耳嚢 巻之二 強氣の者召仕へ物を申付し事 / 本妙寺火防札の事
本日、一泊で名古屋のアルツハイマーの義母を見舞う。ために、「耳嚢 巻之二」には二日分、「強氣の者召仕へ物を申付し事」及び「本妙寺火防札の事」二篇を収載した。
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強氣の者召仕へ物を申付し事
巣鴨に御譜代(ごふだい)の與力を勤し猪飼五平といへるありて、我等も知る人にてありしが、彼五平親をも五平といひて享保の此迄勤ける由。あく迄強氣(がうき)者にて、常にすへもの抔切て樂みとし、諸侯其外罪人などありて賴ぬれば、悦びて其事をなしけるよし。或る時召仕の中間を召抱る迚、壹人年若く立派なる者來りて、氣に入りし故給金も乞ふ程あたへ抱けるが、小身の事故纔に壹僕なれば、或る時米を舂(つ)き可申と申付しに、彼中間答て、我等は草履取一邊の約束にて何方へも召抱られし事也。御供ならばいか樣の儀も致べけれど、米舂し事なければ此儀はゆるし給へと言ければ、五平聞て、尤の事也、約束違へんも如何なり、さらば供可致とて、其身裸に成て下帶へ脇差を差、自分と米を舂、右米をつき御供可致とて彼下男に草履を持せ、自分の米をつき候跡へ附て廻り候樣に申付ければ、彼僕も込り果て、何分我等舂き見可申とて、其後は米を舂けるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:生臭の売僧を、理路の逆手を取った奇略で窮地に追い込んだ武士から、我儘な家来を、同じく理路の逆手を取った率先行動で困惑させて従属せざるを得なくさせた武士で連関。
・「御譜代の與力」同心の上に位置する。現在の東京都の各警察署長相当と考えてよい。まずウィキの「与力」より引用する。『同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった』。猪飼は「御譜代」とあるから、恐らく後者と思われる(後述)。『与力は、馬上が許され、与力組頭クラスは、二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだが、不浄役人とされ将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった』。「不浄役人」というのは犯罪者の捕縛や拷問・断罪に直接関わる仕事であったから。但し、後に述べるように当時の同じ禄高の武士に比べると遙かに実入りが良かった。『また当時25騎の与力が南町・北町奉行所に配置されていた。なお、与力は一騎、二騎と数える』。『役宅としては300坪程度の屋敷が与えられた。また、諸大名家や商家などよりの付け届けが多く、裕福な家も多かった』。『与力は特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。伊達男が多く与力・力士・鳶の頭を「江戸の三男」と称した』。「御譜代」とは、御抱席に対する語。御抱席とは交代寄合の地位、則ちその一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。
・「猪飼五平」諸注注せず、不詳。読みは「いかい」若しくは「いがい」。
・「込り果て」底本では「込り」の右に『(困)』と注記する。
・「強氣」は「豪儀」とも書いて、威勢がよく、立派なさまという意以外に、「強情」「頑固」の意がある。但し、表現から見て、根岸は現在の「豪気」=「剛気」の意義と全く同等に用いている。則ち、強く勇ましい気性、大胆で細かいことに拘らない性質(たち)である。
・「すへもの」刀剣の試し斬りの一つである据物斬りのことを言う。人体による試し斬りの技を言う。一般に罪人の死罪執行後の遺体を用いた。ウィキの「試し斬り」に、『徳川幕府の命により刀剣を試し切りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し切りを任される役職があったことが知られている。その試し切りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった』とあり、さしずめ猪飼はこの様者並の立場にでもあったものと思われる。『なお、その試し切りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば三体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている』。『据物斬は将軍の佩刀などのために特に厳粛な儀式として執り行われた』。『その方法は、地面にタケの杭を数本、打ち立て、その間に死体をはさんで動かないようにする。僧侶、婦女、賎民、廃疾者などの死体は用いない。死体を置き据えるときは、死体の右の方を上に、左の方を下にして、また、背中は斬る人のほうに向ける。刀には堅木のつかをはめ、重い鉛のつばを加える。斬る箇所は、第一に摺付(肩の辺)、第二に毛無(脇毛の上の方)、第三に脇毛の生えた箇所、第四に一の胴、第五に二の胴、第六に八枚目、第七に両車(腰部)である。以上の箇所を斬ってその利鈍を試みるのである。二つ胴、三つ胴などというのは、死体を2箇以上重ねて、タケ杭の間にはさんでおいて試みるのである』と記す。
■やぶちゃん現代語訳
剛毅の者が奇略を以って我儘な家来に仕事をさせた事
巣鴨に、代々与力を勤めて御座る猪飼五平という者がおる。私もよく知っておる男であるが、この五平、父親もまた同じ五平を名乗り、享保の頃まで与力を勤めて御座った。
この父五平、途轍もなく剛毅な男にて、普段、据え物斬りなんどを楽しみと致しており、大名家その外から刀剣類鑑定の依頼があり、偶々処刑された罪人の遺体なんどがあれば、二つ返事で請け合い、喜んで試し斬りを致いたということであった。
ある時この父五平、召使うための中間(ちゅうげん)を召し抱えるようと探しておったところへ、彼の元へ、雇ってもらいたき旨申して一人の若い丈夫が訪れた。一目見て気に入ったので、給金も望みむままの額で決し、抱えることとなった。
五平、小身の旗本なれば、雇うて御座った中間、これ一人、二人。
ある時のこと、五平、餅を食いたくなり、
「米を搗きな。」
と申し付けたところが、この中間、涼しい顔でこう答えた。
「私は、主人草履取りとして御供することの専従という契約にて、どちら様にもそのような中間として召し抱えられてきた者にて御座る。こちら様にても御同様の御約束で御座った。されば、御供の儀なれば致しますれど、米を搗いたついたこと、これ、御座らねば、その儀は御赦し下されい。」
それを聴いた五平、にやっと笑うと、
「いや! それは尤もなことじゃ! 約束に違(たご)うこと、これ、我が本意(ほい)にてもあらぬ!――さればとよ、これより、我らが供致すがよい!」
と言うや、五平、上着をばっさり脱ぎ捨て褌一丁の裸になり、その褌に脇差を差し、その場でちょいと米を搗いて、
「さても! 拙者、米搗くに、うぬはその供せよ!」
とて、かの下男に草履を持たせ、
「拙者、このままにて米を搗きつつ、各所を廻らんとす。故、その後にぴったり付いて!――廻るが、よいぞ!」
と申し付けたところ、流石に下男、困(こう)じ果てて、
「……わ、分かり申した……わ、我らが、米を搗いて、みましょう、ほ、程に……」
と言うて、その後(のち)は、命ずれば黙って素直に米を搗くようになった――ということにて御座る。
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本妙寺火防札の事
白山御殿に新見(しんみ)傳左衞門といへる人あり。常時よりは三代も已前也。餘迄強勇の男也しが、本妙寺旦家(だんか)にてありしに、或時本妙寺來りけるが、なげしの上に秋葉の札ありしを見て、ぼうほう罪とて、他宗の守札など用ひ候は以の外あしき事也、當寺よりも火防の札は出し候間、早々張かへ給べしといひぬ。傳左衞門聞て、不存事迚秋葉の札を張ぬ、然し本妙寺の火防札は無用にいたし可申。夫はいかにと尋ければ、享保の比本妙寺火事とて、江戸表過半燒たる事あり。かゝる寺の守札望なしと答へければ、僧も赤面なしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:
・「火防」「かばう(かぼう)」「ひよけ」「ひぶせ」と三様に読める。根岸がこれをどれで読んでいるかは不詳。因みに岩波版で長谷川氏は「かぼう」とルビされている。
・「本妙寺」明治43(1910)年に東京都豊島区巣鴨に移転した。法華宗陣門流東京別院。山号は徳栄山。ウィキの「本妙寺」によれば、『1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)。現在墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある』と記す。
・「秋葉の札」火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰される、現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈南端にある秋葉山本宮秋葉神社を起源とする秋葉大権現の火除けの御札。ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」によれば、『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととな』り、『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』とある(一部の読みを省略した)。本件御札が秋葉山本宮秋葉神社のものであるとは断定出来ないが、そうとっておく。岩波版長谷川氏でもそう注されている。
・「ぼうほう罪」底本では右に『(謗法罪)』と注記する。本来は釈迦の説く仏法の教えを謗ることであり、広義には正しい仏法を説く人を謗ることを言う。
・「白山御殿」底本鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。
・「新見傳左衞門」底本鈴木氏注に『シンミ。もとニイミといったが、先祖が家康の命によってシンミに改めたという。義正・正朝・正尹の三代、伝左衛門を称した。正尹は宝暦十年大番組頭となり、明和三年六十七歳で没した。三代前というのは義正であろう。義正は小十人頭、持筒頭を勤め、延宝七年六十で没した』とあるから、正尹の生没年は(元禄16(1703)年~明和3(1769)年)、義正は(宝永7(1710)年~延宝7(1679)年)となる。その「正尹」は「まさただ」と読むものと思われる。但し、岩波版長谷川氏注は当時の伝左衛門を正武とし、その三代前は伝左衛門正朝であると、異なった判断を示されている。正朝は『書院版組頭等。寛保二年(一七四二)没。九十二歳。駒込高林寺に葬。同家は牛込顕彰正寺か高林寺に葬り、本妙寺に葬のことは見えない』と重大な疑義を示されておられる。正朝の生没年は(慶安4(1651)年~寛保2(1742)年)である。
・「本妙寺火事」前注で示した通り、明暦の大火のこと。以下、ウィキの「明暦の大火」によってその概要を見る。『明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる』。『この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった』。『火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもあ』り、この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正』や『防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われた』。以下はその火災状況を、主に当時の様子を記録した万治4(1661)年刊の浅井了意による仮名草子「むさしあぶみ」を用いて仔細に記す。『この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている』。『前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであった』。まず1度目の出火と延焼。『1月18日未の刻(午後2時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火 神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲とな』った。2度目の出火と延焼。『1月19日巳の刻(午前10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失』した。そして3度目が来る。『1月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火』した。次に「災害復旧」の項。『火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が設立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ』とある。次にこの大火の真相に纏わる三つの説が示される。中々に興味深い。まずはオーソドックスな「本妙寺失火説」で、「振袖火事」という異名の由来にもなっている因縁譚である。『ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。『イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという』。『この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している』と記す。因みに、この小泉八雲の作品とは“Frisodé”「振袖」である。講談社学術文庫版小泉八雲名作選集「怪談・奇談」で和訳が読める(原注を含め文庫本で4ページに収まってしまう小品である)。『また、幕末以降に流布された振袖火事伝説を、江戸城火攻めの声明文として解釈すると、振袖の寺小姓は、1590年に上総の万木城を徳川軍勢に攻め落とされた土岐家の子孫が浮かび上がる。さらに、その寺小姓は、上野の寛永寺の天海の弟子の蓮海で、後に、波の伊八で有名な上総和泉浦の、火攻めの兵法に長けた飯綱権現をご本尊とする飯縄寺の住持であることが伺える。そして、不受不施派からの改宗を余儀なくされた上総の法華信徒は、その寺小姓と手を携え合い、狐に括り付けた烏の翼に火を放つ飯綱権現の兵法を吸収し、江戸城と城下の火攻めを決行したことが読み取れる。なお、この時の東叡山寛永寺の貫首は守澄法親王でありながら、川越の喜多院の末寺に過ぎず、幕府の朝廷に対する圧迫が伺え、朝廷と法親王と蓮海と不受不施派による討幕未遂だった可能性もある』と記す。滅ぼされた土岐氏の怨念――怪僧天海の弟子で蓮海―禁教ファンダメンタリスト集団不受不施派―伝奇ではお馴染み妖術飯綱の法――法親王絡みの尊王倒幕の陰謀……流石にウィキでは「要出典」の要請が示されているが……こりゃ、こたえらんねえ面白さじゃねえか! お次は『幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする』幕府確信犯の「幕府放火説」ときたもんだ! 『当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため、放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている』とするが……かなり、いや、激しく乱暴。三つ目は「本妙寺火元引受説」である。『実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのであった。これは火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか火事以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している』とする。これはありそうな話ではある。最後のエピソード集から一つ。『この大火の際、小伝馬町の牢屋敷奉行である石出帯刀吉深は、焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。罪人達は涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、実際に減刑が行われた。以後この緊急時の「切り放ち」が制度化される切っ掛けにもなった』とする。不謹慎乍ら「明暦の大火」が、面白い!
■やぶちゃん現代語訳
本妙寺火除けの御札の事
白山御殿辺に住む新見(しんみ)伝左衛門という御仁がある。
今よりは三代前程も前のことにて御座るらしいが、その頃の伝左衛門――当家は代々当主は伝左衛門を名乗って御座る――これ、全く以って剛勇そのもの御人であった。
ある日のこと、本妙寺の檀家で御座った彼の屋敷に本妙寺の住僧が訪問した。
通された座敷の上長押の上に秋葉神社の札があるのを目にするや、
「――かくするを謗法(ぼうほう)の罪と申す! 他宗の守り札なんど用い候は、以っての外に悪しきことにて御座るぞ!――当寺より火除けの御札、出して御座いますれば、早々にお貼り替えなさるがよろしかろう。」
と言った。すると伝左衛門、
「成程、存ぜぬことなれば秋葉の札を貼って御座ったの。……なれど……本妙寺の火除け札拝受は、これ、御無用と――致したたく存ずる。」――
「――そ、それは、なに故かッ!」
住僧、気色ばんで問い質す――と伝左衛門徐ろに、
「――享保の頃、本妙寺火事と言うて、かの寺から出火致いて江戸表半ば過ぐる程に焼け尽くしたことあり――かかる寺の――火除けの札、なんど――何の御利益も、ない!」
と答えたれば、僧は赤面したまま、言葉もなかった――ということにて御座る。