耳嚢 巻之二 覺悟過て恥を得し事
「耳嚢 巻之二」に「覺悟過て恥を得し事」を収載した。
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覺悟過て恥を得し事
長崎へ行し人の語りけるは、同所丸山の傾城大坂より登りし者に深く言ひかわしけるが、男も身の上の品遣ひ果して、立歸り主親(しゆうおや)に申譯なければ、死を極めてかの女に語りけるに、とても死なで叶はざる事ならば我も倶に死んと、相對死を約して其日數を極めける故、とても死する命と妹女郎其外召使ふ子供或はゆかり等へ、有合ふ小袖雜具(ざうぐ)迄記念(かたみ)の心にてわかちあたへけるが、彼男も死を極めけるに、大坂より登りし知るべの者段々の樣子を聞て、以の外の不了簡と嚴敷(きびしく)異見をなし、路銀其外合力(かふりよく)して無理に長崎を出立させて大坂へ歸りける。跡にて彼傾城此事を聞てすべき樣もなく、覺悟の過たる故其日の衣類にも差支ける間、記念とて遣したる小袖など、妹女郎より其外より取戻し、二度の勤をなしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:遊女に誠心なし、いや、本当は男に誠心なし、で連関。岩波版長谷川氏注によれば、本話は井原西鶴「好色盛衰記」四の四、江島其磧「野傾旅葛籠」(やけいたびつづら)四の三などを原話とするとして、創作された話柄と断じている。私は両話とも未読であるので以下、書誌のみ示す。西鶴の「好色盛衰記」は元禄元・貞享5(1688)年刊。江島其磧(えじまきせき 寛文6(1666)年~享保20(1735)年)は京都の浮世草子作者で「野傾旅葛籠」は正徳3(1713)年刊行。
「丸山」長崎丸山町と寄合町の花街を合わせた総称。江戸吉原・京島原と合わせて日本三大遊廓の一つとされる(丸山の代わりに大坂新町を入れる場合もある)。寛永19(1642)年に長崎奉行所が市街地に散在していた遊女屋を一箇所に集めて公認の遊廓を創ったのを始まりとする。現在の長崎市の丸山公園辺りをL字型の角とすると、ここから東に丸山花街、南に寄合花街があった。
・「傾城」遊女のことであるが、近世では本話からも伝わってくるように(沢山の後輩・お付がいること)、広義の上級の遊女を指す語である。太夫(最上位。揚げ代の高さから宝暦年間(1751~1763)には自然消滅)・天神(太夫の次ぐ遊女。揚代の銀25匁を北野天満宮の縁日25日に引っ掛けた呼称)・花魁(散茶女郎が太夫の消滅と共に昇格したもの)など。
・「記念(かたみ)」は底本のルビ。
・「合力」経済的援助。
■やぶちゃん現代語訳
悲劇的覚悟が過ぎて喜劇的恥を得た事
長崎へ行った人から聞いた話。
同所の丸山遊廓の傾城、大坂より遊学致いた男と心を通わせることとなり、その男への誠心を深く言い交わして御座ったが、男も揚げ代にすっかり所持金を遣い果し、このままにては大坂に立ち帰ったとて主人や親らに申し訳これ立たずと、男、自死を決し、この女にその次第を語ったところ、
「――何としても死なずには叶はぬことならば――あちきも一緒に死にやんす――」
と、二人して相対死にを約すと、その決行の日取りまで決めた。
傾城なる女、あれ、嬉しい、いっとう好いた男と一緒に死ぬること出来る命なればとて、妹(いもと)女郎やその他の召使って御座った子供ら或いは所縁(ゆかり)の者どもへ、ありとある己が着ておる小袖やら身辺雑貨に至るまで、悉く片身の思いにて分け与えて御座った。……
――――――
ところが、かの男はといえば――いや勿論、女同様、誠心より相対死にを決しては御座ったのじゃが――これまた幸か不幸か丁度その折り、矢張り大坂よりやって参った男の知人が、だんだんにこの男ののっぴきならぬ仔細を聞きつけ、
「――以ての外の不料簡じゃ!!」
と厳しく意見致いたかと思うたら――電光石火、路銀その他万事万端、無理矢理ごり押し大きな御世話、叱って脅して尻敲き、とっととっとと長崎を、出立(しゅったつ)致させ大坂へ、ああら、ほいさと歸してしもた……。
後に残ったかの傾城、とんだ顛末、このこと聞いて、それでも何の仕様(しょう)もない――必ず死ぬると覚悟が過ぎた――その日の着物も、これ御座らぬ――ぶるぶる震える体たらく――片身と遣した小袖など、妹(いもと)女郎やその外の、女どもより取り戻し――生き恥さらして――元の黙阿弥――ア!――傾城、勤め……お後がよろしいようで……