耳嚢 巻之二 才女手段發明の事
「耳嚢 巻之二」に「才女手段發明の事」を収載した。
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才女手段發明の事
予がしれる與力に といへる者あり。其母、若き頃夫專ら遊女に打はまり、宿に居る事なく明暮に通ひけるが、彼妻申けるは、我等嫉妬にて聊申に無之、彼遊女に通ひ給へば無益の入用を費し、千金の身を深夜に通ひ給ふ事よしともいひ難し、我等金子を才覺せん、彼女を受出して宿に置給はゞ、妻妾あらんは世間になき事にもあらねば、是よりうへの謀(はかりごと)なしと進めて、其身の親元より携へ來りし衣類道具を賣代なし彼遊女の殘る年季を亡八(くつわ)なるものに乞ふて受出し、引取りて倶にくらしけるが、朝夕はしたなき事なるに月日を送りしに、流石夫も其妻の心も恥かしく、流れなる身は月日を經るに隨ひ愛執もさめるの習、一年計の内に右妾は外へ方付けると也。右妻後家に成て子成者の方に有しが、一眼にで發明なる女にてありし。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸の直接体験過去の形(この母なる人物を実見して、片眼が不自由であることを言っている点)乍ら、「耳嚢」に初めて出現する異様な意識的欠字が気になる。私には何だか今までの「耳嚢」の流れが一瞬澱むような印象を受ける話柄である。
・「 といへる者あり」底本には空欄四文字の右に『(本ノママ)』と注する。原本には個人名が入っていたものと思われる。何処かの筆写時、相応な地位にこの人物が登っていたものか、根岸以外の人物が憚って行ったものと思われる意識的欠字である。
・「亡八(くつわ)」は底本のルビ。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者、また、それらを忘れさせる程に面白い所の意で、遊女屋・置屋又はそこの主人を指す。
・「はしたなき事なるに」底本では右に『(尊經閣本「はしたなき事なく」)』と注す。ここは双方の意が効果を持つので、贅沢に両方で訳した。
・「流れなる身」遊女の身。所詮、誠意のない遊女の事故、という意である。遊女に誠心なしとは、当時の諺でもあった。
■やぶちゃん現代語訳
才女の計らい方発明なる事
私の知れる与力に□□□□という者がおる。
その父なる者、妻があるにも関わらず、若い頃、専ら遊女に入れ込み、殆んど自宅に居ることなく、明け暮れ遊郭から出仕致すという始末であった。
そんなある日のこと、珍しく家に休んで御座った夫に、その妻が言った。
「これから申し上げることは、私、嫉妬心から申し上げることでは、聊かも御座いません。……貴方、かの遊女に通ひなさるのであれば、遊廓に揚がるにお遣いなさる無益なる入用の金の費えも一方ならず、また、千金にも等しい大切なる御体なるに、日々深夜にお通ひなさることは、これ、良いとも言い難きことにて御座います。されば私、金子を算段致しましょう。そうして、彼女を受出し、この屋敷に住まわせて上げましょう。妻妾の一緒に住まうことは、これ、世間にないことでも御座いませぬ。さればこそこれ以上のよい考えは御座いませぬ。」
と夫に勧め、その妻、即座に親元より花嫁として携えて御座った衣類やら道具を売り払い、その金で遊女の残る年季分を支払い、遊女屋主人に乞うて受出し、引き取って妻妾共に暮らすことと相成った。
こうして朝夕、妻妾が共に暮らすという、世間体からすれば何とも品のないこと乍ら、内にては、これと言って何事もなく月日を送って御座ったが、流石にこの夫も、その妻の誠心に対しても如何にも恥かしくなり、また所詮は誠心なき遊女なればこそ、月日を経るに随って、だんだんにその女への愛執もさめるという習いで、一年ばかりの内に、右の妾(めかけ)は、結局は外へ片付けたという。
この妻なる者、後に後家となって、今は子――私の知れる与力――と共に住んで御座るが、隻眼なれど――いや、なればこそ――誠(まっこと)聡明な女人で御座ったよ。