『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三回
(三)
私は次の日も同じ時刻に濱へ行つて先生の顏を見た。其次の日にも亦同じ事を繰返した。けれども物を云ひ掛ける機會も、挨拶をする場合も、二人の間には起らなかつた。其上先生の態度は寧ろ非社交的であつた。一定の時刻に超然として來て、また超然と歸つて行つた。周圍がいくら賑やかでも、それには殆ど注意を拂ふ樣子が見えなかつた。最初一所に來た西洋人は其後(そのご)丸で姿を見せなかつた。先生はいつでも一人であつた。
或時先生が例の通りさつさと海から上つて來て、いつもの塲所に脫ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた。先生はそれを落すために、後向になつて、浴衣を二三度振(ふる)つた。すると着物の下に置いてあつた眼鏡(めがね)が板の隙間から下へ落ちた。先生(さきせい)は白絣(しろかすり)の上へ兵兒帶(へこおび)を締めてから、眼鏡の失(な)くなつたのに氣が付いたと見え、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ツ込んで眼鏡を拾ひ出した。先生は有難(ありかた)うと云つて、それを私の手から受取つた。
次の日私は先生の後(あと)につゞいて海へ飛び込んだ。さうして先生と一所の方角に泳いで行つた。二丁程沖へ出ると、先生は後(うしろ)を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所(きんしよ)に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照してゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已(や)めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。靑空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色(しき)を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。
しばらくして海の中で起き上る樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促した。比較的强い體質を有(も)つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。
私は是から先生と懇意になつた。然し先生が何處にゐるかは未(ま)だ知らなかつた。
夫から中二日(なかふづか)置いて丁度三日目の午後だつたと思ふ。先生と掛茶屋(かけぢやや)で出會つた時、先生は突然私に向つて、「君はまだ大分(だいぶ)長く此處に居る積ですか」と聞いた。考へのない私は斯ういふ問に答へる丈の用意を頭の中に蓄えてゐなかつた。それで「何うだか分りません」と答へた。然しにや/\笑つてゐる先生の顏を見た時、私は急に極りが惡くなつた。「先生は?」と聞き返さずにはゐられなかつた。是が私の口を出た先生といふ言葉の始りである。
私は其晩先生の宿(やど)を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内(けいたい)にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖(くちくせ)だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。先生は彼の風變りの所や、もう鎌倉にゐない事や、色々の話をした末、日本人にさへあまり交際(つきあひ)を有(も)たないのに、さういふ外國人と近付になつたのは不思議だと云つたりした。私は最後に先生に向つて、何處かで先生を見たやうに思ふけれども、何うしても思ひ出せないと云つた。若い私は其時暗に相手も私と同じ樣な感じを有つてゐはしまいかと疑つた。さうして腹の中で先生の返事を豫期してかゝつた。所が先生はしばらく沈吟(ちんぎん)したあとで、「何うも君の顏には見覺がありませんね。人違ひぢやないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「いつもの塲所に脱ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた」何故、「何うした譯か」なのか? 意地の悪い私は、これは「私」が砂をかけておいたのだとさえ、思うのである。さすれば、以下の叙述には嘘がある。「私」は先生(以下、特別な場合を除き、「先生」という括弧書きは省略する)の眼鏡を予め、下に落としておいたのである。勿論、先生と接触を謀るための「策略」として、である。
♡「先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た」これについて、ある論文は死のポーズであるととっている。面白い解釈である。ただ、そこから先生が海への入水自殺で果てたのだ、という結論を導き出すのは如何かと思う。入水自殺の土左衛門は遺体が汚い。遺族の静がそれを本人確認せねばならないシーンを考えると、先生の自殺の条件から、当然、一番に排除されると私は判断する。
♡「にや/\笑つてゐる先生」気がつかれたか? こんな最初で先生は意外にも「にや/\笑つてゐる」のである。
♡「廣い寺の境内」現在の神奈川県鎌倉市材木座6―17―19にある天照山光明寺である。浄土宗関東大本山。本尊阿弥陀如来、開基北条経時、開山浄土宗三祖然阿良忠(ねんなりょうちゅう)。漱石がこの寺の奥にある貸し別荘にしばしば避暑したことは、全集の注を始め、多くの資料に示されている。鎌倉から逗子へ抜ける街道沿いにあり、材木座海岸に近い。鎌倉の繁華街からは最も遠い「邊鄙(へんぴ)」な位置にある。
♡「私は變に一種の失望を感じた」これは先のデジャ・ヴュを受けるのであるが、全く以ってこれは、「私」の異様な心性である。異様? いや、至極、素直な恋愛感情の表明である。「私」の内なる同性愛傾向を、私はここでも強く感じるものである。]
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