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2010/04/28

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」第九回

Kokoro11_5   先生の遺書

   (九)

 私の知る限り先生と奧さんとは、仲の好い夫婦の一對(つゐ)であつた。家庭の一員として暮らした事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかつたけれども、座敷で私と對坐してゐる時、先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奧さんを呼ぶ事があつた。(奧さんの名は靜(しづ)といつた)先生は「おい靜」と何時でも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て來る奧さんの樣子も甚だ素直であつた。ときたま御馳走になつて、奧さんが席へ現はれる場合抔(など)には、此關係が一層明らかに二人の間に描き出される樣であつた。

 先生は時々奧さんを伴れて、音樂會だの芝居だのに行つた。夫から夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あつた。私は箱根から貰つた繪端書をまだ持つてゐる。日光へ行つた時は紅葉(もみぢ)の葉を一枚封じ込めた郵便も貰つた。

 當時の私の眼に映つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時もの通り、先生の玄關から案内を賴まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能く聞くと、それが尋常の談話ではなくつて、どうも言逆(いさか)ひらしかつた。先生の宅は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其言逆ひの調子丈は略(ほゞ)分つた。さうして其うちの一人が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音(おん)なので、誰だか判然しなかつたが、何うも奧さんらしく感ぜられた 泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。

 妙に不安な心持が私を襲つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散步しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻(さつき)帶の間へ包(くる)んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫なりすぐ表へ出た。

 其晩私は先生と一所に麥酒(ビール)を飮んだ。先生は元來酒量に乏しい人であつた。ある程度迄飮んで、それで醉(ゑ)へなければ、醉ふ迄飮んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。

 「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑(くるせう)した。

 「愉快になれませんか」と私は氣の毒さうに聞いた。

 私の腹の中(なか)には始終先刻(さつき)の事が引つ懸つてゐた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明けて見やうかと考へたり、止した方が好からうかと思ひ直したりする動搖が、妙に私の樣子をそは/\させた。

 「君、今夜は何うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實は私も少し變なのですよ。君に分りますか」

 私は何の答もし得なかつた。

 「實は先刻(さつき)妻(さい)と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。

 「何うして‥‥」

 私には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。

 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

 「何んなに先生を誤解なさるんですか」

 先生は私の此問に答へやうとはしなかつた。

 「妻が考へてゐるやうな人間なら、私だつて斯んなに苦しんでゐやしない」

 先生が何んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。Line_4

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「奧さんの名は靜(しづ)といつた」奥さんの本名「靜」の初出である。本作には乃木大将の他には「私」の母の「光」及び父の知人の「作さん」(名と思われる)、「私」の妹の夫「關さん」(姓)以外には固有人名が全くと言うほど出現しない。さればこそこの「靜」という名は意味深長である。御存知の通り、この作品にはもう一人の「靜」がひっそりと一瞬間だけ写真で登場する。乃木希典夫人「靜子」である。鹿児島藩医湯地定之・貞子夫妻の四女(七人兄弟姉妹の末っ子)として生まれ、数え年20歳で10歳年上の乃木と結婚した。4人の子を儲けたが下の二人は生後間もなく夭折、長男勝典は明治37年5月27日の日露戦争金州南山戦で腸を貫通する重傷を受けて戦死、同1130日には希典自身が第3軍司令官を務めていた203高地戦で次男保典が砲弾の着弾の煽りを受けて滑落、頭部粉砕により即死した。靜子は希典と共に自死、享年54(満52)歳であった。乃木は当初靜を自死の道連れにするつもりはなかったが(遺書の記述による)、靜自身がお供する強い意志を示したため許諾、乃木の自死後即座に並座、短刀で左胸部を二度突いて自刃を遂げた。漱石が先生の奥さんに「靜」という名を特異的に付けたことと、乃木の妻の本名が「靜」であることは、漱石の確信犯的行為である。その命名のからくりを解き明かすだけでも、本作は一筋繩では行かないのである。

 

♡「約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ」先生の家と「私」の下宿は決して離れていないこと(シークエンスから先生が宅を出たのは「私」の訪問の直後とは思われない。先生が「私」に逢おうと即座に思ったとも思われず、苛立ちの中で足早に歩いたとしても、先生の宅と「私」の下宿の距離は徒歩で最長45分程度から30分程度、2㎞前後を想定し得る)が、これによって明らかになる。

 

♡「妻が考へてゐるやうな人間」は(十七)で靜から「私」に直接明らかにされる。有体に言えば厭世主義者、単なるペシミストである。]

 

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