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2010/04/30

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十一回

Kokoro11_9   先生の遺書

   (十一)

 其時の私は既に大學生であつた。始めて先生の宅へ來た頃から見るとずつと成人した氣でゐた。奧さんとも大分懇意になつた後(のち)であつた。私は奧さんに對して何の窮屈も感じなかつた。差向ひで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸で忘れて仕舞つた。そのうちでたつた一つ私の耳に留まつたものがある。然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある。

 先生は大學出身であつた。是は始めから私に知れてゐた。然し先生の何もしないで遊んでゐるといふ事は、東京へ歸つて少し經つてから始めて分つた。私は其時何うして遊んでゐられるのかと思つた。

 先生は丸で世間に名前を知られてゐない人であつた。だから先生の學問や思想に就ては、先生と密接の關係を有つてゐる私より外に敬意を拂ふものゝあるべき筈がなかつた。それを私は常に惜い事だと云つた。先生は又「私のやうなものが世の中へ出て、口を利いては濟まない」と答へるぎりで、取合はなかつた。私には其答が謙遜過ぎて却つて世間を冷評する樣にも聞こえた。實際先生は時々昔の同級生で今著名になつてゐる誰彼(たれかれ)を捉へて、ひどく無遠慮な批評を加へる事があつた。それで私は露骨に其矛盾を擧げて云々して見た。私の精神は反抗の意味といふよりも、世間が先生を知らないで平氣でゐるのが殘念だつたからである。其時先生は沈んだ調子で、「何うしても私は世間に向つて働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と云つた。先生の顏には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかつたけれども、何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。

 私が奧さんと話してゐる間に、問題が自然先生の事から其處へ落ちて來た。

 「先生は何故あゝやつて、宅で考へたり勉強したりなさる丈で、世の中へ出て仕事をなさらないんでせう」

 「あの人は駄目ですよ。さういふ事が嫌ひなんですから」

 「つまり下らない事だと悟つてゐらつしやるんでせうか」

 「悟るの悟らないのつて、―そりや女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味ぢやないでせう。矢つ張(ぱ)り何か遣りたいのでせう。それでゐて出來ないんです。だから氣の毒ですわ」

 「然し先生は健康からいつて、別に何處も惡い所はない樣ぢやありませんか」

 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

 「それで何故活動が出來ないんでせう」

 「それが解らないのよ、あなた。それが解る位なら私だつて、こんなに心配しやしません。わからないから氣の毒でたまらないんです」

 奧さんの語氣には非常に同情があつた。それでも口元丈には微笑が見えた。外側から云へば、私の方が寧ろ眞面目だつた。私は六づかしい顏をして默つてゐた。すると奧さんが急に思ひ出した樣に又口を開いた。

 「若い時はあんな人ぢやなかつたんですよ。若い時は丸で違つてゐました。それが全く變つて仕舞つたんです」

 「若い時つて何時頃ですか」と私が聞いた。

 「書生時代よ」

 「書生時代から先生を知つてゐらつしやつたんですか」

 奧さんは急に薄赤い顏をした。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:先生は高等遊民であることが明らかにされる。

「其時の私は既に大學生であつた」今までの「摑み」で示したように、「私」は高等學校2年の時、先生に出会った。そうして、明治421909)年20歳の年、7月に第一高等學校卒業。9月に東京帝國大學に入学したと推定するものである。

♡「先生の何もしないで遊んでゐるといふ事」相応な財産を銀行に預け、その金利で生活しているということ(通常なら高い確率で家作や地代も含まれるものだが、先生は土地は持っておらず――先生の宅の土地は借地であることは(三十五)で語られる――貸家を経営しているとも思われない)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でここに関連して「こゝろ」「上」の二十七の「先生が何うして遊んでゐられるか」の注に、明治441911)年8月の雑誌『新公論』に掲載された手島四郎「東京市民を職業別に見た結果」という記事に、『「東京市内で一万人以上を有せる職業」は農業や官公吏員、軍人軍属を始めとして四四あり、そのなかで五万人以上を有する職業は、大工職(五万二四三人)、官公吏員(六万九九七二人)、日雇業(五万七八七六人)、そして財産及恩給等に依る者(五万九四九九人)の四種しかなかった。これとは別に、土地家屋の収益に依る者も三万五四六〇人もおり、一見何もしないで暮らしていた層は意外に多かったことがこれでわかる』とある。単純にこの二つを合わせるのは実数にはなるまいが、少なくとも高等遊民に見える人の数は有に5~6万人以上はいたことになる。因みに大正元(1912)年で東京都の人口は約200万人であるから、意外なことに、こうした「人種」は決して稀であったとは言えない、のである。

 

「然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある」これ以下の部分、私は漱石の文章があまりうまくいっていない印象を受けるところである。「一寸斷つて置きたい事」は、次の二段落分総てであるのだが、まず、これがやや焦って先生のプロフィルを言うだけ言ってしまおうといった感じに読めるのである。情報が解説的で詰め込み過ぎである。更に、その末尾は「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。」で断ち切れているのであるが、ここは『「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた」という経験がかつてあつたのである。』ぐらいにならないと、この冒頭に呼応しないし、奥さんとの会話へのジョイントとしてもサイズが合わないように思われるのである。

 

「大學出身」東京帝国大学卒であることを示す。明治の後期には京都・東北・九州の各帝国大学が創立されていたが、単に「大学出身」と言えば、東京帝国大学卒の謂いとして通用していた。]

 

 

2010/04/29

「心」連載の最終日に気付くべし!

東京朝日新聞 大正3(1914)年8月11日(火)

大坂朝日新聞 大正3(1914)年8月17日(月)

――僕らは先生の遺書を読み終わったその日、 『あの』鎌倉海岸にいるのだ!―― 「私」が先生に逢った『その日』に――再び、僕らは――『戻る』ようになっているのだ!――

耳嚢 巻之二 猥に人命を斷し業報の事

「耳嚢 巻之二」に「猥に人命を斷し業報の事」を収載した。

 猥に人命を斷し業報の事

 寶暦末に、金森(かなもり)兵部少輔(せういう)家子細ありて斷滅しぬ。その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られけるが、右の者死に臨て囚獄石出帶刀(いしでたてはき)へ咄しける由。我等此度死刑に及ぶ事主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし。然れ共我等の死刑をもまぬがれ間數者也。一ト年在所へ罷りしに、道中泊りを同ふせし山伏一刀を見せけるが、正宗の由語りしが、いかにも見事にて甚ほしく思ひけるにぞ、金子の高を申て何とぞ我らに給はるべしとひたすら望しが、此刀は代々持傳へければ千金にも放さじと、いかに所望すれども承知せざる故思ひ留りしが、いかにしても懇望なる故、人放れの松原にてあへなく山伏を欺(あざむき)殺し右刀を奪取りしが、此恨此罪計にても死刑成べき者也といひしと、帶刀語りけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:やや情状酌量の余地のある無礼討ちの殺人から、救い難い強殺で連関。岩波版長谷川氏注には、本話柄は井原西鶴の「本朝二十不孝」二の二を初めとして類話が多いと記す。

・「寶暦」西暦1751年から1764年。

・「金森兵部少輔家子細ありて斷滅しぬ」金森頼錦(よりかね 正徳3(1713)年~宝暦131763)年)のこと。美濃八幡(はちまん)藩(=郡上金森藩)の第2代藩主。官位従五位下、若狭守、兵部少輔(しょう 又は しょうゆう:律令制の諸省の次官(=「すけ」)。大輔(たいふ)の次席。但し、勿論、ここでは江戸時代の名冠位である。)。父は八幡藩初代藩主金森頼時の嗣子であったが、37歳で早世、享保211736)年の祖父死去により嫡孫として家督を継いだ。延享4(1747)年に奏者番に任じられ、藩政にあっては目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなど、文化人としても優れていたが、『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースのスタートであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした』。検見(けみ)法とは実際にその年の作柄を調査し、収穫量を認定してから年貢額を決める方法を言う。豊凶にかかわらず一定の租率で年貢の徴収を行う定免法に対する語である。一見、こちらの方法の方が合理的でな農民には好都合に見えるが、実際には不作の際には年貢不足を補うための新たな別な負担を強いられ、豊作の際には米相場が安くなるために換算率が上昇、結局、農民にとっては増税となってしまう。そのため『これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発する。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白(いとしろ)騒動(次注参照)まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)1225日、頼錦が幕命によって改易され、盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた』。これが本話柄に現われた「仔細」の真相である。その後、『嫡子出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、出雲守頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵、六男武九郎頼興、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしだった。六男の金森頼興は、明和3年(1766年)赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続した』とある(ウィキの「金森頼錦」を参照・引用した)。

・「その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られける」これは感触に過ぎないが、金森御家断絶の際に死罪を申し付けられたとなると、改易の大きな主因の一つとなった石徹白(いとしろ)騒動に関わって死罪となった郡上藩の家士を見てみよう。以下、まず藩内の白山中居神社の神職の支配争いを端に発した一種の一揆である石徹白騒動について略述する(主にウィキの「石徹白騒動」と個人のHP「大名騒動録」の「宝暦郡上騒動」を参考にした)。神主上村豊前が自分の意に従わぬ神頭職(社領統治役)たる杉本家(当主杉本左近)及びその支持者や浄土真宗信徒など村民凡そ500名(当時の白川村村民の実に2/3)を宝暦5(1755)年11月の厳冬期に村外に追放、激しい吹雪の中、流浪の果てに54名が死亡した。これに際して上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門と結託して事を運んだであったが、杉本左近ら追放された村民は直訴状を携えて入府、宝暦6(1756)年8月に登城する老中酒井忠寄の行列に嘆願書をもって飛び込み駕籠訴を敢行、また、宝暦8(1758)年には目安箱に箱訴を4度も行った。幕府は郡上一揆の件もあり、流石に重い腰を上げざるを得なくなって、同年7月、老中酒井忠寄の命により、本格的な郡上藩詮議が開始された。その対象は老中・若年寄・三奉行など幕府役人・郡上藩主金森頼錦・藩役人・村民数百人に及んだ。裁可は10月に下された。まず幕府関係者としては、郡上藩郡代の不当な越権行為を黙認した罪や杉本左近が幕府に出した訴状を正式に受理せずに金森家に回送した背任行為等々により(以下のメンバーの殆んどが金森家と私的な懇意関係を持っていたらしい)、

老中本多伯耆守正珍     役儀取上げの上 逼塞

若年寄本多長門守忠央    領地召し上げの上 松平越後守へ永預け

勘定奉行大橋近江守     知行召し上げの上 陸奥中村相馬家へ永預け

大目付曲淵豊後守      役儀取上げの上 閉門

美濃郡代青木次郎九郎    役儀取上げの上 逼塞

郡上藩関係者では、

家老渡辺外記        遠島

家老粥川仁兵衛       遠島

江戸家老伊藤弥一郎     中追放

郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門 死罪

同人下僚 片重半助     死罪

同人下僚 黒崎佐市衛門   遠島

農民・社人では、直接の駕籠訴をした

切立村 喜四郎       獄門(獄死)

前谷村 定治郎       獄門

東気良村 善右衛門     死罪(獄死)

同村 長助         死罪

那比村 藤吉        死罪

他に、箱訴を行った剣村の藤次郎ら6人も死罪となっている。勿論、

上村豊前          死罪

であったが、不思議なことに一揆側の中心人物であったはずの人物は、

杉本左近          三十日押込

で許されている。

以上から、本話の主人公は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門の部下であった片重半助なる人物が可能性として浮かんでくるように思われる。「主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし」という謂いから、主犯格の悪奉行根尾甚左衛門ではなく、その命を受けて特に大きな疑問を認識する立場になかった、忠実に事務をこなしていた下役の人物という推定からである。飽くまで、ただの想像であるが。

・「囚獄」小伝馬町牢屋敷長官のこと。牢屋奉行とも。獄舎管理・刑執行・囚人監視監督を担当した役人。

・「石出帶刀」上記小伝馬町牢屋敷長官の世襲名。以下、ウィキの「石出帯刀」から引用する(記号の一部を変更した)。『初代の石出帯刀は当初大御番を勤めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を勤めるようになった。石出左兵衛・勘介から町奉行に出された石出家の「由緒」によると、当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身。本来石出帯刀とは、一族の長の名である(「旧妙見寺文書」)。慶長18年9月3日(16131016日)没。法名は善慶院殿長応日久。台東区元浅草に現存する法慶山善慶寺の開基はこの初代帯刀である。石出姓は、千葉常胤のひ孫で下総国香取郡石出(千葉県東庄町石出)を領した石出次郎胤朝に由来する』。『「千葉縣海上郡誌」に三崎庄佐貫城々主・片岡常春の将として、石出帯刀五郎昌明の名が見られる。また、「天正十八年千葉家落城両総城々」という文書には『石出城石出帯刀』という名の記録が残っている。なお、足立区千住掃部宿の開発者、石出掃部介家に伝わる「由緒」には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である』。『囚獄は町奉行の配下に属している。その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴えの上聴、牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっていた』。『家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが旗本である。禄については、後述の石出吉深が隠居した際に隠居料として十人扶持が、師深の子・左兵衛が幼年であった当時の看抱役を務めた石出勘介に十人扶持が、また常救が幼年であった当時の看抱役を務めた守山金之丞と神谷弁之助に十人扶持が、常救の長年の精勤に対する報償として常救の一代に限って十人扶持が、明治維新まで見習役を務めた直胤に役料として十人扶持がそれぞれ下されている』以下、「著名な石出帯刀」と題し、『歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか 号を常軒。元和元年(1615年)~元禄2年(1689年))である。囚獄としては、明暦3年の大火(いわゆる振袖火事)に際して、収監者を火災から救うために独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行ったことが著名な業績である。吉深は収監者達に対し「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と申し伝え、猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百人余りの「切り放ち」を行った。収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたという。吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」と評価し、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府も収監者全員の減刑を実際に実行する事となった』。『この処置はのちに幕閣の追認するところとなったうえ、以後江戸期を通じて『切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)』とする制度として慣例化されたのみならず、明治期に制定された旧監獄法を経て、現行の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)にまで引き継がれている』とあり、実際に『旧監獄法時代には関東大震災や大東亜戦争末期の空襲の折に、実際に刑務所の受刑者を「切り放ち」した記録が残されている』とある。『吉深は歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられている。歌集には「追善千句」「明暦二年常軒五百韻注」などがある。また著作の一つ「所歴日記」は、江戸時代初期の代表的紀行文の一つに数えられている。一方、国学者としても重要な事績を残しており、廣田坦斎や山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えている。また吉深が著した「源氏物語」の注釈書「窺原抄」について、北村季吟の「湖月抄」に匹敵すると評する国文学者もいるほどである。さらに、本邦のみならず中国の有職故実にも通じていたことも知られている』注としては大きく脱線したが、こんな凄い人もいたという興味深い話として引いておきたい。

・「我等の死刑をもまぬがれ間數者也」底本では右に『(尊經閣本「我等死刑まぬかれがたき者也」)』と注す。尊経閣本を採る。

■やぶちゃん現代語訳

 妄りに人命を断った因業による応報の事

 宝暦八年のこと、美濃八幡藩藩主金森兵部少輔家は仔細あって断絶してしまった。

 その家士の内、何某なる者、主家断絶の際、死罪を仰せ付けられた。

 この者、死に臨んで、当時の小伝馬町囚獄石出帯刀殿に次のように語ったという。

「……拙者、この度、死罪に処せらるること、主人主家に関わることなれば強いて悔むこと、これ、御座らぬ。拙者が犯したとさるる『罪』なるものに就きても、恥ずかしと存ずること、これも、全く御座らぬ。

……然れども、この身、元来、死刑をも免れがたきものにて御座る。……

……ある年のこと、八幡へ帰らんとした、その道中、宿を同じうした山伏が、その所持する一振りの刀を、拙者に見せた。

『正宗じゃ!』

という。

 これが、また、如何にも美事な刀にて……拙者、一目で欲しうなって御座った。……有り金総ての高を有り体に申し、

『何卒、我に譲り給え!』

とひたすら懇望致いたが、

『この刀は、我が家に代々伝わるものにて、千金なれども手放さざる。』

とのこと。平身低頭、如何に所望すれど、承知せず……とりあえず、その場にては諦めた。……

……なれど……

――如何にしても、欲しい!――

という欲に駆られ……翌日、二人して宿を立ち出でて暫く行くうち……人気なき松原にて……あっと言う間もなく……あっけのう、この山伏を騙し殺し……その刀……奪い取り申した……

……この恨み……この罪ばかりにても……死刑に処せらるるに相応しき者なので、御座る……」

と処刑の間際、懺悔致いて御座った、と帯刀が語った、とのことで御座る。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十回

Kokoro11_7

  先生の遺書
   
(十)
 二人が歸るとき步きながらの沈默が一丁も二丁もつゞいた。其後で突然先生が口を利き出した。
 「惡い事をした。怒(おこ)つて出たから妻は嘸(さぞ)心配をしてゐるだらう。考へると女は可哀さうなものですね。私の妻などは私より外に丸で賴りにするものがないんだから」
 先生の言葉は一寸其處で途切れたが、別に私の返事を期待する樣子もなく、すぐ其續きへ移つて行つた。
 「さう云ふと、夫(おつと)の方は如何にも心丈夫の樣で少し滑稽だが。君、私は君の眼に何う映りますかね。强い人に見えますか、弱い人に見えますか」
 「中位(ちうぐらい)に見えます」と私は答へた。此答は先生に取つて少し案外らしかつた。先生は又口を閉ぢて、無言で步き出した。
 先生の宅へ歸るには私の下宿のつい傍(そば)を通るのが順路であつた。私は其處迄來て、曲り角で分れるのが先生に濟まない樣な氣がした。「序に御宅の前まで御伴しませうか」と云つた。先生は忽ち手で私を遮ぎつた。
 「もう遲いから早く歸り玉へ。私も歸つて遣るんだから、妻君の爲に」
 先生が最後に付け加へた「妻君の爲に」といふ言葉は妙に其時の私の心を暖かにした。私は其言葉のために、歸つてから安心して寢る事が出來た。私は其後(そのご)も長い間此「妻君の爲に」といふ言葉を忘れなかつた。
 先生と奧さんの間に起つた波瀾が、大したものでない事は是でも解つた。それが又滅多に起る現象でなかつた事も、其後(そのご)絕えず出入をして來た私には略(ほぼ)推察が出來た。それ所か先生はある時斯んな感想すら私に洩らした。
 「私は世の中で女といふものをたつた一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴へないのです。妻の方でも、私を天下にたゞ一人しかない男と思つて吳れてゐます。さういふ意味から云つて、私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」
 私は今前後の行き掛りを忘れて仕舞たから、先生が何の爲に斯んな自白を私に爲(し)て聞かせたのか、判然(はつきり)云ふ事が出來ない。けれども先生の態度の眞面目であつたのと、調子の沈んでゐたのとは、今だに記憶に殘つてゐる。其時たゞ私の耳に異樣に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」といふ最後の一句であつた。先生は何故幸福な人間と云ひ切らないで、あるべき筈であると斷わつたのか。私にはそれ丈が不審であつた。ことに其處へ一種の力を入れた先生の語氣が不審であつた。先生は事實果して幸福なのだらうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだらうか。私は心の中(うち)で疑ぐらざるを得なかつた。けれども其疑ひは一時(じ)限り何處かへ葬むられて仕舞つた。
 私は其うち先生の留守に行つて、奧さんと二人差向ひで話をする機會に出合つた。先生は其日橫濱を出帆する汽船に乘つて外國へ行くべき友人を新橋へ送りに行つて留守であつた。橫濱から船に乘る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのは其頃の習慣であつた。私はある書物に就いて先生に話して貰ふ必要があつたので、豫(あらか)じめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行(ゆき)は前日わざ/\告別に來た友人に對する禮義として其日突然起つた出來事であつた。先生はすぐ歸るから留守でも私に待つてゐるやうにと云ひ殘して行つた。それで私は座敷へ上(あが)つて、先生を待つ間、奧さんと話をした。Line_5

[♡やぶちゃんの摑み:


♡「私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」ここは単行本では「私達(わたくしたち)は最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」と書き直される。この初出の「私には」という条件文は、より明白な自己本位の側に立った表明になっている点で、極めて興味深い。「こゝろ」「五十一」の卒業・結婚後半年弱後(Kの死後約半年後に相当)に先生は「御孃さん如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです」と述べている(しかし「此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではではなからうかと思ひました」とも述べるのであるが)。]

2010/04/28

或る教え子へ――極私的通信

――私にはあなたの爲に其淋しさを根本から引き拔いて上げる丈の力がないことを悔しく思ひます。然しまた何うかして、もう一度あの若草山であなたが私のための酒を買ひに馳せ下つて行く若々しい姿に見とれてゐたあの時の、あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。然しせめて私達の青春の手本であつたこの作品を今一度二人して讀み返すことで何かをつらまへてみることが出來ようかとも思ふのです。あなたは眞面目です。そして若い。だから必ず道は開けるものと思つて下さい。――

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」第九回

Kokoro11_5   先生の遺書

   (九)

 私の知る限り先生と奧さんとは、仲の好い夫婦の一對(つゐ)であつた。家庭の一員として暮らした事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかつたけれども、座敷で私と對坐してゐる時、先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奧さんを呼ぶ事があつた。(奧さんの名は靜(しづ)といつた)先生は「おい靜」と何時でも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て來る奧さんの樣子も甚だ素直であつた。ときたま御馳走になつて、奧さんが席へ現はれる場合抔(など)には、此關係が一層明らかに二人の間に描き出される樣であつた。

 先生は時々奧さんを伴れて、音樂會だの芝居だのに行つた。夫から夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あつた。私は箱根から貰つた繪端書をまだ持つてゐる。日光へ行つた時は紅葉(もみぢ)の葉を一枚封じ込めた郵便も貰つた。

 當時の私の眼に映つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時もの通り、先生の玄關から案内を賴まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能く聞くと、それが尋常の談話ではなくつて、どうも言逆(いさか)ひらしかつた。先生の宅は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其言逆ひの調子丈は略(ほゞ)分つた。さうして其うちの一人が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音(おん)なので、誰だか判然しなかつたが、何うも奧さんらしく感ぜられた 泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。

 妙に不安な心持が私を襲つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散步しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻(さつき)帶の間へ包(くる)んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫なりすぐ表へ出た。

 其晩私は先生と一所に麥酒(ビール)を飮んだ。先生は元來酒量に乏しい人であつた。ある程度迄飮んで、それで醉(ゑ)へなければ、醉ふ迄飮んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。

 「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑(くるせう)した。

 「愉快になれませんか」と私は氣の毒さうに聞いた。

 私の腹の中(なか)には始終先刻(さつき)の事が引つ懸つてゐた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明けて見やうかと考へたり、止した方が好からうかと思ひ直したりする動搖が、妙に私の樣子をそは/\させた。

 「君、今夜は何うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實は私も少し變なのですよ。君に分りますか」

 私は何の答もし得なかつた。

 「實は先刻(さつき)妻(さい)と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。

 「何うして‥‥」

 私には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。

 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

 「何んなに先生を誤解なさるんですか」

 先生は私の此問に答へやうとはしなかつた。

 「妻が考へてゐるやうな人間なら、私だつて斯んなに苦しんでゐやしない」

 先生が何んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。Line_4

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「奧さんの名は靜(しづ)といつた」奥さんの本名「靜」の初出である。本作には乃木大将の他には「私」の母の「光」及び父の知人の「作さん」(名と思われる)、「私」の妹の夫「關さん」(姓)以外には固有人名が全くと言うほど出現しない。さればこそこの「靜」という名は意味深長である。御存知の通り、この作品にはもう一人の「靜」がひっそりと一瞬間だけ写真で登場する。乃木希典夫人「靜子」である。鹿児島藩医湯地定之・貞子夫妻の四女(七人兄弟姉妹の末っ子)として生まれ、数え年20歳で10歳年上の乃木と結婚した。4人の子を儲けたが下の二人は生後間もなく夭折、長男勝典は明治37年5月27日の日露戦争金州南山戦で腸を貫通する重傷を受けて戦死、同1130日には希典自身が第3軍司令官を務めていた203高地戦で次男保典が砲弾の着弾の煽りを受けて滑落、頭部粉砕により即死した。靜子は希典と共に自死、享年54(満52)歳であった。乃木は当初靜を自死の道連れにするつもりはなかったが(遺書の記述による)、靜自身がお供する強い意志を示したため許諾、乃木の自死後即座に並座、短刀で左胸部を二度突いて自刃を遂げた。漱石が先生の奥さんに「靜」という名を特異的に付けたことと、乃木の妻の本名が「靜」であることは、漱石の確信犯的行為である。その命名のからくりを解き明かすだけでも、本作は一筋繩では行かないのである。

 

♡「約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ」先生の家と「私」の下宿は決して離れていないこと(シークエンスから先生が宅を出たのは「私」の訪問の直後とは思われない。先生が「私」に逢おうと即座に思ったとも思われず、苛立ちの中で足早に歩いたとしても、先生の宅と「私」の下宿の距離は徒歩で最長45分程度から30分程度、2㎞前後を想定し得る)が、これによって明らかになる。

 

♡「妻が考へてゐるやうな人間」は(十七)で靜から「私」に直接明らかにされる。有体に言えば厭世主義者、単なるペシミストである。]

 

2010/04/27

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月27日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八回

Kokoro11_4   先生の遺書

   (八)

 幸にして先生の豫言は實現されずに濟んだ。經驗のない當時の私は、此豫言の中(うち)に含まれてゐる明白な意義さへ了解し得なかつた。私は依然として先生に會ひに行つた。其内いつの間にか先生の食卓で飯を食ふやうになつた。自然の結果奧さんとも口を利かなければならないやうになつた。

 普通の人間として私は女に對して冷淡ではなかつた。けれども年の若い私の今迄經過して來た境遇からいつて、私は殆んど交際(かうさい)らしい交際を女に結んだ事がなかつた。それが原因か何うかは疑問だが、私の興味は往來で出合ふ知りもしない女に向つて多く働く丈であつた。先生の奧さんには其前玄關で會つた時、美くしいといふ印象を受けた。それから會ふたんびに同じ印象を受けない事はなかつた。然しそれ以外に私は是と云つてとくに奧さんに就いて語るべき何物も有たないやうな氣がした。

 是は奧さんに特色がないと云ふよりも、特色を示す機會が來なかつたのだと解釋する方が正當かも知れない。然し私はいつでも先生に附屬した一部分の樣な心持で奧さんに對してゐた。奧さんも自分の夫の所へ來る書生だからといふ好意で、私を遇してゐたらしい。だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばら/\になつてゐた。それで始めて知り合になつた時の奧さんに就いては、たゞ美くしいといふ外に何の感じも殘つてゐない。

 ある時私は先生の宅で酒を飮まされた。其時奧さんが出て來て傍(そば)で酌をして吳れた。先生はいつもより愉快さうに見えた。奧さんに「お前も一つ御上り」と云つて、自分の飮み干した盃(さかづき)を差した。奧さんは「私は‥‥」と辭退しかけた後(あと)、迷惑さうにそれを受取つた。奧さんは綺麗な眉を寄せて、私の半分ばかり注いで上げた盃を、唇の先へ持つて行つた。奧さんと先生の間に下(しも)のやうな會話が始まつた。

 「珍らしい事。私に呑めと仰しやつた事は滅多にないのにね」

 「御前は嫌ひだからさ。然し稀(たま)には飮むといゝよ。好(い)い心持になるよ」

 「些(ちつ)ともならないわ。苦しいぎりで。でも貴夫(あなた)は大變御愉快(ごゆくわい)さうね、少し御酒(ごしゆ)を召上ると」

 「時によると大變愉快になる。然し何時でもといふ譯には行かない」

 「今夜は如何です」

 「今夜は好(い)い心持だね」

 「是から每晩少しづゝ召上(めしあが)ると宜ござんすよ」

 「左右は行かない」

 「召上(めしや)がつて下さいよ。其方が淋(さむ)しくなくつて好(い)いから」

 先生の宅は夫婦と下女だけであつた。行(い)くたびに大抵はひそりとしてゐた。高い笑ひ聲などの聞こえ試(ためし)は丸(まる)るでなかつた。或時は宅の中にゐるものは先生と私だけのやうな氣がした。

 「子供でもあると好いんですがね」と奧さんは私の方を向いて云つた。私は「左右ですな」と答へた。然し私の心には何の同情も起らなかつた。子供を持つた事のない其時の私は、子供をたゞ蒼蠅(うるさ)いものゝ樣に考へてゐた。

 「一人貰つて遣らうか」と先生が云つた。

 「貰ツ子ぢや、ねえあなた」と奧さんは又私の方を向いた。

 「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。

 奧さんは默つてゐた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云つて高く笑つた。Line_3

 

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「幸にして先生の豫言は實現されずに濟んだ」前章注でも言ったが、この謂いは深い。既に先生が亡くなっている事実を知っている読者は、もし、先生が死なずに今も生きていたなら、可能性として予言通り、「私」は先生から遠ざかっているかも知れないことをも示唆するからである。

 

♡「私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかつた」ここから、この時の「私」が童貞であることが決定的となる。「私」は女を買ったこともないと私は考える。

 

♡「是は奧さんに特色がないと云ふよりも、特色を示す機會が來なかつたのだと解釋する方が正當かも知れない。然し私はいつでも先生に附屬した一部分の樣な心持で奧さんに對してゐた。奧さんも自分の夫の所へ來る書生だからといふ好意で、私を遇してゐたらしい。だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばら/\になつてゐた。それで始めて知り合になつた時の奧さんに就いては、たゞ美くしいといふ外に何の感じも殘つてゐない。」秦恒平のおぞまし靜=学生結婚説は、この部分の叙述を素直に解析するだけでも誤りであることが分かる、自分の妻とした女性――かつて恋愛感情を抱く以前の存在――に対して、このような叙述をすることは、私には――少なくとも私には――絶対に考えられないことである。本作全体を無心に読んで、この「私」が将来、この「奥さん」と結婚すると考える奴は、僕にはとんでもねぇ、すっとこどっこいとしか思えない。その証拠? 簡単だよ! 過去13回私は「こゝろ」の感想や小論文を書かせて来たが、誰一人として自律的に靜と「私」が結婚するという結論に到った者はなかったと記憶する(秦説を知って――私は十数年程前から授業で紹介はするようになった――それを引用、それもある、ありかも知れないとする数人――それも1,800人近い生徒の内、数人に満たないのである。更にそれ以前にはそういう見解を示す生徒は皆無であったということを断言する)。如何にそのおぞましい考え方が現実に「あり得ない」ものであるかを――高校生の自由恋愛の自由発想なら、もっと確率的に出たって不思議じゃないのに――この数字が如実に示している。

 

♡「其方が淋しくなくつて好いから」靜は先生との夫婦生活に現在、強い「淋しさ」を感じていることを、ここにはっきりと表明した。この「淋しさ」の『謂い』は尋常陳腐なものではないことに気付くべし! 何故、靜は淋しいのかに!

 

♡「子供を持つた事のない其時の私は、子供をたゞ蒼蠅いものゝ樣に考へてゐた」一部の研究者は、これを英文小説の回想体小説に見られがちな表現法に過ぎず、ここから筆者の「私」が現在子供を持っているという事実を引き出すのは性急であるとする(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」等)が、如何か? 素直に読むなら、この記載時に「私」は既に子供の親となっている、と少なくとも私は読むし、そう読むのが自然であると考える。それを阻む要素は何もない、と考える。「私」は結婚している。そして、子供がいるのだ。但し、その結婚相手は決して絶対金輪際、「靜」では、ない!

 

♡「天罰だからさ」痛恨の一打である。私は若き日、最初に「こゝろ」を読んだ際、このシークエンス、この台詞と高笑いで、例外的に、この愛する先生に対して激しい生理的嫌悪を感じたことを告白しておく。]

 

2010/04/26

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月26日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七回

Kokoro11_3   先生の遺書

   (七)

 私は不思議に思つた。然し私は先生を硏究する氣で其(その)宅(うち)へ出入りをするのではなかつた。私はたゞ其儘にして打過ぎた。今考へると其時の私の態度は、私の生活のうちで寧ろ尊(たつと)むべきものゝ一つであつた。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際(つきあひ)が出來たのだと思ふ。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、硏究的に働らき掛(かけ)たなら、二人の間を繫ぐ同情の糸は、何の容赦もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覺してゐなかつた。それだから尊いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする。先生はそれでなくても、冷たい眼(まなこ)で硏究されるのを絶えず恐れてゐたのである。

 私は月に二度若くは三度づゝ必ず先生の宅へ行くやうになつた。私の足が段々繁くなつた時のある日、先生は突然私に向つて聞いた。

 「あなたは何でさう度々私のやうなものの宅へ遣つて來るのですか」

 「何でと云つて、そんな特別な意味はありません。――然し御邪魔なんですか」

 「邪魔だとは云ひません」

 成程迷惑といふ樣子は、先生の何處にも見えなかつた。私は先生の交際(かうさい)の範圍の極めて狹い事を知つてゐた。先生の元の同級生などで、其頃東京に居るものは殆んど二人(ふたり)か三人(さんにん)しかないといふ事も知つてゐた。先生と國鄕(こくきやう)の學生などには時たま座敷で同座する場合もあつたが、彼等のいづれもは皆(みん)な私程先生に親しみを有つてゐないやうに見受けられた。

 「私は淋(さび)しい人間です」と先生が云つた。「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐます。だから何故さう度々(たびだび)來るのかと云つて聞いたのです」

 「そりや又何故です」

 私が斯う聞き返した時、先生は何とも答へなかつた。たゞ私の顏を見て「あなたは幾歲(いくつ)ですか」と云つた。

 此問答(もんたふ)は私に取つて頗る不得要領のものであつたが、私は其時底迄押さずに歸つて仕舞つた。しかも夫から四日と經たないうちに又先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否や笑ひ出した。

 「又來ましたね」と云つた。

 「えゝ來ました」と云つて自分も笑つた。

 私は外の人から斯う云はれたら屹度癪に觸つたらうと思ふ。然し先生に斯う云はれた時は、丸で反對であつた。癪に觸らない許りでなく却(かへつ)て愉快だつた。

 「私は淋(さび)しい人間です」と先生は其晩又此間の言葉を繰り返した。「私は淋(さび)しい人間ですが、ことによると貴方も淋(さび)しい人間ぢやないですか、私は淋(さび)しくつても年を取つてゐるから、動かずにゐられるが、若いあなたは左右(さう)は行かないのでせう。動ける丈動きたいのでせう。動いて何かに打(ぶ)つかりたいのでせう。‥‥」

 「私はちつとも淋(さむ)しくはありません」

 「若いうち程淋(さむ)しいものはありません。そんなら何故貴方はさう度々私の宅(うち)へ來るのですか」

 此處でも此間の言葉が又先生の口から繰り返された。

 「あなたは私に會つても恐らくまだ淋(さび)しい氣が何處かでしてゐるでせう。私にはあなたの爲に其淋(さび)しさを根本(ねもと)から引き拔いて上げる丈の力がないんだから。貴方は外(ほか)の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」

 先生は斯う云つて淋(さび)しい笑ひ方をした。Line_2

 

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「二人の間を繋ぐ同情の糸」とある。先生と「私」は(少なくとも「私」の理解の上では)そのような「同情」によって結索されていたということを押えねばならぬ。ではそのような「同情」とは如何なる「同情」か? 「私」には如何なる同時的共時的心性が先生に働いていたのかを考えることは大切である。そうしてそれは巧妙に隠されている。そもそも生前の「私」の感じていた「同情の糸」は「私」には不分明であったはずである。それが、死後にこのように表現し得るようになったのであるが、それは実は生前の「私」の感じていた先生への「同情の糸」とは変質した「同情の糸」でなくてはならぬ。何故なら、あの驚愕の遺書を読んでいるか読んでいないかという線は画然たるものなのであり、あの遺書の世界を知ることは、「私」を全く異なった人生のステージ(次元)へと誘うものだからである――私はそれが「よりよい人生のステージ」であるかどうかは微妙に留保するものであるが……。

 

♡「何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする」それは「何んな結果」であったのか? 「想像してもぞつとする」結果とは、如何なる結果か?

 

♡「冷たい眼で硏究される」これによって総ての漱石のこの「心(こゝろ)」に関わる研究書は、筆者漱石によって無効宣言がなされているのである。僕らは多かれ少なかれ「先生」を「冷たい眼で硏究」して来たし、これからも、する、のだ。さすれば僕らは永遠に「心」の闇から抜け出すことは出來ないのかも知れぬ――いや! しかし! 少なくとも一つの救いはある! 『熱い燃える眼で先生を見よ!』だ! そうすれば、自ずと「心」は見えてくる、と漱石は言っているのかも知れない――。

 

♡「私は淋しい人間です」本作最大のキーワード。この淋しさの意味を嚙みしめよ!

 

♡『「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐます。だから何故さう度々(たびだび)來るのかと云つて聞いたのです」/「そりや又何故です」』この「私」の反応は頗る共感出来る。先生の謂いはとんでもなく意味不明である。「私は淋しい人間」「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐ」る。「だから何故さう度々來るのかと云つて聞いた」というこの異様なアンビバレントな心性をつらまえねばならぬ! 淋しい人間は慕って人が来ることを素直に喜んで、「何故さう度々來るのか」なんて口が裂けたって訊かないよ!――しかし、こんな「淋しい」先生が僕にもミリキ的♡

 

♡「先生は斯う云つて淋しい笑ひ方をした」この「淋しい笑ひ方をした」のは何故かを考えよ! 先生は何故「淋しい」のかを!

 

♡「貴方は外の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」勿論、この先生の予言は外れる。しかし――何故、外れたかを考えてみたことがあるか? 先生が自死したから――これ以外には、ない――。]

2010/04/25

僕と因縁のサイト 夢幻実験室 エスプレッソ横濱 The Unlimited Dream Laboratory

「僕と因縁のサイト」に夢幻実験室 エスプレッソ横濱 The Unlimited Dream Laboratoryをリンクした。

「かくしてイメージは、
記号へ、
記号へと突き進む。」

――僕はこの方のサイトを見た時、「2001年宇宙の旅」のボーマンの見た光の洪水が結晶したのだと思った――

僕の「和漢三才圖會」をリンクして下さっている。

やぶちゃん版芥川龍之介全句集 『2009年10月二玄社刊「芥川龍之介の書画」に現われたる句』追加 類型句2句及び新発見句2句

「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」に『2009年10月二玄社刊「芥川龍之介の書画」に現われたる句』を追加した。類型句2句及び新発見句2句からなる。特に最後のものは慄然とする色紙であった。以下に、追加部分を総て示す。御覧あれ!

2009年10月二玄社刊「芥川龍之介の書画」に現われたる句

[やぶちゃん注:以下は2009年10月20日発行の二玄社刊財団法人日本近代文学館編石割透解題解説になる「芥川龍之介の書画」に現われた新発見句並びに異同句である。【2010年4月25日】]

餅花を今戸の猫にかささはや 龍之介

[やぶちゃん注:類型異同句。同書資料番号64の短冊。解題によれば墨書で短冊は36×6㎝。同書資料番号65の別短冊も同表記(こちらは署名なし)。これ以外に解題解説に書誌記載なし。これは「餅花を今戸の猫にかざさばや」の濁音表記を省略した形で、「澄江堂雑詠」他の知られた既出形は「餅花を今戸のねこにさゝげばや」であるから有意に異なる。]

摺古木に山椒伐られぬ秋の風 龍之介

[やぶちゃん注:新発見句。同書資料番号77の短冊。解題によれば墨書で短冊は36×6㎝。これ以外に解題解説書誌記載なし。類型句はない。]

赤時や蛼なきやむ屋根のうら

[やぶちゃん注:既出であるが表記が特異。同書資料番号83の短冊。解題によれば墨書で短冊は36×6㎝。「あかつきや蛼鳴きやむ屋根のうら」の形で「我鬼抄」等に載り、「發句」「我鬼句抄」にほぼ相同の「「赤ときや蛼鳴きやむ屋根の裏」「赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら」(詞書はそれぞれ「病あり」「病中」)が載るが、「赤時」という表記初見である。「蛼」は「いとど」。]

迎火の
 宙歩み
   ゆく
  竜之介

[やぶちゃん注:新発見句。同書資料番号90の色紙。解題によれば墨書で色紙は27×24㎝。これ以外に解題解説書誌記載なし。色紙左下に朱の落款があるが、篆書で私には読めない(「火」の字形を上部左には見る)。類型句はない。「龍之介」自体が署名でなく、第三句そのものである可能性も捨てきれない。さすれば鬼気迫る句柄と言えるが、新傾向俳句で「迎火の宙歩みゆく」で完結しているようにも見える。「竜之介」の筆致が明らかに前三行(これらは微妙に全体に右に傾斜している)とは一線を画して左に傾いているからである。何れにせよ、これは驚天動地、芥川俳句中、未踏の新発見句と言える。]

耳嚢 巻之二 強氣勇猛自然の事

耳嚢 巻之二」に「強氣勇猛自然の事」を収載した。

 強氣勇猛自然の事

 予幼き時古老の一族有りけるは、羽田藤左衞門といへる人有しが、其子十右衞門は予が中年迄存命也しが、右藤左衞門は實方(じつかた)にて少しゆかりもありし。年若き頃至て大膽不敵にて強氣(がうぎ)也しが、いつ頃にや有し、吉原町へ至り格子にて傾城杯と咄しけるに、大勢地廻り共も立寄り格子にかゝりて有しに、彼藤左衞門長刀(ちやうたう)をさして邪魔に成しを、地廻りの溢者(あぶれもの)共以の外罵り恥しめければ、拔打に切殺しぬ。すは人殺有とて五丁町中大騒にてありし時、血刀をば鞘共に天水桶の中へ差込、空(そら)しらぬふりにて混雜の人に紛れ大門(おおもん)を出て歸けるが、宿に歸りて彳々(つくづく)思ひけるは、去にても右の刀は親より讓り受し品也、其儘に捨んも惜しと、あけの夜またまた吉原町へ行て、人靜りて後彼天水桶の下を見しに、其儘刀のありし故とりて歸りけると也。不敵成男なりとかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:お仕置き免れで連関。ただこれは切捨御免の範疇かなあと思うのだが、無礼討ちは想像するほど簡単には出来なかったらしく、さらに場所が場所、場面が場面だけに、武家の面目を言うも、ややむず痒い。

・「羽田藤左衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田則参(のりちか 天和2(1682)年~元文4(1739)年)。支配勘定・御勘定。根岸は元文2(1737)年生まれ。

・「十右衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田治景(はるかげ 正徳4(1704)年~明和7(1770)年)。表御右筆。明和7(1770)年当時、根岸は34歳で御勘定組頭。

・「實方(じつかた)」は底本のルビ。根岸の実家である安生(あんじょう)家。前話「予が實父」注を参照されたい。

・「地廻り」遊廓を冷やかして歩く者。または、広くその土地のヤクザ者の謂い。

・「溢者(あぶれもの)」は底本のルビ。

・「五丁町中」「五丁町」(ごちょうまち)が固有名詞で新吉原の正式な町名であって、「五町」は距離単位ではなく町の区画単位のことである。即ち、五丁町中=吉原遊廓中の意である。芝居町を二丁町といい、吉原を五丁町と呼んだ。これは元吉原が江戸町一町及び二町、京町一町及び二町、角町(すみちょう)の五町あったことに由来する。但し、新吉原になってからは揚屋町も加わり、寛文5(1665)年には更に江戸町に伏見町と堺町が加わって八町となった。実際の新吉原の敷地面積は2丁×3丁で横に広く、約20,000坪、周囲には遊女の逃亡防止の為に五間(約9m)幅の堀であるお歯黒溝(どぶ)が付随していた(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

・「天水桶」時代劇でお馴染みの雨水を貯めるための木製桶。主に江戸市中の防火用水として利用された。

・「大門」幅八尺(2.4m)黒塗りの冠木門にして吉原の唯一の出入り口。毎朝未明に開門され、引け四ツと言って夜四ツ(二更:冬で10時頃、夏で10時半過ぎ)に閉じられた。それ以後の非公式の出入りのために潜り戸が設けられていたが。実際は暁九ツ(午前0時)に夜四ツの拍子木を打って誤魔化していたという(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

■やぶちゃん現代語訳

 天然自然の剛毅勇猛なる男の事

 私が幼い頃、一族の古老の内に羽田藤左衛門という人が御座った。その子の十右衛門殿は私が中年になる頃まで存命して御座った。この藤左衛門殿の方は私の実家である安生家とも多少、所縁(ゆかり)のある御仁である。

 この羽田藤左衛門殿、若い頃は大胆不敵勇猛果敢の者にて御座った。

 いつの頃のことであったか、彼、吉原へ行って格子越しに気に入った傾城なんどと浮いた話を致いて御座ったところ、地廻りどもが大勢でやってきて、彼と同様に格子に取り付いた。その時、たまたま藤左衛門の差して御座った長い刀が彼奴(きゃつ)らの邪魔になったため、その地廻りども――この時の者ども、地廻りの中でも格段に質の悪いあぶれ外道で御座った――以ての外の罵詈雑言を致いて、藤左衛門を辱しめるに至った。

 抜刀一閃! 藤左衛門はこのサンピンを抜き打ちにばっさりと斬り殺してしまったから、さあ大変、

「……ヒィッ! 人殺し……じ、じゃあ!……」

と誰かが叫び、吉原中、上へ下への大騒ぎとなった。

 ところが藤左衛門は、血刀を鞘諸共に傍にあった天水桶の下の隙間に突っ込み、素知らぬ振りしてその騒ぎの混雑に紛れて、悠々と大門を抜け、帰って行った。

 ところが、己が屋敷に戻ってつくづく思ったことには、

「……待てよ……あの刀は父より譲り受けし品で御座った。……このままに、捨て置くは……如何にも惜しい……」

と、翌日の夜(よ)、再び吉原へ行くと、深更に至るまで待って、内の人通りも絶えた頃、かの天水桶の下を覗いて見たところ、そのまま刀が御座ったれば、執りて帰ったという話。後、

「如何にも大胆不敵な男じゃ!」

と人々も噂した、とのことで御座る。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六回

Kokoro11   先生の遺書

   (六)

 私はそれから時々先生を訪問するやうになつた。行くたびに先生は在宅であつた。先生に會ふ度數が重なるに伴(つ)れて、私は益(ます/\)繁く先生の玄關へ足を運んだ。

 けれども先生の私に對する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になつた其後も、あまり變りはなかつた。先生は何時(いつ)も靜(しづか)で懇意になつた其後(そののち)も、あまり變りはなかつた。ある時は靜過ぎて淋しい位であつた。私は最初から先生には近づき難(かた)い不思議があるやうに思つてゐた。それでゐて、何うしても近づかなければ居られないといふ感じが、何處かに強く働いた。斯ういふ感じを先生に對して有(もつ)てゐたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない。然し其私丈には此直感が後(のち)になつて事實の上に證據立てられたのだから、私は若々しいと云はれても、馬鹿氣(ばかげ)てゐると笑はれても、それを見越した自分の直覺をとにかく賴もしく又嬉しく思つてゐる。人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懷(ふところ)に入(い)らうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出來ない人、―是が先生であつた。

 今云つた通り先生は始終(ししう)靜かであつた。落付いてゐた。けれども時として變な曇りが其顏を橫切(よこき)る事があつた。窓に黑い鳥影(とりかげ)が射すやうに。射すかと思ふと、すぐ消えるには消えたが。私が始めて其曇りを先生の眉間に認めたのは、雜司ケ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であつた。私は其異樣の瞬間に、今迄快よく流れてゐた心臟の潮流を一寸(ちよつと)鈍らせた。然しそれは單に一時(じ)の結滯に過ぎなかつた。私の心は五分を經(だ)たないうちに平素の彈力を回復した。私はそれぎり暗さうなこの雲の影を忘れてしまつた。ゆくりなくまた夫(それ)を思ひ出させられたのは、小春の盡きるに間のない或る晩の事であつた。

 先生と話してゐた私は、不圖先生がわざ/\注意して吳れた銀杏の大樹を眼の前に想ひ浮かべた。勘定して見ると、先生が每月例(まいげつれい)として墓參に行く日が、それから丁度三日目に當つてゐた。其三日目は私の課業が午(ひる)で終へる樂な日であつた。私は先生に向つて斯う云つた。

 「先生雜司ケ谷の銀杏はもう散つて仕舞つたでせうか」

 「まだ空坊主(からばうず)にはならないでせう」

 先生はさう答へながら私の顏を見守つた。さうして其處からしばし眼を離さなかつた。私はすぐ云つた。

 「今度御墓參りに入らつしやる時に御伴(おとも)をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に彼處(あすこ)いらが散步して見たい」

 「私は墓參りに行くんで、步に行くんぢやないですよ」

 「然し序(ついで)に散步をなすつたら丁度好(い)いぢやありませんか」

 先生は何とも答へなかつた。しばらくしてから、「私のは本當の墓參り丈なんだから」と云つて、何處迄も墓參と散步を切離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になつた。

 「ぢや御墓參りでも好(い)いから一所に伴れて行つて下さい。私も御墓參りをしますから」

 實際私には墓參と散步との區別が殆(ほとん)ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちよつと曇つた。眼のうちにも異樣の光が出た。それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた。私は忽ち雜司ケ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだつたのである。

 「私は」と先生が云つた。「私はあなたに話す事の出來ない或理由があつて、他(ひと)と一所にあすこへ墓參りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行つた事がないのです」

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[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「然し其私丈には此直感が後になつて事實の上に證據立てられた」如何にもまどろっこしい言い方であるが、これは先生が「私」に遺書を託したこと、そのことを指しているのである。

 

♡「若々しい」(一)で注した通り、現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といったニュアンスの語である。

 

♡「まだ空坊主にはならないでせう」前章に掲げた注の大正元(1912)年1129日の日記に、銀杏ではないが『欅のから坊主になつた下に楓が左右に植え付けられて黃と紅との色が左右にうつくしく映る。』と記している。

 

♡「それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた」これは美事に不達意の文章である。「それは迷惑」というのでもないが「迷惑」だというニュアンスを保持し、「嫌惡」というのでもないが「嫌惡」というニュアンスを保持し、「畏怖」というのでもないが「畏怖」というニュアンスを保持するところの、「迷惑」「嫌惡」「嫌惡」の何れにも該当しない、「微かな不安」というものに似た、しかし「微かな不安」とも言い切れないようなものであった、というのである。

 

♡「自分の妻さへまだ伴れて行つた事がないのです」遺書で明らかになるように、これは事実に反する。しかし先生は嘘をついたのではない。先生は靜をこのKの墓に一度連れて行ったという事実(「こゝろ」「下」五十一)を、自分の過去の記憶から消去したかったからこそ、このような錯誤・発言をしたのだと私は解釈している。なお私は、この先生に雑司ヶ谷の墓参の同行を望むも断られるというエピソードを「私」19歳、明治411908)年の11月下旬頃と推定している。]

2010/04/24

忘れ得ぬ人々21 倶利迦羅紋紋のお爺さん

僕の家は高台にある。その裏山を登ると、農業用の大きな溜池があって、そこからは藤沢方向に田圃と渓谷が続いていた。この辺りのことは

「1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル」

に書いたし、その水門と少年の僕の写真もここにある。この池から流れ出た水が、反対の僕の家の方の斜面を下ったところに、六軒長屋があった。ここの前を大船方向に更に下ると朝鮮の人々の住む一画があって、大きな豚小屋に何頭も豚が飼われていた。僕は豚が大好きで、この裏道を抜けて帰るのが小学校時代の楽しみだった。

その六軒長屋の前には、さっき言った池の水が清らかで早い小川を成して流れていた。芹が茂り、ころころと流れの音が何時もしていた。

寄り道をして夕方の四時位にそこを通ると、決まって小川のすぐの垣根のところに寄りかかって二人、背の高いお爺さんと小ちゃなお爺さんが、いつも風呂上りに涼んでいた。

背の高いお爺さんの背中には――色鮮やかな倶利迦羅紋紋があった。すっくと立ったいか物造りのダンビラを持った不動明王の絵柄だった。

僕はその刺青が大好きだった。そのお爺さんは、僕が小川のこっちのやや広い畦道で立ち止まると、決まって如何にも優しい笑顔を浮かべて、その不動明王の背中を、何がなしに僕の方に向けて見せてくれたものだった。

――このお爺さんはもとは俠客ででもあったのかもしれない――しかし、僕の記憶の中では、いつも夕涼みをする優しいお爺さんであった。一度だけ、背中を見せながら、1954「ゴジラ」の高堂国典演ずる長老みたような口調で、

「坊や、こんなもん、彫っちゃあ、なんねえぞ!」

と笑いながら僕に言いかけて、小さな爺さん一緒にからからと笑ったことがあったけれど――僕にはその極彩色の憤怒像が文句なしの憧れだった――僕が恐かったのは、その不動の、ぎゅっと嚙んで牙を覗かせている口元だけだった――

――小川の音――二老人――倶利迦羅紋紋――

――今日も、数年前にそこの先に出現した巨大モールに買い物に行き、そこを通った――勿論、小川は30年のとうの昔にただの味気ない細い側溝に変わり、六軒長屋もかろうじて一番奥の端の家だけが原型を留めて長屋があったことを偲ばせる便(よすが)となっているだけで――ステロタイプのユニット・ハウス群が犇いているばかりである――勿論、もう、あの爺さんたちも、この世にはいない……

……でも、あの倶利迦羅紋紋のお爺さんは……今も僕の心の中でウルトラマンや鉄人28号何かより……遙かにカッコいいヒーローで、あり続けているのである……

ミクシイ・マイミク200

200人目は僕の少年、Юрий Гагарин!――

耳嚢 巻之二 強勇の者御仕置を遁れし事

「耳嚢 巻之二」に「強勇の者御仕置を遁れし事」を収載した。

 強勇の者御仕置を遁れし事

 常憲院樣御代、生類御憐みにて殺生堅く御誡(いましめ)の折から、御家人の内阿久澤彌太夫、松本理兵衞といへる者忍びて釣をせしを、廻りの者咎聞(とがめきこえ)ければ以の外惡口抔して立別れぬ。彼廻りの者より申立ぬる故、兩人共御吟味の上入牢なしけるが、彌太夫は釣せし段無相違由をいひ、理兵衞は兩人とも釣せし事なきといひ、互に右の由爭ひ、幾度御吟味有けれども兎角落着せざれば御仕置も延びて居たりし内、常憲院薨御(こうぎよ)有りて、生類御憐の御掟(おきて)も解けるゆへ、兩人とも御咎に不及元の如く勤しと也。右兩人は伊豆守、彌左衞門が父が租父也。其頃予が實父も右兩人と親しかりしが、御吟味の始、彼兩人へ羽二重の下帶一筋あたへ、若切腹せば見苦しからず切腹せよと餞別に遣しけるとて與へける由。予幼き頃夫(その)の甥なる老人語りぬ。其頃は人の心も勇氣なる折と覚(おぼゆ)る。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「常憲院」第五代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。

・「生類御憐みにて殺生堅く御誡」一般に言われる「生類憐みの令」のことであるが、これは第五代将軍徳川綱吉が貞享4(1687)年に制定した殺生禁止に関わる法令とそれに付随した多数のお触れを総称したものであって、「生類憐みの令」という成文法令があるわけではないということは余り理解されているとは思われない。以下、ウィキの「生類憐みの令から引用する。一般にこの法令群が発布された背景として『従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかったため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい』。『当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。そのため単なる精神論を越えて監視社会化してしまい、この結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られる』。『武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように[やぶちゃん注:省略しているのでリンク先を参照のこと。]、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったよう』であるとする。『しかしこの法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話』は有名ではある。『地方では、生類憐みの令の運用は、それほど厳重ではなかったようだ。「鸚鵡籠中記」を書いた尾張藩士の朝日重章は、魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい』とあり、本話柄も告発があり、現場での反省の念がなく、一方が意固地に否認したことが事態を悪化させたものと思われる。『この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる』。『徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている』とあり、本話柄の雰囲気も伝わってくる。『当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある。町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論する。ただし、「生類憐れみの令を100年守ること」を綱吉はわざわざ遺言しており、重要でないのなら、綱吉の遺言もある筈もなく、わざわざ儒学者の白石が廃止を宣言する必要もなかったとする見解もある』。『また、生類憐れみの令が遵守されたのも江戸近辺に限られ、地方においてはほとんど無視されていたという説もある。「鸚鵡籠中記」の記述によると、尾張藩においても立て札によって公布はされたものの、実際の取り締まりは全くなされておらず、著者の朝日重章自身も魚捕りを楽しんでいた。親藩においてもこのような状態であった以上、前述の元禄の大飢饉において、飢饉の最中の東北地方において生類憐みの令が厳しく取り締まられたという事は到底考えられない。飢饉の最中に人間が禽獣に襲われる事はよくある話であり、生類憐みの令と特に関連があったとは考えにくい』ともある(文中書名の『 』を「 」に変更した)。

・「阿久澤彌太夫」底本鈴木氏注に、『行広。万治二年御徒、のち組頭。その子広保は正徳元年遺跡を相続』とある。万治2年は西暦1659年、正徳元年は1771年。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤行広は行次の子で兄に行佐がいる。広保は行広の子である。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。

・「松本理兵衞」底本鈴木氏注に、根岸の友人松本秀持(後注参照)の祖父松本重政とする。『明暦二年父正重の遺跡を継ぐ。御天守番、御徒目付を経て押太鼓役』とある。明暦2年は西暦1656年。

・「廻りの者」その土地のヤクザ者。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣が死去すること。綱吉は右近衛大将・征夷大将軍・右大臣で、死後、贈正一位太政大臣である。一部訳でここを「薨去」とするものを見たが、厳密には「薨御」は「薨去」と同義ではない。「薨去」(「薨逝」とも)はもっと広く皇族及び三位以上の者の死去に用いるものである。

・「伊豆守」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」に既出。

・「彌左衞門」底本鈴木氏注に、『広高。弥太夫行広の曾孫行光の養子。宝暦三年遺跡を継ぎ、安永六年御勘定』(宝暦3年は西暦1774年、安永6年は西暦1777年)とするが、この言いは事実にそぐわない点に付、鈴木氏は『要するに、松本理兵衛の祖父と阿久沢弥兵衛の曽祖父両人が話題の人物であるという意味』であるとし、岩波版長谷川氏の注では、やはり齟齬を指摘、『ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだので、祖父を行広の子行梢とも解せるが、弥太夫ではない。誤解があるようである』と記す。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤廣高は系譜上は阿久澤行光の子であるが、以下の通り(「■」はネット画像で判読できなかった部分)。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

天明元年は西暦1760年。阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。ちなみにこの手の系譜にまるで興味のない一読者に過ぎぬ私から見れば、注としての厳密さは別として『要するに』という鈴木氏の謂いの方が、スッキリ! である。

・「予が實父」安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本であった、この安生定洪の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。

・「夫の甥」実父安生定洪の甥。

・「覚る」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 剛勇なる者ら御仕置を遁れし事

 常憲院様の御代、生類御憐れみの御意にてあらゆる生き物殺生なんどが堅く戒められて御座った。

 ある時、御家人の内の阿久沢弥太夫及び松本理兵衛という者、こっそり釣りを楽しんで御座ったところが、市中見回りの者に咎められた。

 適当に誤魔化せばよかったものを、売り言葉に買い言葉、激しい口論となり、見回りの者に以ての外の罵詈雑言を吐き捨てて、その場を去ってしまった。

 後日、この見回りの者より本件に付、正式に告発がなされてしまったため、両人とも吟味の上、入牢と相成ったのだが、弥太夫は、

「釣りせし段、これ相違なし。」

由認めたものの、理兵衛の方は、

「両人とも、釣りせし事、これなし。」

と言い張り、飽くまで互いを譲らず、本件の立件自体を当事者二人が言い争うという事態に相成った。

 これが二人ともに頑なにて、何度も吟味致いても、いっかな、両人の証言、真っ向から対峙して譲らぬため、すっかり膠着致いて、御仕置きの方も、延び延びになって御座った。

 そんな折り、常憲院様薨御あらせられた。

 さればこそ、生類御憐れみに関わる数多の御禁令も解けて、両人とも御咎めに及ばず、元の如く勤仕に復帰致いたということで御座る。

 この両人――それぞれ、私も知れる松本伊豆守秀持殿の祖父、及び同じく私の知人である阿久沢弥左衛門殿の曾祖父であられる――その頃、私の実父もこの両人と親しくして御座ったが、両名、告発されていよいよ御吟味始まりと決した際、この両人へ羽二重の下帯をそれぞれに一本ずつ、

「もし切腹と成ったれば、見苦しきこと、これなく、切腹せよ。これ、餞(はなむえ)に遣わす。」

と言い添えて贈ったということである。

 私がごく幼かった頃のこと、父の甥である御仁から、この話を聞かされた。

 その頃は、人の心も、勇気と覚悟とに満ち満ちて御座った、そんな時代もあったので御座る。

夕顔へ――極私的通信

知人「夕顔」からのメール――

「こゝろ」でよそよそしい頭文字を意識的に「K」に使っているのはわかったんだけど、どの人物も私にはよそよそしく思えるの。「静」以外みんな…なんで静は「静」じゃなきゃいけなかったんだろう…

『――夕顔よ――分かり易く一言で君に答えることを、一つ、試みてみようじゃないか。――これは本作の核心に関わる問題なんだが――それは……』

「こゝろ」は、「靜」を除く総て――先生・K・奥さん(靜の母:これは説明の必要がない。夫が日清戦争で戦死したことに起因するものである。Kの自殺現場に於いて彼女が平然と振舞えたことは、例えば乃木の妻が長男の戦死の後、次男の戦死を平然と受け止めたこととも共通する。「平然としている」こと自体がPTSDである。フラッシュ・バックばかりがPTSDなのではない)・学生の「私」そして筆者夏目漱石――が大きなPTSD(心的外傷後ストレス障害)を受けているために他者と乖離しているからである。

先生のPTSD

父母の急逝を契機(この喪失の悲哀という心的外傷に彼の精神の変調契機がある)として叔父の背任・故郷喪失により精神に変調をきたす(当該章の[♡やぶちゃんの摑み]で詳述する予定であるが、その時点での先生は確実に最低でもノイローゼ――更には鬱病、筆者漱石のことを考えると統合失調症さえも考え得る――を発症していると僕は踏んでいる)→

奥さんへの猜疑や御嬢さんへの恋愛感情の内的葛藤により精神的な疲弊が増大→

信頼し『最も愛している』Kを、御嬢さんと自分との恋愛関係に介在させてしまうことことにより漸次増悪→

Kの自殺による心的外傷

が決定打となり、持続的で重篤な他者との乖離が始まる

KのPTSD

父の勘当により生家・郷里・母から追放され故郷喪失者となることを契機として精神に変調をきたす心的外傷としての病的悲哀である)→

現実的な急迫を払拭するために宗教・哲学・神秘主義等の精神世界へと逃避的に貫入することで順調に現実と乖離→

唯一信頼し『愛している』先生に促されて現実に帰還して御嬢さんへの愛に目覚めるが、自己の肉体を超絶した精神世界の至高を譲歩出来ず、加えて自分が『愛している』先生が御嬢さんをも愛していることに思い到らなかった不甲斐なさに今更ながら気づき、

ために絶対的葛藤状況に陥ってあらゆる他者との乖離が決定的となり自死する。

学生の「私」のPTSD

自己の性愛感情について他者と違うのではないかという漠然としたある違和感が「私」の心底には確実に存在する(「私」の同性愛感情が真正のものであるかそうでないかは判然としないが、私には本作は強い同性愛傾向によって貫かれていると考える。誤ってもらっては困るが同性愛感情及び同性愛を私は病的なものだとは考えていない。私はキリスト者ではないし、旧態然とした「異常心理学」――これは最早学術的にも死語である――の信望者でもない。但し、私自身は残念乍らそのような少なくとも「顕在的」な強い傾向は持ち合わせてはいないように思われる)→

その出逢いが超論理的運命的に定められた先生と出逢うことによって「私」の内なる同性愛感情が起動する(その同性愛感情にしかし「私」は自覚的でない)→

同性である『愛する』先生への急激な傾斜があるものの、異性である奥さん「靜」の存在が「私」の意識の中である種のバランスをとって、その時点では性愛成長を正常に促している(だからそこでは乖離的ではない)→

『――夕顔よ。もし先生の生前の「私」に「よそよそしさ」が見えるとすれば、それは純粋に青年のはにかみからである。貴女も私も19や20の頃はそんなものだったじゃあないかね? ひとなつこい奴は気をつけたがいい……』

そに父の病気の悪化・危篤、それに纏わる家督相続・遺産の問題が絡み始めて精神的に焦燥感が高まる(但し、この時点では未だ心的外傷は受けていない)→

父として愛しているに過ぎない危篤の父の放棄(決定的な現実との対決の象徴)VS真に『愛する』先生との決別(西欧的キリスト教世界では罪悪とされる顕在的同性愛感情の自律的発露表明と公的認知要求がここにはあると僕は思う)→

『――夕顔よ――そして先生の自殺――これを激しい心的外傷の受傷とい言わずして何と言う? それだけでも「私」が他者から乖離し、よそよそしくなるに十分ではないか?……』

いや、そればかりではない――その後「私」は、先生の遺書の秘密を知り、更にその秘密を何も知らない「靜」が生きている以上、自分限りの秘密としなければならないという禁則を、忠実に守り続けねばならないという強烈な禁忌的現実に生きねばならないのだ! この禁則現実そのものが強烈な現実の地獄――心的外傷なのだ。

なればこそ――

そうしたKそして先生から受け継いだ聖痕(スティグマ)を刻印された学生の「私」――

今現在、追想しながら「心」という手記を書いている「私」――

そうした「私」は当然、「よそよそしく」他者と乖離せざるを得ない心性にあるのである――。

そうして付け加えるならば、イギリス留学中に統合失調症に罹患した当の作者夏目漱石自身が、その後も後遺症として激しい関係妄想や一種の解離性認識障害を起こしていたことは、その後の漱石の幾つかの異様な行動事実や言説からも明白である(統合失調症罹患は微妙に留保する説もあることはある)。――そう、書いてる本人からして「よそよそしい」のだ――

『――夕顔よ――「漱石の幾つかの異様な行動事実や言説」というのは……いつか直に説明して上げよう。少し話が長くなるからね――』

そんな中で――靜だけは――確かに魅力的で、「よそよそしくない」ねぇ……漱石は女を描くのが下手だが、この靜、如何にも魅力的だ。(十七)で紅茶に入れる砂糖の数を訊かれた時の視線なんぞを食らった日にゃ……僕だってドキドキズキズキしちゃうよ……彼女は無原罪なのか……彼女にも責任はあるのにねぇ……

『なんで静は「静」じゃなきゃいけなかったんだろう…』

……そうだったね……君は僕の「こゝろ」の授業を受けていないのだね……これは確信犯だ……(九)の[♡やぶちゃんの摑み]で詳述する予定だが――乃木大将だ――彼の、一緒に自死した奥さんの名前なのだよ――

教え子へ――極私的通信

教え子の女性より――

日付「2010年04月23日 20時22分」

題名「片山廣子書簡」 

手紙、すごいね。いつか朗読したいです。

[やぶちゃん注:彼女は現在、アーティストとして活躍しており、朗読のパフォーマンスを定期的に企画、公演している。]

やぶちゃんの「心」の授業受けられなかったのがすごく悔しかったので、
いま取り戻せてうれしい。

[やぶちゃん注:彼女と逢ったのは高校3年生の時、担当は古典であった。「見返り美人」をモチーフにインスパイアした、彼女がデザインした文化祭のクラティ――彼女がプレゼントしてくれた――は今も僕のお気に入りである。]

「やぶちゃんの摑み」の部分は、脳内でやぶちゃん音声に自動変換して
読んでいます。
朗読音声ファイルも付けてくれたらいいのにな。
雨月とか、劉邦とか、今でも読む度にやぶちゃん音声だもの。

昨日は疲労のために、8:00に寝込んだ。今朝起きてこのメールを見て、疲れが吹き飛んだ。それほど総てが、とっても嬉しいものであった。そこで、最早、彼女の許諾を得る暇も惜しんで、ここに公開してしまうのである。

僕の「こゝろ」や「山月記」の授業を受けなかった僕の教え子には――僕は31年間の授業で13回しか2年生の現代文を担当していないし、通常持つのは3~4クラスである――内心僕自身、少しばかり残念な気持ちがしているのである。それはこの彼女が語ってくれたれた、このこと故である。僕にとってそれほどに「こゝろ」は僕のライフ・ワークであり、「山月記」は僕の『心の鏡』――さる教え子が贈ってくれた中国語訳(台湾の出版局刊の繁体字版)「こゝろ」の題名は「心鏡」である。私は「山月記」こそ「こゝろ」や「舞姫」の解読のための副読本にこんなに相応しいものはないと考えている――であったと言ってよい。それは大袈裟に言えば、僕の授業の総てであり、それぐらいしか僕のオリジナルな授業の「摑み」はないのだと言い切ってよい。即ち、僕は教師として授業に「こゝろ」と「山月記」がないと、何時も僕自身、淋しい気が何処かでしているのである――。

以前にブログで書いたが、朗読音声ファイルを公開すること――これは僕の夢である。そうして僕は教場を去ろう――教師としての僕には『朗読』しかないと言ってよい。入試問題の解法マニュアルだけを教えてくれればいい風な退屈な顔をしている奴には、僕の朗読は不要だろう――。

ともかく――僕の声を、「心」、で聴く――君の瞳に、乾杯!

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五回

Kokoro11_4   先生の遺書

   (五)

 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の緣が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。

 「何うして‥‥、何うして‥‥」

 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。

「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」

 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。

 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。

 「誰の墓へ參りに行つたか、妻(さい)が其人の名を云ひましたか」

 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」

 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」

 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。

 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。

 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。

 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黃葉(くわうえふ)して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋(うづ)まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。

 向ふの方で凸凹(でこぼこ)の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。

 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の步く方へ步いて行つた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に步いて行つた。

 「すぐ御宅へ御歸りですか」

 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」

 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。

 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。

 「いゝえ」

 「何方(どなた)の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」

 「いゝえ」

 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程步いた後で、先生が不意に其處へ戾つて來た。

 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」

 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」

 「さうです」

 先生は其日是以外を語らなかつた。Line_3

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「墓地」現在の東京都豊島区南池袋4丁目にある東京都立霊園雑司ヶ谷霊園。無宗派。面積約115,400㎡。明治7(1874)年91日、当時の東京府が東京会議所に命じて造営、明治221889)年に東京市管轄となっていた(昭和101935)年には「雑司ヶ谷霊園」に名称を変更、現在は東京都公園協会管理)。ジョン(中浜)万次郎・井上哲次郎・小泉八雲・ケーベル・島村抱月・岩野泡鳴・大町桂月・押川春浪・村山槐多・泉鏡花・東條英機・竹久夢二・永井荷風・古川ロッパ(緑波)・福永武彦・・サトウハチロー・東郷青児・大川橋蔵・中川一政・村山知義等の著名人の墓が多い。夏目漱石自身の墓もここにある。また、ここでの墳墓の描写は夏目漱石が大正元(1912)年1129日、前年に亡くなった五女ひな子の墓参のために雑司ヶ谷霊園を訪れた日記の記載、『依撒伯拉何々の墓、安得烈何の墓。神僕ロギンの墓。其前に一切衆生、悉有佛生とい』ふ塔婆、『全權公使ヽヽといふのもある。』という記載を、ほぼそのままに用いている。

 

♡「私は其人の眼鏡の縁が日に光る迄近く寄て行つた」頗る映像的で印象的なシーンである。映画に撮りたい欲求を禁じ得ぬ。

 

♡「一切衆生悉有佛生」正しくは「一切衆生悉有佛性」で、読みは同じ。総ての生きとし生けるものは仏となるべき仏性を本来具有しているという仏説。

 

♡「向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。」さる論文で、この男こそKの亡霊である、との解釈を読んだ。――ほくそ笑んだ――が、しかし私も私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」 でこの解釈を援用させて潜ませてある。但し、これは、前掲注の大正元(1912)年1129日の日記に『入口に土をならして新墓地を作つてゐる男が鍬の手をやすめて我等を見た』と実景として記されているものを援用したものである。]

2010/04/23

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月23日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四回

Kokoro11_3   先生の遺書

   (四)

 私は月の末(すゑ)に東京へ歸つた。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずつと前であつた。私は先生と別れる時に、「是から折々御宅へ伺つても宜(よ)ござんすか」と聞いた。先生は單簡(たんかん)にたゞ「えゝ入らつしやい」と云つた丈であつた。其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃(こまや)かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた。

 私は斯(かう)いふ事でよく先生から失望させられた。先生はそれに氣が付いてゐる樣でもあり、又全く氣が付かない樣でもあつた。私は又輕微な失望を繰返しながら、それがために先生から離れて行く氣にはなれなかつた。寧ろそれとは反對で、不安に搖(うご)かされる度に、もつと前へ進みたくなつた。もつと前へ進めば、私の豫期するあるものが、何時(いつ)か眼の前に滿足に現れて來るだらうと思つた。私は若かつた。けれども凡ての人間に對して、若い血が斯う素直に働かうとは思はなかつた。私は何故(なぜ)先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日(こんにち)になつて、始めて解つて來た。先生は始めから私を嫌つてゐたのではなかつたのである。先生が私に示した時々の素氣(そつけ)ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠(とほざ)けやうとする不快の表現ではなかつたのである。傷ましい先生は、自分に近づかうとする人間に、近づく程の價値のないものだから止せといふ警告を與へたのである。他(ひと)の懷かしみに應じない先生は、他(ひと)を輕蔑する前に、まづ自分を輕蔑してゐたものと見える。

 私は無論先生を訪ねる積で東京へ歸つて來た、歸つてから授業の始まる迄にはまだ二週間の日數(ひかぞ)があるので、其うちに一度行(いつ)て置かうと思つた。然し歸つて二日三日と經つうちに、鎌倉に居た時の氣分が段々薄くなつて來た。さうして其上に彩(いろど)られる大都會の空氣が、記憶の復活に伴ふ强い刺激と共に、濃く私の心を染付けた。私は往來で學生の顏を見るたびに新しい學年に對する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。

 授業が始まつて、一ケ月ばかりすると私の心に、又一種の弛(ゆる)みが出來てきた。私は何だか不足な顏をして往來を步き始めた。物欲しさうに自分の室(へや)の中を見廻した。私の頭には再び先生の顏が浮いて出た。私は又先生に會ひたくなつた。

 始めて先生の宅(うち)を訪ねた時、先生は留守であつた。二度目に行つたのは次の日曜だと覺えてゐる。晴れた空が身に沁み込むやうに感ぜられる好(い)い日和であつた。其日も先生は留守であつた。鎌倉にゐた時、私は先生自身の口から、何時(いつ)でも大抵宅(うち)にゐるといふ事を聞いた。寧ろ外出嫌ひだといふ事も聞いた。二度來て二度とも會へなかつた私は、其言葉を思ひ出して、理由もない不滿を何處かに感じた。私はすぐ玄關先を去らなかつた。下女の顏を見て少し躊躇して其處に立つてゐた。此前名刺を取次いだ記憶のある下女は、私を待たして置いて又内へ這入つた。すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。

 私は其人から鄭寧(ていねい)に先生の出先を教へられた。先生は例月其日になると雜司ケ谷の墓地にある或佛へ花を手向けに行く習慣なのださうである。「たつた今出た許りで、十分になるか、ならないかで御座います」と奧さんは氣の毒さうに云つて吳れた。私は會釋して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程歩くと、私も散步がてら雜司ケ谷へ行つて見る氣になつた。先生に會へるか會へないかといふ好奇心も動いた。夫ですぐ踵(きびす)を回らした。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「月の末」当時の高校の暑中休暇は9月10日頃迄であった。従ってここは8月末である。

 

♡「其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた」思い込みを強めた同性愛傾向を如実に摑める部分である。

 

♡「私は斯いふ事でよく先生から失望させられた」以下、これを叙述している現在の「私」の告解であることに気づかねばならぬ。「私の豫期するあるもの」とは何か? そのようなものを求めて君は人に近づく時、その人は君にとってどのような存在か? ということをじっくりと考えて見給え。

 

♡「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日になつて、始めて解つて來た」先生がこの記載時に既に亡くなっていることが、ここで初めて示される重要な場面である。そうしてこれは、「私」の重大な告解であることに気づかねばならぬ。既にして「私」は、過去の「私」ではないという事実である。「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか」その当時は「解らなかつた」が、「それが先生の亡くなつた」この手記を記している「今日になつて、始めて解つて來た」、いや、十全に解っているのである。それが何であるかに気づかない君には、「こゝろ」の謎は、永遠に解けぬと言ってよい。

 

♡「名刺」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、この頃には西洋の習慣が急速に日本社会に浸透、学生や女学生も名刺の交換をするのが普通であったとする。但し、「私」のものは所謂、活版の印刷物ではなくて手書きのものであった可能性も高いと思われる。

 

♡「下女」殆んど我々読者の意識に上らないが、先生の家には下女がいる。この下女を驚天動地のキャラクターとして描いたのが日活1955年製作の市川昆の「こころ」であった。これについては私のブログ『「こゝろ」3種(+1)映像作品評』で記した。興味のある方は、お読みあれ。但し、このブログ記事は、かなり危ない。

 

♡「すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。」「靜」の初登場のシーンである。詳しい根拠は私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、この「靜」は諸君が考えるよりも、恐らく若い。この時、私の推定では、

 

「靜」は26

 

である。私はまた、本章の時間を嘗て仮に次のように推定したことがある。

明治411908)年 19

 7月下旬か8月

  第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で

  先生と出会う。

  9月11日頃

   高校(第三学年)が始まる。

 10月 4日(日)又は10月11日(日)

   先生の家を初めて訪問するが、留守。

 10月11日(日)又は10月18日(日)

   先生の家を再訪。留守。奥さんの言葉で、

   雑司ヶ谷墓地で先生と再会。

これも私のHPの『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照されたい。ともかく、私がここで言いたいのは、学生の「私」と「靜」はそんなに年齢差はないのである。最大で7歳、もっと短い可能性さえ考え得るということである。なお、申し上げておくが、以上の年月日には確定的根拠があるわけではない(仮定した日の曜日は事実を確認してあるので正確である)。一つの遊びとして楽しんでもらいたい。]

2010/04/22

ブログ220000アクセス記念 芥川龍之介関連昭和2(1927)年8月7日付片山廣子書簡(山川柳子宛)

ブログ220000アクセス記念として

「芥川龍之介関連昭和2(1927)年8月7日付片山廣子書簡(山川柳子宛)」

を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

片山廣子は本当に――心から――芥川龍之介を愛していた。――

その柔肌に触れもせで――芥川は逝った。――

――心から愛し合った者同士が何故結ばれてはならないのか――

それは永遠の矛盾である――

累計アクセス数: 220037 1日当たりの平均: 153.23 9:46現在

2010/04/22 20:11:39に

「一人の妻帯者である僕によって忘れられた僕の古い写真帖、さえも: 影となり訴へてゐる人が泣いてゐる」を見た

リモートホスト kng2-p110.flets.hi-ho.ne.jp (神奈川) のあなたが(あなたはこの前後に多量の私の頁を御覧になられた様子)

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、220000人目でした! 御来駕ありがとう! 今後とも御用達の程、よろしくお願い申し上げます!

では、220000アクセス記念テクストの作業に入ります。

ユリディス

 ユリディスは不幸である。

 どんな時代にも神話通りに必ずオルフェの妻にならねばならず、必ず毒蛇に嚙まれて死なねばならず、冥界から帰還出来そうになる矢先、愛に自信のないすっとこどっこいのオルフェが振り返るから、必ず永遠に地上に戻れない悲劇のヒロインでなくてはならないからである。

 おまけにユリディスが必ず愛さねばならない当代のオルフェは――既に嫉妬深いミラという正妻が居たり、はたまた53歳の爺(じじい)だったり、必ずしも優れた音楽家であるわけでも――必ずしもないからである。

耳嚢 巻之二 明君其情惡を咎給ふ事

「耳嚢 巻之二」に「明君其情惡を咎給ふ事」を収載した。遅滞していたわけではない。「心」の鎌倉のシーンには途中に別記事を入れたくなかったからである。

 明君其情惡を咎給ふ事

 享保の始とかや、何れの國にや百姓以の外相煩ひけるが醫師の相談しけるに、よき人參なくては難助趣申けれど、在郷の事人參の求むべき手寄(たより)なかりしを、倅に申付て江戸表へ才覺に出しけるが、彼倅途中にて人參の代を博奕(ばくえき)とやら遊女とやらんに遣ひ込、人參を可求手寄もなく、路用に手支(てづかへ)、兩國橋にて人の巾着など切りしを被召捕、御先手にて吟味の上、小盜(こぬすみ)いたし候者とて入墨敲(いれずみたゝき)とやらんに申上けるに、明君御尋ありて、右親は其病氣にて相果しや、又は快氣せるやと御尋有けるに、右病氣にて病死の由かたりければ、親を殺せし者の通り磔に被仰付けると也。親の煩ひて藥求めに出し身の、遊興の心あらんは誠に天誅のがるべからず、難有御德政也と霜臺の語り給ひぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。この辺り、全体に順列での連関は弱いような気がする。名君吉宗公エピソードの一。

・「明君」第八代将軍徳川吉宗。

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「人參」双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng =朝鮮人参のこと。

・「手寄(たより)」は底本のルビ。

・「手支(てづかへ)」は底本のルビ。

・「兩國橋」隅田川に架かっていた旧両国橋。現在の神田川と隅田川の合流点に近い中央区東日本橋と東岸の墨田区両国を結ぶ両国橋は移転後のもの。貞享3(1686)年に国境が変更されるまでは武蔵国と下総国との国境にあったことからの呼称。以下、ウィキの「両国橋」によれば、『創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。話柄からしてこの病んだ百姓は上総・下総・安房辺りの者でもあったのかも知れない。

・「御先手」先手組。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。以下、ウィキの「先手組」より引用する。『平時は江戸城に配置されている各門の警護、将軍外出時の警備、江戸城下の治安維持等を勤めた。』『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた』。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという』。『火付盗賊改方の長官は、御先手組の頭が加役として兼務した』。

・「入墨敲(いれずみたゝき)」は底本のルビ。共に身体刑の一種。「入墨」は古くからある刑ではあるが、一般化したのは寛保5(1745)年に耳鼻削ぎに代えて採用されて以降のことである。入墨の種類は各奉行所や藩によっても異なり、また窃盗などの付加刑でもあった。入墨は三回で死罪となった。「敲」は笞(しもと・すわえ:木製の笞杖や竹製の箒尻という鞭)で敲く刑。庶民の成人男性にのみ適用した。寛保5(1745)年から採用され、一時期廃止されたが、この吉宗の命によって寛延2(1749)年に復活している。敲は50回、重敲は100回。刑の執行時には罪人の家主や村・町役人が立合いが義務付けられていた。肩・背・尻に分けて損傷が致命的にならないように配慮はされたという。ただそうするとややおかしなことになる、何故なら、冒頭で「享保の始」と言っているからである。そこでは「敲」はまだ復活してはいないのである。疑義があるがそのまま訳した。

・「親を殺せし者の通り磔」尊属殺は律令の昔から八虐の内の四番目の「悪逆」に挙げられており、江戸時代も市中引廻しの上、磔という重罰であった。またこれには「縁座」が加えられ、殺人者に子があれば、その子も遠島となった。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。もう御馴染みの「耳嚢」の重要な情報源の一人。

■やぶちゃん現代語訳

 明君一決にて非道の子を厳罰に処した事

 享保の初めの頃のこととか。

 何処の国であったか、相応の百姓、極めて重篤な病いに罹ったが、医師に相談してみたところ、

「効能著しき朝鮮人参、これ、なきには救い難し。」

との見立て。されど、かくなる田舎のこと故、朝鮮人参なんどという代物、求むべき手段も、これ御座ない。そこで父は倅なる男に申し付けて、金子を渡し、それ以って何とか朝鮮人参を手に入れて来るよう江戸表に出だしやって御座った。

 しかし、この倅、江戸へ来る途中、親から受け取った朝鮮人参の代金を、悉く博打やら遊廓やらに使い込んでしまい、ただの人参一本さえ買う金もなくなり、遂にはその日の金にさえ困って、両国橋にて人の巾着を掏(す)ろうとしたところを召し捕らえられてしもうた。

 御先手方にて厳しく吟味の上、判例に示し合わせても初犯の窃盗致せし者なれば入墨・敲きが相当か、と御裁可を仰いだところ、時の明君吉宗公より、

「時に、その者の親は病いで相果てたのか? それとも快気致いたのか?」

との特にお訊ねの儀、これあり、

「その病(やまい)にて病死致いたとのことで御座います。」

とお答え申し上げた。すると吉宗公、毅然として、

「親を殺せし悪逆罪に準じ、市中引き回しの上、磔と致せ!」

とびしりと仰せられた。

「……親の命に関わる病いのために薬を求めに出た身でありながら、父が身を思わざるのみか、己れの爛れた快楽の心のみにとらわれておった人非人……これ、誠(まっこと)天誅免るること、御座ない!……いや、誠(まっこと)有難き御徳政で御座ったのぅ……。」

と、安藤霜台殿が語って御座った。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三回

Kokoro11_2   先生の遺書

   (三)

 私は次の日も同じ時刻に濱へ行つて先生の顏を見た。其次の日にも亦同じ事を繰返した。けれども物を云ひ掛ける機會も、挨拶をする場合も、二人の間には起らなかつた。其上先生の態度は寧ろ非社交的であつた。一定の時刻に超然として來て、また超然と歸つて行つた。周圍がいくら賑やかでも、それには殆ど注意を拂ふ樣子が見えなかつた。最初一所に來た西洋人は其後(そのご)丸で姿を見せなかつた。先生はいつでも一人であつた。

 或時先生が例の通りさつさと海から上つて來て、いつもの塲所に脫ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた。先生はそれを落すために、後向になつて、浴衣を二三度振(ふる)つた。すると着物の下に置いてあつた眼鏡(めがね)が板の隙間から下へ落ちた。先生(さきせい)は白絣(しろかすり)の上へ兵兒帶(へこおび)を締めてから、眼鏡の失(な)くなつたのに氣が付いたと見え、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ツ込んで眼鏡を拾ひ出した。先生は有難(ありかた)うと云つて、それを私の手から受取つた。

 次の日私は先生の後(あと)につゞいて海へ飛び込んだ。さうして先生と一所の方角に泳いで行つた。二丁程沖へ出ると、先生は後(うしろ)を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所(きんしよ)に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照してゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已(や)めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。靑空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色(しき)を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。

 しばらくして海の中で起き上る樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促した。比較的强い體質を有(も)つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。

 私は是から先生と懇意になつた。然し先生が何處にゐるかは未(ま)だ知らなかつた。

 夫から中二日(なかふづか)置いて丁度三日目の午後だつたと思ふ。先生と掛茶屋(かけぢやや)で出會つた時、先生は突然私に向つて、「君はまだ大分(だいぶ)長く此處に居る積ですか」と聞いた。考へのない私は斯ういふ問に答へる丈の用意を頭の中に蓄えてゐなかつた。それで「何うだか分りません」と答へた。然しにや/\笑つてゐる先生の顏を見た時、私は急に極りが惡くなつた。「先生は?」と聞き返さずにはゐられなかつた。是が私の口を出た先生といふ言葉の始りである。

 私は其晩先生の宿(やど)を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内(けいたい)にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖(くちくせ)だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。先生は彼の風變りの所や、もう鎌倉にゐない事や、色々の話をした末、日本人にさへあまり交際(つきあひ)を有(も)たないのに、さういふ外國人と近付になつたのは不思議だと云つたりした。私は最後に先生に向つて、何處かで先生を見たやうに思ふけれども、何うしても思ひ出せないと云つた。若い私は其時暗に相手も私と同じ樣な感じを有つてゐはしまいかと疑つた。さうして腹の中で先生の返事を豫期してかゝつた。所が先生はしばらく沈吟(ちんぎん)したあとで、「何うも君の顏には見覺がありませんね。人違ひぢやないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「いつもの塲所に脱ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた」何故、「何うした譯か」なのか? 意地の悪い私は、これは「私」が砂をかけておいたのだとさえ、思うのである。さすれば、以下の叙述には嘘がある。「私」は先生(以下、特別な場合を除き、「先生」という括弧書きは省略する)の眼鏡を予め、下に落としておいたのである。勿論、先生と接触を謀るための「策略」として、である。

 

♡「先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た」これについて、ある論文は死のポーズであるととっている。面白い解釈である。ただ、そこから先生が海への入水自殺で果てたのだ、という結論を導き出すのは如何かと思う。入水自殺の土左衛門は遺体が汚い。遺族の静がそれを本人確認せねばならないシーンを考えると、先生の自殺の条件から、当然、一番に排除されると私は判断する。

♡「にや/\笑つてゐる先生」気がつかれたか? こんな最初で先生は意外にも「にや/\笑つてゐる」のである。

♡「廣い寺の境内」現在の神奈川県鎌倉市材木座61719にある天照山光明寺である。浄土宗関東大本山。本尊阿弥陀如来、開基北条経時、開山浄土宗三祖然阿良忠(ねんなりょうちゅう)。漱石がこの寺の奥にある貸し別荘にしばしば避暑したことは、全集の注を始め、多くの資料に示されている。鎌倉から逗子へ抜ける街道沿いにあり、材木座海岸に近い。鎌倉の繁華街からは最も遠い「邊鄙(へんぴ)」な位置にある。

♡「私は變に一種の失望を感じた」これは先のデジャ・ヴュを受けるのであるが、全く以ってこれは、「私」の異様な心性である。異様? いや、至極、素直な恋愛感情の表明である。「私」の内なる同性愛傾向を、私はここでも強く感じるものである。]

 

 

 

 

2010/04/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二回

Kokoro11   先生の遺書

   (二)

 私が其掛茶屋(かけぢやや)で先生を見た時は、先生は丁度着物を脱いで是から海へ入(はい)らうとする所であつた。私は其反對に濡れた身體を風に吹かして水から上つて來た。二人の間には目を遮る幾多の黑い頭が動いてゐた。特別の事情のない限り、私は遂に先生を見逃したかも知れなかつた。それ程濱邊が混雜し、それ程私の頭が放漫であつたにも拘はらず、私がすぐ先生を見付出したのは、先生が一人の西洋人を伴(つ)れてゐたからである。

 其西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋(かけちやや)へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粹の日本の浴衣(ゆかた)を着てゐた彼は、それを床几(しやうぎ)の上にすぽりと放り出した儘、腕組(うでぐみ)をして海の方を向て立つてゐた。彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けてゐなかつた。私には夫(それ)が第一不思議だつた。私は其二日前に由井(ゆゐ)が濱(はま)迄行つて、砂の上にしやがみながら、長い間西洋人の海へ入る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸(おろ)した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍(わき)がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝(ぢつ)としてゐる間(あひだ)に、大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許(ばか)りの私の眼には、猿股一つで濟まして皆(みん)なの前に立つてゐる此西洋人が如何にも珍らしく見えた。

 彼はやがて自分の傍(わき)を顧みて、其處にこゞんでゐる日本人(にほんじん)に、一言二言何か云つた。其日本人は砂の上に落ちた手拭を拾ひ上げてゐる所であつたが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ步き出した。其人が卽ち先生であつた。

 私は單に好奇心の爲に、並んで濱邊を下りて行く二人の後姿を見守つてゐた。すると彼等は眞直(まつすぐ)に波の中に足を踏み込んだ。さうして遠淺の磯近(いそぢか)くにわい/\騷いでゐる多人數(たにんず)の間を通り拔けて、比較的廣々した所へ來ると、二人とも泳ぎ出した。彼等の頭が小さく見える迄沖の方へ向いて行つた。夫から引き返して又一直線に濱邊迄戾つて來た。掛茶屋(かけぢやや)へ歸ると、井戶の水も浴びずに、すぐ身體を拭いて着物を着て、さつさと何處へか行つて仕舞つた。

 彼等の出て行つた後(あと)、私は矢張元の床几に腰を卸して烟草を吹かしてゐた。其時私はぽかんとしながら先生の事を考へた。どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた。然し何うしても何時何處で會つた人か想ひ出せずに仕舞つた。

 其時の私は屈托(くつたく)がないといふより寧ろ無聊(ぶれう)に苦しんでゐた。それで翌日(あくるひ)も亦先生に會つた時刻を見計らつて、わざ/\掛茶屋(かけちやや)迄出かけて見た。すると西洋人は來ないで先生一人麥藁帽を被つて遣(やつ)て來た。先生は眼鏡をとつて臺の上に置いて。すぐ手拭で頭を包んで、すた/\濱を下りて行つた。先生が昨日の樣に騷がしい浴客(よくかく)の中を通り拔けて、一人で泳ぎ出した時、私は急に其(その)後(あと)が追ひ掛けたくなつた。私は淺い水を頭の上迄跳(はね)かして相當の深さの所迄來て其處から先生を目標に拔手(ぬきで)を切つた。すると先生は昨日と違つて、一種の弧線を描いて、妙な方向から岸の方へ歸り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかつた。私が陸(をか)へ上つて雫(しづく)の垂れる手を振りながら掛茶屋(かけちやや)に入(はい)ると、先生はもうちやんと着物を着て入違ひに外へ出て行つた。

 

[♡やぶちゃんの摑み:上記の通り、この回には最後に飾罫がない。

 

♡「先生」私は嘗て「先生」の年次を推定したことがある。詳しい根拠などは私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、彼が自死した明治451912)年当時を満35歳か36歳と推定、以下のように仮に設定してみた。

 

明治101877)年前後 新潟に生まれる。

 

明治341901)年   23

 2月中旬 K自殺。

 同年5月 奥さんとお嬢さんと共に現在の家に転居。

 同年6月 東京帝國大學卒業。

 同年暮れ 靜と結婚。

明治411908)年   31

 同年8月 鎌倉材木座海岸にて語り手「私」と出逢う。

 

諸君が考えているように、「先生」は決して年老いてはいないのである。大事な点だ。Kの死後、十年以上経過している等と言うことは、現実的諸証拠から、あり得ない。そしてまた、十年以上生き永らえてしまい、「私」に逢わず、明治大帝の死と乃木大将の殉死と言う事態に遭遇しなければ、「先生」は自殺しなかった。その遺書冒頭で彼自身が記した如く、人生を「ミイラの樣に存在して行」ったに違いないのである。そうして、そうした「先生」を想像する時、私は寧ろ心底、慄っとするのである。

 

♡「先生が一人の西洋人を伴れてゐたから」この限定は深い意味があると考えざるを得ない。そうしてこれ以降の「私」の視線が、この西洋人の裸体の「肉」に注がれ続けることに注視せねばならない。そうしてこの視線は、或る意味、極めて同性愛的傾向を感じさせる猥雑なる視線(その猥雑さを「私」は全く意識していないのであるが)であることに気づかねばならぬ。

 

♡「我々の穿く猿股」猿股自体を西洋褌とも言うが、ここではよくイメージされる股引、薄い下着としての猿股よりも、やや生地の厚いものとも考えられる。明治十年代以降に海水浴で盛んに用いられるようになったパンツ式の男性用水着である。

 

♡「遠淺の磯近く」材木座海岸の小坪(逗子)寄りには、日本最初の人工の築港跡である和賀江ノ島があり、現在でも岩礁が残り、ごろた石も多く(北条泰時は岩石を投げ入れて港を作った)、砂浜海岸である由比ヶ浜でも、所謂、磯浜の雰囲気を今も持っている。従って私の馴染んでいる材木座海岸の表現としては「磯」は必ずしも違和感がない。但し、漱石は岩礁性海岸としての「磯」と言う語を用いているのではなく、広義の海岸の意味で、この語を用いているようには感じられる。

 

♡「どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた」このデジャ・ヴュ(既視感)は重要な「私」の特異的心性である。ここに小説「心」という世界は本格的に起動しているのである。

 

♡「一種の弧線」作品全体を支配する円形運動の最初の発現部である。勿論、現実的には、ここで「先生」は、妙な若者が自分をストーカーしていることに薄々勘づいて回避したとも言える。]

2010/04/20

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第一回

[やぶちゃん冒頭注:本テクストは、今から96年前の今日から『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に全110回で連載された夏目漱石の「心」の復刻を、2010年の同一日付で私のブログに連載することで、日本人が最初に漱石の「心」に出逢った、その日その日を、同じ季節の中、且つ元の新聞小説の雰囲気で日々味わうことを目指すものである。

 新聞連載時は一貫して「心(こゝろ)」と漢字表記で、現行の単行本「こゝろ」のように「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の3パートには分かれておらず、最終百十回迄、やはり一貫して「先生の遺書」という副題で維持された。

 

 なお、この連載は理由は不明であるが、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』で途中から掲載日がズレを生じ始め(第49回掲載が『東京朝日新聞』6月10日(水曜日)であったものが、『大阪朝日新聞』6月11日(木曜日)となっている。6月10日の『大阪朝日新聞』には掲載がない)、その後も新たな『大阪朝日新聞』不掲載があったりして、最終的には『東京朝日新聞』の第百十回(最終回)掲載が大正3(1914)年8月11日(火曜日)であったのに対し、『大阪朝日新聞』のそれは8月17日(月曜日)と6日遅れとなっている。

 

 あくまで私は『最初の「心」』ということで『東京朝日新聞』掲載の日に拘って公開してゆく(最終的にはサイトに全文をアップする予定である)。

 

 原典は総ルビであるが、私のHPビルダーでのルビは極めて煩瑣でブログでも読み難くなるため、読みの振れそうな漢語(高校生が読むに極めて難しいと判断したものに限り、極めて禁欲的に選んだ)及び特異な読み方をしているもののみに限定して( )で読みを附した。但し、これについて注意されたいのが、「相談(さうたん)」「有難(ありかた)う」「近所(きんしよ)」のように、そこには当然植字の際の誤りと思われるものも含まれている点である。そうした誤りも可能な限り、忠実に再現して、ナマ当時の読者の躓いた部分をも味わってゆこうというのが本テクストである。従って、そうしたものであっても「ママ」表記等は五月蠅くなるので附していない。

 

 但し、標題「先生の遺書」と丸括弧内の回数数字は、ポイントが有意に大きいが、本文と同じにし、回数表示位置は当該位置(「先生の遺書」の「先」の下方位置から)では窮屈な感じになるので、ここでは少し下げた。「/゛\」に対する生理的嫌悪感から踊り字「〲」のみは正字に直し、「江」の字の崩し字の「え」は「え」に直した。一部の熟語は一度読みを振った後は一切読みを省略したものもあり、「有(も)たない」「夫(それ)は」「不圖(ふと)」「許(ばか)り」等の一部の癖のある読みは最初の数回に附した後は省略した。これらは「こゝろ」を読む上での読み癖として学習して頂きたい。フォントは、やはり新聞の活字に近いものを感じて戴くために頁全体を明朝太字とした。

 底本は平成3(1991)年和泉書院刊の近代文学初出復刻6『夏目漱石集「心」』(玉井敬之・鳥居正晴・木村功編)の天理図書館蔵『東京朝日新聞』写真版画像本文を用いたが、画像の判読は完全に私自身の眼によった。

 また、将来はオリジナルな注を総てに附す覚悟ではあるものの、今回それを行っているとプロジェクトが頓挫する可能性が高いので、涙を呑んで「♡やぶちゃんの摑み」という感想を附すに留めた。これは、飽くまで自由気儘手前勝手なオリジナルに私の考える、その章の摑みと思える感想、というコンセプトで押し通すこととする。これもしかし、何う間違つても、私自身のもので、間に合せに借りた損料着ではない。他の「こゝろ」のテクストでは味わえない私だけのものであると確かに自負するものである。

 なお、総標題と副題及び末尾の飾り罫線を底本より画像で読み込んで挿入、新聞小説の雰囲気を感じる便(よすが)とした。献辞:先日、このプロジェクトを予告して以来、二人の女性――知人と現役生の教え子――が、この公開を楽しみにしていると私に声をかけて呉れた。その二人に、このテクストを捧げたい。

 

Kokoro11_3



 漱 石

  先生の遺書

   (一)

 私(わたし)は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々(よそ/\)しい頭文字抔(など)はとても使ふ氣にならない。

 私が先生と知り合になつたのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であつた。暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達から是非來いといふ端書を受取つたので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。私は金の工面に二三日を費した。所が私が鎌倉に着いて三日と經たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に國元から歸れといふ電報を受け取つた。電報には母が病氣だからと斷つてあつた。けれども友達はそれを信じなかつた。友達はかねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられてゐた。彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の當人が氣に入らなかつた。夫(それ)で夏休みに當然歸るべき所を、わざと避けて東京の近くで遊んでゐたのである。彼は電報を私に見せて何うしやうと相談(さうたん)をした。私には何うして可(い)いか分らなかつた。けれども實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固(もと)より歸るべき筈であつた。それで彼はとうとう歸る事になつた。折角來た私は一人取り殘された。

 學校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日數(につすう)があるので、鎌倉に居(を)つても可(よ)し、歸つても可(よ)いといふ境遇にゐた私は、當分元の宿に留(と)まる覺悟をした。友達は中國(ちうこく)のある資産家の息子で金に不自由のない男であつたけれども、學校が學校なのと年が年なので、生活の程度は私とさう變りもしなかつた。從つて一人坊(ひとりぼつ)ちになつた私は別に恰好(かつかう)な宿を探す面倒も有たなかつたのである。

 宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた。

 私は每日海へ這入(はい)りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返つた藁葺(わらふき)の間を通り拔けて磯へ下りると、此邊にそれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黑い頭でごちや/\してゐる事もあつた。其中に知つた人を一人も有(も)たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹(つゝ)まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭を波に打たして其處いらを跳ね廻るのは愉快であつた。

 私は實に先生を此雜沓の間(あひだ)に見付出したのである。其時海岸には掛茶屋(かけちやや)が二軒(のき)あつた。私は不圖(ふと)した機會(はづみ)から其一軒(けん)の方に行き慣れてゐた。長谷(はせ)邊(へん)に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自(めい/\)に專有の着換塲(きがへば)を拵へてゐない此處いらの避暑客には、是非共斯うした共同着換所(きようどうきがへしよ)といつた風なものが必要なのであつた。彼等は此處で茶を飮み、此處で休息する外に、此處で海水着(かいすゐき)を洗濯(せんだく)させたり、此處で鹹(しほ)はゆい身體(からだ)を淸めたり、此處へ帽子や傘を預けたりするのである。海水着(かいすゐき)を持たない私にも持物を盜まれる恐れはあつたので、私は海へ這入る度に其茶屋へ一切を脫ぎ棄てる事にしてゐた。

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[♡やぶちゃんの摑み:

「心」というこの総標題と副題「先生の遺書」の関係について述べておく。漱石は、この新聞連載小説では、実は「心」という総標題の下に複数の短編で本作全体を構成するというオムニバス・ストーリーの形式を予定していたとされる。即ち「先生の遺書」は、例えば1箇月なり2箇月弱なりで終了する作品として構想されたものであった。ところが、書いているうちに例のどんどん長くなってしまう漱石の癖によって、オムニバスどころか一大長篇になってしまったのであった。そして漱石は連載中、この幻の短編である「先生の遺書」の副題を変更することなく(変更のしようがないとも言えるが)そのまま使い続けたのであった。そのため、当時の新聞小説の愛読者は、この題名から、いつになったら先生の遺書が読めるのかと、相当に焦らされたものと推測される(現在の「下 先生と遺書 一」は実に連載から約2箇月弱後の第55回――『東京朝日新聞』で6月16(火)、『大阪朝日新聞』で6月18(木)――でのことであった)。即ち、当時の読者は、この冒頭から先生の死を「先生の遺書」という表題によって十分過ぎるほど認知した上で読んでいたのであり、現行の単行本を読み始めるのとは、微妙に印象が異なるという事実も見逃してはならない。

 

♡「私(わたし)」驚天動地! 初出では「わたくし」ではなく「わたし」だった!……しかし……僕はもう刷り込まれて「わたくし」でないと朗読出来なくなっているのだ……。

 

「餘所々々しい頭文字抔はとても使ふ氣にならない」は意味深長である。先生はその遺書で「K」という「餘所々々しい頭文字」を使って恋敵を示した。これは「先生」の心性と、今現在この手記を記す「私=学生」の心性の明らかな違い、いや、今は「先生」よりも成長した人間としての「学生=私」を表明する大切な一言である。なお、この一段落によって読者であるあなたは、この「私」なる人物から『特に選ばれたたった一人』として、『極内密に「私」だけが知る「先生」の秘密を打明けられる』のだ、という構造を持っていることに、この時点で気付いておいて欲しいと私は思う。これは公的に不特定多数に示された「私」の告白『ではない』。この手記が、そのような極めて特殊な『読者であるあなた一人への「私」の秘密の告白録』であるということは、追々この場で立証してゆきたいと思う。

 

♡「若々しい」現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といった負のニュアンスの語である。

 

♡「暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達」は単に「私」と「先生」の出逢いをセットするための小道具だなどと考えてはいけない。この友達が帰郷することになる事態は、この「心」という小説のテーマと密接に関わってくるものであるからだ。この友人は「かねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられて」おり、「彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎ」、「それに肝心の當人が」その結婚相手の女を「氣に入らなかつた」のである。しかし、「實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固より歸」らねばならないという伝統的道徳律にも縛られている。結局は彼の場合は「とうとう歸る事になつた」のである。そこでは、明言していないものの、やはり帰るべきではなかろうかという忠告が当の「私」からも成された臭いさえする。これは先生が叔父の策略によって従姉妹と結婚させられそうになる事実、更には「私」が危篤の父を置いて、東京に向かうという事実への伏線であり、本作の『日本の家という呪縛』という隠されたテーマとも密接に関わって来るものである。更にもう一つのポイントは、この時の「私」の若さ=年齢及びその学齢の問題である。底本の(十一)の「其時の私は既に大學生であつた。」の注で、ここ(一)で「私」が「先生」と知り合った際の年号年齢説として以下の三つを掲げている。即ち、ここでの「私」の年齢・学齢について、

 

(1)江藤淳説  明治431910)年   大学2年

(2)平岡敏夫説 明治411908)年 高等学校3年

(3)藤井淑禎説 明治401907)年 高等学校1年 又は

         明治411908)年 高等学校2年

 

であるとする(注の最後には大正2(1913)年当時は東京帝国大学入学者の平均年齢は22.5歳であったというデータも示す)。(1)の江藤説は問題にならない(私は現在、彼の「こゝろ」論を悉く嫌悪している)。誤りである。これでは(十一)の冒頭の一句「其時の私は既に大學生であつた」の謂いが如何にも不自然である。また、この説を採ると「先生」と「私」との濃厚な接触時間はたったの1年ということになってしまうのだ。私は嘗て、自身の「こゝろ」研究の過程で、この時の「私」を、明治451912)年当時、満23歳か24歳と推定して逆算、明治211888)年に中部内陸地方辺りに生まれ、明治391906)年に17歳で第一高等學校に入学したものと考え、(3)の藤井説の二番目の仮説と同意見、

 

明治41(1908)年 満18~19歳

 7月下旬か8月  第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で先生と出会う。

 

と推定した(私のサイト『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照)。私は現在もこの考えを変える意思はない。

 

「畷」田圃道。畦道。

 

「車で行つても二十錢は取られた」勿論、人力車でである。

 

♡「古い燻ぶり返つた藁葺の間を通り拔けて磯へ下りると」とあるが、これは次の「長谷邊に大きな別莊を構へてゐる人と違つて」という叙述と対応して、ここが由比ヶ浜の、海(相模湾)に向かって左側、所謂、材木座海岸であることを明確に示すものである。これは次の(三)に示される「先生」の宿の位置からも容易に理解される同定地なのである。それは何より、私自身が幼少時から慣れ親しんだ地でもあるからである。] 

2010/04/19

カウント・ダウン

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近々220000アクセスだ……

……そしてもう一つ……後、25分後に始動する――

耳嚢 巻之二 茶事物語の事

 

「耳嚢 巻之二」に「茶事物語の事」を収載した。

 

 茶事物語の事

 

 

 

 數奇(すき)の者の作語ならんが、或日茶事の宗匠路次(ろし)を淸め、獨り茶をたてゝ樂しみける折から、表に非人躰(てい)の者暫く立て其樣子を伺ひ、庭のやうなどを稱しけるにぞ、彼宗匠立出で、汝は茶を好けるやと言ければ、我等幼少より茶を好翫(このみもてあそび)しが、今の身の上にも御身の茶事に染み樂み給ふを浦山敷(うらやましく)、思はず立留りぬと答へければ、不便にも又風雅に覺へて、ふるき茶碗に茶一服を與へければ、辱由(かたじけなきよし)をこたへ、恐れある申事なれど、來る幾日の朝そこくの並木松何本目のもとへ來り給へ、我等も茶を差上んと言て去りぬ。いか成事や不審(いぶかし)とは思ひしが、其朝かの松の元へ至りしに、其あたり塵を奇麗に拂て古き茶釜をかけ、松の古枝たるやうのものを其下に焚て、新ら敷(しき)淸水燒の茶碗茶入茶杓も、いづれも下料(げれう)にて出來る新しき物を並べ置、彼非人は其あたりに見へ侍らず。實も風雅なる心と、茶を獨樂て歸りけるが、いかなる者の身の果なるや、誮(やさ)しき事と右宗匠の語りけるとなり。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:連関を感じさせない。岩波版長谷川氏注には明和7(1770)年京都で版行された永井堂亀友の浮世草子「風流茶人気質」(ふうりゅうちゃじんかたぎ)五の一の類話とし、これを元に作られた話かもしれない、とされる。早稲田大学の電子画像で当該書が読めるが、数寄の方はお読みあれ。……私は、尻をからげて退散致しまする。挿絵は如何にもな感じです……。

 

・「路次」は一般には路地や路上の意であるが、ここは茶室に至る庭(そこはまた戸外にも続いている)のことを言っているように思われる。岩波版長谷川氏注も『路地。茶室付属の庭園』とされている。

 

・「數奇」風流・風雅に心を寄せること。特に茶の湯や生け花などの風流・風雅の道に限定して用いることが多い。「好き」を語源とし、「数寄」「数奇」は当て字である。

 

・「非人躰の者」とあるが、かつて茶の嗜みを持っていた点、間違いなく身分刑として「非人手下(てか)」によって、非人の身分に落とされた者であると考えられる。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)か(3)か(4)辺りで想像するのがイメージを壊さずに済みそうである。(6)は茶道への親しみと言う点では年齢的に微妙に無理がある気がしないでもないが、わざわざ「幼少より」と述べている点で、可能性がないとは言えぬ。一種の貴種流離譚であるならば、それもあり。

 

・「辱由(かたじけなきよし)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 茶道物語の事

 

 数寄(すき)の者の作り語(ごと)かも知れぬ話で御座る。

 

 ある日、茶事の宗匠が茶室に至る小さなる路次(ろし)の庭をも綺麗に掃き清め、独り茶を点(た)てて楽しんで御座った。

 

 すると、路次の外(と)に、一人の非人体(てい)の者が佇んでおり、こちらの様子を如何にも優しげなる面持ちにて伺っておるのと、眼が合(お)うた。

 

 男は、

 

「……結構なる御庭にて御座る……」

 

と非人にも似ず、庭の様なんどを褒めたれば、宗匠、茶室より立ち出でて、

 

「……汝(なれ)は、茶を好まれるか……」

 

と声をかけた。男は、

 

「……はい……我ら、幼少の折りから茶道を好み親しんで御座いましたれど……今はかくなる身の上……なれども御身が茶事に馴染み且つ楽しんでおられる様、殊の外、うらやましゅう……思わず路次に佇んで御座居ました……」

 

と応えた。

 

 宗匠、この男を不憫にも、また、風雅なるお人ならんとも思い、古寂びた茶碗にて茶を一服点てて与えたところ、

 

「忝(かたじけな)くも有難き幸せ……」

 

と礼を申して、加えて、

 

「……畏れ多いことにては御座居まするが……来(きた)る何日の朝方、何処其処の並木通りの、何本目の松の下(もと)へ、御来駕あれかし。我らも一服、茶を差し上げとう存知まする……」

 

と言い添えて去って行った。――

 

 宗匠、

 

『……非人の身の上にて、一服茶を献ずるとは……如何にして茶事を致さんとするものか?……』

 

と如何にも不審に思っては御座った。――

 

 さてもその約束の日の朝、予(か)ねての場所を訪れてみると……

 

――その松の辺り、数畳程が、すっかり塵が払われて、松が枝(え)の下、あたかも侘びたる茶室の如、松の根と苔の具合も、路次の庭の如……

 

――古侘びた茶釜をかけ、松の古枝のようなるものをその下に焚きて、湯は丁度、良き頃合いと沸いて御座る……

 

――新しき清水の茶碗・茶入れ・茶杓など、どれも安き値に求め得るところ乍ら、真新しくも、されど、あざとさのない愛すべき品々なんどが並べ置いて……

 

――されど、かの非人の姿、その辺りには見えませなんだ……。

 

 宗匠、心に思うらく、

 

『……げにも風雅な心――』

 

と、そこで独り茶を点てて楽しみて帰った、という。――

 

 

「……さても……如何なる者の、身の果てじゃった者か……哀感風情に満ちた出来事で御座った……」

 

と、この宗匠が語ったということで御座る。

2010/04/18

男 村上昭夫

男は女の部屋からでてきたのだ

どの男もどの男も

部屋には女が永遠に死んでいるのだ

どの女もどの女も

 

部屋から出てきた男は

ひとりで歩いてゆかねばならない

部屋に女を残したまま

部屋に女を死なせたまま

 

それからは

男を入れる部屋はない

どの世界にもどの世界にも

耳嚢 巻之二 供押の足輕袴を着す古實の事

「耳嚢 巻之二」に「供押の足輕袴を着す古實の事」を収載した。

 供押の足輕袴を着す古實の事

 諸大名の供足輕袴を着し、若年寄其外御旗本の足輕は袴を着せざる。寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の足輕は何れも袴を着し、夫より若年寄に進み給ひて押足輕袴を取候事、仔細もあらん事と思ひしに、久松筑前守語りけるは、都(すべ)て諸家の足輕にて同心也。御城は圍(かこひ)御用差懸り候節は諸家へ可被仰付、其節の爲也と聞傳へし由、筑前守かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:言い伝えの双頭の生き物が実在したように、一見理解出来ない供押足軽の袴着用にも故実としてのプラグマティックな意味があるという連関。この話柄を理解するためには、幾つかの知識が前提として必要である。まず足軽の身分である。足軽は戦時の雑兵であったが、江戸の平時に至ってお払い箱になった。以下、ウィキの「足軽」より引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』が、『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせることもあった。こうした例に熊本藩の「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』。特に、この後半の厳然たる侍や御徒士(おかち)とは差別されていた「足軽」をここでは根岸の、と言うより当時一般の「足軽」のイメージとした方がよい。則ち、袴の着用が侍や御徒士には許されたが、足軽は通常、袴の着用はおろか、下駄や足袋を履くことも許されず、裸足で付き従ったというような軽輩の存在としての足軽の認識である。――だのに、何故、ある特定の足軽が袴を穿いているのか? 穿くことが許されているのか? 袴を穿いた足軽は何か特別上級の足軽ででもあったのだろうか? といった根岸の時代に根岸にも分からなくなっていた素朴な疑問を、この話柄は解き明かそうとするものなのだと思われる。……しかし正直言うと、どうも現代語訳をしてみても、私自身が腑に落ちない部分がある。則ち、何故、その「諸大名」「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の」供押えの足軽のみが袴を穿き、「若年寄其外御旗本」の足軽は袴を穿かないのかがすっきりと説明されているようには思われないからである。それらの職分と袴の足軽と非常事態宣言時の足軽江戸城警護出役義務の構造がしっかりと分からないと本話柄は完全には理解出来ないのではないか、と馬鹿な私は思うのである。「若年寄其外御旗本」は正にその命令を発する危機管理側の中枢や直接支配下にあり、幕府組織の構造上、常時、将軍と一緒に本人が警護役として存在しているから足軽出役は不要である、ということなのか? 「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」は緊急事態発生時に江戸城保守警備命令が下され、その際の出役義務があるから袴を穿いた足軽が必要だというのであろうか? それでもまだ疑問が残る。その際の出役方足軽が何ゆえに行列の最後の供押えの足軽でなくてはならないのか? もっと言えば、出役はそのたった1名でいいのか? そもそも「若年寄其外御旗本」と、「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」の間に引かれる明確な線(区別)は何なのか?……細かく考えれば考えるほど分からなくなるのである。日本史の先生にも聞いたのだが、どうも私が阿呆なために、納得できないでいる。何処かに決定的な誤解があるのかも知れないとも思う。例えば「諸家」「同心」の意味であるとか、「足軽」を総て「供押えの足軽」として解釈している点であるとか……どうか、私のこの悩みを、何方か、眼から鱗で解いては下さる方はあるまいか?……

・「供押の足輕」「供押」は「ともおさへ」と読む。本文の「供足輕」「押足輕」も同義。岩波版長谷川氏注に『行列の最後にあって、乱れを整える役の者』とある。

・「旗本」ウィキの「旗本」によれば、『歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されているが、厳密にはそう単純ではない』とし、最も広義な意味での旗本とは、大名及び大名の扱いを受ける者以外で将軍に謁見の資格を有する者を指す、とある。

・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した重役。譜代大名から任命された。

・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。

・「御奏者番」江戸城城中に於ける礼式全般を職掌とした。譜代大名から任命。定員は特に定めがないが約2030名で、万治元(1658)以後はその内の4名が寺社奉行を兼任した(以上は、ウィキの「奏者番」を参照した)。

・「久松筑前守」諸注、久松定愷(さだたか 享保4(1719)年~天明6(1786)年)とする。諸注を総合すると書院番・御使番・駿府町奉行を経て、明和5(1768)年に普請奉行となり、従五位下筑前守。安永9(1780)年、大目付。根岸よりも18歳年上である。

・「同心」この同心とは幕府の役職としての同心という固有名詞ではなく、一味同心の意であろう。

・「圍御用」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『固(かため)御用』とある。緊急時の江戸城防衛のことと思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 供押の足軽だけが袴を穿くことが許されている古実についての事

 諸大名の行列の最後を行く供押えの足軽は袴を穿いており、若年寄その他、御旗本衆の供押えの足軽は袴を穿いていない。寺社奉行や御奏者番をお勤めになられる諸大名の供押えの足軽は皆、袴を穿いており、それより上、若年寄に昇進なさると、その供押えの足軽は袴を取ってしまって御座る。

 このこと、何か仔細もあるのであろうと思っていたところ、久松筑前守定愷殿が語ったところによれば、

「総ての諸家諸大名の足軽は一味同心で御座って、これ、差は御座ない。火急の節、江戸城防衛の御用が必要となって御座った折りには、諸大名へ、その旨御命令仰せ付けらるるので御座るが、その際、将軍直属の江戸城守備正規兵として登城さすべく、かの諸大名衆供押えの足軽には特別に袴の着用が義務付けられておるので御座る、と昔から聞き伝えて御座る。」

と筑前守殿のお話であった。

2010/04/17

Giovanni Mirabassi : piano ssolo “El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido”

今日、僕は勿論、貴女に

Giovanni Mirabassi

piano solo

El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido

を確かに贈りたいのだ――

捨て猫 村上昭夫

あれがひろわれることがないなら

世界はまだぶよぶよのかたまりだろう

およそあれがひろわれなかったことを

見たことがない

 

あれが誰にもひろわれなかったなら

世界は雨と風と吹雪のなかに

塩をかけられたなめくじのように溶けているはずだ

 

あれは捨てられたその時から

親も兄弟も

あれに加わる味方は誰ひとりいないのだ

親はあれのひろい主をかんじょうにいれて

また捨て子を生むのだ

 

夜中じゅう鳴きあかした

あれの鳴声が絶えたとき

もう何処をさがしても

あれの死がいさえ見つからない

耳嚢 巻之二 兩頭蟲の事

「耳嚢 巻之二」に「兩頭蟲の事」を収載した。

 兩頭蟲の事

 孫叔敖(そんしゆくがう)が兩頭の蛇を殺し、其外兩頭の蟲類の事人のかたり傳ふ事なるに見し事なかりしが、河野信濃守御作事奉行の節、相州鎌倉鶴岡の八幡御修復御用にて彼地に有しに、守宮(いもり)の兩頭ありしを鹽にひたして持かへり、予も親しく見侍りき。

□やぶちゃん注

○前項連関:相対死にと双頭で何となく連関、いや、見よ! 長崎→福岡→大阪→鎌倉……このルートは、予言か!?(以下の「守宮(いもり)」の注必見!)

・「兩頭蟲」「りょうとうのむし」と読んでいるものと思われる(岩波版標題「両頭のむしの事」)。「蟲」は昆虫ではなく広く動物の意である。両頭と言うと私には体躯の正中線の前後に頭を持つ奇形をイメージする(実際にそのような奇形が見られ、最近でも正にそうしたイモリが中国で見つかったニュースを聞いた)。ここで根岸の言うのは頭部が二つに分かれているタイプの奇形であると思われ、それを私はここの現代語訳では一貫して「双頭」で表現しておきたい。生物学的には遺伝子異常や受精卵の卵割時に何らかの物理的圧力や化学的刺激が加わることによって生ずる、まま見られる奇形である(稀と言うには微妙に疑問がある)。参考までに私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に所収する「両頭蛇」を是非、参照されたい。但し、その私の注は双頭に、基、相当に長いのでお覚悟あれかし!

・「孫叔敖が兩頭の蛇を殺し」孫叔敖(生没年不詳)は春秋時代の楚の令尹(れいいん=宰相)。楚屈指の賢相。富国強兵策を講じ、荘王に天下覇権を成功させた。彼の「双頭の蛇」の話は孫の少年時代の逸話として前漢の劉向(りゅうきょう)の書いた「新序」に記されている。以下、参照したウィキの「孫叔敖」より引用する。『ある時、孫叔敖が遊びに出向いた時、頭を二つ持つ蛇に出会い、とっさにその蛇を殺し穴に埋めて、家に戻った。その後孫叔敖は母親に対し「双頭の蛇を見た者はすぐに死ぬとあります。私はつい先ほどその蛇を見てしまったので、もうすぐ死ぬでしょう。」と涙ながらに語り、「他の人がその蛇を見てはいけないので、殺して埋めました。」とも語った。これを聞いた母親は「そういう隠れた善行を行った者には、天は福をもって報いるのです。だから死ぬ事はありません。」と諭した。実際、孫叔敖は母が言っていた通り、死ぬ事は無かった』。

・「守宮(いもり)」は底本のルビ。注意されたい。「守宮」と書いて「いもり」と振っている。これは底本自体の誤りか校訂者鈴木氏の誤りかは不明であるが(恐らく鈴木氏の誤り)、この誤り、ままあることではある。私の愛読する“GOTO's Room”の、「ヤモリとイモリを取り違えた話。(古文献から外来種ニホンヤモリを推理する!?)」に興味深い記載があるが、該当HPは無断引用を禁じているので要約する。まず元禄101697)年刊行の人見必大「本朝食鑑」の「蝘蜓(えんてん)」の項には以下の記載があるとして引用されている(この引用は歴史的仮名遣いに誤りが見られ、恐らくGOTO氏によって手が加えられているものと思われるが、そのまま一部の読みを排除し、漢字表記可能な部分を直し、基本的には『そのまま』「本朝食鑑」の文章と見なして引用する。従って無断引用の埓外である)。

『也毛利と読む。守宮の解釈。源順は止加介と読むが、必大が案ずるところ今の也毛利なり。蜥蜴に似るが短肥、灰黒色、首は扁平、頸長、眼大きく光有り、背に細鱗紋有り、四足、身長六七寸に過ぎず、つねに屋壁、障子屏風、窓戸の間にいて、古宮、廃宅にもっとも多く、人を畏れず、人を害さず、首を反らして人をにらんで去る。よく蝎蝿を捕らえて食べる。江東(関東)諸州にこれ未だ見えず。京師(京都)、五畿(畿内)及び海西(九州)諸州にこれ有り。およそ蠑螈(えいげん)蝘蜓(えんてん)には毒有り。これを食する者有ることを聞かずなり』

ここでGOTO氏にとっても、ここで注をする私にとっても、極めて興味深い事実が判明するのである。即ち、ヤモリの棲息域に関わる記載である。元禄101697)年の時点ではヤモリは関東以東には進出していなかったのである。採集地は、鎌倉である。「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年であるから、この100年で東征が果たされなかったとは言えないが、この事実によって俄然、『ヤモリでなくイモリ』である可能性が高まったと言えよう。以下、GOTO氏は如何にも学名から日本固有種に見えるニホンヤモリ Gekko japonicusが実は外来種で『貿易船に紛れ込んで筑前福岡の港から侵入。江戸時代には近畿地方まで進出を果たし』ていたとも記されている(以上、“GOTO's Room”の引用要約部分は終了)。

双頭奇形はヤモリでもイモリでも起こるが、以上から、これは守宮「ヤモリ」ではなく井守「イモリ」、現在は関東でも普通に知られる爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ニホンヤモリ Gekko japonicus ではなく、イモリの中でも本邦で通常「イモリ」で通用する両生有尾目イモリ亜目イモリ科トウヨウイモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster と考えてよいと私は思う。なお、GOTO氏がリンク先で引用されている南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」は私が注を施した電子テクストがある。更にやはり私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」には「蠑螈(いもり)」及び「守宮(やもり)」の項がある。こちらも参照されたい。

・「河野信濃守」諸注、河野安嗣(やすつぐ 享保3(1718)年~天明5(1785)年)とする。小普請組頭・御徒組などを経て安永5(1776)年御作事奉行となり従五位下信濃守、次いで天明3(1783)年、大目付。従って、本話柄は安永5(1776)年から天明3(1783)年までの間の出来事となり、この頃根岸は御勘定吟味役であった。河野は根岸より19歳年上である。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「相州鎌倉鶴岡の八幡」相模国鎌倉鶴岡八幡宮寺。当時は神仏習合であったのでこう表記しておく。双頭の井守の発見場所を源平池なんどと早合点してはいけない。鎌倉は谷戸多く、清水滴る湿地も多い。私は十二所(じゅうにそ)の番場ヶ谷や反対側の旧朝比奈切通しの辺りには、今でも双頭のイモリが居てもちっともおかしくないと思っている。

■やぶちゃん現代語訳

 双頭の井守の事

 少年の孫叔敖が民のために双頭の蛇を殺したという故事を始めとして、頭部二つの頭を持った生物については、色々と人々が噂し、また古くから語り伝えていることでは御座るが、私自身はこれを実見したことが永くなかった。

 数年前のこと、河野信濃守安嗣殿が御作事奉行で御座った折、相州鎌倉鶴ヶ岡八幡宮寺御修復御用にてかの地に赴かれた折り、正に双頭の井守を発見、塩漬けになされ江戸表に持ち帰られたものを、私も親しく拝見させて戴いたことが御座った。確かに奇怪なる双頭にて御座ったよ。

2010/04/16

耳嚢 巻之二 覺悟過て恥を得し事

「耳嚢 巻之二」に「覺悟過て恥を得し事」を収載した。

 覺悟過て恥を得し事

 長崎へ行し人の語りけるは、同所丸山の傾城大坂より登りし者に深く言ひかわしけるが、男も身の上の品遣ひ果して、立歸り主親(しゆうおや)に申譯なければ、死を極めてかの女に語りけるに、とても死なで叶はざる事ならば我も倶に死んと、相對死を約して其日數を極めける故、とても死する命と妹女郎其外召使ふ子供或はゆかり等へ、有合ふ小袖雜具(ざうぐ)迄記念(かたみ)の心にてわかちあたへけるが、彼男も死を極めけるに、大坂より登りし知るべの者段々の樣子を聞て、以の外の不了簡と嚴敷(きびしく)異見をなし、路銀其外合力(かふりよく)して無理に長崎を出立させて大坂へ歸りける。跡にて彼傾城此事を聞てすべき樣もなく、覺悟の過たる故其日の衣類にも差支ける間、記念とて遣したる小袖など、妹女郎より其外より取戻し、二度の勤をなしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:遊女に誠心なし、いや、本当は男に誠心なし、で連関。岩波版長谷川氏注によれば、本話は井原西鶴「好色盛衰記」四の四、江島其磧「野傾旅葛籠」(やけいたびつづら)四の三などを原話とするとして、創作された話柄と断じている。私は両話とも未読であるので以下、書誌のみ示す。西鶴の「好色盛衰記」は元禄元・貞享5(1688)年刊。江島其磧(えじまきせき 寛文61666)年~享保201735)年)は京都の浮世草子作者で「野傾旅葛籠」は正徳3(1713)年刊行。

「丸山」長崎丸山町と寄合町の花街を合わせた総称。江戸吉原・京島原と合わせて日本三大遊廓の一つとされる(丸山の代わりに大坂新町を入れる場合もある)。寛永191642)年に長崎奉行所が市街地に散在していた遊女屋を一箇所に集めて公認の遊廓を創ったのを始まりとする。現在の長崎市の丸山公園辺りをL字型の角とすると、ここから東に丸山花街、南に寄合花街があった。

・「傾城」遊女のことであるが、近世では本話からも伝わってくるように(沢山の後輩・お付がいること)、広義の上級の遊女を指す語である。太夫(最上位。揚げ代の高さから宝暦年間(17511763)には自然消滅)・天神(太夫の次ぐ遊女。揚代の銀25匁を北野天満宮の縁日25日に引っ掛けた呼称)・花魁(散茶女郎が太夫の消滅と共に昇格したもの)など。

・「記念(かたみ)」は底本のルビ。

・「合力」経済的援助。

■やぶちゃん現代語訳

 悲劇的覚悟が過ぎて喜劇的恥を得た事

 長崎へ行った人から聞いた話。

 同所の丸山遊廓の傾城、大坂より遊学致いた男と心を通わせることとなり、その男への誠心を深く言い交わして御座ったが、男も揚げ代にすっかり所持金を遣い果し、このままにては大坂に立ち帰ったとて主人や親らに申し訳これ立たずと、男、自死を決し、この女にその次第を語ったところ、

「――何としても死なずには叶はぬことならば――あちきも一緒に死にやんす――」

と、二人して相対死にを約すと、その決行の日取りまで決めた。

 傾城なる女、あれ、嬉しい、いっとう好いた男と一緒に死ぬること出来る命なればとて、妹(いもと)女郎やその他の召使って御座った子供ら或いは所縁(ゆかり)の者どもへ、ありとある己が着ておる小袖やら身辺雑貨に至るまで、悉く片身の思いにて分け与えて御座った。……

 ――――――

 ところが、かの男はといえば――いや勿論、女同様、誠心より相対死にを決しては御座ったのじゃが――これまた幸か不幸か丁度その折り、矢張り大坂よりやって参った男の知人が、だんだんにこの男ののっぴきならぬ仔細を聞きつけ、

「――以ての外の不料簡じゃ!!」

と厳しく意見致いたかと思うたら――電光石火、路銀その他万事万端、無理矢理ごり押し大きな御世話、叱って脅して尻敲き、とっととっとと長崎を、出立(しゅったつ)致させ大坂へ、ああら、ほいさと歸してしもた……。

 後に残ったかの傾城、とんだ顛末、このこと聞いて、それでも何の仕様(しょう)もない――必ず死ぬると覚悟が過ぎた――その日の着物も、これ御座らぬ――ぶるぶる震える体たらく――片身と遣した小袖など、妹(いもと)女郎やその外の、女どもより取り戻し――生き恥さらして――元の黙阿弥――ア!――傾城、勤め……お後がよろしいようで……

予告2

それは僕のライフワーク……過去13回授業してきた……尚且つ……ネット上に無数にありながら、他の何処にもない、僕だけのテクストとなる――

Kokoro1

2010/04/15

予告

来週、火曜日から僕はあるプロジェクトを発動する。これに関しては、かなり迷ったのだ……それは相応な自己拘束に拘わるからである……僕はそれを自身に課することに今日、決したのだ……その作業にも既に取り掛かった……始めれば、それは8月まで一日も気が抜けなくなる『ある』プロジェクトである。感の鋭い人は、お分かりになるかも知れない……それは、しかし、僕が当然、成さねばならぬものであるのだが……

――乞う、ご期待――

耳嚢 巻之二 才女手段發明の事

「耳嚢 巻之二」に「才女手段發明の事」を収載した。

 才女手段發明の事

 予がしれる與力に    といへる者あり。其母、若き頃夫專ら遊女に打はまり、宿に居る事なく明暮に通ひけるが、彼妻申けるは、我等嫉妬にて聊申に無之、彼遊女に通ひ給へば無益の入用を費し、千金の身を深夜に通ひ給ふ事よしともいひ難し、我等金子を才覺せん、彼女を受出して宿に置給はゞ、妻妾あらんは世間になき事にもあらねば、是よりうへの謀(はかりごと)なしと進めて、其身の親元より携へ來りし衣類道具を賣代なし彼遊女の殘る年季を亡八(くつわ)なるものに乞ふて受出し、引取りて倶にくらしけるが、朝夕はしたなき事なるに月日を送りしに、流石夫も其妻の心も恥かしく、流れなる身は月日を經るに隨ひ愛執もさめるの習、一年計の内に右妾は外へ方付けると也。右妻後家に成て子成者の方に有しが、一眼にで發明なる女にてありし。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸の直接体験過去の形(この母なる人物を実見して、片眼が不自由であることを言っている点)乍ら、「耳嚢」に初めて出現する異様な意識的欠字が気になる。私には何だか今までの「耳嚢」の流れが一瞬澱むような印象を受ける話柄である。

・「    といへる者あり」底本には空欄四文字の右に『(本ノママ)』と注する。原本には個人名が入っていたものと思われる。何処かの筆写時、相応な地位にこの人物が登っていたものか、根岸以外の人物が憚って行ったものと思われる意識的欠字である。

・「亡八(くつわ)」は底本のルビ。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者、また、それらを忘れさせる程に面白い所の意で、遊女屋・置屋又はそこの主人を指す。

・「はしたなき事なるに」底本では右に『(尊經閣本「はしたなき事なく」)』と注す。ここは双方の意が効果を持つので、贅沢に両方で訳した。

・「流れなる身」遊女の身。所詮、誠意のない遊女の事故、という意である。遊女に誠心なしとは、当時の諺でもあった。

■やぶちゃん現代語訳

 才女の計らい方発明なる事

 私の知れる与力に□□□□という者がおる。

 その父なる者、妻があるにも関わらず、若い頃、専ら遊女に入れ込み、殆んど自宅に居ることなく、明け暮れ遊郭から出仕致すという始末であった。

 そんなある日のこと、珍しく家に休んで御座った夫に、その妻が言った。

「これから申し上げることは、私、嫉妬心から申し上げることでは、聊かも御座いません。……貴方、かの遊女に通ひなさるのであれば、遊廓に揚がるにお遣いなさる無益なる入用の金の費えも一方ならず、また、千金にも等しい大切なる御体なるに、日々深夜にお通ひなさることは、これ、良いとも言い難きことにて御座います。されば私、金子を算段致しましょう。そうして、彼女を受出し、この屋敷に住まわせて上げましょう。妻妾の一緒に住まうことは、これ、世間にないことでも御座いませぬ。さればこそこれ以上のよい考えは御座いませぬ。」

と夫に勧め、その妻、即座に親元より花嫁として携えて御座った衣類やら道具を売り払い、その金で遊女の残る年季分を支払い、遊女屋主人に乞うて受出し、引き取って妻妾共に暮らすことと相成った。

 こうして朝夕、妻妾が共に暮らすという、世間体からすれば何とも品のないこと乍ら、内にては、これと言って何事もなく月日を送って御座ったが、流石にこの夫も、その妻の誠心に対しても如何にも恥かしくなり、また所詮は誠心なき遊女なればこそ、月日を経るに随って、だんだんにその女への愛執もさめるという習いで、一年ばかりの内に、右の妾(めかけ)は、結局は外へ片付けたという。

 この妻なる者、後に後家となって、今は子――私の知れる与力――と共に住んで御座るが、隻眼なれど――いや、なればこそ――誠(まっこと)聡明な女人で御座ったよ。

2010/04/14

耳嚢 巻之二 其家業に身命を失ひし事

「耳嚢 巻之二」に「其家業に身命を失ひし事」を収載した。

 其家業に身命を失ひし事

 いつ此の事にやありし。本因坊或日暮會に出て碁を圍みけるに、未微若(びじやく)の者に、至て碁力強き有りて、其席の者共壹人も彼に勝者なし。何卒本因坊と手合せん事を歎き、辭するに及ばず相手なしけるに、其手段中々いふべき樣なく、段々打交へみしに兎角本因坊一二目(もく)の負けと思ひぬ。本因坊も色々工夫しけれど、其身も一二目の負と思ひぬる故、暫く茶多葉粉(たばこ)抔呑て雪隱へぞ立にける。跡にて外の碁面など見て彼是評し咄しけるが、本因坊餘り雪隱長き故親しき友雪隠へ覗きしが、一心不亂に考へ居たる樣也しが、頓(やが)て席へ立歸りて碁を打しに、始一二目の負にも見へしが、打上て見れば本因坊一目の勝に成しが、扨々碁の知惠は凄じき小人哉と本因坊も稱歎せしが、よく/\心を勞しけるや、無程本因坊身まかりけるとなり。其職に心を盡し候事、かくも有べき事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:岡田次助もこの本因坊もそれぞれのやり方で「其職に心を盡し」た人物として連関。

・「本因坊」『江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ』。『織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは上方風に「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった』。『以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった』(以上はウィキの「本因坊」から引用した)。複数の囲碁のネット記載を総合すると、室町時代には早くも町に碁会所が作られていたとあり、また、上記家元制度は家康の指示によって始まったもので、家元各家代表が年一回将軍家の前で対局する「御城碁」(おしろご)では、対局が数日に及んでも外部との行き来が禁じられていたため、「碁打ちは親の死に目に会えぬ」とまで言われたらしい。

■やぶちゃん現代語訳

 その家業に生命を失った事

 何時頃のことで御座ったか、ある日のこと、本因坊が碁会に出でて碁を囲んで御座ったところ、未だ年若い者乍ら、至って碁力強き者がおり、その席に居合わせた者ども皆、悉く彼に勝てない。この若者、

「――何卒、本因坊様と手合せ、お願い申す――」

と切に懇願致すによって、その場の雰囲気からも断わり切れず、相手致すことと相成った。

 ところが、この若者、その力量、なかなかの巧者にて、だんだんに打ち交わしているうちに、相手の若者も周囲の御仁も――申すも何ながら――本因坊一二目の負けと見受けられた。本因坊もいろいろと工夫致いたけれども、なんと、本因坊自身も、

『これは……一、二目負けておる……』

と思った。

 そこで本因坊は席を外し、暫く茶や煙草なんどを飲んで、やおら雪隠へと立った。

 後に残った人々は、その盤面を囲んで、あれやこれや評して御座ったが、本因坊の帰りが余りに遅いので、親しい者が雪隠を覗いてみると、本因坊、雪隠詰で一心不乱に考え続けている様子で御座った――。

 やがて本因坊が席へ立ち帰り、碁が再開された。

 ――その始め、一、二目の負けと見えて御座ったが――打ち終わってみれば――本因坊の一目、勝ちであった。

 本因坊、

「さてさて! 碁の知、これ、凄まじき若者!」

と称嘆致いた。――

 ――されど――この本因坊、この折りの対局に、よくよく心血を注いでしもうたので御座ろう――程なく、身罷ったという。――

 その職――その本分に心尽したればこそ――斯くなる仕儀、決して不思議なることにては、御座らぬ。

2010/04/13

耳嚢 巻之二 會下村次助が事

「耳嚢 巻之二」に「會下村次助が事」を収載した。

 會下村次助が事

 御勘定奉行支配にて關東樋橋切組方棟梁(とひはしきりくみかたとうりやう)と也、恐多くも御目見迄なせし岡田次助といへるは、元來會下(ゑげ)村の土民なりしが、才覺ありて色々の請負などせしが、後は右の通結構に仰付られける。其始を聞に、美濃伊勢の御普請の節初て其きざしを生じけると也。美濃伊勢の國川々の御普請有りて、大名の御手傳をも仰付られければ、次助儀江戸は勿論葛西等の人足稼(かせぎ)する者へ、此度美濃伊勢の御普請に行なば金錢は摑み取なり。かゝる時節手を空しくなさんも本意なしとて、人數五六十人もかり催し、彼地へ至りて五三日逗留なせし内、御手傳方へ取入、人足賃も外よりは引下げて請負ければ、役人も其價安きに任せて申付ければ、次助面白からざる躰(てい)にて旅宿へ戻り、五六十人の者共を集め、扨々存の外の事也、御手傳方へ取入色々承合候處、美濃伊勢の人足尾張知多の人足などにて最早大方割渡し極りし故、請負べき沙汰に及ばず、是迄の路用を費として我等は是より歸り候間、各も歸り給はるべしと有ければ、人足共大きに憤り、遙々汝が誘ひに任せ來りて空敷(むなしく)歸らん樣やある、歸りの路用なき者もあればいづれとも身分のたてやういたし呉可申と罵りければ、次助申けるは、成程尤の事なれ共我迚も同じ事なり。夫を遺恨と思ひ給はゞ、次助を殺しなり共いかやうにもして各々の氣を濟し給へといひけるにぞ、五六十人の者どもすべき樣なく十方に暮ける時、次助申けるは、爰に一つの相談有、各我等共に歸りの路用を稼候と思ひ格別に安くして働なば、御手傳方へ願ひて一働いたし見可申といひければ、隨分其通りなし候樣に答ける故、心得しと御手傳より引受し金高より猶又下直(げじき)に拂ひいだしけるに、御手傳方にても彼が手先の手ばしかきに隨ひ、追々増普請等の人足を請負せけるにぞ、下拂も夫に應じ増しを遣し、此御普請にて多分の利潤を得て追々仕出ける。御用に付予が元へも來りしが、たくましきおのこにてありし。

□やぶちゃん注

○前項連関:普請御用絡みで連関。

・「會下村」武蔵国埼玉郡にあった村。近現代に至り埼玉県北埼玉郡川里村に吸収された。現在の川里村はその凡そ7割が水田地帯である。

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約4名、役高3000石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保6(1721)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれており、ここで言うのは勝手方勘定奉行であろう(以上はウィキの「勘定奉行」を参照した)。

・「樋橋切組方棟梁と也」底本では「也」の右に『(成り)』と注す。勘定奉行配下で河川施設や橋の建設を独占的に差配する、所謂、幕府御用達の大工棟梁。以下のブログに次のようにある(このページそのものが孫引きであるのでページ名は示さない。記号の一部を変更、改行を省略した)。『1790年、今度は松平定信による寛政の改革が行われます。この年から定請負は廃止する事になり、再び町奉行と勘定奉行の共同管理とし、町奉行の下に川定掛り(定川懸)が南北町奉行所の江戸向、本所方担当各1名の計4名が橋の管理専門の職に就くことになります。この方式は,彼らが現場を検分し、必要となれば、勘定方の普請役が金額を見積もるものの、工事は樋橋棟梁の蔵田屋清右衛門と岡田次助が担当し、入れ札を行わないと言うものです。つまり、今まで奉行所が実権を握っていたのが、橋の架け替えについての決定権を勘定方が握ることになります』。1790年は寛政2年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとするが、本話柄でこの「樋橋切組方棟梁」と言う呼称を用いているのは、寛政2年以降の記載であることを示すものではないか? 識者の御意見を請うものである。

・「岡田次助」上記以外にも、ネット上で管見出来る新潟大学附属図書館の越後国出雲崎湊の廻船問屋泊屋(佐野家)の文書、佐野喜平太氏コレクションの「佐野家文書目録」なるものの「K25」に古文書「御材木送リ状写シ書 佐野新田」があり、その差出人として「樋橋切組方棟梁岡田次助」の名を見出せる。

・「葛西」武蔵国葛飾郡。現在は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区それぞれの一部によって形成されている。江戸川と荒川に挟まれた地域。「葛西等の人足稼する者」という表現は、ここに特異的にそうした連中が多く居たことを示している。ここは江戸時代には江戸の辺縁部であったから、地方から流れて来た者、逆に都市部から弾かれた人々が多かったということであろうか。識者の御教授を乞う。

・「五三日」数日の意。

・「下直(げじき)に」は底本のルビ。値段が安いこと。「高値」(かうぢき)の反対語。

・「手ばしかき」「手捷し」と書く。「てばしこし」の転訛。手早い。素早い。

・「下拂」下請けへの支払。

■やぶちゃん現代語訳

 会下村次助の事

 勘定奉行配下の正式な関東樋橋切組方棟梁(といはしきりくみかたとうりょう)となり、畏れ多くも将軍家御目見得まで致いた岡田次助という者、元来は武蔵国埼玉郡会下(えげ)村の土民に過ぎなかった。

 才覚あっていろいろな幕府関連の請負工事を成し遂げ、遂には斯くの如き栄誉をも仰せ付けられるに到ったのであったが、その起立(きりゅう)を聞けば、

「……そうですなあ……美濃・伊勢の御普請が御座った折り、初めてそうした運が回ってくる兆しが御座ったと言えば、へへ、これ御座ったな……」

と……その話。――

 ……美濃国及び伊勢国に於いて川普請これあり、次助は任された大名衆の普請手伝いをするよう仰せ付けられた。次助は江戸表は勿論、郊外の葛西なんどにも足を延ばして人足稼ぎをする者たちに、

「美濃・伊勢の御普請に行けば、金銭はつかみ取りじゃ! こんな時に手を拱(こまね)いて見てる法はねえぞ!」

とぶち上げ、まんまと五、六十人の人足を刈り集め、かの地へへと乗り込んだ。――

 現地に着いてから数日の後、大名衆の御手伝方にも首尾よくとり入ることに成功したのだが、ここで更に次助は、人足の労賃も他よりひどく引き下げた値いを示し、確かにこれで請け負う旨申し出たところ、大名衆の役人、その賃金の驚くべき安さに喜び、普請仕事は総てこの次助に任すことと相成った。――

――ところが――

 ……その晩のこと、次助は、如何にも面白くないといった風体で旅宿へと戻って来て、人足を皆々呼び集めると、

「……さてさて……思いもせなんだことに相成った。……御手伝方に取り入ったまでは良かったが、そこでいろいろと訊いてみたところが……美濃・伊勢の川普請人足は、尾張・知多の人足なんどで最早、大方割り振り、これ、決まっておる故、請け負うべきものがないと、きた!…………なれば、ここまで来た路次(ろし)は捨てたと思うて……儂は、帰る!……されば、各々も、勝手にお帰りになられるがよい……」

と言ったからたまらない。人足ども大いに憤り、

「手前(てめぇ)!! 手前(てめぇ)が誘うのにまかせて、遙々名古屋くんだりまで連れ来たっといて、手ぶらで帰(けえ)れたぁ、何事でぇ!!……帰(けえ)りの路銀せえねえ奴がいる! おい! 一人残らず我らの身上(しんしょう)立つように、何とかしてくんな!!」

と激しく罵る。

 ……と、次助、

「――成る程――そりゃ尤もだ――尤もだが、そりゃ儂も同じことじゃ。――お前さん、それを遺恨とお思いなさるんなら――この次助を、殺すなり焼くなり何なり、好きにして、各々の鬱憤、お晴らしなさるがいいぜ!……」

と凄んだ。

 その切れるような眼光に五、六十人の人足どもも一時しーんとなり、ただただ途方に暮れた。――

――と――

その静寂の中、徐ろに治助が語り出す。――

「……ここに一つ……相談があるんじゃがのぅ……各々、我らと、帰りの路銀ぐらいは稼がねばという気持ちにて……格別に仕事を安うに引き受けてみるちゅうのは……これ、どうじゃ? それならば、一つ、御手伝方に何とか再び願い出て、お主らのために、一働(ばたら)き致いてみようではないか?!……」

人足どもはこれを聞くや、

「おう! それよ! 何とか上手く、その通りに、してくんない!」

と応じる。治助はにっこり笑うと、

「心得た!」――

 ……もうお分かりで御座ろう。その後、次助は、人足どもには大名衆御手伝方から引き受けた際の正規の契約賃金よりも更に低い擬装労賃を示して働かせたのであった。

 しかし、これは次助が浮いた金を懐に入れるという吝嗇臭い話なのではない。

 大名衆御手伝方連中も、次助のところの人足は、誰もが如何にも仕事が素早く順調に進む――考えてみれば当たり前で、騙されたとも知らず、人足どもは早く江戸に帰りたいがために螺子を巻いていたのだ――という訳で、追々この時の川普請で追加された増普請等の請け負いをも順次、この次助方に回されることとなった。当初は騙した人足への支払もそれに応じて増してやったれば、ますます人足たちも仕事に精を出したので御座った。

 この普請によって、次助はたっぷりと――聊かは汚いやり口では御座ったが――利潤を得、それをきっかけとして、次第に頭角を表わして御座ったのであった。

――御用向きにて、私の元で働いたことも御座った男であるが、いや、誠(まっこと)気風のいい逞しい男にて御座ったの。

2010/04/12

耳嚢 巻之二 佛道に猫を禁じ給ふといふ事

「耳嚢 巻之二」に「佛道に猫を禁じ給ふといふ事」を収載した。

 佛道に猫を禁じ給ふといふ事

 猫は妖獸ともいはん、可愛物にもあらねど、宇宙に生を受るもの佛神の禁しめ給ふといへる事疑しく思ひけるが、佛神禁じ給はざる事明らかなる故爰に記し置ぬ。日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交(たちまじは)りて有しに、右御宮御莊嚴(しやうごん)は世に稱するの通、結構いわん方なし。誠に日本の名巧の工(たく)みを盡しける。さるによりて和漢の鳥獸の御彫物いづれなきものはなし。支配成もの申けるは、數萬の御彫物に猫計は見へざるは妖獸ゆへ禁じけるやと申ぬるが、或日、御宮内所々見廻りて、奧の院の御坂へ登るべきと東の御廻廊を見廻しに、奧の院入口の御門脇蟇股(かへるまた)内の御彫物は猫に有けるにぞ、猫を禁ずるとの妄言疑ひをはらしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。日光御宮御普請業務に従事していた際の複数のエピソードの一。

・「佛道に猫を禁じ給ふ」脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目ネコ目(食肉)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種 Felis silvestris catus が仏教や神道でタブーであるという話を私は聞いたことがない。逆に仏教伝来の際、経典を齧る鼠を退治する目的で、日本に棲息しなかった猫を一緒に連れて来たと言う説を聞いたことがある。現在、イエネコの祖先は約131,000年前の更新世末期のアレレード期に中東の砂漠地帯辺りに棲息していたリビアヤマネコ Felis silvestris lybica に同定されている。日本でも古くから益獣として寺や宮中でも猫は盛んに飼育されていた。鎌倉の寺なんどは猫だらけである。以下、ウィキの「ネコ」の記載から興味深い部分を引用する(記号の一部を変更、書名「今昔物語」に「集」を加えた)。『日本においてネコが考古学上の登場は、読売新聞(20080622日)の記事によると、長崎県壱岐市勝本町の弥生時代の遺跡カラカミ遺跡より出土された、紀元前1世紀の大腿骨など12点である。当時の壱岐にヤマネコがいた形跡が無い事や現在のイエネコの骨格と酷似しているため断定された。文献に登場するのは、「日本霊異記」に、705年(慶雲2年)に豊前国(福岡県東部)の膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が、死後、ネコに転生し、息子に飼われたとあるのが最初である』。『愛玩動物として飼われるようになったのは、「枕草子」や「源氏物語」にも登場する平安時代からとされ、宇多天皇の日記である「寛平御記」(889年〈寛平元年〉)2月6日条には、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っていた、という記述がある』。『奈良時代頃に、経典などをネズミの害から守るために中国から輸入され、鎌倉時代には金沢文庫が、南宋から輸入したネコによって典籍をネズミから守っていたと伝えられている。「日本釋名」では、ネズミを好むの意でネコの名となったとされ、「本草和名」では、古名を「禰古末(ネコマ)」とすることから、「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略であるとも推定される。他の説として「ネコ」は眠りを好むことから「寝子」、また虎に似ていることから「如虎(にょこ)」が語源という解釈もある(「言海」)。このように、蓄えられた穀物や織物用の蚕を喰うネズミを駆除する益獣として古代から農家に親しまれていたとおぼしく、ヘビ、オオカミ、キツネなどとともに、豊穣や富のシンボルとして扱われていた』。『ただし日本に伝来してから長きにわたってネコは貴重な愛玩動物扱いであり、鼠害防止の益獣としての使用は限定された。貴重なネコを失わないために首輪につないで飼っている家庭が多かったため、豊臣秀吉はわざわざネコをつなぐ事を禁止したという逸話がある。ただしその禁令はかなりの効果があり、鼠害が激減したと言われる』(但し、この逸話の出典は明示されていない)。『江戸時代には、本物のネコが貴重であるため、ネズミを駆除するための呪具として、猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいた。絵に描かれたネコが古寺で大ネズミに襲われた主人の命を救う「猫寺」は、ネコの効用を説く猫絵師などが深く関わって流布した説話であると考えられている。ネコの穀物霊としての特質は時代を追って失われ、わずかに「今昔物語集」「加賀国の蛇と蜈蚣(むかで)と争ふ島にいける人蛇を助けて島に住みし話」における「猫の島」や、ネコが人々を病から救う薬師(くすし)になったと語る「猫薬師」に、その性格が見えるのみである』。『日本の平安時代には位階を授けられたネコもいた。「枕草子」第六段「上にさぶらふ御猫」によると、一条天皇と定子は非常な愛猫家で、愛猫に「命婦のおとど」と名付け位階を与えていた。ある日このネコが翁丸というイヌに追いかけられ天皇の懐に逃げ込み、怒った天皇は翁丸に折檻を加えさせた上で島流しにするが、翁丸はボロボロになった姿で再び朝廷に舞い戻ってきて、人々はそのけなげさに涙し、天皇も深く感動した、という話である。ネコに位階を与えたのは、従五位下以上でなければ昇殿が許されないためであるとされ、「命婦のおとど」の「命婦」には「五位以上の女官」という意味がある』。ここでの猫を不吉な存在とする風聞は所謂、妖怪としての猫又や根岸が既に記した猫憑きの類からのネガティヴな連想からであろう。そうした「伝説・伝承」の部分も引用しておく。『昔から日本では、ネコが50年を経ると尾が分かれ、霊力を身につけて猫又になると言われている。それを妖怪と捉えたり、家の護り神となると考えたり、解釈はさまざまである。この「尾が分かれる」という言い伝えがあるのは、ネコが非常な老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、そのように見えることが元になっている』。『猫又に代表されるように、日本において、「3年、または13年飼った古猫は化ける」、あるいは「1貫、もしくは2貫を超すと化ける」などと言われるのは、付喪神(つくもがみ)になるからと考えられている。「鍋島の猫騒動」を始め、「有馬の猫騒動」など講談で語られる化け猫、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う「猫と茶釜のふた」や、鍛治屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺す「鍛治屋の婆」、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう「猫のおどり」、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする「猫と南瓜」などは、こういった付喪神となったネコの話である』。『ほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには特別な力が備わっていると考え、人の側から願い事をするという習俗があるが、これらも民俗としては同根、あるいは類似したものと考えられる』。以下、「死者に猫が憑く」等といった地方別の言い伝えを挙げる。総括してウィキの筆者は、猫は古くは死と再生のシンボルでもあったと記している。なお、文中の「付喪神」とは民間信仰に於ける現象概念の一つで、無生物でも生物でも永い年月を経て古くなったり、永く生きた生き物が「依り代」となり、神や霊魂が憑依すること若しくはその対象を指す語である。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では標題を「佛道」ではなく「仏神」とする。本文もこうなっており、仏教に限定すると、話がおかしくなるので、現代語訳では神仏とした。

・「日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交りて有し」本巻の先行する「神道不思議の事」で示した通り、安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間、「日光御宮」(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮)の御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用のため、長期滞在した。詳細は「神道不思議の事」の注を参照されたい。

・「結構」これは文脈から見ると日光東照宮の総印象や全体の構造配置を言っているものと考えられる。しかし、同時に「結構」=素晴らしいの意も利かせているようにも思われる。贅沢にダブルで訳した。

・「いわん」はママ。

・「奧の院の御坂」「奧の院」は奥宮(おくみや)のこと。拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる祭神家康の墓所。ここに詣でるには、本社の東の坂下門を抜けて長い登り坂を上がらねばならない。

・「東の御廻廊」「廻廊」は本社の南の口である陽明門から左右後方へと延びている建物で、外壁には本邦最大級の花鳥彫刻が施され、その何れもが一枚板透かし彫りで鮮やかな色で彩色されている。東の回廊は坂下門の左右に延びる。

・「奧の院入口」坂下門。

・「蟇股(かへるまた)」ルビは底本のもの。社寺建築に多く見られる、二つの横材の間におく束(つか)の一種。上方の荷重を支える物理的な意味と装飾をも兼ねる。概ね上に斗(ます)を配し、下方に広がった形態であり、それが丁度、蟇蛙が脚を広げて踏ん張る形に似ているところから、こう名付けられた。

・「御彫物は猫に有ける」所謂、有名な国宝眠り猫のこと。伝左甚五郎作。日光に因んでか、牡丹の花に囲まれて日の光を浴びながら昼寝をしている猫であるが、奥社入口の守護として寝ているというのは見せかけで、いつでも飛びかかれる姿勢であるとも、また、この眠り猫の裏には翼を広げた雀が彫られていることから、雀が舞いながら猫も寝るほどに天下泰平を表しているとも言われる。左甚五郎(文禄3(1594)年~慶安4(1651)年?)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人であるが、実在を疑う向きもある。

■やぶちゃん現代語訳

 仏教や神道にては猫をお禁じになられるという嘘の事

 猫は妖獣とも言わるる――まあ、特に愛玩すべきものとも私個人は思わぬものの――が、この宇宙に生を享けたものを、神仏がお禁じになられるということ、永らく疑わしいことと考えて御座ったが。事実、神仏はこれをお禁じになっては、これ御座らぬこと、明白である故、ここにその証拠を記しおくものである。

 ――私が御宮御靈屋本坊向並びに諸堂社御普請御用のため、かの御山に三年ほど赴任致いて御座ったことがある。 かの御宮の荘厳(しょうごん)なる様は、これ、世に讃えられる通り、その日光山全体の結構、素晴らしいと言う外はない。誠(まっこと)日本の名工らが、その持てる妙技を尽くしたものにて御座る。

 故に和漢の鳥獣類は総て御彫物として洩れなくあり、一つとして欠けている生き物は、これ、御座らぬ。御山のことに詳しい日光山管理人の者が申すことには、

「数万の御彫物の中に猫だけは見えないのは、妖獣故、禁じられたものかと思って御座ったが、ある日、御宮内の処々(しょしょ)を巡回致いて御座った折り、さても最後に奥の院の御坂を登ろうと東の御回廊を見回って御座ったら、正に御霊(みたま)を祀る奥の院入口の御門脇の蟇股(かえるまた)に彫られた生き物は猫で御座った。――これにより、拙者、神仏、猫を禁じられ給うと言うは妄言なり、と永年の疑いを晴らすこと、これ、出来申した。――」

とのことであった。

2010/04/11

父へ――極私的通信

万葉集の、

あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

この歌についての、貴方の考古学の師であった酒詰仲男先生の、遠い日の旅の途次の言葉は――僕も大学の時に、貴方に聞かされて、今も忘れ得ぬ言葉です。
それをここにも書き記したく思います。

「藪野君――この歌を読む時は、奈良の平城京を建設するために集められた民を思い描きなさい――『咲く花』とは油を採るための菜種の花であって、昼夜を問わずその民たちが菜種油の灯火の採取のために働かされた情景でもあるのですよ――」

僕は思い出す――このことを話した先輩の国文の女子大生は鼻でせせら笑い、

「あり得ないわ。だって当時の歌語で『花』は梅ですもの。」

と言った。

この教条主義が人を盲目にするのだ――酒詰先生も父もそして僕も、そんなことは百も承知だ――酒詰先生は歌の歌学的解釈を言ったのでは毛頭ない――リアルな当時の、その映像から導かれる「現実の真」を先生は語られたのだ――と僕は内心思いながら、同時に――『この女を愛することは出来ないな』と思ったものだった――

父よ、今日は貴方のメールから、そんな30数年前の昔のことを、思い出しました。

ありがとう。

耳嚢 巻之二 藝道其心志を用る事

「耳嚢 巻之二」に「藝道其心志を用る事」を収載した。

 藝道其心志を用る事

 芝居役者にて寶暦の始迄有りし、瀨川菊之丞路考といへる女形の、上手名人と人の稱しける、一生の間女形の外聊にても男のやつしなどせし事なし。彼が平日の行状を聞に、狂言を引て宿にありし時も常に女の身持也。或時火災ありて、立退き候樣人の進めしに、仕廻所(しまひどころ)へ入て化粧髮などして居たりし故、色々人の進めけれど、たとへ燒死すればとて見苦しからんは藝道の恥也といひ、閑(しづか)に支度して立退けるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:水気が火気を含むならば、男が女となることもある。一連の歌舞伎役者譚の一。

・「寶暦」西暦1751年から1764年迄であるが、次注で分かるように、宝暦元年の二年前、寛延2(1749)年に瀨川菊之丞路考は死んでいる。ここは「寛延」とすべきところである。現代語訳ではそう訂正した。

・「瀨川菊之丞路考」初代瀬川菊之丞(元禄6(1693)年~寛延2(1749)年)。女形の名優。路考は俳名。初めは上方で瀬川竹之丞に師事、正徳2(1712)年に瀬川菊之丞に改名、享保121727)年に京都の市山座での「けいせい満蔵鏡」によって名声を博した。享保151730)年に江戸へ下って『三都随一の女方』と讃えられた。本文にある通り、日常生活でも女装を通したという。能に基づく舞踊に多くの傑作を残し、「娘道成寺」「石橋」(しゃっきょう)等を得意としたと伝える。女形の演技の基礎を確立した人物で、著作に芸談十ヶ条からなる「女方秘伝」がある(以上は主にウィキの「瀬川菊之丞(初代)」を参照した)。

・「女形」女方とも。以下、平凡社「世界大百科事典」より渡辺保氏の解説を引用しておく(記号の一部を変更した)。『歌舞伎の役柄の一つ。歌舞伎の女性の役の総称、および女性の役をつとめる俳優をいう。「おやま」ともいう。1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため、能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ、現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ、瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし、これが幕末まで女方の習慣となった。あやめには「あやめぐさ」菊之丞には「古今役者論語魁」所収の芸談があり、2人の名女方の教訓は、長く女方の規範となった。2人の没後、初世中村富十郎はじめ多くの名優が輩出。代々の瀬川菊之丞、4世から8世までの岩井半四郎は女方の名優で、瀬川家と岩井家は、江戸時代を通じて女方の二大名門であった。一座の中で最高位にある女方を「立女方(たておやま)」といったが、明治・大正期の5世中村歌右衛門に至るまでは、女方は座頭(ざがしら)にはなれなかった。女方の楽屋は劇場の2階にあり,名目上それを中二階と称したので、女方のことを「中二階」とも呼んだ。女の役しか演じない俳優を「真女方(まおんながた)」という。女方の役は多岐にわたるが、初期には「若女方(わかおんながた)」と「花車方(かしゃがた)」に大別された。若女方には、遊女(「助六由縁江戸桜」の揚巻)、芸者(「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」の美代吉)、姫(「本朝廿四孝」の八重垣姫)、娘(「神霊矢口渡」のお舟)など、花車方には、茶屋の女房の花車(「恋飛脚大和往来」のおえん)、片はずし(「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡)、奥方(「菅原伝授手習鑑」の園生の前)、世話女房(「傾城反魂香(吃又)」のお徳)、奥女中(「加賀見山旧錦絵」の尾上)、女武道(「彦山権現誓助剣」のお園)などで、身分・年齢・職業などにより違いがある。原則として悪女や老女には女方は扮さないのを習慣としている。これは、老女を演じると色気が失われ、悪女を演じると観客の同情を失うためである。これを見ても、女方の芸術の基本が様式的な美しさを生命とし、貞操を堅固にするという倫理の美しさを追求するものであることがわかる。しかし江戸中期に至り,女方も悪婆(あくば)(土手のお六など)という役柄を開発し、同時に立役が女方をつとめるようになった。あくまでもこれは変則である』(引用元の著作権表示(c1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。更に吉之助という伝統芸能批評家の方の「歌舞伎素人講釈」にある『女形の哀しみ~歌舞伎の女形の「宿命論」』に、意外な興味深い記述があるので紹介しておく。「女形の哀しみ」という題である(段落間の空行は詰めた)。

   《引用開始》

寛政五年(1793)のこと、五代目団十郎を贔屓にする山東京山が兄の京伝とともに河原崎座に出演中の団十郎の楽屋を訪ねました。京山によれば、岩藤の扮装中だった団十郎は涙をボロボロと流しながらこんなことを語ったと言います。

「世間の人なら倅に家業を譲って隠居をする歳なのに、卑しい役者の家に生まれたばっかりに、この歳になって女の真似をしなければならないとは何と因果な事だ。」(「蜘の糸巻」)

京山もどう声を掛けたものか困ったことでしょう。「役者がこういう事を考え出すと芸に艶がなくなって舞台に永く立つ事ができなくなってくる」と書いています。この時、団十郎は五十三歳。果たして京山の予感の通り、この三年後の寛政八年に団十郎は引退する事となります。

この団十郎の逸話はいろんな事を考えさせます。世間から「河原乞食」などと言われのない差別を受けて蔑まれる歌舞伎役者の哀しみを見ることもできましょうか。あるいは大名・武将・傾城を演じたとしても所詮は「虚構・偽りごと」にしか過ぎないという役者の哀しみでありましょうか。そして、この団十郎の言葉から感じられるのは、「男が女の真似をする」ことの・何とも言えない団十郎の情けなさ・哀しみです。

五代目団十郎は本来が立役であって女形は加役ではあるのですが、しかし、功なり名遂げた歌舞伎役者がこういう台詞を吐いてボロボロ泣くというのは、やはり考えさせられる話ではあります。男が女の姿なりをして女を演じるなんてことは、本来的にはどう考えたって不自然でどこかに無理があるわけですが、女形が当たり前の存在のはずの・江戸時代の歌舞伎役者にも、「男が女を演じるなんてみっともなくて恥ずかしい」という感じ方がやっぱりあったのだなあと思うわけです。

江戸時代の女形と言えば、必ず引き合いに出されるのは初代芳沢あやめでありましょう。あやめは「平生(へいぜい)ををなごにて暮らさねば、上手の女形といはれがたし」と語り、「常が大事と存ずる」と言っています。あやめの芸談集「あやめ草」に見られる逸話は、まさに身も心も女性に成り切ろうとするもので、まさに「芸道」に身を捧げる人生と言った感じです。しかし、逆に見ればあやめは虚構の・人工的な生活を自分に強いることで、女形を生業(なりわい)とする自分をその世界に閉じ込めてしまった・あるいは世間一般との交渉を拒絶してしまったとも考えられます。そうしないと「女形」である自分を維持することが難しかったとも考えられます。吉之助はあやめの芸談に「女形の哀しみ」を見るような気がします。

   《引用終了》

以下、女形の成立史や近代以降の女形廃止論争等にも言及、『女形の哀しみの哲学』とも言える骨太の論である。是非、最後までお読みになられんことをお薦めする。

・「閑(しづか)に」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 芸道に生きる者の節操覚悟の事

 芝居役者で寛延の始め頃まで存命して御座った、瀨川菊之丞路考という女形の上手・名人と称された人は、一生の間、女形で通し、演じておらぬその他の折りにあっても、聊かもでも男の格好なんどしたことは一度としてなかったという。彼女の普段の様子を聞いたところ、舞台を降り、自宅に居る時でも、常に女の格好・振舞いで通していた。

 ある時、芝居小屋の近隣で火災があって、直ちに避難するよう人が路考に声を掛けた。すると彼女、楽屋の仕度部屋に入り、徐ろに化粧をし、髪を調え始めた。

 人々は宥めたりすかしたりしていろいろ言うたけれども、

「――たとえ焼け死に致しましょうとも、見苦しき姿を方々に晒すは、これ、芸の道の、恥に、御座いまする――」

と、ゆるりと身支度調え終えると、やおら立ち退いたということで御座った。

エルモライの日記――ミクーシ連邦共和国ミンノー県農政調査メモ書き

ミクーシ連邦共和国ミンノー県農政調査(2010年4月20日現在、連邦共和国総人口196)

牧場 現存牧場数40戸 内、家畜を一匹でも飼っている牧場 8戸
農場 現存農場数12戸

……どんな客寄せのキャンペーンを張ってもだめじゃ。どうせやるなら現実化してしまった恐怖の遺伝子組換殺虫トウモロコシにせい! 儂は喜んでこの腐った地球の生態系を完膚なきまでに破壊してやるわい……
……進行するに従って展開が膠着化し、変化が見られんようになる。レベル・アップが確率的に遅くなるように仕組まれているのは、この手のものでは当然なんじゃろ……
動植物のキャラクター・デザインも、今一つ魅力を欠く。可愛くない。特にレベルアップの先に魅力的な飼育生物が配されておらん。むしろ擬人化された見るも忌まわしい生き物を客寄せに増やしているという逆効果……

――但し、「虫はもうありません」という変な日本語、聞いたこともない植物名を示して平然とし、酒瓶や団子や笊蕎麦が地面から生えてくる、チョコレートや薔薇の妖怪が牧場を闊歩する異界、永遠におさらばしたイ・サンシャン人民集団農場よりは、激しくマシである――

……遠からずミンノー県の農政は破綻するじゃろ……
……コルホーズは、時代遅れということじゃ……
御主人様……どうなさいます?

2010/04/10

ゴジラとルブリョフとしての「大仏開眼」

吉備真備を演じた吉岡君は二度目の帰国の後の演技に今までにない新味があったのに、脚本がその真備の内面を十分に掘り下げることなく、歴史年表のような大コマ落としで描いたために、彼のせっかくの殻を破ろうとしているいい演技だったのに、作品の中でホリゾントの端までテッテ的に下がってしまい、逆に恵美押勝のピカレスク性が視聴者に残ってしまう結果となった。ドラマとして面白くはあったのだが、そこは痛恨の極みである。あののっぺりしたコンピュータ・グラフィックの大仏、身売りした円谷プロにでも頼んだのか? まだ星野之宣の「ヤマタイカ」の紅蓮の溶鉱炉となって立ち上がる悪の大仏の方が魅力的である――。

1 大仏はゴジラである。

1.1 皇太子は恵美子であり、真備は尾形であった。

1.1.1 「大仏」は皇太子と真備を精神的に交合させるための「聖なるゴジラ」として――若い二人のメロドラマという安易な脚本上のすり替えによって――「大仏開眼」のトリックスターとなった。

2 吉備真備と玄昉は引き裂かれたルブリョフである。

2.1 大仏はルブリョフの鐘である。

――今回のドラマ「大仏開眼」に感動した人も、消化不良であった人も。そうして「大仏開眼」に関わったキャスト・スタッフ総ては、アンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」を見るべきである――そうすれば、このドラマのどこがいい加減で、何が足りないのか、いや、このドラマがもしかしたらもっと魅力的になった可能性について、知ることであろう――

吉岡君、御苦労さま。君には舟が似合う。コトー先生は船酔いしたが、今度はばっちりのエンディングだった。――という辛い皮肉はなしにしよう――是非、君には「僕の村は戦場だった」から「アンドレイ・ルブリョフ」へのニコライ・ブルーリャーエフ=純とコトー先生という殻を脱ぎ捨て、正しく「アンドレイ・ルブリョフ」のアナトリー・ソロニーツィンの如き俳優へと成長されんことを望む! あの三本の映画の中にこそ、君の打ち破るべき「殻」の薄さと硬さが見えてくるものと思うのだ――

初MRI診断記念 耳囊 卷之二 聊の心がけにて立身をなせし事 / 手段にて權家へ取入りし事 / 狂歌にて咎をまぬがれし事 / 火災に感通占ひの事 ~ 四篇一挙掲載

 

初MRI診断記念として「耳囊 卷之二」に「聊の心がけにて立身をなせし事」・「手段にて權家へ取入りし事」・「狂歌にて咎をまぬがれし事」・「火災に感通占ひの事」の以上四篇を一挙に収載した。

 

 

 聊の心がけにて立身をなせし事

 

 近き頃御代官を勤し鵜飼左十郞は、元御徒組を勤て支配勘定に出て、其後猶出世して御代官に成ぬ。左十郞、御徒の時、不時の用心とや思ひけん、藁草履を一足づゝ封じて懷中せしが、或日御成にて御本坊に詰し折から、去大名衆家來、間違ひ、草履に差支、豫參の間に合間敷(まじき)と色々心くるしく思ひ給ひて、はだしにて出んやとありければ、左十郎儀、懷中より用心の草履を出し、是は拙者用心の爲貯へ持し也。急の御間(おま)に合せ可申と渡しけるに、辱(かたじけなき)由厚く禮の上、名前を聞て立別れ給ふが、彼仁(じん)程なく高運にして若年寄被仰付、引續出入して他事なく懇意ありしに、殊の外世話有て、支配勘定へ願ひの通御役出いたし、其後も追々右大名衆世話ありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードとして直連関。

・「近き頃」「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春辺りを基準にすると、鵜飼左十郎(後注参照)の没年の安永4(1775)年は7年前。

・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」 で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。

・「鵜飼左十郞」鵜飼実道(さねみち 宝永7(1710)年~安永4(1775)年)。御徒・支配勘定・御勘定・評定所留役から寛延3(1750)年に代官。石和代官から甲府代官(宝暦7(1757)年~明和元(1764)年)後、関東代官になっている。

・「御徒組」「徒士組」とも書く。将軍外出の際に徒歩で先駆を務め、沿道警備等に従事した。

・「支配勘定」勘定奉行支配で、幕府財政・領地調査に従事した。

・「御本坊」寺名なしで将軍家の御成りということであれば、これは徳川家菩提寺である寛永寺若しくは増上寺への参詣となる。「本坊」とは寺院で住職の住む僧坊を言う。 

・「予參」将軍家が寛永寺若しくは増上寺への参詣する際、先に寺へ入って警備や雑務準備に従事することを言う。

・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょっとした心掛けによって立身出世致いた事

 

 最近まで御代官を勤めて御座った鵜飼左十郎実道殿は、元御徒組を勤め、次に支配勘定に昇進、その後、猶も出世して御代官となった方である。

 左十郎殿が御徒士で御座った頃のことである。

 彼は普段から――危急の折りの用心と考えて御座ったか――新品の藁草履一足を封じて懐中していた。

 ある日、将軍家の御成とて、寺の本坊に詰めて御座った。

 さる大名衆が、家来の手違いから、あろうことか、履いて出る草履が見当たらない。

『予参の儀は既に始まる。とてもその出仕に間に合いそうも、これ、ない!』

と、あれこれ焦って思案なさって御座ったれど、いっかな名案も草履も、これ、見つからずにあられた。そこで遂に、

「万事休す――裸足にて参上致す!――」

との御言葉であった。

 その時、偶々近くに控えて御座った御徒士左十郎、これを耳にし、懐中より例の用心のための草履を引き出し、

「これは、拙者、用心のために日頃より持ち控えておるものにて御座る。火急の折りなれば、どうぞ間に合わせとしてお使い下され。」

と大名衆の御家来の者に捧げ渡した。

 大名衆は例になく言下に、

「忝(かたじけな)い!」

と厚く礼を述べられた上、左十郎の名を聞いて、予参の儀にお向かい申し上げなさるために、左十郎とはその場にてお別れになられた。

 ところが後日、この御仁、程なく若年寄を仰せ付けられ、左十郎は予参の折りの縁から引き続いてこの大名衆の屋敷に親しく出入り致すこととなり、懇意にもなった。この大名衆、殊の外、左十郎への助力これあり、本人の希望通り、支配勘定に進み、その後も度々この大名衆の世話が御座ったとのことである。

 

*   *   *

 

 手段にて權家へ取入りし事

 

 さる人にてありしが、何とぞ出世もなさんと色々考へぬれど、元より貧しきうへに心ざす手(た)よりつてもなければ、明暮空敷心を勞しけるが、風與(ふと)思ひ付て、其最寄駒込邊と言る所を當時ときめき給ふ權門の菩提所有しが、思ひ立て日々右本堂へ參詣爲して念頓に祈りけるに、雨雪はさら也、大風其外いかやうの事ありても朝々刻限を極め參詣なしけるが、庭を日々掃候中間其外もいつとなく知る人に成て、けふは早々詣で給ふ、或は寒し暑しと申合けるが、或時和尙聞て、重て來り給はゞこなたへ通し候樣申付けるゆへ、僕其由を申て方丈へ案内なしけるに、茶など振舞て、さて/\御身は日每に本堂へ來り給ふ、いか成譯哉と尋けるが、我等は願ひ有て何卒人がましくも御奉公いたしたけれど、貧しければ其勤もならず、或夜不思議に當本尊の靈夢を蒙りし故、難有日每に參詣いたし候と誠しやかに語りければ、住僧もさる者にて打笑ひ、當時の本尊靈夢はさる事ながら、利益ありともいわれず。某利益を取持申さん、かく/\なし給へとて、その且家(だんか)なる權家へ頻に願ひ遣し出入などさせけるが、近きに其願ひも追々成就せしと也。

 

□やぶちゃん注


○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソード第三弾。

 

・「權家」「けんか」と読む。権門と同義。位の高い権力を持った家柄。諸注はこの寺を同定しないが、私は少し探ってみた。まず「當時ときめき給ふ」という表現から、「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春よりも前であると考えられ、その観点から「權家」なる存在と駒込の寺院で調べてみると、ズバリの寺が見つかった。現存する駒込の勝林寺である(現在は豊島区駒込にあるが当時は同じ駒込でも駒込蓬来町にあった)。「權家」はかの田沼意次(享保4(1719)年~天明8(1788)年)である。勝林寺は臨済宗妙心寺派、江戸開府の頃の開山で、当初は別な場所にあったらしいが、明暦3(1657)年の大火で焼失、駒込蓬来町へ移転している。安永9(1780)年、勝林寺中興の開基と称される老中田沼意次が下屋敷260坪を寺に寄進、以降、勝林寺は田沼家の強い庇護を受けるようになったという。本話柄にぴったりではあるまいか? 識者の御意見を伺いたい。

 

・「手(た)より」は底本のルビ。

 

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

 

・「所を」底本では右に『(尊經閣本「所に」)』と注す。こちらを採る。

 

・「いわれず」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 ちょっとした手段を用いて権門に取り入った事

 


 さる男の話。


 この男、

 

――何としても出世したいものよ――

 

と色々と考えては御座ったが、元より貧しい上に、頼りになりそうな手蔓もなし……ただただ日々空しく心を悩ませているばかりで御座った。

 

 ある時、ふと思いついた手段とは……。

 

 彼の住まいの最寄、駒込という所に、当時、権勢を得ておられた、さる権門家の菩提所が御座ったが、男、

 

「思い立ったが吉日!」

 

と、毎日毎日、この寺の本堂に参詣致いては、懇ろに御本尊に祈りを捧げ出した。雨雪の日は言うまでもなく、台風が来ようが槍が降ろうが、その他何があろうとも、毎朝、刻限を決め、参詣し続けた。

 

 その内、朝毎に庭を掃く中間やら、その他の寺の者どもとも、何時とはなしに顔見知りになり、

 

「今日は、また何時もよりお早いお参りで御座いますな。」

 

とか、

 

「いや、お寒う御座る。」

 

だの、

 

「何とまあ、お暑いことで。」

 

なんどと、挨拶も交わし合うような仲になる。――

 

ある時、この奇特なる参詣人のことを和尚が聞き及び、

 

「今度、来られたならば、必ず私のところにお通し致すように。」

 

と申し付けておいた。

 

 翌日の朝、何時もの通り、参詣に訪れた男に、寺の下僕が、和尚の言を伝え、方丈へと案内致いた。和尚は、茶なんどを振る舞いつつ、

 

「さてさて――御身は日々本堂へ参らるる。如何なる訳に御座る?」

 

と訊ねた。男は、

 

「……我らの如き凡夫にも宿願が御座って……何とかして人並みに御奉公を致いたいと思うて御座るが……貧しければ、それも叶いませぬ。……されど、ある夜のこと、不思議にも、こちら様の御本尊様顕現の霊夢を頂戴致しました故……誠(まっこと)これ、あり難き思し召しならんと……日毎に参詣致いておりまする……」

 

という、デッチ上げた話を、実(まこと)しやかに語った。

 

 如何にも嘘臭い話し乍ら、この住僧も然る者にて、

 

「かんら、からから、」

 

と、うち笑い、

 

「はっはっは! いや、当寺の御本尊顕現の霊夢、然ること乍ら、そのような次第にては、いっかな御利益(ごりやく)ありとも言われませぬのぅ。……さても一つ、某(それがし)が、その『御利益』とやらを取り持ち申そうぞ。……まずは、そうさな、かくかくしかじかのことをなされるがよい……」

 

と約した。――

 

 その後、住僧は、この男を、檀家である、かの権門家に頻りに願い出て、出入りさせるように仕向けたれば、近頃、その男の宿願も、追々、成就致いて御座る、とのことである。

 

*   *   *

 

 狂歌にて咎をまぬがれし事

 

 天明の比、世に狂歌、以の外に、はやりて、人々、翫(もてあそ)びしが、其比の事にはあらず、明和安永の頃也しが、品川高輪の邊に何とやら名は忘れたり、狂歌俳諧などして世を渡る貧僧ありしが、或時、品川宿のしれる旅籠屋へ見𢌞りに、捉飼(とりかひ)御用にて、御鷹匠(たかじやう)大勢右の宿に有。御鷹匠はさもなけれど、其外に附て輕きものは、御鷹の御威光に任せ、彼是、やかましきもの也。彼、はたこやの門にも架(ほこ)を置て、御鷹を休め居(をり)しに、彼僧、門を出る迚(とて)右の架に障りし故、御鷹、大に驚きければ、彼僧を御鷹匠の者、召捕、いかなれば御鷹を驚かせし、とて、以の外、憤りける故、右僧は勿論、旅籠屋の家内も出て、品々、詫言などしけるに、御鷹も別條なければ、御鷹匠も少しは憤りをやめて、何者なるやと尋けるに、狂歌よみの由答へければ、左あらば狂歌せよとていひしに、畏(かしこま)り候とて一首を詠じけるにぞ、御鷹匠も稱歎して赦しけると也。

 

   富士二鷹 三  茄子

  一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし

 

[やぶちゃん字注:「富士二鷹 三  茄子」は底本ではややポイント落ちで狂歌の右に記されている。これは鈴木氏の注ではなく、底本本文に示されているものと思われる。]

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードから、ちょっとした諧謔が効を奏したエピソードで連関。

 

・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。因みに私は狂歌というと、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた大田蜀山人の、

 

 死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり

 


を思い出すのである(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義ノートだけは、今も、大事に持っているのである)。

 

・「天明」西暦1781年から1789年。

 

・「明和安永」西暦1764年から1781年。天明頃より20年前頃。

 

・「高輪」現在の東京都港区の地名で、現在の地下鉄泉岳寺辺りから品川駅西側一帯を言う。江戸市中と郊外との遷移地域である。

 

・「見𢌞りに」底本には「り」と「に」の間の右に『(しカ)』の注を附す。それで訳す。この「見廻り」とは、単に訪れるという意味ではあるまい。所謂、俳諧・狂歌で点を取るために、生業(なりわい)として巡回しているのであろう。


・「捉飼御用」将軍家が鷹狩に用いる鷹を飼育・調教する仕事。ウィキの「鷹狩」から近世のパートを一部引用する。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている』。

 

・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。

 

・「先の注で示した有象無象の最下位の鷹匠同心50名や鷹匠ら個人の従僕を言うのであろう。

 

・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。

 

・「一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし」「麁相」は「そさう(そそう)」と読む。軽率な過ちや手抜かりのこと。勿論、夢に見ると縁起がよいとされる目出度いもの、「一富士二鷹三茄子」を夢にも引っ掛けながら洒落て読み込んだ謝罪と言祝ぎの狂歌である。この諺は江戸初期からあったらしい。個人のHP「野菜の語り部・チューさんの野菜ワールド」「一富士二鷹三茄子」にその由来説につき、詳細な考察が示されているので、以下に引用する。まず3説を提示している。

 

   《引用開始》

 

1.駿河国(するがのくに・今の静岡県中央部)の名物を順にあげた。

 

2.徳川家康が、自分の住んだ駿河国の高いものを順にあげた。鷹は鳥ではなく、富士山の近くにある愛鷹山(あしたかやま)のこと、茄子は初物(はつもの・その年の最初の収穫品)の値段の高さをいう。

 

3.富士山は高くて大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起が良い。

 

 このうちでは、1の駿河国の名物説がもっとも有力で、「三茄子」のあと「四扇(おうぎ)」「五煙草(たばこ)」と続くといいます。けれどチューさんは2の説が本当ではないかと思います。その根拠は、

 

A.ナスは奈良時代かその前に渡って来て、早くから東北地方の北部を除く日本国内に広まり、江戸時代には全国各地に土着して広く栽培されていた。ナスは外皮が傷つきやすくて遠方へは運びにくく日持ちも悪いので、みやげ物や名物にはなりにくい。古くから駿河国の三保で早出し栽培が行なわれていたが、1説の駿河国だけの名物というわけではない。

 

B.ナスが「成す」との語呂合わせで縁起が良いのなら、昔からの書物に何回も登場するはず。ところが古典文学にナスはほとんど採り上げられていない。だから3説もこじつけと思う。

 

C.ナスは野菜のうちでもっとも高温に適した種類。その反面、寒さには大変弱い。だから、ハウスや温室のなかった江戸時代には油紙を張った障子で囲って促成(そくせい)栽培をしていたので、ナスの初物は非常に値段が高かった。それで2説がもっともだと思う。ただし、鷹は愛鷹山でも鳥の鷹でもどちらでもよいし、徳川家康が言ったかどうかも怪しい。

 

 こんな理由で2説の「ナスの初物価格」が本当と思いますが、あなたはどう思われますか。

 

 このほか異説として、一富士は曾我(そが)兄弟、二鷹は赤穂浪士、三茄子は荒木又右衛門の伊賀上野の仇討と、いわゆる日本三大仇討のことだという人もあります。でも、伊賀上野はナスの名産地とはいえませんし、このことわざが江戸時代のかなり早い時期から言われていたことから、仇討由来説は当たらないでしょう。日本三大仇討については別に

 

「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に上野の花ぞ咲かせる」

 

という有名なフレーズがあります。この短歌調の文句は江戸時代の講釈師が言い出したものですが、三大仇討を初夢縁起のナスに結び付けようとして

 

「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀の仇討」

 

ともいいます。これを見ても仇討由来説はあとでこじつけた説だと思います。

 

   《引用終了》

 

この歌は、即ち、

 

  一節に鷹匠さんに爲す麁相哀はれ此の事夢になれかし

 

を表の意とし、そこに

 

  一富士二鷹三に茄子→此の事夢になれかし

 

を掛けてあるという訳である。特に訳す必然性を感じないが、敢えてやるなら、

 

   *

 

目出度やなあ――一富士二鷹三茄子(なすび)……ふとしたことからこの坊主……お上の大事な鷹匠さんに……お掛けしましたこの沮喪(そそう)……ああぁ! この事、出来るなら……夢であってちょーだいな!

 

   *

 

といった感じだろうか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狂歌にてお咎めを免れた事

 

 天明の頃、狂歌がとんでもない勢いで流行り誰もが狂歌を捻った時期があったが、その頃の話ではない。もっと前、明和安永の頃の話である。

 

 品川は高輪辺に住んでいた――何と言ったか、名は忘れた――狂歌・俳諧なんどを詠んで辛くも世を渡っておった乞食坊主がおった。

 

 ある時、近くの品川宿は馴染みの旅籠屋に廻ったところが、鳥飼御用の御為(おんため)、御鷹匠(たかじょう)が大勢、この宿に泊って御座った。――今も昔も、上役の御鷹匠はそれほどでもないが、その下に付き従う下級の者どもと言ったら、上様御鷹という御威光を笠に着て、なんだかんだと無理難題を吹っかけるような厄介な連中で御座る。――

 

 その旅籠屋の門前にも架(ほこ)を立てて御鷹を休めて御座ったのだが、この坊主、旅籠屋から出たところで、迂闊にもこの架に触れてしまい、御鷹が驚いて鳴き声を挙げながら、激しく羽ばたいて暴れ回ったため、坊主は忽ち、御鷹匠の下々の者にふん捕まってしもうた。

 

「いっかな訳あって御鷹を驚かせたかッ!!」

 

と以ての外に憤って御座れば、この僧は勿論のこと、旅籠屋の家内(いえうち)の者らも出て来て、いろいろ詫び言なんど致したところ、御鷹も別条なかったので、少し御鷹連中の憤りも緩んで、

 

「お前は何者(なにもん)じゃい?」

 

と訊いたから、

 

「へへっ。狂歌詠みに御座いまする。」

 

と答えたところ、

 

「されば――狂歌せよ。」

 

とのこと。

 

「畏まって御座いまする。」

 

とて、一首、詠じたところ、その歌に御鷹匠連も、やんやの称嘆、目出度く咎も赦されたという。その歌――

 

  一節に鷹匠さんに為す麁相哀はれ此の事夢になれかし

 

 

*   *   *

 

 火災に感通占ひの事

 

 天明六年の春江戶表、火事、多にて、白山御殿跡より出火にて昌平橋外神田邊迄燒し火事は、予が屋敷も危く、咫尺にて炎燒なしける故、家内をも立退かせけるに、親しき人々、大勢、來りて飛火を防などし給はりしが、其内壹人申けるは、決(けつし)て此屋敷迄燒候儀無之、安心いたし候樣にとの事故、其案じを笑ひければ、さればとよ、巫女の言とて侮り給ふぺからず、古き人に聞てためしみし事あり、明和九辰年の火事は江戶過半に燒し事なるに、其折から老人の申けるは、火災の折から手水鉢(てうづばち)或ひは水溜やうの水を手に結び見て、湯のやうにぬるみたらんは其家火災を通れず、水の本性ならば免れん事疑ひなしといひし故、二三ケ所ためし見しに、聊違不申と、かたりぬ。今日も爰元の水をためし氣遣ひなき事を知れりといひし。實(げに)も天地自然の義、自ら水氣に火氣を含むまじき共いわれねば、爰に記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:たかが狂歌で不思議に窮地を救われた話から、たかが水占いなれど不思議に延焼から救われた話へ。

 

・「感通」は「感徹」と同義で、本来は自分(或いは相手)の心が相手(或いは自分)に十分に届くことを言う語であるが、ここでは寧ろ「感知」(直感的に感じること)又は「感得」(感じ悟ること)の意で用いている。

 

・「天明六年」西暦1786年。「武江年表」によれば(有田久文氏のHP「写楽の研究」のこちらのページより孫引き。一部の空欄を詰め、改行を施した)

 

正月二十二日昼九時、湯島天神牡丹長屋より出火、西北風烈しく、二十数町を焼失、翌二十三日暁鎮まる。この時葺屋町、「両座芝居」焼く。

 

同二十三日午刻、風烈しく西久保大養寺門前より出火、赤羽、飯倉町迄焼失、それより飛火して田町海岸まで焼け、甲中刻鎮まる。巾三町、長さ十五町という。

 

同二十四日夜、神奈川宿三百余軒焼く。

 

同二十七日午刻、本所四ッ目より出火、釜屋堀まで焼ける。その夜平川御門外失火あり。

 

二月六日午刻過ぎ、小石川蓮華寺前、指谷町一丁目より出火、乾風強く、丸山辺御弓町、本郷元町、御茶水春日町類焼、夜五時頃鎮まる。

 

二月二十三日、相州箱根山鳴動し、二十 四日の頃、地震甚だし。

 

五月の頃より、雨繁く隔日の様なりせば、七月十二日より、大雨降り続きて山水あふれ洪水となる。

 

十三、十四日各地洪水にて、江戸川水勢すざましく、十七、十八日頃よりやや 減じたり。山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。家屋、橋など多く流され往来止まる。

 

夏より冬にいたり、諸国飢饉、物価いよいよ高く、諸人困窮す。

 

以上、春だけで5件の大火が示されている。この内、本話の火事は2月6日正午過ぎに小石川蓮華寺前指谷町一丁目より出火した火事である。

 

・「白山御殿跡」前出「本妙寺火防札の事」の鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」については前記注を参照されたい)。

 

・「昌平橋」神田川に架かる橋の一つ。文京区。現在、橋の北が千代田区外神田一丁目、南が千代田区神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目で秋葉原電気街の南東端に架かる。上流に聖橋、下流に万世橋。『この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられており、橋の南西に一口稲荷社(現在の太田姫稲荷神社)があったことから一口橋や芋洗橋、また元禄初期の江戸図には相生橋の表記も見られる。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで昌平橋と改名した』(引用はウィキの「昌平橋」から)。

 

・「外神田」湯島聖堂の東、神田川北岸の地名。現在の千代田区で北に張り出した地域に名が残っているが、一般的には現在の秋葉原一帯がほぼ外神田に相当した。江戸府内より見て神田川(外堀)の外側をであることから、この名となった。

 

・「咫尺」元来は中国の周時代の長さの単位で「咫」は8寸(約24㎝)、「尺」は10寸(約30㎝)で、非常に短い距離であることから、距離が非常に近いことを言う語となった(別に「貴人のすぐ前に出て拝謁すること」という意味もある)。

 

・「明和九辰年の火事」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。

 

・「いわれねば」の「いわ」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火災時の延焼に関わっての触感によって感得出来る占いの事

 

 天明六年の春、江戸表にては火事多く、二月六日には白山御殿跡から出火、昌平橋外神田辺りまで焼いた火事は、私の屋敷まで危うくなり、直ぐ間近にまで炎が迫った故、家族らをも避難させたのであったが、親しい人々が大勢集まって、私の館への飛び火を防ぐなどして呉れた。

 

 その際、手伝いに来て呉れた近所の巫女を生業(なりわい)と致す女が申すに、

 

「……決してこの屋敷まで火が回ること、これ、御座いませぬ。安心致いてよろしゅう御座います。……」

 

とのこと故、我らを案じてのお愛想かと私が笑ったところ、その女、

 

「……されば、巫女の戯言(たわごと)と侮られてはなりませぬぞえ。……かねてより古老に聴いて御座って、以前にも試してみましたこと、これ御座いまする。……過ぐる明和九年辰年の、かの明和の大火……あれは江戸の過半を焼き尽くした大火で御座いましたが……その折り、ある老人が申したことには……

 

『……火災の折りには、手水鉢或いは水溜のようなものの水を手で掬ってみて、それがぬるま湯のように温まって御座れば――その家、延焼遁るること、これ、出来ぬ。しかし、これが普通の水の温度のままであったならば――延焼を免れること、これ、疑いなしという話を聴いた故、儂もこの度、二、三箇所で、このこと、試してみたが、聊かの違いも、これ、御座なく、正にその言葉通りじゃった。……』

 

と申しました。……そこで妾(わらわ)も、こちらさまの水を試してみましたが、これ、延焼の気遣い、全く御座いませぬ。」

 

ときっぱりと言うた。

 

 実際、私の家は確かに――延焼から免れたのであった。

 

 これ、正しく天地自然の理(ことわり)なれば――自ずから水気が火気を含むなんてことはあるまいなんどとは言い切れぬこと故――ここに参考に供して記しおくこととする。

2010/04/09

或る教え子へ――極私的通信

何と言う偶然か!――君の今の苦悩を僕はたった今、たまたま読んだのだ――不思議だ――今の僕が抱えているように、この脳に得体の知れぬ妖しい蝉の声が響くように、君も同じように『認められぬ病』に苦しんでいるのだった――僕は君を抱きとめる、総ての安息の代わりに

悪戯が過ぎて……

悪戯が過ぎて(嘘ではないものの、記載方法は最後まで正常を隠してのいやらしい記載であるから「悪戯」でした。済みません)……早速、純粋な(教え子ではないという意味)マイミクの女性から「びっくりとしました!」とメールが舞い込んでしまった……

……しかし……実際には、かなり「覚悟」していたことも事実で、今日、授業をしながら、「この竹取のプリント、後でまたやるからね! 失くさないでね!」と言いながら……

『……失くさないではなく……亡くなっちまったら、もうこの教壇には立てないのかも知れない……』

……という気持ちが慄っとするほどリアルに過ぎったことも……実は、事実であったのである……

僕の脳 MRI横断画像Ⅳ

Mri4

……要するに、僕の脳は脳梗塞も出血も認められない、至って53歳の平凡に正常に萎縮した脳なのであった――。

……まあ、眩暈もそのまま、今も左耳には蝉が鳴きっぱなしではあるが……いや、また、命拾いしたよ――残念ながら、ね。

僕の脳 MRI横断画像Ⅲ

Mri3_2

ここでは上段の右端の画像を見よう。前頭葉に萎縮が見られる。しかしながらこれは53歳と言う私の年齢では加齢による正常な萎縮であって、何ら問題はないそうだ。

しかし、僕の脳は立派に老化して縮んでいるという事実は、なかなかにインパクトがあった。

眩暈の器質的な変異の重篤な一因には、小脳や海馬に何らかの問題がある場合(脳腫瘍による圧迫等であろう)があるという話であったが、僕の小脳も海馬も至って綺麗なものであった。

僕の脳 MRI横断画像Ⅱ

先週の土曜日、義理の母を見舞った名古屋で、義父と酒を飲んでいる最中、激しい眩暈に襲われ立っていられなくなった。酔ったことにして先に横になって、誤魔化した。

翌日は義母と一緒に半日、家内にいたので、問題はなかった。歩くのに支障はなく、帰鎌後の今週の月曜に耳鼻科で診察をしてもらうと眼振が見られた。今までに見られない症状であったが、「内耳性のものとは思われますが……他に何か言葉が出ないとか……ありませんか?」という、医師の語尾の「が……とか……」が妙に気になった。

眩暈の改善薬はもらったものの――これは以前にも処方してもらったが、はっきり言って、効かない。眩暈の処方箋は所詮、効かない薬が多いのである。何故なら眩暈の本質は多分に心理的神経症的なものであるからである――今日まで変化はなく、とりわけ、左耳の耳鳴りがこの二日ほどひどく、昨夜はそれで1時頃に目覚めてしまった。

――更に昨日辺りから、時々、授業の途中に言葉が詰るような……「気がした」。

……今、考えてみれば、春休みで暫く授業をしておらず、突然、3年で「藪の中」の4クラスの朗読から、2時間連続を含む「竹取物語」ぶっ通しの講義3クラスなればこそ、疲れて詰ってもおかしくはなかったのだ……

――しかし、今日は流石に気になった。

……思い出せないわけではない……が、言葉が思うように出ない……「ような気がした」。

今日、総ての授業後に、意を決して休みをとり、職場近くの脳外科を受診、生まれて初めてMRIを撮った。

――これが「僕の脳」だ――

Mri2

よく見て頂こう。この一番左は面白い。

右上(反転しているので左眼窩下部)だけに薄い半円形の灰色――実際のデジタル画像ではくっきりとした強烈な白で現れた――が現れている。これは上気道炎である。但し、やや張れている程度で病的なものではないと医師は言った。――しかし僕には、これが、僕の左のエウスタキオ管を圧迫しているのであろうという確信を持たせた。

僕は初めて僕の耳鳴りの張本人を僕自身の目で見た気がした――。

僕の脳 MRI縦断画像

Mri1_2 

耳嚢 巻之二 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

「耳嚢 巻之二」に「瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事」を収載した

僕も人生の何処かでこんな風にゆっくりと誰かの面前で足袋を直したいものだ――

 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

 當傳右衞門親の傳右衞門は、御番(ごばん)方より御目付に被仰付、予も覺居たり。氣丈成る仁にて有りしが、御番の節町を通りしに、其頃荒ものと名に呼れし水野十兵衞は、供立等立派にて角力取などを徒(かち)に連れ候やう成奴成人なりしが、向ふより來るを見て、往來の眞中にて家來に申付、足袋をはき直居たる折から、十兵衞徒士(かち)など聲をかけれど有無の答もなく、天下の往還相互に讓合ふべし。我等足袋をはき直しける故ひらき候事成難しといゝて、聊か不動、靜に足袋をはき直しけるが、十兵衞義駕の中より振かへりく見たりしうへ、家來を差越名前を聞たる故、傳右衞門の由答へけるが、其後程なく十兵衞番頭被仰付山城守とて、殊に傳右衞門組の頭なれは、よき事はあらじと相番(あひばん)なども聞及びて評判せしゆへ、傳右衞門も不快の由にて組の引渡にも出勤なかりし。然るに山城守より度々傳右衞門事を相番へ尋し故、久敷引居(ひきをら)んもあしかるぺしと申けるに、實(げに)もとて出勤致し、則頭の宅に屆に出ければ、兼て申付置し故、座敷へ通り候樣にと家來申故、其意に任せ通りければ、間もなく山城守出て手を取て、扨々御身は御用に立べき人也、番町にての事忘れ不申、隨分見立可申間、精を出され候やう申されけるが、山城守番頭被仰付初ての組の見立には、傳右衞門を申上、所々乘廻して相願ひ、御目付被仰付けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「親の傳右衞門」底本の鈴木氏注によれば、『瀬名義珍(ヨシハル)。享保十二年書院番、宝暦四年御徒組頭、七年目付。十一年没、五十六。その子義正は宝暦十一年書院番、安永元年七月没。四十五。当伝右衛門としるしてあるが、義正をさすのであるならば、耳袋巻二は安永元年以前に執筆されたことになる。しかし同巻には天明六年の火災の記事などもあるので、その子貞刻(サダトキ。安永二年書院番)とすべきであろう』とある。岩波版長谷川氏注でも「當傳右衞門」を貞刻を同定候補とし、先代の義正は『義珍の娘婿』と記し、その先代義珍の事蹟を示し、『親は義珍をいうか』とされる。この記載によれば生没年は、

瀬名義珍(宝永3(1706)年~宝暦111761)年)

となる。彼ならば56歳の逝去時、根岸は24歳で御勘定であった。

・「御番方」番衆とも言う。将軍の身辺警護・江戸城内警備を職掌とする者の総称。大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組を合わせて五番方とも書く。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「御番の節町を通りしに」後文で水野がはっきりと『番町にての事』と言っている。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここも『番町』とある。役職名「御番」である「番」の字に引かれて、書写の際に脱落したものと思われるので補った。「番町」は江戸城の西側、外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家屋敷町で、特に正に伝衛門ら大番士らの組屋敷があったために、こう呼ばれる。現在の千代田区市ヶ谷駅の南方部分に当る。

・「水野十兵衞」底本の鈴木氏注によれば、『実道。享保十二年御徒に召抱えられ、支配勘定に転じ、御勘定、評定所留役、大坂御金奉行をつとめ、寛延三年代官。部下の手代の者に収賄事件あり、小普請におとされ、ついで許されたが、安永四年没。六十五』とするが、岩波版長谷川氏注では、『忠英(ただふさ)。五千石。御持弓頭・百人組頭・御書院番頭・大番組頭歴任。宝暦六年没、六十歳』とする。それぞれの生没年を見ると、

水野実道(寛永201643)年~安永4(1707)年)

水野忠英(元禄101697)年~宝暦6(1756)年)

であるから、「親の傳右衞門」を瀬名義珍とする以上は水野忠英の方しかあり得ない。信濃国松本藩第三代藩主であった水野忠直六男(後、兄で忠直次男の直富の養子となった)。

・「成奴成人なりしが」底本右に『(尊經閣本「成奴なるが」)』とある。「連れ候やうなる奴なる人なりしが」という底本本文はくどいので、尊経閣本の方を採る。「奴」は俠客と同義。

・「徒」=「徒士」「徒士侍」(かちざむらい)のこと。主君の御供や行列の先導をする武士。

・「相番」同じ組で一緒に勤めをする同僚。

・「實(げに)もとて」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 瀨名伝右衛門出世致し御目付に相成るに到った顛末の事

 現・瀨名伝右衛門の親の瀨名伝右衛門は、御番方より御目付に仰せつけられ、私も記憶にある方であられる。晩年にあっても大変、気丈な御仁であられた。

 その伝右衛門殿が、未だ御番方を勤めて御座った頃のことである。

 彼が丁度、番町を通って御座ったところ、その頃、勇猛果敢の呼び名高かった水野十兵衛忠英殿が――この忠英殿も、見るからに立派で派手な御供、或いは巨体を揺るがす相撲取なんどを連れにして道をのし歩くといった、男立てで鳴らした御仁で御座ったが――真っ向からやって来るのが目に入った。

 すると伝右衛門、やおら往来のど真ん中にて、

「――足袋を、直す――」

と付き添って御座った家来の者に申し付け、足袋を履き直し始めた。

 そこに来合わせた十兵衛のお徒士(かち)なんどが、口々に、

「やい! 邪魔じゃ!」

「退(の)きゃあがれ!」

とけたたましく声を掛ける。

 が……伝右衛門、一切それには答えず、駕籠の方に言うともなく、

「――天下の大道、相互いに譲り合うべきもの――我ら、足袋を履き直して、おる!――故、道譲ること、相出来申さぬ――」

と静かに、しかし、きっぱり言い放つと、聊かも動かんとする気配なく、静かに――足袋を履き直して御座った……。

 すわ一騒ぎと言う間際、駕籠中(うち)より何やらん、制する声があって、

「……ケッ!……」

とかぶいた徒士ども、めいめい唾を吐き捨て……十兵衛の一行、道の真ん中の伝右衛門を避け……脇を抜けて通って行く……その……擦れ違う駕籠の中(うち)から、水野十兵衛、何度も何度も振り返って、伝右衛門の方を見ている視線が光った……と……もう大分行過ぎたかと思うた頃……十兵衛、家来に命じて戻って来させ、

「御主、名は何と申すか!?」

と名を質して参った。

「瀨名伝右衛門――」

と、彼は高らかに、正しく応じて御座った。――

 ――その後程なく、水野十兵衛殿は番頭を仰せつけられ、官位を授けられて山城守となられた。

 殊に、その番頭、正に伝右衛門の属して御座った組の組頭の就任で御座った。

「……いいこたぁ……なさそぅじゃのぅ……」

と例の一件を聞いて御座った同僚なんども噂しておったため、伝右衛門自身も理不尽なる扱いを受くるは不本意なればとて、病いを理由に十兵衛への組頭引継の儀をも欠勤、それからもずっと勤仕(ごんし)致さなんだ。――

 ところが――これまた、伝右衛門が同輩に山城守より度々伝右衛門出仕の趣きに付、お尋ねの儀、これあり、ために同輩も伝右衛門に、

「……長いこと、こうして引きこもって御座るのも……悪かろうってもんだぜ……こんな仮病、直きにばれようし……さすれば文句なしに小普請入じゃ……」

と申すので、伝右衛門も、

「如何にも。」

と遂に意を決して出仕、御役御免覚悟の上、直ちに頭水野十兵衛殿役宅を訪れ、初出仕の旨、届け出でたれば、

「……かねてより貴殿来訪の折りは、必ず座敷へ通すよう承って御座る……」

と家来の者が申す。

 その意に従って奥座敷に通され、着座して待っていると、間もな水野山城守殿が現れ、現われるや、伝右衛門の手を取ると、

「……さてもさても!……御身は見所ある御仁にて!……ほうれ! かの番町での事、忘れも致さぬ! 向後は大いに、拙者、後ろ盾となりましょう程に、どうか、精を出して働かれんことを!……」

と申されたとのこと。――

 その後、山城守は番頭を仰せつけられて最初の支配の組の人事にては、この伝右衛門の名を一番に挙げられ、その後も様々な場に必ず伝右衛門を供として連れ廻しては、主だった方々にお見知り置き相願い、遂には伝右衛門、御目付を仰せ付けらるるに至ったとのことで御座る

2010/04/08

耳嚢 巻之二 事に望みてはいかにも靜に考べき事

「耳嚢 巻之二」に「事に望みてはいかにも靜に考べき事」を収載した。

 事に望みてはいかにも靜に考べき事

 安藤霜臺のかたりけるは、紀州にての事の由。少しはゆかりありし人にもありしや。其親朝椽端出て讀經なしけるに、家來の内亂心をなして、右親の後ろに刀をふり上げ立居たり。其子見て南無三寶と思ひしが、まて暫し若(もし)後より抱留(かかへとめ)ば、いづれ振上し刀ゆへ父に疵を付可申と、つか/\と寄りて向ふへ突倒しけるに、父の上を越して向ふへ延ける故に父には無恙、親子して彼亂心者を取押へける。頓智成事と語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:子の母の恥辱を雪ぐ事から子の父の命を救う事で連関。

・「事に望みては」の「望」の横に底本では『(臨)』とある。勿論、それで採る。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「耳嚢」お馴染みの情報源の一人。紀州藩出身。

・「事に望みては」底本では「望」の右に『(臨)』と注する。

■やぶちゃん現代語訳

 急なる一大事に臨んでは却って心静かに熟考すべき事

  安藤霜台殿の語ったところによると、紀州での出来事との由。はっきりとはおしゃられなかったものの、どうも霜台殿所縁(ゆかり)の方の話であったか。

 ――ある人の親、朝方、いつもの如く縁端にて読経なんどし勤行致いておったところ、家来のある者、俄かに乱心致いて、何も知らぬその親の背後に立ち、ずい! と刀を振り上げ立ちすくんで御座った――。

 それに気づいた息子、

『南無三!』

と思い、即座に摑みかからんとしたが――

『……待て!……暫し!……もし、ここで後ろから抱きとめたとしたら……所詮、振り上げた刀なれば……自然、振り下ろされて父に傷をつくるは必定……』

と、平時と変わらぬ落ち着きのままにつかつかとその背後に歩み寄るなり、その乱心者の背を――ぽーん!――と真っ直ぐ前へ突き飛ばした。

 すると――乱心者の体(からだ)は、刀を振り上げた姿勢のままに着座致いて御座った父の頭上を美事すうっと通り越し――向ふへ、ぺたん、と延びてしもうた――。

 されば父には恙のう――また、親子二人して、かの乱心者を取押えられたという。

「……これぞ正真の機知と申すもの……」

と語って御座った。

2010/04/07

耳嚢 巻之二 小兒手打手段の事

「耳嚢 巻之二」に「小兒手打手段の事」を収載した。

 小兒手討手段の事

 阿久澤何某は至て強勇にて、享保の頃迄任俠を專ら成し歩行けるが、其子孫今に御勘定を勤て予も知る人也き。右阿久澤幼年にて未十才前後の頃、表にて遊びかへりけるに、其母一僕の不束(ふつつか)ありしを叱り居るに、彼一僕女と侮りしや以の外に惡口なし、主人を主人と思はざる氣色なるを見し故、臺所を上りながら我草履を椽(えん)の下へ蹴込て、彼僕に草履を椽の下へ入れし間取呉候樣申けるが、彼僕彼是と母を罵りながら、土間にうづくまり椽の下へ手を入しを、短刀を拔はなし背中より差貫きけると也。小兒の身分さし當(あたり)ての工夫感ずるに餘り有し事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:烈女から烈児で強烈に連関。

・「阿久澤何某」底本鈴木氏注に、『善蔵行正か。御徒をつとめた。その子義守は御徒を御徒をつとめ、支配勘定を経て、寛政九年御勘定。時に三十九歳』とするが、岩波版長谷川氏注は『吉右衛門行梢(ゆきすえ)、あるいはその兄広保(ひろやす)か。御勘定勤めの子孫は後出の弥左衛門広高か』とする。この「後出の弥左衛門広高」というのは、十七項ごの「剛強勇の者御仕置を遁れし事」に登場する根岸の知人と思しい「彌左衞門」なる人物で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(本底本では名前のみ)「阿久沢弥衛門」姓が示されている。そちらの阿久沢弥衛門の注で長谷川氏は『広高。安永七(一七七八)御勘定。ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだ』とある。どうも、こういう注を読んでいると、妙にかえって何が何だか分からなくなってしまうのは、私が馬鹿だからであろうか。鬱憤晴らしにネット上で管見出来た高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」の「阿久澤」の項を視認出来る限り、テクスト化してみる(《 》は私の示した人物関係。判読不能の字は■で示し、割注は【 】で示した)。

  阿久澤

家伝にいはく、先祖は桃井の底流にして加賀國津々井里愛久澤の邑に住せしより、地名をもつて家號とし、のち文字を阿久澤にあらたむ。

●行次(ゆきつぐ)長右衞門

寛永十年御徒にめし加へられ、のち組頭と

なる。

行佐(ゆきすけ)《行次子・行廣兄》

父が遺跡を繼、子孫御家人あり。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫《行次子・行廣弟》

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門《行廣子》

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

●行保(ゆきやす)長次郎

享保十六年九月五日遺跡を繼。《廣保子》

●行光(ゆきみつ)彌五郎《系譜上は行保子》

實は阿久澤吉右衞門行梢が長男。行保が養子となる。

享保二十年十二月二日遺跡を繼、のち御徒目付をつとむ。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門《系譜上は行光子》

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

 家紋 二引兩 須山 五七桐

   阿久澤

阿久澤彌太夫行廣が男吉右衞門行梢、寶永五年五月御徒にめし加へられ、のち組頭つとめ三代連綿して行正にいたる。

●行正(ゆきまさ) 善藏

御徒をつとむ。

●義守(よしもり) 初成富(しげよし) 平次郎 彌平次 実は藤田忠左衞門成保が男。母は織田左近將監家臣中村三郎左衞門氏喜が女。行正が養子となる。

御徒をつとめのち支配勘定に轉じ、寛政九年十二月二十八日班をすゝめられて御勘定となる。【時に三十九歳】十年六月二十二日さきに仰をうけたまはりて、日光山におもむき、御宮をよび御靈屋修復の事をつとめしにより黄金一枚をたまふ。妻は橋本金右衞門秀温が女。

 家紋 二引兩 須山

「班」は地位のこと。この事蹟を見ると、根岸との接点はどちらにもあり、いい加減な私は……どっちもどっちみたような気になってしまうのである……。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「御勘定」勘定所の中級官吏。役高150俵御目見え。

■やぶちゃん現代語訳

 子供が無礼なる下男を手打ちに致いたその手段の事

 阿久澤何某なる者、至って剛勇を誇った御仁にて、享保の頃まで、世間でも男立てで鳴らした男で御座った。その子孫、今は勘定を勤めて御座って、私もよく存じておる人である。

 その任俠阿久澤が未だ少年の十歳前後の頃、表で遊んで家に帰ってみると、家内の台所にて、ちょうど母が、一人の下僕が不始末をしでかしたのを咎めて叱りつけたところで御座った。

 ところが、その下僕、夫は不在、相手を女と侮ったか、以ての外の罵詈雑言、主人を主人とも思わぬ不埒なる振舞いなるを外よりまじまじと見た。

 阿久沢少年は、そ知らぬ振りにて内に入り、台所に上がりながら、自分の草履をわざと縁の奥にに蹴り込んだ。

「ねぇ! 草履を縁の下に、蹴り込んじゃったぁ! ねえ! ねえ! 取っとくれ、取っとくれよ!」

と、がんぜない甘え声で言ったところ、下僕はなおも母を罵りながらも、土間に蹲って縁の下を覗き込んで手を入れた。――と、間髪を入れず、阿久沢少年、普段から懐に忍ばせている短刀を抜き放つと、目の前の、その下僕の背中に――ぶすりと――突き立てた――という。

 子供の分際乍ら、身の丈に合った手打ちの工夫、その美事なること、感ずるに余りあることにて御座る。

2010/04/06

耳嚢 巻之二 村井何某祖母武勇の事

「耳嚢 巻之二」に「村井何某祖母武勇の事」を収載した。

 村井何某祖母武勇の事

 村井某とて御徒士(おかち)を勤め、寶藏院流の鎗術(さうじゆつ)などせしあり。予も知る人にてありし。右の租父孫太夫の妻にて有し由、勝れたる婦人にて、或時孫太夫御城の供にて朝とく出し時、未だ明け六ツ前なれば一間なる所にて髮など梳りて居しに、盜賊右一間の窓より杖やうの物の先へ頭巾をかけ窓より内へさし入、引取ては又入れける故、彼女房得(ふと)と見て、全く盜賊ならんと夫の差添を拔て窓の邊りに息を詰待居しが、無程彼盜賊人のいざると心得、窓へ手をかけ首をずつと差入れける處を、横ざまに彼盜賊の首へ刀を突通し、夫の歸る迄沙汰もせで、夫歸りて其譯を語り見せし由。かゝる不敵の女性也しが、後家に成て物見に表を見居たりしに、其物見下にて双方武家方なるが、いか成事にや、互に立向ひ鑓追取て戰ひしに、壹人難なく相手の胴中を突通しけるに、彼相手鑓を捨て、突拔れながら鎗をしごき腰刀を拔て、やがて手元へ來らん氣色を、彼女房見て、其鑓をふつて拾給へと、流石に鑓遣ひの母程ありて聲かけぬれば、其通せし故相手倒れけるを止めをさして、折節人もなく雙方の家來逃去りければ彼侍立退んと右婦人の方へ目禮して五六軒も行過しを、彼女房(ふと)聲をかけて鑓印を取給へといひける故、始て心付き鑓印を取りて立去りし故、相手はいづれやら跡も詮議もわからで濟しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:刀剣を巡る因果譚から、同じ刀剣類である槍連関。それにしても、その辺の男では足元にも及べぬ勇猛果敢な烈女である。しかし、如何にも何やらん、魅力的だ――こういう女性と私は恋してみたい。

・「御徒士」「徒組」「徒士組」(かちぐみ)と同じ。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「寶藏院流」奈良興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房胤栄(大永元(1521)年~慶長121607)年)が創始した十文字槍を用いる槍術の一派。薙刀術も伝承していたとされる。

・「租父孫太夫」岩波版長谷川氏注に『村井正邦(明和七年没)の祖父正伊(まさこれ)か。儀太夫と称する。ただし御勘定。正徳四年(一七一四)没、五十七歳』とある。主人公と目される村井正伊は(明暦四・万治元(1658)年~正徳4(1714)年)となる。但し底本の鈴木氏注では、『寛政譜には村井氏は一家のみ』として、長谷川氏の示した村井氏を挙げるものの『代々御勘定で、御徒ではない。また孫太夫という通称も歴代の中に見えない』と、否定的である。これも前話同様、決定的な同定を避けたい意識が根岸に働いた変形かも知れない。

・「明け六ツ前」通常は「明け六ツ」は午前6時頃と記すが、不定時法であるから季節が特定出来ないと時間を指定出来ない。話柄の雰囲気から見て(窓を開けて寒気が入るような秋や冬とは思われない)、実際には「明け六ツ」もっと早い4時半頃から5時半前位を想定した方がよいように思われる。「前」とあるから、その前で4時から5時を想定したい。

・「盜賊右一間の窓より」の「盗人」は。文脈上の面白さから、わざと排除して訳した。訳し忘れではない。

・「差添」太刀の脇差のこと。

・「物見」物見窓。外を見るために設けた窓で、連子になっていて、外からは見え難くしてある。

・「鑓印」戦陣や外出時、槍の印付鐶(しるしつけかん:身(刃)の柄への接合部である口金部分と、柄の中央よりやや身に寄ったところにある血留めの環との、中間部に回されている環。)につける家紋を入れた皮製の印。

■やぶちゃん現代語訳

 村井何某の祖母武勇の事

 村井何某といって御徒を勤め、宝蔵院流の槍術などを修めた男がある。私も直接の知人としてよく知っている御人である。この人の祖父孫太夫の女房という方は、実に優れた女人で御座った由。

 ある時、孫太夫、上様御供のため、大層、早朝に家を出た。

 まだ明け六前で、奥方は一間で髪などを梳いて御座った。

 すると、表に面したその部屋の窓より、

……すうーっと……

……杖のようなる物の先に頭巾をかけたものを、窓より部屋の中へと差し入れたかと思うと、また……

……すうーっと……

……外に引き戻す……又、差し入れる……

……そのように何度も出したり、入れたりを繰り返す……

故にかの女房、

『……これは、全く以って盗賊に違いなし!――』

と、そっと立つと、家にある夫の脇差を引き抜き、窓の脇にて息を潜め、凝っと待って御座った――。

 程なく、その盗賊、誰もいないと思い込んで、窓へ手を掛け、首をすっとさし入れたところを、女房、真横からぶっす! と一気に、その盗賊の首へ刀を突き通して御座った――。

 後、夫の帰るまで賊の侵入と成敗を通報することなく、家内の者にもきつくその一室への入室を禁じて現場保存をし、夫が帰って以上の経緯を縷々説明致し、襖を静かに開けて現状を見せたとのこと。

 若き日も、かくなる大胆不敵の女人で御座ったが、その後(のち)、後家となってからの話も、まだ御座る。

 ある日のこと、外に面した物見窓の方を、見るともなく見ておったところが、何やらん、気配がする――されば、窓近くへ寄ってそっと覗いて見ると――その窓下の通りにて二人の武士が、何としたことか、互いに槍を手にして果し合いを致いて御座った。

――震える両の槍穂……男たちの荒い息――。

……と……一瞬の間合い――

……一人が、難なく――ぶすっと――相手の胴の真ん中を美事貫き通した――。

……が――

……刺された当の相手は、持っていた自分の槍をかなぐり捨てると、どてっ腹に突き刺さって御座る、その槍を摑むと……ぐいっ! ぐいっ!……と扱(しご)きながら……腰の刀をやおら抜いて、そのまま槍を持った男の手元へと寄り来らん勢いと見た――

「その槍! 振って捨てなされ!」

と、思わず物見窓の中(うち)から叫んだ――流石に槍遣い母なればこその声かけにて御座ったれば――男、はっとして言われた通り、握った槍を強く振って捨てる――どうと、相手が倒れたところに、太刀を抜いて止めを刺した――。

 辺りに人気はない――双方の家来も早々に逃げ去っておったれば――勝った方の侍も早(はよ)うに立ちかんと思い……物見窓の奥に幽かに見える、かの女の影に向かって目礼して、足早に五、六間も行ったところ、背後より、

「槍印を! お取りなされよ!」

とのまたしても女の声。

 またしても始めて気づかされた侍、早急に立ち戻ると、槍印を取り去って速やかに立ち去って行った――。

 勿論、これ、事件として詮議はなされたものの、殺した相手は誰だったのか不明のまま、結局、迷宮入りと相成った、とのことで御座る。

2010/04/05

北海道の一少年夢を盗みて右大臣に登る事

富良野の純が更正し、志木那島のDr,コトーになったと歓喜していたら、今度は「チックタック計画」の日本人時間航行士となって吉備真備になりおった――この皮肉は――しかし、概ね私の好きな吉岡君自身の罪ではない――そもそも一人の少年純の成長を「北の国から」というドラマとして擬似的に体験することによって、

純=俳優吉岡秀隆

という図式に加え、

純=俳優吉岡秀隆=擬似的実子

としての意識を付与させてしまい、視聴者自身が擬似的親と化し、不肖の息子を不肖のままに不良の大人にするか、内心失望するしかない愚息とするしかなかった実際の大多数の親が、自己の願望通りに成長した「純」だけを求めようとする――その欲求を知っているシナリオ・ライターやプロデューサーは、

純=俳優吉岡秀隆=擬似的実子=真心を持った医師としてし成長した「純」

という等式を意識的に設定し、等身大の俳優吉岡秀隆にそれを求めるというフィード・バックを行う。その構造には誰もが皆、気づいている――気づいていながら、その当然の予定調和によって得られる快感を我々は拒否出来ない。それほどに「北の国から」という擬似家族効果は絶大であったのだ。その連鎖は遂に、純を「チックタック計画」の日本人時間航行士とし、あのアリゾナ砂漠の地下深くに建設されたタイム・トンネルを抜けさせて、

純=俳優吉岡秀隆=擬似的実子=真心を持った医師としてし成長した「純」=誠心を以って民と国家を救った吉備真備としての「純」

という不可能を可能とした。現代の脆弱な少年が上古の宰相となる典型的な貴種流離譚がここに出来上がったのである。

俳優としての吉岡君が僕は好きだ。

擬似的兄としての僕側の意識も払拭は出来ない。

しかし、俳優としての彼にとって、僕は今の彼の仕事の状況を幾分かは不幸と思う。彼自身がそれを一番痛感しているであろう(その点、「蛍」の方は比較的早くそれを脱却し得た。が、それが俳優中嶋朋子が蛍としての印象で捉えられることを嫌がっている――素のインタビューでは実際にそうであったと感じられる印象が強い――というゴシップとして広がった分、彼女中嶋朋子の魅力は――私には――なくなったと言ってよい。これは「Dr,コトー診療所」の柴崎コウの与那国ロケ忌避のゴシップと全く同様である。あの一件によって僕は後埋めのキャラクターであった蒼井優が大好きになったのである。そこはこうした俳優たちの噂の宿命であり、恐さでもある。しかし、彼女(中嶋朋子)は俳優としては抜群にうまい部類に属す。向後の活躍を期待する)。

純は不純にならねばならぬ――

キビノマキビはやめてミチニマキビシでなくてはならぬ――

視聴者やプロデューサーの利己的な夢を買ってはならぬ――

今、富良野塾が解散するというのも、一つの啓示でもあるのかも知れぬ――

吉岡君よ、昨夜の夢に立ち戻って――

与那国島の美しい沿岸舗装道路ではなく、原生林に続く富良野の雪積もった山道を行く夢を――

もう一度敢えて選んでみるのも、君の俳優という人生行路の「健康」には必要なことであるように思われる――。

耳嚢 巻之二 いわれざる事なして禍を招く事

「耳嚢 巻之二」に「いわれざる事なして禍を招く事」を収載した。

 いわれざる事なして禍を招く事

 享保の比(ころ)とかや。上野塔中(たつちう)にて格祿鄙(いやし)からぬ僧のありしに、最愛の美童有しに、段々年も積て廿三四才になりぬれば、近き内には相應の方へ養子に遣し候とて、念頃に支度など取賄ひなど遣しけるが、大小も一通り立派に拵へけるを、ある日下谷御徒(おかち)を勤ける其頃の任俠小野寺何某といへる者來りける時、かく/\の譯にて右若き者に大小持遣しぬ、切べきものなるや、釋門の事なればしる事あたはず、一覧給はれとありしゆへ、小野寺是を見て、遖(あつぱれ)の出來物哉(かな)、隨分見事の道具たり、しかしためし見申さず候ては丈夫には難申、我等に預給へ、ためし見んといひしに、彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より、とてもの事によろしく賴ぬと挨拶して、かの大小を渡しければ受取りて歸りぬ。享保の後まで、吉原の堤抔には折々辻切抔有しが、彼小野寺もかゝる事を慰になしけるにや、彼一刀を帶し夜更て日本堤へ至り、往來の若者へ喧譁をしかけ拔打に切けるが、遖(あつぱれ)名作の印や、水もたまらず二ツに成ぬ。夫より心靜に持參り此血などぬぐひ洗ひなどして、其後日數兩三日過て彼寺へ持參り、此程此刀ためし見しに扨々きれもの也。隨分調寶のやう其人に申給へとありければ、彼僧涙を流し、此刀を遣すべしと存ぜし若者、兩三日跡に吉原町へ行候事にや、日本堤にて切害されてありしが、何者の仕業とも不知、衣類懷中の物紛失もなければ、定て盜人の所爲とも思われずと涙と共にか たりけるに、其日どりを考へ合すれば、小野寺が切し若者は則右出家の刀を可讓とせし者也。因果は是非なきものと古き人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:仏教嫌いの根岸の僧侶批判で連関。ここでは同性愛の相手である美童=御稚児への僧の異常な愛着を煩悩として認識しない、それどころか殺生の道具である刀剣の切れ味に拘る愚僧非僧への痛烈な軽蔑感が示されいる。

・「いわれざる」の「いわれ」はママ。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「上野塔中」寛永寺の塔頭のこと。江戸後期の寛永寺は寺域305,000余坪、寺領11,790石、塔頭(子院)は36ヶ院(現存は19院)に及んだ(以上はウィキの「寛永寺」を参照した)。

・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。

・「御徒」「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「小野寺何某」諸注小野寺秀明(ひであきら)を同定候補としている。底本の鈴木氏注では、『寛政譜によれば、小野寺は一家あるのみで、第一代の作右衛門秀隆が、御徒頭になり、その子秀盛が万治三年十二月に遺跡を相続している。享保ごろの当主は秀盛の孫英明で、勘定から評定所留役になったが、享保元年事務の手落があったのと、平素のつとめも宜しからざる聞えあるによって小普請におとされ、逼塞を命ぜられ、翌二年四十一歳で没した。英明は御徒ではないが、この人ではなかろうか。御徒から支配勘定、さらに勘定に移る例も少なくないし、英明の子は小十人頭などになっているので、誤ったのであろう』と記されている。岩波版長谷川氏注では若干の留保をして秀明の名を挙げ、『三代前の秀隆は御徒より組頭』という点に注意を喚起している。これらによれば秀明の生没年は(延宝5(1677)年~享保2(1717)年となる。「平素のつとめも宜しからざる聞えある」という部分に本話柄との強い連関を感じさせる。逆に決定的な同定を避けたい意識が根岸に働いた変形か。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

・「彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より」ここにこの言葉は言わずもがなという感が強い。そもそも冒頭から稚児に溺れている僧をこう形容すべきところである。それを敢えて刀刀剣の切れ味を依頼するところまで持ち越したのは、稚児に対する同性愛感情の昇華や合理化であると同時に、そこに伏線として「出家に似合ず」殺生の道具たる刀から、後半への血の匂いを漂わせておくためでもあろう。

・「吉原の堤」今戸橋待乳山聖天付近から箕輪浄閑寺辺りにかけて隅田川から引き込んだ水路に沿ってあった土手通り。

・「日本堤」吉原堤の本来の名称。この水路の下流、山谷堀近辺では水路の両岸に土手が築かれており、「二本堤」と呼ばれていたことからの名称という。新吉原移転後「吉原土手」「吉原堤」とも呼ばれるようになった、吉原への徒歩の道筋ではあるが、通人は専ら舟で通った。

・「水もたまらず」刀剣の斬れ味の鋭さを特異的に言う慣用句。斬り落としたさまが鮮やかなこと。

・「兩三日跡」の「跡」とは過ぎ去った方の意であるから、三日前でよい。

■やぶちゃん現代語訳

 余計なことを致いて災いを招くという事

 享保の頃とか。

 上野寛永寺塔頭に格式も禄高も相応なる僧が御座ったが、この僧、最愛の美しき稚児を抱えておった。その美童も、だんだんに齢を重ねてしまい、最早二十三、四とも相成って、僧も名残惜しいものにては御座ったが、

「……近いうちには……相応の家に、養子に、遣らねばなるまいのぅ……」

と、おいおい念を入れて、その支度なんどを始め、本人へも下々の者にもいろいろとその関わり事を命じたりも致いて御座ったが、特に、相応の武士の格に相応しい大小を立派に拵えさせた。

 ある日、下谷に住む御徒組の、その頃、世間でも任俠で鳴らした小野寺某という知り合いの男が寺を訪ねて参った折り、

「……かくかくしかじか……の訳と相成り、右の者に大小を拵え、さし遣わさんと思うて御座る。なれど……この刀、切るるものや否や……沙門の身なれば、細かいことは存じませぬ。……とりあえず御一見下されんかのぅ……」

と言う。そこで小野寺、この刀を見たところ、

「これは天晴れの技物(わざもの)――頗る美事なる道具……。――しかし乍ら、やはり試し斬り致さざれば、確かなことは、これ、申せませぬ。……一つ、拙者にお預けなされては如何(いかが)か? 試して見ましょうぞ……」

僧は僧職にも似合わず、刀の切れ味に異様な関心を示して、

「いや! それは願ってもない! 是非とも宜しくお頼み申す!」

と依願、僧は大小を恭しく渡し、小野寺は刀を受け取って帰って行った。

 ――享保の始めまで、吉原の堤などには折々辻斬りなんどがあったが……

 ――小野寺某なる人物も、そうしたことを気晴らしの楽しみとしている輩であったものか……

……その夜、かの一刀を佩いて日本堤へ至ると、外に人気のないのを見計らって、通りすがりの一人の若者に因縁を付けるや……抜き打ちに一気に斬りつけた……天晴れ、名刀の所以か、若者の胴は鮮やかに真っ二つになって御座った――。

 その日から数えて丁度三日後のこと、小野寺、かの寺へ刀を持ち参り、

「この程、この刀、試してみたところ――さてさて、やはりこれ、美事なる斬れの技物にて御座った。どうか永く大切にされるよう、そのお人にお伝え下されよ。」

と口上致いたところが……

……かの僧、突然、ぽろぽろと涙を流し、

「……この刀を遣わさんと思って御座った若者……三日程前に吉原へでも行くつもりで御座ったか、……日本堤にて斬り殺されてしもうた、……何者の仕業とも分からぬ。……衣類・懐中の品なんども何も無くなっているものはないからに、盗人の仕業とも思われず……」

と、涙と鼻汁で顔中をぐしゃぐしゃにしながら語ったのであった……。

……日時及び場所を考え合わせるなら……

……小野寺がかの刀で斬った若者とは……

……則ち、その僧が刀を譲らんとした可愛い男……

……その人であったのだ……。

「……因果というもの……これ、如何(どう)にも逃れ得ぬものにて御座る……」

とさる年寄りが語った話で御座る。

2010/04/03

耳嚢 巻之二 強氣の者召仕へ物を申付し事 / 本妙寺火防札の事

本日、一泊で名古屋のアルツハイマーの義母を見舞う。ために、「耳嚢 巻之二」には二日分、「強氣の者召仕へ物を申付し事」及び「本妙寺火防札の事」二篇を収載した。

 強氣の者召仕へ物を申付し事

 巣鴨に御譜代(ごふだい)の與力を勤し猪飼五平といへるありて、我等も知る人にてありしが、彼五平親をも五平といひて享保の此迄勤ける由。あく迄強氣(がうき)者にて、常にすへもの抔切て樂みとし、諸侯其外罪人などありて賴ぬれば、悦びて其事をなしけるよし。或る時召仕の中間を召抱る迚、壹人年若く立派なる者來りて、氣に入りし故給金も乞ふ程あたへ抱けるが、小身の事故纔に壹僕なれば、或る時米を舂(つ)き可申と申付しに、彼中間答て、我等は草履取一邊の約束にて何方へも召抱られし事也。御供ならばいか樣の儀も致べけれど、米舂し事なければ此儀はゆるし給へと言ければ、五平聞て、尤の事也、約束違へんも如何なり、さらば供可致とて、其身裸に成て下帶へ脇差を差、自分と米を舂、右米をつき御供可致とて彼下男に草履を持せ、自分の米をつき候跡へ附て廻り候樣に申付ければ、彼僕も込り果て、何分我等舂き見可申とて、其後は米を舂けるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:生臭の売僧を、理路の逆手を取った奇略で窮地に追い込んだ武士から、我儘な家来を、同じく理路の逆手を取った率先行動で困惑させて従属せざるを得なくさせた武士で連関。

・「御譜代の與力」同心の上に位置する。現在の東京都の各警察署長相当と考えてよい。まずウィキの「与力」より引用する。『同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった』。猪飼は「御譜代」とあるから、恐らく後者と思われる(後述)。『与力は、馬上が許され、与力組頭クラスは、二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだが、不浄役人とされ将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった』。「不浄役人」というのは犯罪者の捕縛や拷問・断罪に直接関わる仕事であったから。但し、後に述べるように当時の同じ禄高の武士に比べると遙かに実入りが良かった。『また当時25騎の与力が南町・北町奉行所に配置されていた。なお、与力は一騎、二騎と数える』。『役宅としては300坪程度の屋敷が与えられた。また、諸大名家や商家などよりの付け届けが多く、裕福な家も多かった』。『与力は特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。伊達男が多く与力・力士・鳶の頭を「江戸の三男」と称した』。「御譜代」とは、御抱席に対する語。御抱席とは交代寄合の地位、則ちその一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。

・「猪飼五平」諸注注せず、不詳。読みは「いかい」若しくは「いがい」。

・「込り果て」底本では「込り」の右に『(困)』と注記する。

・「強氣」は「豪儀」とも書いて、威勢がよく、立派なさまという意以外に、「強情」「頑固」の意がある。但し、表現から見て、根岸は現在の「豪気」=「剛気」の意義と全く同等に用いている。則ち、強く勇ましい気性、大胆で細かいことに拘らない性質(たち)である。

・「すへもの」刀剣の試し斬りの一つである据物斬りのことを言う。人体による試し斬りの技を言う。一般に罪人の死罪執行後の遺体を用いた。ウィキの「試し斬り」に、『徳川幕府の命により刀剣を試し切りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し切りを任される役職があったことが知られている。その試し切りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった』とあり、さしずめ猪飼はこの様者並の立場にでもあったものと思われる。『なお、その試し切りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば三体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている』。『据物斬は将軍の佩刀などのために特に厳粛な儀式として執り行われた』。『その方法は、地面にタケの杭を数本、打ち立て、その間に死体をはさんで動かないようにする。僧侶、婦女、賎民、廃疾者などの死体は用いない。死体を置き据えるときは、死体の右の方を上に、左の方を下にして、また、背中は斬る人のほうに向ける。刀には堅木のつかをはめ、重い鉛のつばを加える。斬る箇所は、第一に摺付(肩の辺)、第二に毛無(脇毛の上の方)、第三に脇毛の生えた箇所、第四に一の胴、第五に二の胴、第六に八枚目、第七に両車(腰部)である。以上の箇所を斬ってその利鈍を試みるのである。二つ胴、三つ胴などというのは、死体を2箇以上重ねて、タケ杭の間にはさんでおいて試みるのである』と記す。

■やぶちゃん現代語訳

 剛毅の者が奇略を以って我儘な家来に仕事をさせた事

 巣鴨に、代々与力を勤めて御座る猪飼五平という者がおる。私もよく知っておる男であるが、この五平、父親もまた同じ五平を名乗り、享保の頃まで与力を勤めて御座った。

 この父五平、途轍もなく剛毅な男にて、普段、据え物斬りなんどを楽しみと致しており、大名家その外から刀剣類鑑定の依頼があり、偶々処刑された罪人の遺体なんどがあれば、二つ返事で請け合い、喜んで試し斬りを致いたということであった。

 ある時この父五平、召使うための中間(ちゅうげん)を召し抱えるようと探しておったところへ、彼の元へ、雇ってもらいたき旨申して一人の若い丈夫が訪れた。一目見て気に入ったので、給金も望みむままの額で決し、抱えることとなった。

 五平、小身の旗本なれば、雇うて御座った中間、これ一人、二人。

 ある時のこと、五平、餅を食いたくなり、

「米を搗きな。」

と申し付けたところが、この中間、涼しい顔でこう答えた。

「私は、主人草履取りとして御供することの専従という契約にて、どちら様にもそのような中間として召し抱えられてきた者にて御座る。こちら様にても御同様の御約束で御座った。されば、御供の儀なれば致しますれど、米を搗いたついたこと、これ、御座らねば、その儀は御赦し下されい。」

 それを聴いた五平、にやっと笑うと、

「いや! それは尤もなことじゃ! 約束に違(たご)うこと、これ、我が本意(ほい)にてもあらぬ!――さればとよ、これより、我らが供致すがよい!」

と言うや、五平、上着をばっさり脱ぎ捨て褌一丁の裸になり、その褌に脇差を差し、その場でちょいと米を搗いて、

「さても! 拙者、米搗くに、うぬはその供せよ!」

とて、かの下男に草履を持たせ、

「拙者、このままにて米を搗きつつ、各所を廻らんとす。故、その後にぴったり付いて!――廻るが、よいぞ!」

と申し付けたところ、流石に下男、困(こう)じ果てて、

「……わ、分かり申した……わ、我らが、米を搗いて、みましょう、ほ、程に……」

と言うて、その後(のち)は、命ずれば黙って素直に米を搗くようになった――ということにて御座る。

*   *   *

 本妙寺火防札の事

 白山御殿に新見(しんみ)傳左衞門といへる人あり。常時よりは三代も已前也。餘迄強勇の男也しが、本妙寺旦家(だんか)にてありしに、或時本妙寺來りけるが、なげしの上に秋葉の札ありしを見て、ぼうほう罪とて、他宗の守札など用ひ候は以の外あしき事也、當寺よりも火防の札は出し候間、早々張かへ給べしといひぬ。傳左衞門聞て、不存事迚秋葉の札を張ぬ、然し本妙寺の火防札は無用にいたし可申。夫はいかにと尋ければ、享保の比本妙寺火事とて、江戸表過半燒たる事あり。かゝる寺の守札望なしと答へければ、僧も赤面なしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「火防」「かばう(かぼう)」「ひよけ」「ひぶせ」と三様に読める。根岸がこれをどれで読んでいるかは不詳。因みに岩波版で長谷川氏は「かぼう」とルビされている。

・「本妙寺」明治431910)年に東京都豊島区巣鴨に移転した。法華宗陣門流東京別院。山号は徳栄山。ウィキの「本妙寺」によれば、『1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)。現在墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある』と記す。

・「秋葉の札」火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰される、現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈南端にある秋葉山本宮秋葉神社を起源とする秋葉大権現の火除けの御札。ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」によれば、『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととな』り、『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』とある(一部の読みを省略した)。本件御札が秋葉山本宮秋葉神社のものであるとは断定出来ないが、そうとっておく。岩波版長谷川氏でもそう注されている。

・「ぼうほう罪」底本では右に『(謗法罪)』と注記する。本来は釈迦の説く仏法の教えを謗ることであり、広義には正しい仏法を説く人を謗ることを言う。

・「白山御殿」底本鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。

・「新見傳左衞門」底本鈴木氏注に『シンミ。もとニイミといったが、先祖が家康の命によってシンミに改めたという。義正・正朝・正尹の三代、伝左衛門を称した。正尹は宝暦十年大番組頭となり、明和三年六十七歳で没した。三代前というのは義正であろう。義正は小十人頭、持筒頭を勤め、延宝七年六十で没した』とあるから、正尹の生没年は(元禄161703)年~明和3(1769)年)、義正は(宝永7(1710)年~延宝7(1679)年)となる。その「正尹」は「まさただ」と読むものと思われる。但し、岩波版長谷川氏注は当時の伝左衛門を正武とし、その三代前は伝左衛門正朝であると、異なった判断を示されている。正朝は『書院版組頭等。寛保二年(一七四二)没。九十二歳。駒込高林寺に葬。同家は牛込顕彰正寺か高林寺に葬り、本妙寺に葬のことは見えない』と重大な疑義を示されておられる。正朝の生没年は(慶安4(1651)年~寛保2(1742)年)である。

・「本妙寺火事」前注で示した通り、明暦の大火のこと。以下、ウィキの「明暦の大火」によってその概要を見る。『明暦3118日(165732日)から120日(34日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる』。『この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった』。『火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもあ』り、この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正』や『防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われた』。以下はその火災状況を、主に当時の様子を記録した万治4(1661)年刊の浅井了意による仮名草子「むさしあぶみ」を用いて仔細に記す。『この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている』。『前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであった』。まず1度目の出火と延焼。『1月18日未の刻(午後2時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火 神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲とな』った。2度目の出火と延焼。『1月19日巳の刻(午前10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失』した。そして3度目が来る。『1月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火』した。次に「災害復旧」の項。『火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が設立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ』とある。次にこの大火の真相に纏わる三つの説が示される。中々に興味深い。まずはオーソドックスな「本妙寺失火説」で、「振袖火事」という異名の由来にもなっている因縁譚である。『ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日(1655222日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。『イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという』。『この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している』と記す。因みに、この小泉八雲の作品とは“Frisodé”「振袖」である。講談社学術文庫版小泉八雲名作選集「怪談・奇談」で和訳が読める(原注を含め文庫本で4ページに収まってしまう小品である)。『また、幕末以降に流布された振袖火事伝説を、江戸城火攻めの声明文として解釈すると、振袖の寺小姓は、1590年に上総の万木城を徳川軍勢に攻め落とされた土岐家の子孫が浮かび上がる。さらに、その寺小姓は、上野の寛永寺の天海の弟子の蓮海で、後に、波の伊八で有名な上総和泉浦の、火攻めの兵法に長けた飯綱権現をご本尊とする飯縄寺の住持であることが伺える。そして、不受不施派からの改宗を余儀なくされた上総の法華信徒は、その寺小姓と手を携え合い、狐に括り付けた烏の翼に火を放つ飯綱権現の兵法を吸収し、江戸城と城下の火攻めを決行したことが読み取れる。なお、この時の東叡山寛永寺の貫首は守澄法親王でありながら、川越の喜多院の末寺に過ぎず、幕府の朝廷に対する圧迫が伺え、朝廷と法親王と蓮海と不受不施派による討幕未遂だった可能性もある』と記す。滅ぼされた土岐氏の怨念――怪僧天海の弟子で蓮海―禁教ファンダメンタリスト集団不受不施派―伝奇ではお馴染み妖術飯綱の法――法親王絡みの尊王倒幕の陰謀……流石にウィキでは「要出典」の要請が示されているが……こりゃ、こたえらんねえ面白さじゃねえか! お次は『幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする』幕府確信犯の「幕府放火説」ときたもんだ! 『当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため、放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている』とするが……かなり、いや、激しく乱暴。三つ目は「本妙寺火元引受説」である。『実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのであった。これは火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか火事以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している』とする。これはありそうな話ではある。最後のエピソード集から一つ。『この大火の際、小伝馬町の牢屋敷奉行である石出帯刀吉深は、焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。罪人達は涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、実際に減刑が行われた。以後この緊急時の「切り放ち」が制度化される切っ掛けにもなった』とする。不謹慎乍ら「明暦の大火」が、面白い!

■やぶちゃん現代語訳

 本妙寺火除けの御札の事

 白山御殿辺に住む新見(しんみ)伝左衛門という御仁がある。

 今よりは三代前程も前のことにて御座るらしいが、その頃の伝左衛門――当家は代々当主は伝左衛門を名乗って御座る――これ、全く以って剛勇そのもの御人であった。

 ある日のこと、本妙寺の檀家で御座った彼の屋敷に本妙寺の住僧が訪問した。

 通された座敷の上長押の上に秋葉神社の札があるのを目にするや、

「――かくするを謗法(ぼうほう)の罪と申す! 他宗の守り札なんど用い候は、以っての外に悪しきことにて御座るぞ!――当寺より火除けの御札、出して御座いますれば、早々にお貼り替えなさるがよろしかろう。」

と言った。すると伝左衛門、

「成程、存ぜぬことなれば秋葉の札を貼って御座ったの。……なれど……本妙寺の火除け札拝受は、これ、御無用と――致したたく存ずる。」――

「――そ、それは、なに故かッ!」

住僧、気色ばんで問い質す――と伝左衛門徐ろに、

「――享保の頃、本妙寺火事と言うて、かの寺から出火致いて江戸表半ば過ぐる程に焼け尽くしたことあり――かかる寺の――火除けの札、なんど――何の御利益も、ない!」

と答えたれば、僧は赤面したまま、言葉もなかった――ということにて御座る。

2010/04/02

もう少し熱意があれば……

もう少し熱意があれば、私たちは神をもっと幸福にすることができただろう。だが、私たちは神を見捨ててしまった。そしていまや神は、世界のはじまる前よりもずっと孤独である。

――E,M,シオラン「涙と聖者」より(金井裕訳)

「彼」は今辛くも思いとどまって呉れている――お前たちのために……

……後はお前たちと「彼」との問題だ……彼も『誤った』大人として『節を以って』振舞った。ならばお前らも『恩讐を彼方とする』大人として振舞うべきであろう――言いたいことは、それだけだ――何故なら、僕は君等の総てを知っていないから……知らぬ者には僕はただの胡散臭いオヤジとしか見えぬであろうから……ともかく、今回の一件を人生の糧にし得なかったかったとしたら――僕も彼も、そうしてお前たちも――ただ下劣な存在に過ぎぬということだ――

耳嚢 巻之二 賣僧を辱しめ母の愁を解し事

「耳嚢 巻之二」に「賣僧を辱しめ母の愁を解し事」を収載した。

 賣僧を辱しめ母の愁を解し事

 さる武家の母堂深く佛を信じ、日々寺詣して説法など閲しが、ある出家説法の席にて、罪深き者地獄へ墮し今生にて鬼の形にもなる、俗眼には見ヘずとも智識の眼には角の出しも見へると也、彼母儀をさして、此老女などにも角がみへしといひしを、かの老人深く歎き、宿へ歸りて寢食を忘れ悲しみける故、いつとなく不快にも成ければ、彼子息承之、憎き賣僧(まいす)の申方哉、仕樣こそあれと母にも深くかくし、我等も志のあれば出家を招き饗應供養なしたしとて、彼出家其外壹兩人を招き、色々和言を以饗應なし膳部出しけるに、彼出家の椀中より魚肉の出ければ、出家箸を置て、我等魚肉を禁ずる身分也、かく魚肉を態としつらひ給ひしはいかなるゆへんぞと憤りければ、亭主有無の答なく、滿座の僧俗に向ひ、此ほど老母事彼出家の説法を聞に罷りしに、右老母に角の見ゆるとて法席におゐて辱しめ給ふゆへ、母も歎悲しみ侍りぬ。しかるに俗眼に角らしき病も見へず、定て知識の眼にも見ゆるならんと實に信仰せしゆへ、今日右を招きたれども、椀中に入りし魚肉を見る事ならずして箸をとり、其上此菜何れも魚物を隱し入て彼僧に與へしを嬉しげに舌打して給(たべ)られたれば、戒行第一の魚肉有事を知らざる出家、(何)として(母の角出來しを見たるや、此通相忘れねば此座におゐて)母を辱しめ恨み晴がたしと責ければ、出家も大に迷惑して、説法を弘通(ぐづう)方便の語など種々申譯しけるが、弘通方便は出家の法にもあるべし、武士の母を恥しめて其子として捨置べきや、本山奉行所へも申立て此義理を明らめべきなど嚴敷問詰ければ、座に有合僧俗いろく詫言して、書付などいたし漸其席を立歸けるが、彼出家は其後いかゞ成しや江戸表を立去しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:愚僧と売僧で直連関。根岸はやっぱり、仏教が、お嫌い。

・「売僧」仏教用語に多い唐音で「まいす」と読む。本来は仏法を商売とするような凡愚の俗僧を指すが、後に広く、俗人が悪僧愚僧を罵って言う語として用いられる。

・「智識」善知識。人々を仏の道へ誘い導く人。特に高徳の僧を言う。浄土真宗では門弟が法主(ほっす)を、禅宗では参学の者が師家(しけ)を、それぞれ尊敬して言う一般的な語ではあるが、ちゃんとした僧がこのように自身を指して言うのを、私は聞いたことがない。この導入場面からして私は、この僧には信がおけない。

・「母にも深くかくし、我等も志のあれば出家を招き饗應供養なしたしとて、彼出家其外壹兩人を招き」この部分、母親はこの僧に対する恐怖感が尋常ではないはずであるから、母が居る家に招待するという設定は考えにくい。余程広大な屋敷で、且つ、母親が重いノイローゼに罹患して引き籠りの状態であるならばあり得ないとは言えないが、そこまで話柄の外を設定するのは、やや気が引ける。そこで現代語訳では「わざわざ誂えた貸席」という一文を挿入させてもらった。

・「給(たべ)られたれば」は底本のルビ。ここは強烈な最後の皮肉に入る部分であるから、実際の場面では、わざと敬語を遣った方が効果的であろう。もしかすると、そうした皮肉としての「給ふ」の尊敬語の意味を効かしてあるのかもしれない。そのように訳してみた。

・「戒行第一」十戒(じっかい)の第一に掲げられている不殺生戒のこと。仏教に於いて僧が守らねばならない十箇条の戒律の、その最も重要な戒である。これは在家信者が守らなければならない「五戒」(不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)に、更に僧職の戒として次の五つを加えたものである。不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:肌に香料を塗ったり髪を飾ったりしてはならない。)・不歌舞観聴(賤民が生業(なりわい)とするところの歌舞音曲を楽しんではならない。)・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:高く広い豪華な寝床を用いてはならない。)・不非時食(ふひじじき:決まった時以外(僧の食事は根本理念では一度で午後には食事をしてはならないとする)に食事をしてはならない。)・不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金銀財宝に手を触れたり、蓄えたりしてはならない。)である。

・「(何)」「(母の角出來しを見たるや、此通相忘れねば此座におゐて)」底本では共に右に『(尊經閣本)』で補ったことを注記する。また、「此通相忘れねば」の右には更に『(一本「此道理相分らねば」)』と注す。勿論、この補綴があった方がスムースであるし、「此道理相分らねば」でないと訳せないので、総て採る。

・「明らめべき」底本では右に『(ママ)』表記。

・「説法を弘通方便の語など種々申譯しける」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「説法は」とする。これで訳す。説法は衆生に仏の教えを広めるためにいろいろな手段を用い、嘘も許されるのだといったありがちな弁解である。しかしこのシチュエーションでは最早、弁解にならぬ弁解。やはりこの僧、愚僧にして非僧である。

・「いかゞ成しや」これは勿論、正式に本山や寺社奉行への訴えがなされて処分されたということではない。そうであれば根岸はそう書くであろう。則ちこれは、本件が噂話として漏れ、同宗派のみならず仏教関係者から世間一般にも広く知られることとなり、江戸には居づらくなったものと考えるべきであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 売僧を辱めて母の愁いを解いた武士の事

 さる武家の母御前(ごぜ)、深く仏道を信じ、日々寺に参詣して、住僧の説法なんどを聴聞致いておった。

 そんなある日の、その説法の席でのことであった。住僧、

「……罪深き者は地獄に堕ちるが、今生にありも鬼の形となることも、ある。……俗人の眼には見えずとも……善知識の眼には、角、出でておるが、はっきりと見える!」

と言うや、その僧、何をどう思ったものか、この信心篤き母御前を指弾し、

「――ほれ! この老女なんどにも――角が、見えるぞ!」

とやらかしてしもうた。

 勿論、この母御前、深く歎き悲しみ、その日、家に帰ってからも物も食えなくなり、夜(よ)も寝(い)ねられず、それからというもの、体調を崩し、すっかり鬱屈するようになってしもうた。

 それに気づいたかの倅、心配して母御前に訳を尋ねた。

 その理由を聴くや、

「憎っくき売僧(まいす)の申しようじゃ!……さても、このままにてはいっかな済ますまいぞ!!」

と、母御前にも深く隠しおいて、さる奇略を謀った。その奇略とは……

……「母同様我等も仏道を学ばんとする深き志しのあれば善智識たる貴僧をお招き致し非時饗応供養を成して凡愚乍らも仏法の深き御教えの一端を聴聞致したく……云々」

と消息を認(したた)めた彼は、母が不在の折りを見計らい、かの住僧を招じた。

 その日は、住僧の他同宗の相応の僧をもう一人をわざわざ誂えた貸席に招き――彼らの御付の僧に加えて、主人自身の知人らも招待して御座ったれば、なかなかの賑わい――母のことはおくびにも出さず、当たり障りのない話を以って場は和気藹々と運び、さて特別に注文致いた相応に贅沢な饗応の膳を出だいた。

 食事も半ば進んだ頃、その住僧が手にとって食べて御座った椀の、粗方啜り終わったその椀の底から――魚肉が顔を出した。出家は、タン! と箸を置くや、

「……我ら、魚肉を口に致すこと、禁じられたる僧身である! それを知り乍ら敢えて巧みに隠し込んだ魚肉料理を供せんとするは、これ、如何なる所存かッ!!」

と殊の外憤って叫んだ。

 ところが本日の亭主たる彼は、その糾問には全く答えず、口元に皮肉な笑みさえ浮かべて、満座の僧俗に向かって徐ろに語り出した。

「……先般、拙者の老母儀、かの住職の説法を聴聞せんがために参詣致いたところが、この我が老母に角が見えるとて、説法の満座の中、お辱めになられた。……故、母も嘆き悲しみ、今以ってその悲しみから抜け出づること、出来ずにおりまする。……しかるに拙者の如き俗人の眼にてはこれ、角らしきもの、影も形も見え申さず、……さこそ、定めて、有難き善知識の御炯眼にのみ『見える』ので御座ろうほどにと、……いや、これ実に、かの住職への信仰の念を強く致いたればこそ、今日び、かの僧をお招き致いた次第…………されど……椀中に入った魚肉を『見る』こと叶わずして箸をとり、それどころか、この面前の膳部、何れの料理にも残らず魚肉を隠し入れてかの僧に供したに、……嬉しげに舌打ちをしてお召しになられた……十戒第一に属すべき魚肉が、膳部総てにあったに、それに気づかざる出家に、……何として、母に角が生えておるのを見ることが出来ようか?!……拙者、この道理、相分からぬ!……故に、拙者、この座にあっても、未だ我が母者(ははじゃ)を辱めた恨み、これ、晴れ難し!!」

と痛烈に指弾し、キッと殺気を帯びた眼で住僧を睨んだ。

 睨まれた僧は周章狼狽、

「……いや、その、……説法と申すものは、その……弘通方便(ぐずうほうべん)なんどと、その、申しまして、なぁ……」

と冷や汗をかきつつ、言い訳にならぬ言い訳を始める。

 ところが彼は逆に、

「拙者が感じているこの矛盾の中にあっては、その『弘通方便』なる語、これ、その僧の、弁解にならぬ弁解の逃げに過ぎぬ!――武士の母を辱めておいて、――その子として捨ておくこと、これ相出来ぬ! 本山及び奉行所へも申し立てて、白黒を決せん!……」

と厳しく捲くし立てた。

 余りの剣幕に、その場に同席していた僧だけでなく、彼の知人らも一緒になって、いろいろ取りなしをし、住僧には詫び証文なんどを書かせて漸っと治まり、倅なる男はその席から帰って行ったという――。

 かの出家、その後――どうしたことか――江戸表から立ち去ってしもうた、とのことである。

『お久しぶりですo(^-^)o』

『お久しぶりですo(^-^)o』

今朝、昨日からの不快に鬱鬱としてメールを開けたら、僕にとって一番、今も気にかかっている4年前の教え子から元気にしている消息が届いていた――今も涙もろいという貴女のこのメールが、また今日からの僕の糧となった! ありがとうo(^-^)o

2010/04/01

それぞれの苦悩の限界は……

それぞれの苦悩の限界は、さらに大きなひとつの苦悩である。

――E,M,シオラン「涙と聖者」より(金井裕訳)

人間気がついたときには遅すぎると言うことを学ぶべし

それは僕にも彼にも――そうして何より君らに言っておこう――

人を殺して面白いか?

集団の安穏を表明し、それがある人間を社会的に抹殺することに他ならないことに、まるで思い至らない輩は、人間として最下劣である――これは僕が今日感じた僕の人生の教訓である[やぶちゃん注:言っておくが、これはけち臭い↓の話なんどとは何の関係もない、僕の今日のリアルな怒りである。]

それがお前らのやり口だな

農園を丸焼けにした画像を示し、「最初からやり直す」のボタンを押させ――それがエイプリル・フールだと!? サイバー攻撃はかくあるべし!――賢治も呆れかえる仕儀ではないか!――僕は早朝未明に管理者に質問状を出したが、ほくそ笑んで返事も返さぬ――エルモライは今日を以ってこの忌まわしき「サンシャイン牧場」去る――諸君、随分御機嫌よう……

耳嚢 巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事

「耳嚢 巻之二」に「人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」を収載した。

やりたい――やらねばならない――そんなテクスト作業が内心にはある――芥川龍之介のだ――しかしそのためには自宅で丸一日の自由がなくては出来ない――でももうこの先そんな時間は当分作れそうにもないのだ――ブログ・アクセスも215000を超えたのだが――220000アクセスの記念テクストも頭に浮かばぬ……桜はもう咲いたというのに……中途半端な憂鬱ぐらい厭なものはない……誰か、僕が寝ている間に、桜の花びらで窒息させて呉れないか?……

 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事

 予が實方(じつかた)の菩提所、禪宗にて今戸安昌寺といへるが、彼寺へ詣ふでけるに、書院の床に無邪(よこしまなし)といへる二字を書し懸物あり。誰認しや見事成墨蹟故、寄て見れば綱吉と名印あり。恐れ多くも常憲院樣御墨蹟故、住僧の心得にもあらんと其席を離れ次の席に著座なしければ、無程住僧出て、こなたへと請じける故、右の御墨蹟はいかゞいたし當寺に候やと尋ければ、旦家(だんか)より納めし由を答ふ。依之申けるは、我等抔右御掛物ありては其間へ入事に非ず、其上予昔評定所を勤、寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍るに、御女中方其外より御紋付の水引やうの物奉納ありても、什物(じふもつ)にいたし置き平日用ゆべからずと申渡されける事也、況や御染筆等の品抔等閑に懸置て、人の咎たらんには寺の不念にもなるべし、取納め置可然と申ければ、彼僧心得申候とは申けるが、強て心に置候やうにもあらざりしに、旦家より奉納には候へども、正筆や似せ筆や知れ不申といへる故、正筆の贋筆のといへるは、其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也、將軍家の御筆などを贋(に)せ申べき謂(いはれ)なしと諭しけるが、餘りに智のなき申條哉と思ひしに、果して右住僧寺を持得ずして深川邊へ隱居しけるが、何かおかせる事有て入牢せしが、牢内にて相果てける由と此程の住僧ものがたりせしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。下ネタの次に綱吉の遺蹟の話を持って来る根岸が、私は好きだ。また、本話によって、神道贔屓である根岸の実家安生家の宗旨が曹洞宗であることが分かった。また、この注釈作業の中で、根岸鎭衞の墓が東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることを知ったが、これによって取り敢えず根岸の(というより根岸家の)宗旨は浄土宗であることも判明した。現代語訳では、「心取」を際立たせるため、「寺社奉行より『住職としての役職これ不相応』の由にて」という私の創作した一文を挿入した。

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取ることを言っているように思われる。

・「實方」実家。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。

・「安昌寺」台東区今戸に現存。元、曹洞宗総泉寺末寺。亀雲山と号す。起立不詳。岩波版長谷川氏注では山号を霊亀山とするのは誤りと思われる。

・「無邪」は「論語」の「為政篇」にある

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。

○やぶちゃん書き下し文

 子曰く、「詩三百、一言(いちげん)以て之を蔽へば、曰く、『思ひ邪無し。』と。」と。

○やぶちゃん現代語訳

 孔子先生が言われた。

「古えの詩篇の数は、これ三百、その三百を一言を以って言わんとすれば、『思い邪なし。』!」

と。

但し、この「思無邪」は「詩経」の魯頌(ろしょう)駉(けい)篇からの引用である(「魯頌」は魯の国の祖霊を祀る際の舞楽)。孔子の言う「詩三百」とは現存の「詩経」のプロトタイプを言うものと思われる。また、「詩経」の原詩は、この「思」の字を語調を調えるための助辞として用いている。従って原詩には「思い」という意味はない。実際、「論語」の本篇を「思(こ)れ」と訓読することも可能であり、本墨蹟もその意にとって「思」を省略したものであろう。『思い邪なし。』は訳さぬが賢明であろうが、文字通りに、ただ一途にの意の「純」の哲学の表明であろう。

・「綱吉」第5代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。

・「予昔評定所を勤」根岸は宝暦131763)年27歳で勘定所御勘定から評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)となり、明和5(1768)年に御勘定組頭になるまでの5年、評定所に勤務した。

・「寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍る」評定所留役が何故寺社奉行の細かな職掌上の細目内容まで知っているのかという疑問が生じるが、これについては、底本のここへの鈴木氏注が極めて明快にこれに答えているので、ほぼ全文を引用したい。『寺社・町・勘定三奉行の管掌にまたがる事件の場合を三手掛といって三者が評定所に集まって合議した。また寺社奉行は大名が任じられ、その事務はその大名の家臣が当り、幕府直属の与力同心は配属されていなかったため、寺社奉行が更迭すると事務が停滞し、藩士が不慣れなため能率があがらない。そこで評定所留役を寺社奉行に配置し事務に当らせた。従って、留役は寺社奉行の事務に精通』していなければならなかったのである、とある。

・「御女中方」大奥に関係する女性の総称。

・「其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也」「職分」とは文学書画美術等、贋作が作られる可能性のある分野に従事する芸術家・作家という職業のこと。「凡下」は凡俗の意味であるが、この場合は、神聖不可侵の天皇や綱吉のような将軍家を少数の権威者として上位概念に置いた上での、その下位の漠然とした民草の中でも、の意。「世に鳴せしものの事」とは、そんな『凡俗の芸術家・作家』の中でも、特に俗世に聞えた名家名人名工と呼ばれる者の作に対して、「真贋」なんどというものは用いる語である、語に過ぎぬのだ、と言っているのである。ここの訳には「耳嚢」を訳し始めて、初めてやや自信がふらついたのだが、先輩の国語教師の方の御意見も伺い、私の訳に誤りなきという確信を得た。

■やぶちゃん現代語訳

 その時の人の心を読み取ることでその人の行く末もある程度は推し量り得るという事

 私の実家の菩提所は禅宗で、今戸にある安昌寺という寺である。

 ある時、この寺に詣でたところ、書院の床の間に「無邪」(よこしまなし)の二字を書いた掛け物が飾って御座った。

『……誰が認(したた)めしものか……いや、実に美事な墨蹟……』

と思い、近く寄って見たところが、

――綱吉――

との名印!

 これ、恐れ多くも常憲院様の御墨蹟、故に、

『……これは……一つ、かく掲げておる迂闊な住僧への心得にもなろう程に……』

とその席を離れ、次の間に着座致いた。

 程なく、住僧が出て参り、

「此方へ、どうぞ。」

と請ずる故、私は次の間に着座致いたまま、

「かの御墨蹟、如何なる謂われあって当寺に御座候や?」

と尋ねた。住僧はちらりと掛け物を眺めると、如何にもぞんざいに、

「……はあ? ああ、あれ……あれは檀家より納められたもんですが……」

なんどと答える。そこで私は、

「――拙者如き者、かの御掛け物あっては、とても、その座敷に入ること、出来申さぬ。――その昔、拙者も評定所に勤務致いて、寺社奉行の細かな職務内容につきても、凡(おおよ)そは弁えて御座るが、――大奥方その他のやんごとなき向きより、御当家葵の御紋の入った御進物などが社寺に御供物御香料御代(おんしろ)として御奉納なされた場合でも、誠(まっこと)有り難き什物と致いて、大切に収め置き、普段は決して用いてはならぬとの申し渡しがあったと記憶して御座る。――況や、御染筆の品なるものを、このように、いい加減に掛けた置きに致すなどということ、――これ、人に咎めらるれば、重き寺の咎として処分されてもおかしくは御座らぬ。――直ちに丁重に取り下し申し上げ、しっかりと納め置くにしかるべきものにて御座る。」

となるべく穏やかに述べた。と、かの僧は、

「……はぁ……分かり申した……」

と言うたものの、見るからに、私の言を気にもかけて御座らぬ風情。それどころかつけ加えて言うにことかいて、

「……まあ、その、檀家よりの奉納の物にては御座れど、真筆か贋作か、知れたもんでは御座らねばのぅ……」

と言い出す始末。これを聞いて、流石の私も口柄厳しく、

「――そもそも真筆だの贋作だのと申すこと――これ、芸術一般に従事する下々の者の内、特に世に聞えし名人と呼ばるる者の作に対して、言うものじゃ!――『将軍家の御筆になる』という神聖不可侵の『もの』を、『贋作』なんどと申してよいことなんど、あろうはずが、ない!」

と諭したのであるが内心、『一山の住職として、何とまあ、無知極まりなき申し条か。』と思うたままに、その場は過ぎた。……

 ……果たして、後日(ごにち)のこと、この住僧、寺社奉行より『住僧としての役職これ分不相応』の由にて、この寺を追放され、深川辺に隠居致いたが、その後(のち)、何やらん、罪を犯して入牢(じゅろう)、そのまま牢内にて果てた由、只今の安昌寺住職の話で御座る。

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