忘れ得ぬ人々21 倶利迦羅紋紋のお爺さん
僕の家は高台にある。その裏山を登ると、農業用の大きな溜池があって、そこからは藤沢方向に田圃と渓谷が続いていた。この辺りのことは
「1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル」
に書いたし、その水門と少年の僕の写真もここにある。この池から流れ出た水が、反対の僕の家の方の斜面を下ったところに、六軒長屋があった。ここの前を大船方向に更に下ると朝鮮の人々の住む一画があって、大きな豚小屋に何頭も豚が飼われていた。僕は豚が大好きで、この裏道を抜けて帰るのが小学校時代の楽しみだった。
その六軒長屋の前には、さっき言った池の水が清らかで早い小川を成して流れていた。芹が茂り、ころころと流れの音が何時もしていた。
寄り道をして夕方の四時位にそこを通ると、決まって小川のすぐの垣根のところに寄りかかって二人、背の高いお爺さんと小ちゃなお爺さんが、いつも風呂上りに涼んでいた。
背の高いお爺さんの背中には――色鮮やかな倶利迦羅紋紋があった。すっくと立ったいか物造りのダンビラを持った不動明王の絵柄だった。
僕はその刺青が大好きだった。そのお爺さんは、僕が小川のこっちのやや広い畦道で立ち止まると、決まって如何にも優しい笑顔を浮かべて、その不動明王の背中を、何がなしに僕の方に向けて見せてくれたものだった。
――このお爺さんはもとは俠客ででもあったのかもしれない――しかし、僕の記憶の中では、いつも夕涼みをする優しいお爺さんであった。一度だけ、背中を見せながら、1954「ゴジラ」の高堂国典演ずる長老みたような口調で、
「坊や、こんなもん、彫っちゃあ、なんねえぞ!」
と笑いながら僕に言いかけて、小さな爺さん一緒にからからと笑ったことがあったけれど――僕にはその極彩色の憤怒像が文句なしの憧れだった――僕が恐かったのは、その不動の、ぎゅっと嚙んで牙を覗かせている口元だけだった――
――小川の音――二老人――倶利迦羅紋紋――
――今日も、数年前にそこの先に出現した巨大モールに買い物に行き、そこを通った――勿論、小川は30年のとうの昔にただの味気ない細い側溝に変わり、六軒長屋もかろうじて一番奥の端の家だけが原型を留めて長屋があったことを偲ばせる便(よすが)となっているだけで――ステロタイプのユニット・ハウス群が犇いているばかりである――勿論、もう、あの爺さんたちも、この世にはいない……
……でも、あの倶利迦羅紋紋のお爺さんは……今も僕の心の中でウルトラマンや鉄人28号何かより……遙かにカッコいいヒーローで、あり続けているのである……
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