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2010/04/17

耳嚢 巻之二 兩頭蟲の事

「耳嚢 巻之二」に「兩頭蟲の事」を収載した。

 兩頭蟲の事

 孫叔敖(そんしゆくがう)が兩頭の蛇を殺し、其外兩頭の蟲類の事人のかたり傳ふ事なるに見し事なかりしが、河野信濃守御作事奉行の節、相州鎌倉鶴岡の八幡御修復御用にて彼地に有しに、守宮(いもり)の兩頭ありしを鹽にひたして持かへり、予も親しく見侍りき。

□やぶちゃん注

○前項連関:相対死にと双頭で何となく連関、いや、見よ! 長崎→福岡→大阪→鎌倉……このルートは、予言か!?(以下の「守宮(いもり)」の注必見!)

・「兩頭蟲」「りょうとうのむし」と読んでいるものと思われる(岩波版標題「両頭のむしの事」)。「蟲」は昆虫ではなく広く動物の意である。両頭と言うと私には体躯の正中線の前後に頭を持つ奇形をイメージする(実際にそのような奇形が見られ、最近でも正にそうしたイモリが中国で見つかったニュースを聞いた)。ここで根岸の言うのは頭部が二つに分かれているタイプの奇形であると思われ、それを私はここの現代語訳では一貫して「双頭」で表現しておきたい。生物学的には遺伝子異常や受精卵の卵割時に何らかの物理的圧力や化学的刺激が加わることによって生ずる、まま見られる奇形である(稀と言うには微妙に疑問がある)。参考までに私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に所収する「両頭蛇」を是非、参照されたい。但し、その私の注は双頭に、基、相当に長いのでお覚悟あれかし!

・「孫叔敖が兩頭の蛇を殺し」孫叔敖(生没年不詳)は春秋時代の楚の令尹(れいいん=宰相)。楚屈指の賢相。富国強兵策を講じ、荘王に天下覇権を成功させた。彼の「双頭の蛇」の話は孫の少年時代の逸話として前漢の劉向(りゅうきょう)の書いた「新序」に記されている。以下、参照したウィキの「孫叔敖」より引用する。『ある時、孫叔敖が遊びに出向いた時、頭を二つ持つ蛇に出会い、とっさにその蛇を殺し穴に埋めて、家に戻った。その後孫叔敖は母親に対し「双頭の蛇を見た者はすぐに死ぬとあります。私はつい先ほどその蛇を見てしまったので、もうすぐ死ぬでしょう。」と涙ながらに語り、「他の人がその蛇を見てはいけないので、殺して埋めました。」とも語った。これを聞いた母親は「そういう隠れた善行を行った者には、天は福をもって報いるのです。だから死ぬ事はありません。」と諭した。実際、孫叔敖は母が言っていた通り、死ぬ事は無かった』。

・「守宮(いもり)」は底本のルビ。注意されたい。「守宮」と書いて「いもり」と振っている。これは底本自体の誤りか校訂者鈴木氏の誤りかは不明であるが(恐らく鈴木氏の誤り)、この誤り、ままあることではある。私の愛読する“GOTO's Room”の、「ヤモリとイモリを取り違えた話。(古文献から外来種ニホンヤモリを推理する!?)」に興味深い記載があるが、該当HPは無断引用を禁じているので要約する。まず元禄101697)年刊行の人見必大「本朝食鑑」の「蝘蜓(えんてん)」の項には以下の記載があるとして引用されている(この引用は歴史的仮名遣いに誤りが見られ、恐らくGOTO氏によって手が加えられているものと思われるが、そのまま一部の読みを排除し、漢字表記可能な部分を直し、基本的には『そのまま』「本朝食鑑」の文章と見なして引用する。従って無断引用の埓外である)。

『也毛利と読む。守宮の解釈。源順は止加介と読むが、必大が案ずるところ今の也毛利なり。蜥蜴に似るが短肥、灰黒色、首は扁平、頸長、眼大きく光有り、背に細鱗紋有り、四足、身長六七寸に過ぎず、つねに屋壁、障子屏風、窓戸の間にいて、古宮、廃宅にもっとも多く、人を畏れず、人を害さず、首を反らして人をにらんで去る。よく蝎蝿を捕らえて食べる。江東(関東)諸州にこれ未だ見えず。京師(京都)、五畿(畿内)及び海西(九州)諸州にこれ有り。およそ蠑螈(えいげん)蝘蜓(えんてん)には毒有り。これを食する者有ることを聞かずなり』

ここでGOTO氏にとっても、ここで注をする私にとっても、極めて興味深い事実が判明するのである。即ち、ヤモリの棲息域に関わる記載である。元禄101697)年の時点ではヤモリは関東以東には進出していなかったのである。採集地は、鎌倉である。「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年であるから、この100年で東征が果たされなかったとは言えないが、この事実によって俄然、『ヤモリでなくイモリ』である可能性が高まったと言えよう。以下、GOTO氏は如何にも学名から日本固有種に見えるニホンヤモリ Gekko japonicusが実は外来種で『貿易船に紛れ込んで筑前福岡の港から侵入。江戸時代には近畿地方まで進出を果たし』ていたとも記されている(以上、“GOTO's Room”の引用要約部分は終了)。

双頭奇形はヤモリでもイモリでも起こるが、以上から、これは守宮「ヤモリ」ではなく井守「イモリ」、現在は関東でも普通に知られる爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ニホンヤモリ Gekko japonicus ではなく、イモリの中でも本邦で通常「イモリ」で通用する両生有尾目イモリ亜目イモリ科トウヨウイモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster と考えてよいと私は思う。なお、GOTO氏がリンク先で引用されている南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」は私が注を施した電子テクストがある。更にやはり私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」には「蠑螈(いもり)」及び「守宮(やもり)」の項がある。こちらも参照されたい。

・「河野信濃守」諸注、河野安嗣(やすつぐ 享保3(1718)年~天明5(1785)年)とする。小普請組頭・御徒組などを経て安永5(1776)年御作事奉行となり従五位下信濃守、次いで天明3(1783)年、大目付。従って、本話柄は安永5(1776)年から天明3(1783)年までの間の出来事となり、この頃根岸は御勘定吟味役であった。河野は根岸より19歳年上である。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「相州鎌倉鶴岡の八幡」相模国鎌倉鶴岡八幡宮寺。当時は神仏習合であったのでこう表記しておく。双頭の井守の発見場所を源平池なんどと早合点してはいけない。鎌倉は谷戸多く、清水滴る湿地も多い。私は十二所(じゅうにそ)の番場ヶ谷や反対側の旧朝比奈切通しの辺りには、今でも双頭のイモリが居てもちっともおかしくないと思っている。

■やぶちゃん現代語訳

 双頭の井守の事

 少年の孫叔敖が民のために双頭の蛇を殺したという故事を始めとして、頭部二つの頭を持った生物については、色々と人々が噂し、また古くから語り伝えていることでは御座るが、私自身はこれを実見したことが永くなかった。

 数年前のこと、河野信濃守安嗣殿が御作事奉行で御座った折、相州鎌倉鶴ヶ岡八幡宮寺御修復御用にてかの地に赴かれた折り、正に双頭の井守を発見、塩漬けになされ江戸表に持ち帰られたものを、私も親しく拝見させて戴いたことが御座った。確かに奇怪なる双頭にて御座ったよ。

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