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2010/04/05

耳嚢 巻之二 いわれざる事なして禍を招く事

「耳嚢 巻之二」に「いわれざる事なして禍を招く事」を収載した。

 いわれざる事なして禍を招く事

 享保の比(ころ)とかや。上野塔中(たつちう)にて格祿鄙(いやし)からぬ僧のありしに、最愛の美童有しに、段々年も積て廿三四才になりぬれば、近き内には相應の方へ養子に遣し候とて、念頃に支度など取賄ひなど遣しけるが、大小も一通り立派に拵へけるを、ある日下谷御徒(おかち)を勤ける其頃の任俠小野寺何某といへる者來りける時、かく/\の譯にて右若き者に大小持遣しぬ、切べきものなるや、釋門の事なればしる事あたはず、一覧給はれとありしゆへ、小野寺是を見て、遖(あつぱれ)の出來物哉(かな)、隨分見事の道具たり、しかしためし見申さず候ては丈夫には難申、我等に預給へ、ためし見んといひしに、彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より、とてもの事によろしく賴ぬと挨拶して、かの大小を渡しければ受取りて歸りぬ。享保の後まで、吉原の堤抔には折々辻切抔有しが、彼小野寺もかゝる事を慰になしけるにや、彼一刀を帶し夜更て日本堤へ至り、往來の若者へ喧譁をしかけ拔打に切けるが、遖(あつぱれ)名作の印や、水もたまらず二ツに成ぬ。夫より心靜に持參り此血などぬぐひ洗ひなどして、其後日數兩三日過て彼寺へ持參り、此程此刀ためし見しに扨々きれもの也。隨分調寶のやう其人に申給へとありければ、彼僧涙を流し、此刀を遣すべしと存ぜし若者、兩三日跡に吉原町へ行候事にや、日本堤にて切害されてありしが、何者の仕業とも不知、衣類懷中の物紛失もなければ、定て盜人の所爲とも思われずと涙と共にか たりけるに、其日どりを考へ合すれば、小野寺が切し若者は則右出家の刀を可讓とせし者也。因果は是非なきものと古き人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:仏教嫌いの根岸の僧侶批判で連関。ここでは同性愛の相手である美童=御稚児への僧の異常な愛着を煩悩として認識しない、それどころか殺生の道具である刀剣の切れ味に拘る愚僧非僧への痛烈な軽蔑感が示されいる。

・「いわれざる」の「いわれ」はママ。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「上野塔中」寛永寺の塔頭のこと。江戸後期の寛永寺は寺域305,000余坪、寺領11,790石、塔頭(子院)は36ヶ院(現存は19院)に及んだ(以上はウィキの「寛永寺」を参照した)。

・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。

・「御徒」「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「小野寺何某」諸注小野寺秀明(ひであきら)を同定候補としている。底本の鈴木氏注では、『寛政譜によれば、小野寺は一家あるのみで、第一代の作右衛門秀隆が、御徒頭になり、その子秀盛が万治三年十二月に遺跡を相続している。享保ごろの当主は秀盛の孫英明で、勘定から評定所留役になったが、享保元年事務の手落があったのと、平素のつとめも宜しからざる聞えあるによって小普請におとされ、逼塞を命ぜられ、翌二年四十一歳で没した。英明は御徒ではないが、この人ではなかろうか。御徒から支配勘定、さらに勘定に移る例も少なくないし、英明の子は小十人頭などになっているので、誤ったのであろう』と記されている。岩波版長谷川氏注では若干の留保をして秀明の名を挙げ、『三代前の秀隆は御徒より組頭』という点に注意を喚起している。これらによれば秀明の生没年は(延宝5(1677)年~享保2(1717)年となる。「平素のつとめも宜しからざる聞えある」という部分に本話柄との強い連関を感じさせる。逆に決定的な同定を避けたい意識が根岸に働いた変形か。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

・「彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より」ここにこの言葉は言わずもがなという感が強い。そもそも冒頭から稚児に溺れている僧をこう形容すべきところである。それを敢えて刀刀剣の切れ味を依頼するところまで持ち越したのは、稚児に対する同性愛感情の昇華や合理化であると同時に、そこに伏線として「出家に似合ず」殺生の道具たる刀から、後半への血の匂いを漂わせておくためでもあろう。

・「吉原の堤」今戸橋待乳山聖天付近から箕輪浄閑寺辺りにかけて隅田川から引き込んだ水路に沿ってあった土手通り。

・「日本堤」吉原堤の本来の名称。この水路の下流、山谷堀近辺では水路の両岸に土手が築かれており、「二本堤」と呼ばれていたことからの名称という。新吉原移転後「吉原土手」「吉原堤」とも呼ばれるようになった、吉原への徒歩の道筋ではあるが、通人は専ら舟で通った。

・「水もたまらず」刀剣の斬れ味の鋭さを特異的に言う慣用句。斬り落としたさまが鮮やかなこと。

・「兩三日跡」の「跡」とは過ぎ去った方の意であるから、三日前でよい。

■やぶちゃん現代語訳

 余計なことを致いて災いを招くという事

 享保の頃とか。

 上野寛永寺塔頭に格式も禄高も相応なる僧が御座ったが、この僧、最愛の美しき稚児を抱えておった。その美童も、だんだんに齢を重ねてしまい、最早二十三、四とも相成って、僧も名残惜しいものにては御座ったが、

「……近いうちには……相応の家に、養子に、遣らねばなるまいのぅ……」

と、おいおい念を入れて、その支度なんどを始め、本人へも下々の者にもいろいろとその関わり事を命じたりも致いて御座ったが、特に、相応の武士の格に相応しい大小を立派に拵えさせた。

 ある日、下谷に住む御徒組の、その頃、世間でも任俠で鳴らした小野寺某という知り合いの男が寺を訪ねて参った折り、

「……かくかくしかじか……の訳と相成り、右の者に大小を拵え、さし遣わさんと思うて御座る。なれど……この刀、切るるものや否や……沙門の身なれば、細かいことは存じませぬ。……とりあえず御一見下されんかのぅ……」

と言う。そこで小野寺、この刀を見たところ、

「これは天晴れの技物(わざもの)――頗る美事なる道具……。――しかし乍ら、やはり試し斬り致さざれば、確かなことは、これ、申せませぬ。……一つ、拙者にお預けなされては如何(いかが)か? 試して見ましょうぞ……」

僧は僧職にも似合わず、刀の切れ味に異様な関心を示して、

「いや! それは願ってもない! 是非とも宜しくお頼み申す!」

と依願、僧は大小を恭しく渡し、小野寺は刀を受け取って帰って行った。

 ――享保の始めまで、吉原の堤などには折々辻斬りなんどがあったが……

 ――小野寺某なる人物も、そうしたことを気晴らしの楽しみとしている輩であったものか……

……その夜、かの一刀を佩いて日本堤へ至ると、外に人気のないのを見計らって、通りすがりの一人の若者に因縁を付けるや……抜き打ちに一気に斬りつけた……天晴れ、名刀の所以か、若者の胴は鮮やかに真っ二つになって御座った――。

 その日から数えて丁度三日後のこと、小野寺、かの寺へ刀を持ち参り、

「この程、この刀、試してみたところ――さてさて、やはりこれ、美事なる斬れの技物にて御座った。どうか永く大切にされるよう、そのお人にお伝え下されよ。」

と口上致いたところが……

……かの僧、突然、ぽろぽろと涙を流し、

「……この刀を遣わさんと思って御座った若者……三日程前に吉原へでも行くつもりで御座ったか、……日本堤にて斬り殺されてしもうた、……何者の仕業とも分からぬ。……衣類・懐中の品なんども何も無くなっているものはないからに、盗人の仕業とも思われず……」

と、涙と鼻汁で顔中をぐしゃぐしゃにしながら語ったのであった……。

……日時及び場所を考え合わせるなら……

……小野寺がかの刀で斬った若者とは……

……則ち、その僧が刀を譲らんとした可愛い男……

……その人であったのだ……。

「……因果というもの……これ、如何(どう)にも逃れ得ぬものにて御座る……」

とさる年寄りが語った話で御座る。

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