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2010/04/12

耳嚢 巻之二 佛道に猫を禁じ給ふといふ事

「耳嚢 巻之二」に「佛道に猫を禁じ給ふといふ事」を収載した。

 佛道に猫を禁じ給ふといふ事

 猫は妖獸ともいはん、可愛物にもあらねど、宇宙に生を受るもの佛神の禁しめ給ふといへる事疑しく思ひけるが、佛神禁じ給はざる事明らかなる故爰に記し置ぬ。日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交(たちまじは)りて有しに、右御宮御莊嚴(しやうごん)は世に稱するの通、結構いわん方なし。誠に日本の名巧の工(たく)みを盡しける。さるによりて和漢の鳥獸の御彫物いづれなきものはなし。支配成もの申けるは、數萬の御彫物に猫計は見へざるは妖獸ゆへ禁じけるやと申ぬるが、或日、御宮内所々見廻りて、奧の院の御坂へ登るべきと東の御廻廊を見廻しに、奧の院入口の御門脇蟇股(かへるまた)内の御彫物は猫に有けるにぞ、猫を禁ずるとの妄言疑ひをはらしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。日光御宮御普請業務に従事していた際の複数のエピソードの一。

・「佛道に猫を禁じ給ふ」脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目ネコ目(食肉)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種 Felis silvestris catus が仏教や神道でタブーであるという話を私は聞いたことがない。逆に仏教伝来の際、経典を齧る鼠を退治する目的で、日本に棲息しなかった猫を一緒に連れて来たと言う説を聞いたことがある。現在、イエネコの祖先は約131,000年前の更新世末期のアレレード期に中東の砂漠地帯辺りに棲息していたリビアヤマネコ Felis silvestris lybica に同定されている。日本でも古くから益獣として寺や宮中でも猫は盛んに飼育されていた。鎌倉の寺なんどは猫だらけである。以下、ウィキの「ネコ」の記載から興味深い部分を引用する(記号の一部を変更、書名「今昔物語」に「集」を加えた)。『日本においてネコが考古学上の登場は、読売新聞(20080622日)の記事によると、長崎県壱岐市勝本町の弥生時代の遺跡カラカミ遺跡より出土された、紀元前1世紀の大腿骨など12点である。当時の壱岐にヤマネコがいた形跡が無い事や現在のイエネコの骨格と酷似しているため断定された。文献に登場するのは、「日本霊異記」に、705年(慶雲2年)に豊前国(福岡県東部)の膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が、死後、ネコに転生し、息子に飼われたとあるのが最初である』。『愛玩動物として飼われるようになったのは、「枕草子」や「源氏物語」にも登場する平安時代からとされ、宇多天皇の日記である「寛平御記」(889年〈寛平元年〉)2月6日条には、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っていた、という記述がある』。『奈良時代頃に、経典などをネズミの害から守るために中国から輸入され、鎌倉時代には金沢文庫が、南宋から輸入したネコによって典籍をネズミから守っていたと伝えられている。「日本釋名」では、ネズミを好むの意でネコの名となったとされ、「本草和名」では、古名を「禰古末(ネコマ)」とすることから、「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略であるとも推定される。他の説として「ネコ」は眠りを好むことから「寝子」、また虎に似ていることから「如虎(にょこ)」が語源という解釈もある(「言海」)。このように、蓄えられた穀物や織物用の蚕を喰うネズミを駆除する益獣として古代から農家に親しまれていたとおぼしく、ヘビ、オオカミ、キツネなどとともに、豊穣や富のシンボルとして扱われていた』。『ただし日本に伝来してから長きにわたってネコは貴重な愛玩動物扱いであり、鼠害防止の益獣としての使用は限定された。貴重なネコを失わないために首輪につないで飼っている家庭が多かったため、豊臣秀吉はわざわざネコをつなぐ事を禁止したという逸話がある。ただしその禁令はかなりの効果があり、鼠害が激減したと言われる』(但し、この逸話の出典は明示されていない)。『江戸時代には、本物のネコが貴重であるため、ネズミを駆除するための呪具として、猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいた。絵に描かれたネコが古寺で大ネズミに襲われた主人の命を救う「猫寺」は、ネコの効用を説く猫絵師などが深く関わって流布した説話であると考えられている。ネコの穀物霊としての特質は時代を追って失われ、わずかに「今昔物語集」「加賀国の蛇と蜈蚣(むかで)と争ふ島にいける人蛇を助けて島に住みし話」における「猫の島」や、ネコが人々を病から救う薬師(くすし)になったと語る「猫薬師」に、その性格が見えるのみである』。『日本の平安時代には位階を授けられたネコもいた。「枕草子」第六段「上にさぶらふ御猫」によると、一条天皇と定子は非常な愛猫家で、愛猫に「命婦のおとど」と名付け位階を与えていた。ある日このネコが翁丸というイヌに追いかけられ天皇の懐に逃げ込み、怒った天皇は翁丸に折檻を加えさせた上で島流しにするが、翁丸はボロボロになった姿で再び朝廷に舞い戻ってきて、人々はそのけなげさに涙し、天皇も深く感動した、という話である。ネコに位階を与えたのは、従五位下以上でなければ昇殿が許されないためであるとされ、「命婦のおとど」の「命婦」には「五位以上の女官」という意味がある』。ここでの猫を不吉な存在とする風聞は所謂、妖怪としての猫又や根岸が既に記した猫憑きの類からのネガティヴな連想からであろう。そうした「伝説・伝承」の部分も引用しておく。『昔から日本では、ネコが50年を経ると尾が分かれ、霊力を身につけて猫又になると言われている。それを妖怪と捉えたり、家の護り神となると考えたり、解釈はさまざまである。この「尾が分かれる」という言い伝えがあるのは、ネコが非常な老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、そのように見えることが元になっている』。『猫又に代表されるように、日本において、「3年、または13年飼った古猫は化ける」、あるいは「1貫、もしくは2貫を超すと化ける」などと言われるのは、付喪神(つくもがみ)になるからと考えられている。「鍋島の猫騒動」を始め、「有馬の猫騒動」など講談で語られる化け猫、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う「猫と茶釜のふた」や、鍛治屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺す「鍛治屋の婆」、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう「猫のおどり」、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする「猫と南瓜」などは、こういった付喪神となったネコの話である』。『ほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには特別な力が備わっていると考え、人の側から願い事をするという習俗があるが、これらも民俗としては同根、あるいは類似したものと考えられる』。以下、「死者に猫が憑く」等といった地方別の言い伝えを挙げる。総括してウィキの筆者は、猫は古くは死と再生のシンボルでもあったと記している。なお、文中の「付喪神」とは民間信仰に於ける現象概念の一つで、無生物でも生物でも永い年月を経て古くなったり、永く生きた生き物が「依り代」となり、神や霊魂が憑依すること若しくはその対象を指す語である。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では標題を「佛道」ではなく「仏神」とする。本文もこうなっており、仏教に限定すると、話がおかしくなるので、現代語訳では神仏とした。

・「日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交りて有し」本巻の先行する「神道不思議の事」で示した通り、安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間、「日光御宮」(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮)の御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用のため、長期滞在した。詳細は「神道不思議の事」の注を参照されたい。

・「結構」これは文脈から見ると日光東照宮の総印象や全体の構造配置を言っているものと考えられる。しかし、同時に「結構」=素晴らしいの意も利かせているようにも思われる。贅沢にダブルで訳した。

・「いわん」はママ。

・「奧の院の御坂」「奧の院」は奥宮(おくみや)のこと。拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる祭神家康の墓所。ここに詣でるには、本社の東の坂下門を抜けて長い登り坂を上がらねばならない。

・「東の御廻廊」「廻廊」は本社の南の口である陽明門から左右後方へと延びている建物で、外壁には本邦最大級の花鳥彫刻が施され、その何れもが一枚板透かし彫りで鮮やかな色で彩色されている。東の回廊は坂下門の左右に延びる。

・「奧の院入口」坂下門。

・「蟇股(かへるまた)」ルビは底本のもの。社寺建築に多く見られる、二つの横材の間におく束(つか)の一種。上方の荷重を支える物理的な意味と装飾をも兼ねる。概ね上に斗(ます)を配し、下方に広がった形態であり、それが丁度、蟇蛙が脚を広げて踏ん張る形に似ているところから、こう名付けられた。

・「御彫物は猫に有ける」所謂、有名な国宝眠り猫のこと。伝左甚五郎作。日光に因んでか、牡丹の花に囲まれて日の光を浴びながら昼寝をしている猫であるが、奥社入口の守護として寝ているというのは見せかけで、いつでも飛びかかれる姿勢であるとも、また、この眠り猫の裏には翼を広げた雀が彫られていることから、雀が舞いながら猫も寝るほどに天下泰平を表しているとも言われる。左甚五郎(文禄3(1594)年~慶安4(1651)年?)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人であるが、実在を疑う向きもある。

■やぶちゃん現代語訳

 仏教や神道にては猫をお禁じになられるという嘘の事

 猫は妖獣とも言わるる――まあ、特に愛玩すべきものとも私個人は思わぬものの――が、この宇宙に生を享けたものを、神仏がお禁じになられるということ、永らく疑わしいことと考えて御座ったが。事実、神仏はこれをお禁じになっては、これ御座らぬこと、明白である故、ここにその証拠を記しおくものである。

 ――私が御宮御靈屋本坊向並びに諸堂社御普請御用のため、かの御山に三年ほど赴任致いて御座ったことがある。 かの御宮の荘厳(しょうごん)なる様は、これ、世に讃えられる通り、その日光山全体の結構、素晴らしいと言う外はない。誠(まっこと)日本の名工らが、その持てる妙技を尽くしたものにて御座る。

 故に和漢の鳥獣類は総て御彫物として洩れなくあり、一つとして欠けている生き物は、これ、御座らぬ。御山のことに詳しい日光山管理人の者が申すことには、

「数万の御彫物の中に猫だけは見えないのは、妖獣故、禁じられたものかと思って御座ったが、ある日、御宮内の処々(しょしょ)を巡回致いて御座った折り、さても最後に奥の院の御坂を登ろうと東の御回廊を見回って御座ったら、正に御霊(みたま)を祀る奥の院入口の御門脇の蟇股(かえるまた)に彫られた生き物は猫で御座った。――これにより、拙者、神仏、猫を禁じられ給うと言うは妄言なり、と永年の疑いを晴らすこと、これ、出来申した。――」

とのことであった。

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