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2010/04/24

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五回

Kokoro11_4   先生の遺書

   (五)

 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の緣が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。

 「何うして‥‥、何うして‥‥」

 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。

「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」

 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。

 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。

 「誰の墓へ參りに行つたか、妻(さい)が其人の名を云ひましたか」

 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」

 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」

 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。

 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。

 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。

 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黃葉(くわうえふ)して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋(うづ)まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。

 向ふの方で凸凹(でこぼこ)の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。

 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の步く方へ步いて行つた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に步いて行つた。

 「すぐ御宅へ御歸りですか」

 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」

 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。

 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。

 「いゝえ」

 「何方(どなた)の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」

 「いゝえ」

 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程步いた後で、先生が不意に其處へ戾つて來た。

 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」

 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」

 「さうです」

 先生は其日是以外を語らなかつた。Line_3

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「墓地」現在の東京都豊島区南池袋4丁目にある東京都立霊園雑司ヶ谷霊園。無宗派。面積約115,400㎡。明治7(1874)年91日、当時の東京府が東京会議所に命じて造営、明治221889)年に東京市管轄となっていた(昭和101935)年には「雑司ヶ谷霊園」に名称を変更、現在は東京都公園協会管理)。ジョン(中浜)万次郎・井上哲次郎・小泉八雲・ケーベル・島村抱月・岩野泡鳴・大町桂月・押川春浪・村山槐多・泉鏡花・東條英機・竹久夢二・永井荷風・古川ロッパ(緑波)・福永武彦・・サトウハチロー・東郷青児・大川橋蔵・中川一政・村山知義等の著名人の墓が多い。夏目漱石自身の墓もここにある。また、ここでの墳墓の描写は夏目漱石が大正元(1912)年1129日、前年に亡くなった五女ひな子の墓参のために雑司ヶ谷霊園を訪れた日記の記載、『依撒伯拉何々の墓、安得烈何の墓。神僕ロギンの墓。其前に一切衆生、悉有佛生とい』ふ塔婆、『全權公使ヽヽといふのもある。』という記載を、ほぼそのままに用いている。

 

♡「私は其人の眼鏡の縁が日に光る迄近く寄て行つた」頗る映像的で印象的なシーンである。映画に撮りたい欲求を禁じ得ぬ。

 

♡「一切衆生悉有佛生」正しくは「一切衆生悉有佛性」で、読みは同じ。総ての生きとし生けるものは仏となるべき仏性を本来具有しているという仏説。

 

♡「向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。」さる論文で、この男こそKの亡霊である、との解釈を読んだ。――ほくそ笑んだ――が、しかし私も私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」 でこの解釈を援用させて潜ませてある。但し、これは、前掲注の大正元(1912)年1129日の日記に『入口に土をならして新墓地を作つてゐる男が鍬の手をやすめて我等を見た』と実景として記されているものを援用したものである。]

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