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2010/04/11

耳嚢 巻之二 藝道其心志を用る事

「耳嚢 巻之二」に「藝道其心志を用る事」を収載した。

 藝道其心志を用る事

 芝居役者にて寶暦の始迄有りし、瀨川菊之丞路考といへる女形の、上手名人と人の稱しける、一生の間女形の外聊にても男のやつしなどせし事なし。彼が平日の行状を聞に、狂言を引て宿にありし時も常に女の身持也。或時火災ありて、立退き候樣人の進めしに、仕廻所(しまひどころ)へ入て化粧髮などして居たりし故、色々人の進めけれど、たとへ燒死すればとて見苦しからんは藝道の恥也といひ、閑(しづか)に支度して立退けるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:水気が火気を含むならば、男が女となることもある。一連の歌舞伎役者譚の一。

・「寶暦」西暦1751年から1764年迄であるが、次注で分かるように、宝暦元年の二年前、寛延2(1749)年に瀨川菊之丞路考は死んでいる。ここは「寛延」とすべきところである。現代語訳ではそう訂正した。

・「瀨川菊之丞路考」初代瀬川菊之丞(元禄6(1693)年~寛延2(1749)年)。女形の名優。路考は俳名。初めは上方で瀬川竹之丞に師事、正徳2(1712)年に瀬川菊之丞に改名、享保121727)年に京都の市山座での「けいせい満蔵鏡」によって名声を博した。享保151730)年に江戸へ下って『三都随一の女方』と讃えられた。本文にある通り、日常生活でも女装を通したという。能に基づく舞踊に多くの傑作を残し、「娘道成寺」「石橋」(しゃっきょう)等を得意としたと伝える。女形の演技の基礎を確立した人物で、著作に芸談十ヶ条からなる「女方秘伝」がある(以上は主にウィキの「瀬川菊之丞(初代)」を参照した)。

・「女形」女方とも。以下、平凡社「世界大百科事典」より渡辺保氏の解説を引用しておく(記号の一部を変更した)。『歌舞伎の役柄の一つ。歌舞伎の女性の役の総称、および女性の役をつとめる俳優をいう。「おやま」ともいう。1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため、能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ、現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ、瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし、これが幕末まで女方の習慣となった。あやめには「あやめぐさ」菊之丞には「古今役者論語魁」所収の芸談があり、2人の名女方の教訓は、長く女方の規範となった。2人の没後、初世中村富十郎はじめ多くの名優が輩出。代々の瀬川菊之丞、4世から8世までの岩井半四郎は女方の名優で、瀬川家と岩井家は、江戸時代を通じて女方の二大名門であった。一座の中で最高位にある女方を「立女方(たておやま)」といったが、明治・大正期の5世中村歌右衛門に至るまでは、女方は座頭(ざがしら)にはなれなかった。女方の楽屋は劇場の2階にあり,名目上それを中二階と称したので、女方のことを「中二階」とも呼んだ。女の役しか演じない俳優を「真女方(まおんながた)」という。女方の役は多岐にわたるが、初期には「若女方(わかおんながた)」と「花車方(かしゃがた)」に大別された。若女方には、遊女(「助六由縁江戸桜」の揚巻)、芸者(「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」の美代吉)、姫(「本朝廿四孝」の八重垣姫)、娘(「神霊矢口渡」のお舟)など、花車方には、茶屋の女房の花車(「恋飛脚大和往来」のおえん)、片はずし(「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡)、奥方(「菅原伝授手習鑑」の園生の前)、世話女房(「傾城反魂香(吃又)」のお徳)、奥女中(「加賀見山旧錦絵」の尾上)、女武道(「彦山権現誓助剣」のお園)などで、身分・年齢・職業などにより違いがある。原則として悪女や老女には女方は扮さないのを習慣としている。これは、老女を演じると色気が失われ、悪女を演じると観客の同情を失うためである。これを見ても、女方の芸術の基本が様式的な美しさを生命とし、貞操を堅固にするという倫理の美しさを追求するものであることがわかる。しかし江戸中期に至り,女方も悪婆(あくば)(土手のお六など)という役柄を開発し、同時に立役が女方をつとめるようになった。あくまでもこれは変則である』(引用元の著作権表示(c1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。更に吉之助という伝統芸能批評家の方の「歌舞伎素人講釈」にある『女形の哀しみ~歌舞伎の女形の「宿命論」』に、意外な興味深い記述があるので紹介しておく。「女形の哀しみ」という題である(段落間の空行は詰めた)。

   《引用開始》

寛政五年(1793)のこと、五代目団十郎を贔屓にする山東京山が兄の京伝とともに河原崎座に出演中の団十郎の楽屋を訪ねました。京山によれば、岩藤の扮装中だった団十郎は涙をボロボロと流しながらこんなことを語ったと言います。

「世間の人なら倅に家業を譲って隠居をする歳なのに、卑しい役者の家に生まれたばっかりに、この歳になって女の真似をしなければならないとは何と因果な事だ。」(「蜘の糸巻」)

京山もどう声を掛けたものか困ったことでしょう。「役者がこういう事を考え出すと芸に艶がなくなって舞台に永く立つ事ができなくなってくる」と書いています。この時、団十郎は五十三歳。果たして京山の予感の通り、この三年後の寛政八年に団十郎は引退する事となります。

この団十郎の逸話はいろんな事を考えさせます。世間から「河原乞食」などと言われのない差別を受けて蔑まれる歌舞伎役者の哀しみを見ることもできましょうか。あるいは大名・武将・傾城を演じたとしても所詮は「虚構・偽りごと」にしか過ぎないという役者の哀しみでありましょうか。そして、この団十郎の言葉から感じられるのは、「男が女の真似をする」ことの・何とも言えない団十郎の情けなさ・哀しみです。

五代目団十郎は本来が立役であって女形は加役ではあるのですが、しかし、功なり名遂げた歌舞伎役者がこういう台詞を吐いてボロボロ泣くというのは、やはり考えさせられる話ではあります。男が女の姿なりをして女を演じるなんてことは、本来的にはどう考えたって不自然でどこかに無理があるわけですが、女形が当たり前の存在のはずの・江戸時代の歌舞伎役者にも、「男が女を演じるなんてみっともなくて恥ずかしい」という感じ方がやっぱりあったのだなあと思うわけです。

江戸時代の女形と言えば、必ず引き合いに出されるのは初代芳沢あやめでありましょう。あやめは「平生(へいぜい)ををなごにて暮らさねば、上手の女形といはれがたし」と語り、「常が大事と存ずる」と言っています。あやめの芸談集「あやめ草」に見られる逸話は、まさに身も心も女性に成り切ろうとするもので、まさに「芸道」に身を捧げる人生と言った感じです。しかし、逆に見ればあやめは虚構の・人工的な生活を自分に強いることで、女形を生業(なりわい)とする自分をその世界に閉じ込めてしまった・あるいは世間一般との交渉を拒絶してしまったとも考えられます。そうしないと「女形」である自分を維持することが難しかったとも考えられます。吉之助はあやめの芸談に「女形の哀しみ」を見るような気がします。

   《引用終了》

以下、女形の成立史や近代以降の女形廃止論争等にも言及、『女形の哀しみの哲学』とも言える骨太の論である。是非、最後までお読みになられんことをお薦めする。

・「閑(しづか)に」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 芸道に生きる者の節操覚悟の事

 芝居役者で寛延の始め頃まで存命して御座った、瀨川菊之丞路考という女形の上手・名人と称された人は、一生の間、女形で通し、演じておらぬその他の折りにあっても、聊かもでも男の格好なんどしたことは一度としてなかったという。彼女の普段の様子を聞いたところ、舞台を降り、自宅に居る時でも、常に女の格好・振舞いで通していた。

 ある時、芝居小屋の近隣で火災があって、直ちに避難するよう人が路考に声を掛けた。すると彼女、楽屋の仕度部屋に入り、徐ろに化粧をし、髪を調え始めた。

 人々は宥めたりすかしたりしていろいろ言うたけれども、

「――たとえ焼け死に致しましょうとも、見苦しき姿を方々に晒すは、これ、芸の道の、恥に、御座いまする――」

と、ゆるりと身支度調え終えると、やおら立ち退いたということで御座った。

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