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2010/04/07

耳嚢 巻之二 小兒手打手段の事

「耳嚢 巻之二」に「小兒手打手段の事」を収載した。

 小兒手討手段の事

 阿久澤何某は至て強勇にて、享保の頃迄任俠を專ら成し歩行けるが、其子孫今に御勘定を勤て予も知る人也き。右阿久澤幼年にて未十才前後の頃、表にて遊びかへりけるに、其母一僕の不束(ふつつか)ありしを叱り居るに、彼一僕女と侮りしや以の外に惡口なし、主人を主人と思はざる氣色なるを見し故、臺所を上りながら我草履を椽(えん)の下へ蹴込て、彼僕に草履を椽の下へ入れし間取呉候樣申けるが、彼僕彼是と母を罵りながら、土間にうづくまり椽の下へ手を入しを、短刀を拔はなし背中より差貫きけると也。小兒の身分さし當(あたり)ての工夫感ずるに餘り有し事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:烈女から烈児で強烈に連関。

・「阿久澤何某」底本鈴木氏注に、『善蔵行正か。御徒をつとめた。その子義守は御徒を御徒をつとめ、支配勘定を経て、寛政九年御勘定。時に三十九歳』とするが、岩波版長谷川氏注は『吉右衛門行梢(ゆきすえ)、あるいはその兄広保(ひろやす)か。御勘定勤めの子孫は後出の弥左衛門広高か』とする。この「後出の弥左衛門広高」というのは、十七項ごの「剛強勇の者御仕置を遁れし事」に登場する根岸の知人と思しい「彌左衞門」なる人物で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(本底本では名前のみ)「阿久沢弥衛門」姓が示されている。そちらの阿久沢弥衛門の注で長谷川氏は『広高。安永七(一七七八)御勘定。ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだ』とある。どうも、こういう注を読んでいると、妙にかえって何が何だか分からなくなってしまうのは、私が馬鹿だからであろうか。鬱憤晴らしにネット上で管見出来た高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」の「阿久澤」の項を視認出来る限り、テクスト化してみる(《 》は私の示した人物関係。判読不能の字は■で示し、割注は【 】で示した)。

  阿久澤

家伝にいはく、先祖は桃井の底流にして加賀國津々井里愛久澤の邑に住せしより、地名をもつて家號とし、のち文字を阿久澤にあらたむ。

●行次(ゆきつぐ)長右衞門

寛永十年御徒にめし加へられ、のち組頭と

なる。

行佐(ゆきすけ)《行次子・行廣兄》

父が遺跡を繼、子孫御家人あり。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫《行次子・行廣弟》

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門《行廣子》

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

●行保(ゆきやす)長次郎

享保十六年九月五日遺跡を繼。《廣保子》

●行光(ゆきみつ)彌五郎《系譜上は行保子》

實は阿久澤吉右衞門行梢が長男。行保が養子となる。

享保二十年十二月二日遺跡を繼、のち御徒目付をつとむ。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門《系譜上は行光子》

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

 家紋 二引兩 須山 五七桐

   阿久澤

阿久澤彌太夫行廣が男吉右衞門行梢、寶永五年五月御徒にめし加へられ、のち組頭つとめ三代連綿して行正にいたる。

●行正(ゆきまさ) 善藏

御徒をつとむ。

●義守(よしもり) 初成富(しげよし) 平次郎 彌平次 実は藤田忠左衞門成保が男。母は織田左近將監家臣中村三郎左衞門氏喜が女。行正が養子となる。

御徒をつとめのち支配勘定に轉じ、寛政九年十二月二十八日班をすゝめられて御勘定となる。【時に三十九歳】十年六月二十二日さきに仰をうけたまはりて、日光山におもむき、御宮をよび御靈屋修復の事をつとめしにより黄金一枚をたまふ。妻は橋本金右衞門秀温が女。

 家紋 二引兩 須山

「班」は地位のこと。この事蹟を見ると、根岸との接点はどちらにもあり、いい加減な私は……どっちもどっちみたような気になってしまうのである……。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「御勘定」勘定所の中級官吏。役高150俵御目見え。

■やぶちゃん現代語訳

 子供が無礼なる下男を手打ちに致いたその手段の事

 阿久澤何某なる者、至って剛勇を誇った御仁にて、享保の頃まで、世間でも男立てで鳴らした男で御座った。その子孫、今は勘定を勤めて御座って、私もよく存じておる人である。

 その任俠阿久澤が未だ少年の十歳前後の頃、表で遊んで家に帰ってみると、家内の台所にて、ちょうど母が、一人の下僕が不始末をしでかしたのを咎めて叱りつけたところで御座った。

 ところが、その下僕、夫は不在、相手を女と侮ったか、以ての外の罵詈雑言、主人を主人とも思わぬ不埒なる振舞いなるを外よりまじまじと見た。

 阿久沢少年は、そ知らぬ振りにて内に入り、台所に上がりながら、自分の草履をわざと縁の奥にに蹴り込んだ。

「ねぇ! 草履を縁の下に、蹴り込んじゃったぁ! ねえ! ねえ! 取っとくれ、取っとくれよ!」

と、がんぜない甘え声で言ったところ、下僕はなおも母を罵りながらも、土間に蹲って縁の下を覗き込んで手を入れた。――と、間髪を入れず、阿久沢少年、普段から懐に忍ばせている短刀を抜き放つと、目の前の、その下僕の背中に――ぶすりと――突き立てた――という。

 子供の分際乍ら、身の丈に合った手打ちの工夫、その美事なること、感ずるに余りあることにて御座る。

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