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2010/04/30

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十一回

Kokoro11_9   先生の遺書

   (十一)

 其時の私は既に大學生であつた。始めて先生の宅へ來た頃から見るとずつと成人した氣でゐた。奧さんとも大分懇意になつた後(のち)であつた。私は奧さんに對して何の窮屈も感じなかつた。差向ひで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸で忘れて仕舞つた。そのうちでたつた一つ私の耳に留まつたものがある。然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある。

 先生は大學出身であつた。是は始めから私に知れてゐた。然し先生の何もしないで遊んでゐるといふ事は、東京へ歸つて少し經つてから始めて分つた。私は其時何うして遊んでゐられるのかと思つた。

 先生は丸で世間に名前を知られてゐない人であつた。だから先生の學問や思想に就ては、先生と密接の關係を有つてゐる私より外に敬意を拂ふものゝあるべき筈がなかつた。それを私は常に惜い事だと云つた。先生は又「私のやうなものが世の中へ出て、口を利いては濟まない」と答へるぎりで、取合はなかつた。私には其答が謙遜過ぎて却つて世間を冷評する樣にも聞こえた。實際先生は時々昔の同級生で今著名になつてゐる誰彼(たれかれ)を捉へて、ひどく無遠慮な批評を加へる事があつた。それで私は露骨に其矛盾を擧げて云々して見た。私の精神は反抗の意味といふよりも、世間が先生を知らないで平氣でゐるのが殘念だつたからである。其時先生は沈んだ調子で、「何うしても私は世間に向つて働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と云つた。先生の顏には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかつたけれども、何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。

 私が奧さんと話してゐる間に、問題が自然先生の事から其處へ落ちて來た。

 「先生は何故あゝやつて、宅で考へたり勉強したりなさる丈で、世の中へ出て仕事をなさらないんでせう」

 「あの人は駄目ですよ。さういふ事が嫌ひなんですから」

 「つまり下らない事だと悟つてゐらつしやるんでせうか」

 「悟るの悟らないのつて、―そりや女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味ぢやないでせう。矢つ張(ぱ)り何か遣りたいのでせう。それでゐて出來ないんです。だから氣の毒ですわ」

 「然し先生は健康からいつて、別に何處も惡い所はない樣ぢやありませんか」

 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

 「それで何故活動が出來ないんでせう」

 「それが解らないのよ、あなた。それが解る位なら私だつて、こんなに心配しやしません。わからないから氣の毒でたまらないんです」

 奧さんの語氣には非常に同情があつた。それでも口元丈には微笑が見えた。外側から云へば、私の方が寧ろ眞面目だつた。私は六づかしい顏をして默つてゐた。すると奧さんが急に思ひ出した樣に又口を開いた。

 「若い時はあんな人ぢやなかつたんですよ。若い時は丸で違つてゐました。それが全く變つて仕舞つたんです」

 「若い時つて何時頃ですか」と私が聞いた。

 「書生時代よ」

 「書生時代から先生を知つてゐらつしやつたんですか」

 奧さんは急に薄赤い顏をした。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:先生は高等遊民であることが明らかにされる。

「其時の私は既に大學生であつた」今までの「摑み」で示したように、「私」は高等學校2年の時、先生に出会った。そうして、明治421909)年20歳の年、7月に第一高等學校卒業。9月に東京帝國大學に入学したと推定するものである。

♡「先生の何もしないで遊んでゐるといふ事」相応な財産を銀行に預け、その金利で生活しているということ(通常なら高い確率で家作や地代も含まれるものだが、先生は土地は持っておらず――先生の宅の土地は借地であることは(三十五)で語られる――貸家を経営しているとも思われない)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でここに関連して「こゝろ」「上」の二十七の「先生が何うして遊んでゐられるか」の注に、明治441911)年8月の雑誌『新公論』に掲載された手島四郎「東京市民を職業別に見た結果」という記事に、『「東京市内で一万人以上を有せる職業」は農業や官公吏員、軍人軍属を始めとして四四あり、そのなかで五万人以上を有する職業は、大工職(五万二四三人)、官公吏員(六万九九七二人)、日雇業(五万七八七六人)、そして財産及恩給等に依る者(五万九四九九人)の四種しかなかった。これとは別に、土地家屋の収益に依る者も三万五四六〇人もおり、一見何もしないで暮らしていた層は意外に多かったことがこれでわかる』とある。単純にこの二つを合わせるのは実数にはなるまいが、少なくとも高等遊民に見える人の数は有に5~6万人以上はいたことになる。因みに大正元(1912)年で東京都の人口は約200万人であるから、意外なことに、こうした「人種」は決して稀であったとは言えない、のである。

 

「然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある」これ以下の部分、私は漱石の文章があまりうまくいっていない印象を受けるところである。「一寸斷つて置きたい事」は、次の二段落分総てであるのだが、まず、これがやや焦って先生のプロフィルを言うだけ言ってしまおうといった感じに読めるのである。情報が解説的で詰め込み過ぎである。更に、その末尾は「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。」で断ち切れているのであるが、ここは『「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた」という経験がかつてあつたのである。』ぐらいにならないと、この冒頭に呼応しないし、奥さんとの会話へのジョイントとしてもサイズが合わないように思われるのである。

 

「大學出身」東京帝国大学卒であることを示す。明治の後期には京都・東北・九州の各帝国大学が創立されていたが、単に「大学出身」と言えば、東京帝国大学卒の謂いとして通用していた。]

 

 

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