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2010/04/20

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第一回

[やぶちゃん冒頭注:本テクストは、今から96年前の今日から『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に全110回で連載された夏目漱石の「心」の復刻を、2010年の同一日付で私のブログに連載することで、日本人が最初に漱石の「心」に出逢った、その日その日を、同じ季節の中、且つ元の新聞小説の雰囲気で日々味わうことを目指すものである。

 新聞連載時は一貫して「心(こゝろ)」と漢字表記で、現行の単行本「こゝろ」のように「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の3パートには分かれておらず、最終百十回迄、やはり一貫して「先生の遺書」という副題で維持された。

 

 なお、この連載は理由は不明であるが、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』で途中から掲載日がズレを生じ始め(第49回掲載が『東京朝日新聞』6月10日(水曜日)であったものが、『大阪朝日新聞』6月11日(木曜日)となっている。6月10日の『大阪朝日新聞』には掲載がない)、その後も新たな『大阪朝日新聞』不掲載があったりして、最終的には『東京朝日新聞』の第百十回(最終回)掲載が大正3(1914)年8月11日(火曜日)であったのに対し、『大阪朝日新聞』のそれは8月17日(月曜日)と6日遅れとなっている。

 

 あくまで私は『最初の「心」』ということで『東京朝日新聞』掲載の日に拘って公開してゆく(最終的にはサイトに全文をアップする予定である)。

 

 原典は総ルビであるが、私のHPビルダーでのルビは極めて煩瑣でブログでも読み難くなるため、読みの振れそうな漢語(高校生が読むに極めて難しいと判断したものに限り、極めて禁欲的に選んだ)及び特異な読み方をしているもののみに限定して( )で読みを附した。但し、これについて注意されたいのが、「相談(さうたん)」「有難(ありかた)う」「近所(きんしよ)」のように、そこには当然植字の際の誤りと思われるものも含まれている点である。そうした誤りも可能な限り、忠実に再現して、ナマ当時の読者の躓いた部分をも味わってゆこうというのが本テクストである。従って、そうしたものであっても「ママ」表記等は五月蠅くなるので附していない。

 

 但し、標題「先生の遺書」と丸括弧内の回数数字は、ポイントが有意に大きいが、本文と同じにし、回数表示位置は当該位置(「先生の遺書」の「先」の下方位置から)では窮屈な感じになるので、ここでは少し下げた。「/゛\」に対する生理的嫌悪感から踊り字「〲」のみは正字に直し、「江」の字の崩し字の「え」は「え」に直した。一部の熟語は一度読みを振った後は一切読みを省略したものもあり、「有(も)たない」「夫(それ)は」「不圖(ふと)」「許(ばか)り」等の一部の癖のある読みは最初の数回に附した後は省略した。これらは「こゝろ」を読む上での読み癖として学習して頂きたい。フォントは、やはり新聞の活字に近いものを感じて戴くために頁全体を明朝太字とした。

 底本は平成3(1991)年和泉書院刊の近代文学初出復刻6『夏目漱石集「心」』(玉井敬之・鳥居正晴・木村功編)の天理図書館蔵『東京朝日新聞』写真版画像本文を用いたが、画像の判読は完全に私自身の眼によった。

 また、将来はオリジナルな注を総てに附す覚悟ではあるものの、今回それを行っているとプロジェクトが頓挫する可能性が高いので、涙を呑んで「♡やぶちゃんの摑み」という感想を附すに留めた。これは、飽くまで自由気儘手前勝手なオリジナルに私の考える、その章の摑みと思える感想、というコンセプトで押し通すこととする。これもしかし、何う間違つても、私自身のもので、間に合せに借りた損料着ではない。他の「こゝろ」のテクストでは味わえない私だけのものであると確かに自負するものである。

 なお、総標題と副題及び末尾の飾り罫線を底本より画像で読み込んで挿入、新聞小説の雰囲気を感じる便(よすが)とした。献辞:先日、このプロジェクトを予告して以来、二人の女性――知人と現役生の教え子――が、この公開を楽しみにしていると私に声をかけて呉れた。その二人に、このテクストを捧げたい。

 

Kokoro11_3



 漱 石

  先生の遺書

   (一)

 私(わたし)は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々(よそ/\)しい頭文字抔(など)はとても使ふ氣にならない。

 私が先生と知り合になつたのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であつた。暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達から是非來いといふ端書を受取つたので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。私は金の工面に二三日を費した。所が私が鎌倉に着いて三日と經たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に國元から歸れといふ電報を受け取つた。電報には母が病氣だからと斷つてあつた。けれども友達はそれを信じなかつた。友達はかねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられてゐた。彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の當人が氣に入らなかつた。夫(それ)で夏休みに當然歸るべき所を、わざと避けて東京の近くで遊んでゐたのである。彼は電報を私に見せて何うしやうと相談(さうたん)をした。私には何うして可(い)いか分らなかつた。けれども實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固(もと)より歸るべき筈であつた。それで彼はとうとう歸る事になつた。折角來た私は一人取り殘された。

 學校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日數(につすう)があるので、鎌倉に居(を)つても可(よ)し、歸つても可(よ)いといふ境遇にゐた私は、當分元の宿に留(と)まる覺悟をした。友達は中國(ちうこく)のある資産家の息子で金に不自由のない男であつたけれども、學校が學校なのと年が年なので、生活の程度は私とさう變りもしなかつた。從つて一人坊(ひとりぼつ)ちになつた私は別に恰好(かつかう)な宿を探す面倒も有たなかつたのである。

 宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた。

 私は每日海へ這入(はい)りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返つた藁葺(わらふき)の間を通り拔けて磯へ下りると、此邊にそれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黑い頭でごちや/\してゐる事もあつた。其中に知つた人を一人も有(も)たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹(つゝ)まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭を波に打たして其處いらを跳ね廻るのは愉快であつた。

 私は實に先生を此雜沓の間(あひだ)に見付出したのである。其時海岸には掛茶屋(かけちやや)が二軒(のき)あつた。私は不圖(ふと)した機會(はづみ)から其一軒(けん)の方に行き慣れてゐた。長谷(はせ)邊(へん)に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自(めい/\)に專有の着換塲(きがへば)を拵へてゐない此處いらの避暑客には、是非共斯うした共同着換所(きようどうきがへしよ)といつた風なものが必要なのであつた。彼等は此處で茶を飮み、此處で休息する外に、此處で海水着(かいすゐき)を洗濯(せんだく)させたり、此處で鹹(しほ)はゆい身體(からだ)を淸めたり、此處へ帽子や傘を預けたりするのである。海水着(かいすゐき)を持たない私にも持物を盜まれる恐れはあつたので、私は海へ這入る度に其茶屋へ一切を脫ぎ棄てる事にしてゐた。

Line_5


[♡やぶちゃんの摑み:

「心」というこの総標題と副題「先生の遺書」の関係について述べておく。漱石は、この新聞連載小説では、実は「心」という総標題の下に複数の短編で本作全体を構成するというオムニバス・ストーリーの形式を予定していたとされる。即ち「先生の遺書」は、例えば1箇月なり2箇月弱なりで終了する作品として構想されたものであった。ところが、書いているうちに例のどんどん長くなってしまう漱石の癖によって、オムニバスどころか一大長篇になってしまったのであった。そして漱石は連載中、この幻の短編である「先生の遺書」の副題を変更することなく(変更のしようがないとも言えるが)そのまま使い続けたのであった。そのため、当時の新聞小説の愛読者は、この題名から、いつになったら先生の遺書が読めるのかと、相当に焦らされたものと推測される(現在の「下 先生と遺書 一」は実に連載から約2箇月弱後の第55回――『東京朝日新聞』で6月16(火)、『大阪朝日新聞』で6月18(木)――でのことであった)。即ち、当時の読者は、この冒頭から先生の死を「先生の遺書」という表題によって十分過ぎるほど認知した上で読んでいたのであり、現行の単行本を読み始めるのとは、微妙に印象が異なるという事実も見逃してはならない。

 

♡「私(わたし)」驚天動地! 初出では「わたくし」ではなく「わたし」だった!……しかし……僕はもう刷り込まれて「わたくし」でないと朗読出来なくなっているのだ……。

 

「餘所々々しい頭文字抔はとても使ふ氣にならない」は意味深長である。先生はその遺書で「K」という「餘所々々しい頭文字」を使って恋敵を示した。これは「先生」の心性と、今現在この手記を記す「私=学生」の心性の明らかな違い、いや、今は「先生」よりも成長した人間としての「学生=私」を表明する大切な一言である。なお、この一段落によって読者であるあなたは、この「私」なる人物から『特に選ばれたたった一人』として、『極内密に「私」だけが知る「先生」の秘密を打明けられる』のだ、という構造を持っていることに、この時点で気付いておいて欲しいと私は思う。これは公的に不特定多数に示された「私」の告白『ではない』。この手記が、そのような極めて特殊な『読者であるあなた一人への「私」の秘密の告白録』であるということは、追々この場で立証してゆきたいと思う。

 

♡「若々しい」現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といった負のニュアンスの語である。

 

♡「暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達」は単に「私」と「先生」の出逢いをセットするための小道具だなどと考えてはいけない。この友達が帰郷することになる事態は、この「心」という小説のテーマと密接に関わってくるものであるからだ。この友人は「かねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられて」おり、「彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎ」、「それに肝心の當人が」その結婚相手の女を「氣に入らなかつた」のである。しかし、「實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固より歸」らねばならないという伝統的道徳律にも縛られている。結局は彼の場合は「とうとう歸る事になつた」のである。そこでは、明言していないものの、やはり帰るべきではなかろうかという忠告が当の「私」からも成された臭いさえする。これは先生が叔父の策略によって従姉妹と結婚させられそうになる事実、更には「私」が危篤の父を置いて、東京に向かうという事実への伏線であり、本作の『日本の家という呪縛』という隠されたテーマとも密接に関わって来るものである。更にもう一つのポイントは、この時の「私」の若さ=年齢及びその学齢の問題である。底本の(十一)の「其時の私は既に大學生であつた。」の注で、ここ(一)で「私」が「先生」と知り合った際の年号年齢説として以下の三つを掲げている。即ち、ここでの「私」の年齢・学齢について、

 

(1)江藤淳説  明治431910)年   大学2年

(2)平岡敏夫説 明治411908)年 高等学校3年

(3)藤井淑禎説 明治401907)年 高等学校1年 又は

         明治411908)年 高等学校2年

 

であるとする(注の最後には大正2(1913)年当時は東京帝国大学入学者の平均年齢は22.5歳であったというデータも示す)。(1)の江藤説は問題にならない(私は現在、彼の「こゝろ」論を悉く嫌悪している)。誤りである。これでは(十一)の冒頭の一句「其時の私は既に大學生であつた」の謂いが如何にも不自然である。また、この説を採ると「先生」と「私」との濃厚な接触時間はたったの1年ということになってしまうのだ。私は嘗て、自身の「こゝろ」研究の過程で、この時の「私」を、明治451912)年当時、満23歳か24歳と推定して逆算、明治211888)年に中部内陸地方辺りに生まれ、明治391906)年に17歳で第一高等學校に入学したものと考え、(3)の藤井説の二番目の仮説と同意見、

 

明治41(1908)年 満18~19歳

 7月下旬か8月  第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で先生と出会う。

 

と推定した(私のサイト『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照)。私は現在もこの考えを変える意思はない。

 

「畷」田圃道。畦道。

 

「車で行つても二十錢は取られた」勿論、人力車でである。

 

♡「古い燻ぶり返つた藁葺の間を通り拔けて磯へ下りると」とあるが、これは次の「長谷邊に大きな別莊を構へてゐる人と違つて」という叙述と対応して、ここが由比ヶ浜の、海(相模湾)に向かって左側、所謂、材木座海岸であることを明確に示すものである。これは次の(三)に示される「先生」の宿の位置からも容易に理解される同定地なのである。それは何より、私自身が幼少時から慣れ親しんだ地でもあるからである。] 

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