旅籠屋の門前にも架(ほこ)を立てて御鷹を休めて御座ったのだが、この坊主、旅籠屋から出たところで、迂闊にもこの架に触れてしまい、御鷹が驚いて鳴き声を挙げながら、激しく羽ばたいて暴れ回ったため、坊主は忽ち、御鷹匠の下々の者にふん捕まってしもうた。
「いっかな訳あって御鷹を驚かせたかッ!!」
と以ての外に憤って御座れば、この僧は勿論のこと、旅籠屋の家内(いえうち)の者らも出て来て、いろいろ詫び言なんど致したところ、御鷹も別条なかったので、少し御鷹連中の憤りも緩んで、
「お前は何者(なにもん)じゃい?」
と訊いたから、
「へへっ。狂歌詠みに御座いまする。」
と答えたところ、
「されば――狂歌せよ。」
とのこと。
「畏まって御座いまする。」
とて、一首、詠じたところ、その歌に御鷹匠連も、やんやの称嘆、目出度く咎も赦されたという。その歌――
一節に鷹匠さんに為す麁相哀はれ此の事夢になれかし
* * *
火災に感通占ひの事
天明六年の春江戶表、火事、多にて、白山御殿跡より出火にて昌平橋外神田邊迄燒し火事は、予が屋敷も危く、咫尺にて炎燒なしける故、家内をも立退かせけるに、親しき人々、大勢、來りて飛火を防などし給はりしが、其内壹人申けるは、決(けつし)て此屋敷迄燒候儀無之、安心いたし候樣にとの事故、其案じを笑ひければ、さればとよ、巫女の言とて侮り給ふぺからず、古き人に聞てためしみし事あり、明和九辰年の火事は江戶過半に燒し事なるに、其折から老人の申けるは、火災の折から手水鉢(てうづばち)或ひは水溜やうの水を手に結び見て、湯のやうにぬるみたらんは其家火災を通れず、水の本性ならば免れん事疑ひなしといひし故、二三ケ所ためし見しに、聊違不申と、かたりぬ。今日も爰元の水をためし氣遣ひなき事を知れりといひし。實(げに)も天地自然の義、自ら水氣に火氣を含むまじき共いわれねば、爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:たかが狂歌で不思議に窮地を救われた話から、たかが水占いなれど不思議に延焼から救われた話へ。
・「感通」は「感徹」と同義で、本来は自分(或いは相手)の心が相手(或いは自分)に十分に届くことを言う語であるが、ここでは寧ろ「感知」(直感的に感じること)又は「感得」(感じ悟ること)の意で用いている。
・「天明六年」西暦1786年。「武江年表」によれば(有田久文氏のHP「写楽の研究」のこちらのページより孫引き。一部の空欄を詰め、改行を施した)
正月二十二日昼九時、湯島天神牡丹長屋より出火、西北風烈しく、二十数町を焼失、翌二十三日暁鎮まる。この時葺屋町、「両座芝居」焼く。
同二十三日午刻、風烈しく西久保大養寺門前より出火、赤羽、飯倉町迄焼失、それより飛火して田町海岸まで焼け、甲中刻鎮まる。巾三町、長さ十五町という。
同二十四日夜、神奈川宿三百余軒焼く。
同二十七日午刻、本所四ッ目より出火、釜屋堀まで焼ける。その夜平川御門外失火あり。
二月六日午刻過ぎ、小石川蓮華寺前、指谷町一丁目より出火、乾風強く、丸山辺御弓町、本郷元町、御茶水春日町類焼、夜五時頃鎮まる。
二月二十三日、相州箱根山鳴動し、二十 四日の頃、地震甚だし。
五月の頃より、雨繁く隔日の様なりせば、七月十二日より、大雨降り続きて山水あふれ洪水となる。
十三、十四日各地洪水にて、江戸川水勢すざましく、十七、十八日頃よりやや 減じたり。山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。家屋、橋など多く流され往来止まる。
夏より冬にいたり、諸国飢饉、物価いよいよ高く、諸人困窮す。
以上、春だけで5件の大火が示されている。この内、本話の火事は2月6日正午過ぎに小石川蓮華寺前指谷町一丁目より出火した火事である。
・「白山御殿跡」前出「本妙寺火防札の事」の鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」については前記注を参照されたい)。
・「昌平橋」神田川に架かる橋の一つ。文京区。現在、橋の北が千代田区外神田一丁目、南が千代田区神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目で秋葉原電気街の南東端に架かる。上流に聖橋、下流に万世橋。『この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられており、橋の南西に一口稲荷社(現在の太田姫稲荷神社)があったことから一口橋や芋洗橋、また元禄初期の江戸図には相生橋の表記も見られる。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで昌平橋と改名した』(引用はウィキの「昌平橋」から)。
・「外神田」湯島聖堂の東、神田川北岸の地名。現在の千代田区で北に張り出した地域に名が残っているが、一般的には現在の秋葉原一帯がほぼ外神田に相当した。江戸府内より見て神田川(外堀)の外側をであることから、この名となった。
・「咫尺」元来は中国の周時代の長さの単位で「咫」は8寸(約24㎝)、「尺」は10寸(約30㎝)で、非常に短い距離であることから、距離が非常に近いことを言う語となった(別に「貴人のすぐ前に出て拝謁すること」という意味もある)。
・「明和九辰年の火事」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。
・「いわれねば」の「いわ」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
火災時の延焼に関わっての触感によって感得出来る占いの事
天明六年の春、江戸表にては火事多く、二月六日には白山御殿跡から出火、昌平橋外神田辺りまで焼いた火事は、私の屋敷まで危うくなり、直ぐ間近にまで炎が迫った故、家族らをも避難させたのであったが、親しい人々が大勢集まって、私の館への飛び火を防ぐなどして呉れた。
その際、手伝いに来て呉れた近所の巫女を生業(なりわい)と致す女が申すに、
「……決してこの屋敷まで火が回ること、これ、御座いませぬ。安心致いてよろしゅう御座います。……」
とのこと故、我らを案じてのお愛想かと私が笑ったところ、その女、
「……されば、巫女の戯言(たわごと)と侮られてはなりませぬぞえ。……かねてより古老に聴いて御座って、以前にも試してみましたこと、これ御座いまする。……過ぐる明和九年辰年の、かの明和の大火……あれは江戸の過半を焼き尽くした大火で御座いましたが……その折り、ある老人が申したことには……
『……火災の折りには、手水鉢或いは水溜のようなものの水を手で掬ってみて、それがぬるま湯のように温まって御座れば――その家、延焼遁るること、これ、出来ぬ。しかし、これが普通の水の温度のままであったならば――延焼を免れること、これ、疑いなしという話を聴いた故、儂もこの度、二、三箇所で、このこと、試してみたが、聊かの違いも、これ、御座なく、正にその言葉通りじゃった。……』
と申しました。……そこで妾(わらわ)も、こちらさまの水を試してみましたが、これ、延焼の気遣い、全く御座いませぬ。」
ときっぱりと言うた。
実際、私の家は確かに――延焼から免れたのであった。
これ、正しく天地自然の理(ことわり)なれば――自ずから水気が火気を含むなんてことはあるまいなんどとは言い切れぬこと故――ここに参考に供して記しおくこととする。