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2010/04/25

耳嚢 巻之二 強氣勇猛自然の事

耳嚢 巻之二」に「強氣勇猛自然の事」を収載した。

 強氣勇猛自然の事

 予幼き時古老の一族有りけるは、羽田藤左衞門といへる人有しが、其子十右衞門は予が中年迄存命也しが、右藤左衞門は實方(じつかた)にて少しゆかりもありし。年若き頃至て大膽不敵にて強氣(がうぎ)也しが、いつ頃にや有し、吉原町へ至り格子にて傾城杯と咄しけるに、大勢地廻り共も立寄り格子にかゝりて有しに、彼藤左衞門長刀(ちやうたう)をさして邪魔に成しを、地廻りの溢者(あぶれもの)共以の外罵り恥しめければ、拔打に切殺しぬ。すは人殺有とて五丁町中大騒にてありし時、血刀をば鞘共に天水桶の中へ差込、空(そら)しらぬふりにて混雜の人に紛れ大門(おおもん)を出て歸けるが、宿に歸りて彳々(つくづく)思ひけるは、去にても右の刀は親より讓り受し品也、其儘に捨んも惜しと、あけの夜またまた吉原町へ行て、人靜りて後彼天水桶の下を見しに、其儘刀のありし故とりて歸りけると也。不敵成男なりとかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:お仕置き免れで連関。ただこれは切捨御免の範疇かなあと思うのだが、無礼討ちは想像するほど簡単には出来なかったらしく、さらに場所が場所、場面が場面だけに、武家の面目を言うも、ややむず痒い。

・「羽田藤左衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田則参(のりちか 天和2(1682)年~元文4(1739)年)。支配勘定・御勘定。根岸は元文2(1737)年生まれ。

・「十右衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田治景(はるかげ 正徳4(1704)年~明和7(1770)年)。表御右筆。明和7(1770)年当時、根岸は34歳で御勘定組頭。

・「實方(じつかた)」は底本のルビ。根岸の実家である安生(あんじょう)家。前話「予が實父」注を参照されたい。

・「地廻り」遊廓を冷やかして歩く者。または、広くその土地のヤクザ者の謂い。

・「溢者(あぶれもの)」は底本のルビ。

・「五丁町中」「五丁町」(ごちょうまち)が固有名詞で新吉原の正式な町名であって、「五町」は距離単位ではなく町の区画単位のことである。即ち、五丁町中=吉原遊廓中の意である。芝居町を二丁町といい、吉原を五丁町と呼んだ。これは元吉原が江戸町一町及び二町、京町一町及び二町、角町(すみちょう)の五町あったことに由来する。但し、新吉原になってからは揚屋町も加わり、寛文5(1665)年には更に江戸町に伏見町と堺町が加わって八町となった。実際の新吉原の敷地面積は2丁×3丁で横に広く、約20,000坪、周囲には遊女の逃亡防止の為に五間(約9m)幅の堀であるお歯黒溝(どぶ)が付随していた(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

・「天水桶」時代劇でお馴染みの雨水を貯めるための木製桶。主に江戸市中の防火用水として利用された。

・「大門」幅八尺(2.4m)黒塗りの冠木門にして吉原の唯一の出入り口。毎朝未明に開門され、引け四ツと言って夜四ツ(二更:冬で10時頃、夏で10時半過ぎ)に閉じられた。それ以後の非公式の出入りのために潜り戸が設けられていたが。実際は暁九ツ(午前0時)に夜四ツの拍子木を打って誤魔化していたという(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

■やぶちゃん現代語訳

 天然自然の剛毅勇猛なる男の事

 私が幼い頃、一族の古老の内に羽田藤左衛門という人が御座った。その子の十右衛門殿は私が中年になる頃まで存命して御座った。この藤左衛門殿の方は私の実家である安生家とも多少、所縁(ゆかり)のある御仁である。

 この羽田藤左衛門殿、若い頃は大胆不敵勇猛果敢の者にて御座った。

 いつの頃のことであったか、彼、吉原へ行って格子越しに気に入った傾城なんどと浮いた話を致いて御座ったところ、地廻りどもが大勢でやってきて、彼と同様に格子に取り付いた。その時、たまたま藤左衛門の差して御座った長い刀が彼奴(きゃつ)らの邪魔になったため、その地廻りども――この時の者ども、地廻りの中でも格段に質の悪いあぶれ外道で御座った――以ての外の罵詈雑言を致いて、藤左衛門を辱しめるに至った。

 抜刀一閃! 藤左衛門はこのサンピンを抜き打ちにばっさりと斬り殺してしまったから、さあ大変、

「……ヒィッ! 人殺し……じ、じゃあ!……」

と誰かが叫び、吉原中、上へ下への大騒ぎとなった。

 ところが藤左衛門は、血刀を鞘諸共に傍にあった天水桶の下の隙間に突っ込み、素知らぬ振りしてその騒ぎの混雑に紛れて、悠々と大門を抜け、帰って行った。

 ところが、己が屋敷に戻ってつくづく思ったことには、

「……待てよ……あの刀は父より譲り受けし品で御座った。……このままに、捨て置くは……如何にも惜しい……」

と、翌日の夜(よ)、再び吉原へ行くと、深更に至るまで待って、内の人通りも絶えた頃、かの天水桶の下を覗いて見たところ、そのまま刀が御座ったれば、執りて帰ったという話。後、

「如何にも大胆不敵な男じゃ!」

と人々も噂した、とのことで御座る。

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