『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十回
先生の遺書
(十)
二人が歸るとき步きながらの沈默が一丁も二丁もつゞいた。其後で突然先生が口を利き出した。
「惡い事をした。怒(おこ)つて出たから妻は嘸(さぞ)心配をしてゐるだらう。考へると女は可哀さうなものですね。私の妻などは私より外に丸で賴りにするものがないんだから」
先生の言葉は一寸其處で途切れたが、別に私の返事を期待する樣子もなく、すぐ其續きへ移つて行つた。
「さう云ふと、夫(おつと)の方は如何にも心丈夫の樣で少し滑稽だが。君、私は君の眼に何う映りますかね。强い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位(ちうぐらい)に見えます」と私は答へた。此答は先生に取つて少し案外らしかつた。先生は又口を閉ぢて、無言で步き出した。
先生の宅へ歸るには私の下宿のつい傍(そば)を通るのが順路であつた。私は其處迄來て、曲り角で分れるのが先生に濟まない樣な氣がした。「序に御宅の前まで御伴しませうか」と云つた。先生は忽ち手で私を遮ぎつた。
「もう遲いから早く歸り玉へ。私も歸つて遣るんだから、妻君の爲に」
先生が最後に付け加へた「妻君の爲に」といふ言葉は妙に其時の私の心を暖かにした。私は其言葉のために、歸つてから安心して寢る事が出來た。私は其後(そのご)も長い間此「妻君の爲に」といふ言葉を忘れなかつた。
先生と奧さんの間に起つた波瀾が、大したものでない事は是でも解つた。それが又滅多に起る現象でなかつた事も、其後(そのご)絕えず出入をして來た私には略(ほぼ)推察が出來た。それ所か先生はある時斯んな感想すら私に洩らした。
「私は世の中で女といふものをたつた一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴へないのです。妻の方でも、私を天下にたゞ一人しかない男と思つて吳れてゐます。さういふ意味から云つて、私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」
私は今前後の行き掛りを忘れて仕舞たから、先生が何の爲に斯んな自白を私に爲(し)て聞かせたのか、判然(はつきり)云ふ事が出來ない。けれども先生の態度の眞面目であつたのと、調子の沈んでゐたのとは、今だに記憶に殘つてゐる。其時たゞ私の耳に異樣に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」といふ最後の一句であつた。先生は何故幸福な人間と云ひ切らないで、あるべき筈であると斷わつたのか。私にはそれ丈が不審であつた。ことに其處へ一種の力を入れた先生の語氣が不審であつた。先生は事實果して幸福なのだらうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだらうか。私は心の中(うち)で疑ぐらざるを得なかつた。けれども其疑ひは一時(じ)限り何處かへ葬むられて仕舞つた。
私は其うち先生の留守に行つて、奧さんと二人差向ひで話をする機會に出合つた。先生は其日橫濱を出帆する汽船に乘つて外國へ行くべき友人を新橋へ送りに行つて留守であつた。橫濱から船に乘る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのは其頃の習慣であつた。私はある書物に就いて先生に話して貰ふ必要があつたので、豫(あらか)じめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行(ゆき)は前日わざ/\告別に來た友人に對する禮義として其日突然起つた出來事であつた。先生はすぐ歸るから留守でも私に待つてゐるやうにと云ひ殘して行つた。それで私は座敷へ上(あが)つて、先生を待つ間、奧さんと話をした。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」ここは単行本では「私達(わたくしたち)は最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」と書き直される。この初出の「私には」という条件文は、より明白な自己本位の側に立った表明になっている点で、極めて興味深い。「こゝろ」「五十一」の卒業・結婚後半年弱後(Kの死後約半年後に相当)に先生は「御孃さん如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです」と述べている(しかし「此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではではなからうかと思ひました」とも述べるのであるが)。]