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2010/04/23

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月23日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四回

Kokoro11_3   先生の遺書

   (四)

 私は月の末(すゑ)に東京へ歸つた。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずつと前であつた。私は先生と別れる時に、「是から折々御宅へ伺つても宜(よ)ござんすか」と聞いた。先生は單簡(たんかん)にたゞ「えゝ入らつしやい」と云つた丈であつた。其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃(こまや)かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた。

 私は斯(かう)いふ事でよく先生から失望させられた。先生はそれに氣が付いてゐる樣でもあり、又全く氣が付かない樣でもあつた。私は又輕微な失望を繰返しながら、それがために先生から離れて行く氣にはなれなかつた。寧ろそれとは反對で、不安に搖(うご)かされる度に、もつと前へ進みたくなつた。もつと前へ進めば、私の豫期するあるものが、何時(いつ)か眼の前に滿足に現れて來るだらうと思つた。私は若かつた。けれども凡ての人間に對して、若い血が斯う素直に働かうとは思はなかつた。私は何故(なぜ)先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日(こんにち)になつて、始めて解つて來た。先生は始めから私を嫌つてゐたのではなかつたのである。先生が私に示した時々の素氣(そつけ)ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠(とほざ)けやうとする不快の表現ではなかつたのである。傷ましい先生は、自分に近づかうとする人間に、近づく程の價値のないものだから止せといふ警告を與へたのである。他(ひと)の懷かしみに應じない先生は、他(ひと)を輕蔑する前に、まづ自分を輕蔑してゐたものと見える。

 私は無論先生を訪ねる積で東京へ歸つて來た、歸つてから授業の始まる迄にはまだ二週間の日數(ひかぞ)があるので、其うちに一度行(いつ)て置かうと思つた。然し歸つて二日三日と經つうちに、鎌倉に居た時の氣分が段々薄くなつて來た。さうして其上に彩(いろど)られる大都會の空氣が、記憶の復活に伴ふ强い刺激と共に、濃く私の心を染付けた。私は往來で學生の顏を見るたびに新しい學年に對する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。

 授業が始まつて、一ケ月ばかりすると私の心に、又一種の弛(ゆる)みが出來てきた。私は何だか不足な顏をして往來を步き始めた。物欲しさうに自分の室(へや)の中を見廻した。私の頭には再び先生の顏が浮いて出た。私は又先生に會ひたくなつた。

 始めて先生の宅(うち)を訪ねた時、先生は留守であつた。二度目に行つたのは次の日曜だと覺えてゐる。晴れた空が身に沁み込むやうに感ぜられる好(い)い日和であつた。其日も先生は留守であつた。鎌倉にゐた時、私は先生自身の口から、何時(いつ)でも大抵宅(うち)にゐるといふ事を聞いた。寧ろ外出嫌ひだといふ事も聞いた。二度來て二度とも會へなかつた私は、其言葉を思ひ出して、理由もない不滿を何處かに感じた。私はすぐ玄關先を去らなかつた。下女の顏を見て少し躊躇して其處に立つてゐた。此前名刺を取次いだ記憶のある下女は、私を待たして置いて又内へ這入つた。すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。

 私は其人から鄭寧(ていねい)に先生の出先を教へられた。先生は例月其日になると雜司ケ谷の墓地にある或佛へ花を手向けに行く習慣なのださうである。「たつた今出た許りで、十分になるか、ならないかで御座います」と奧さんは氣の毒さうに云つて吳れた。私は會釋して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程歩くと、私も散步がてら雜司ケ谷へ行つて見る氣になつた。先生に會へるか會へないかといふ好奇心も動いた。夫ですぐ踵(きびす)を回らした。

Line_2

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「月の末」当時の高校の暑中休暇は9月10日頃迄であった。従ってここは8月末である。

 

♡「其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた」思い込みを強めた同性愛傾向を如実に摑める部分である。

 

♡「私は斯いふ事でよく先生から失望させられた」以下、これを叙述している現在の「私」の告解であることに気づかねばならぬ。「私の豫期するあるもの」とは何か? そのようなものを求めて君は人に近づく時、その人は君にとってどのような存在か? ということをじっくりと考えて見給え。

 

♡「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日になつて、始めて解つて來た」先生がこの記載時に既に亡くなっていることが、ここで初めて示される重要な場面である。そうしてこれは、「私」の重大な告解であることに気づかねばならぬ。既にして「私」は、過去の「私」ではないという事実である。「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか」その当時は「解らなかつた」が、「それが先生の亡くなつた」この手記を記している「今日になつて、始めて解つて來た」、いや、十全に解っているのである。それが何であるかに気づかない君には、「こゝろ」の謎は、永遠に解けぬと言ってよい。

 

♡「名刺」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、この頃には西洋の習慣が急速に日本社会に浸透、学生や女学生も名刺の交換をするのが普通であったとする。但し、「私」のものは所謂、活版の印刷物ではなくて手書きのものであった可能性も高いと思われる。

 

♡「下女」殆んど我々読者の意識に上らないが、先生の家には下女がいる。この下女を驚天動地のキャラクターとして描いたのが日活1955年製作の市川昆の「こころ」であった。これについては私のブログ『「こゝろ」3種(+1)映像作品評』で記した。興味のある方は、お読みあれ。但し、このブログ記事は、かなり危ない。

 

♡「すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。」「靜」の初登場のシーンである。詳しい根拠は私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、この「靜」は諸君が考えるよりも、恐らく若い。この時、私の推定では、

 

「靜」は26

 

である。私はまた、本章の時間を嘗て仮に次のように推定したことがある。

明治411908)年 19

 7月下旬か8月

  第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で

  先生と出会う。

  9月11日頃

   高校(第三学年)が始まる。

 10月 4日(日)又は10月11日(日)

   先生の家を初めて訪問するが、留守。

 10月11日(日)又は10月18日(日)

   先生の家を再訪。留守。奥さんの言葉で、

   雑司ヶ谷墓地で先生と再会。

これも私のHPの『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照されたい。ともかく、私がここで言いたいのは、学生の「私」と「靜」はそんなに年齢差はないのである。最大で7歳、もっと短い可能性さえ考え得るということである。なお、申し上げておくが、以上の年月日には確定的根拠があるわけではない(仮定した日の曜日は事実を確認してあるので正確である)。一つの遊びとして楽しんでもらいたい。]

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