耳嚢 巻之二 明君其情惡を咎給ふ事
「耳嚢 巻之二」に「明君其情惡を咎給ふ事」を収載した。遅滞していたわけではない。「心」の鎌倉のシーンには途中に別記事を入れたくなかったからである。
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明君其情惡を咎給ふ事
享保の始とかや、何れの國にや百姓以の外相煩ひけるが醫師の相談しけるに、よき人參なくては難助趣申けれど、在郷の事人參の求むべき手寄(たより)なかりしを、倅に申付て江戸表へ才覺に出しけるが、彼倅途中にて人參の代を博奕(ばくえき)とやら遊女とやらんに遣ひ込、人參を可求手寄もなく、路用に手支(てづかへ)、兩國橋にて人の巾着など切りしを被召捕、御先手にて吟味の上、小盜(こぬすみ)いたし候者とて入墨敲(いれずみたゝき)とやらんに申上けるに、明君御尋ありて、右親は其病氣にて相果しや、又は快氣せるやと御尋有けるに、右病氣にて病死の由かたりければ、親を殺せし者の通り磔に被仰付けると也。親の煩ひて藥求めに出し身の、遊興の心あらんは誠に天誅のがるべからず、難有御德政也と霜臺の語り給ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。この辺り、全体に順列での連関は弱いような気がする。名君吉宗公エピソードの一。
・「明君」第八代将軍徳川吉宗。
・「享保」西暦1716年から1735年。
・「人參」双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng =朝鮮人参のこと。
・「手寄(たより)」は底本のルビ。
・「手支(てづかへ)」は底本のルビ。
・「兩國橋」隅田川に架かっていた旧両国橋。現在の神田川と隅田川の合流点に近い中央区東日本橋と東岸の墨田区両国を結ぶ両国橋は移転後のもの。貞享3(1686)年に国境が変更されるまでは武蔵国と下総国との国境にあったことからの呼称。以下、ウィキの「両国橋」によれば、『創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。話柄からしてこの病んだ百姓は上総・下総・安房辺りの者でもあったのかも知れない。
・「御先手」先手組。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。以下、ウィキの「先手組」より引用する。『平時は江戸城に配置されている各門の警護、将軍外出時の警備、江戸城下の治安維持等を勤めた。』『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた』。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという』。『火付盗賊改方の長官は、御先手組の頭が加役として兼務した』。
・「入墨敲(いれずみたゝき)」は底本のルビ。共に身体刑の一種。「入墨」は古くからある刑ではあるが、一般化したのは寛保5(1745)年に耳鼻削ぎに代えて採用されて以降のことである。入墨の種類は各奉行所や藩によっても異なり、また窃盗などの付加刑でもあった。入墨は三回で死罪となった。「敲」は笞(しもと・すわえ:木製の笞杖や竹製の箒尻という鞭)で敲く刑。庶民の成人男性にのみ適用した。寛保5(1745)年から採用され、一時期廃止されたが、この吉宗の命によって寛延2(1749)年に復活している。敲は50回、重敲は100回。刑の執行時には罪人の家主や村・町役人が立合いが義務付けられていた。肩・背・尻に分けて損傷が致命的にならないように配慮はされたという。ただそうするとややおかしなことになる、何故なら、冒頭で「享保の始」と言っているからである。そこでは「敲」はまだ復活してはいないのである。疑義があるがそのまま訳した。
・「親を殺せし者の通り磔」尊属殺は律令の昔から八虐の内の四番目の「悪逆」に挙げられており、江戸時代も市中引廻しの上、磔という重罰であった。またこれには「縁座」が加えられ、殺人者に子があれば、その子も遠島となった。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。もう御馴染みの「耳嚢」の重要な情報源の一人。
■やぶちゃん現代語訳
明君一決にて非道の子を厳罰に処した事
享保の初めの頃のこととか。
何処の国であったか、相応の百姓、極めて重篤な病いに罹ったが、医師に相談してみたところ、
「効能著しき朝鮮人参、これ、なきには救い難し。」
との見立て。されど、かくなる田舎のこと故、朝鮮人参なんどという代物、求むべき手段も、これ御座ない。そこで父は倅なる男に申し付けて、金子を渡し、それ以って何とか朝鮮人参を手に入れて来るよう江戸表に出だしやって御座った。
しかし、この倅、江戸へ来る途中、親から受け取った朝鮮人参の代金を、悉く博打やら遊廓やらに使い込んでしまい、ただの人参一本さえ買う金もなくなり、遂にはその日の金にさえ困って、両国橋にて人の巾着を掏(す)ろうとしたところを召し捕らえられてしもうた。
御先手方にて厳しく吟味の上、判例に示し合わせても初犯の窃盗致せし者なれば入墨・敲きが相当か、と御裁可を仰いだところ、時の明君吉宗公より、
「時に、その者の親は病いで相果てたのか? それとも快気致いたのか?」
との特にお訊ねの儀、これあり、
「その病(やまい)にて病死致いたとのことで御座います。」
とお答え申し上げた。すると吉宗公、毅然として、
「親を殺せし悪逆罪に準じ、市中引き回しの上、磔と致せ!」
とびしりと仰せられた。
「……親の命に関わる病いのために薬を求めに出た身でありながら、父が身を思わざるのみか、己れの爛れた快楽の心のみにとらわれておった人非人……これ、誠(まっこと)天誅免るること、御座ない!……いや、誠(まっこと)有難き御徳政で御座ったのぅ……。」
と、安藤霜台殿が語って御座った。
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